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検索結果: 619件

仏様を欺くという事

・三帰礼文(今、人として生まれたことに感謝し、仏、法、僧の三つの宝を敬い、拠り所にして生きます) ・十善戒(正しい行い、正しい言葉、正しい心を保つ事を誓います。) ・発菩提心真言(私は今、悟りを求むる心を起こしましたという真言。オンボウチシッタボダハダヤミ) これらの経や真言を「全くその気がない者」がするとどうなりますか?例えば… 私の声「オンボウチシッタボダハダヤミ…」 私の心の声(別に悟りに興味ないし…単にこの真言を唱えたいだけだ) 私の声「三帰礼文~!~自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生と共に~…」 私の心の声「仏様は大好きだけど帰依とかそんな重たい誓願なんてしたくないよ…しかも衆生と共になんて!衆生の事なんてどうでもいい!自分や家族さえ良ければそれで良いんだよ!」 このように私が経や真言をする時はなんとなく仏様を近くに感じたい時、落ち着きたい時などに座禅を組み合掌(印母)を結びながらやってます。 単に仏教の教えにあまり興味なく仏様が大好きなだけなんです。 でも一つ言い訳させてもらいますが、私は決して仏教や仏様を茶化したり、品位を下げたりする気など無いんです。 単に「戒律を守れない、守る気すら失せた」「衆生がどうなろうが私の知ったことじゃない」「自分や家族さえ幸せならそれで良い」というだけなんです。 ただ「疑城胎宮」の境地から抜け出す気なども失せて「もうこのまま疑城胎宮の中でまったりするのも良いか…」というだけなんです。 【しかし声に出してソレらを唱える以上、それは一つの約束、仏様と交わす誓いになりますよね?その誓願を初めから守る気など無くアッサリ誓いを立てては破り続ける…】 このように仏様を欺き続ける私を、カタチだけの“仏教ごっこ”を楽しむ私を仏様はどう思うのでしょう…また実際に本物のお坊さんが私を見たらどう思いますか? 私はハッキリとモノを言われないと分からないバカなのでよろしくお願いします。 ちなみにこれらの事はあくまで「私独り」の中で完結させているので、決して周りに仏教を語ったりなどはしていませんのでそこはご安心を。

有り難し有り難し 11
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仏教を勉強したいです

お世話になります 自分は 今仏教を勉強したいと思っています ここには同じようなお考えの質問者様も多数おられて 他の方の回答も読みました ただ仏教の本を読むだけでは勉強にはならず 心から尊敬できる師匠の下で学ぶのが良いという お坊さんのご回答を読みました それで私もそうしたいと思ったのですが どうやったらそのような師匠と出会えますか?? 自分の住んでいる地域で( プロフィールに書いてある職業欄の方が正確な住所です ) 出会えるのでしょうか? 変な話ですが ごく遠い知り合いの地元のお坊さんは ( お客様でした、今は疎遠です ) 女好きで、離婚歴があり 彼女がいるのに私には「 友達 」としか言わず 今女がいないからといっていました ( たまたま彼女さんをお客様として 私のお店へ連れて来て下さり その時、彼女から「 私の彼氏が連れて来てくれた 」という お話をしていて事実がわかりました ( 勿論何事もなかったように接しました ) このお坊さんは典型的な女好きだなと思いました まだばれていない時 彼女さんがいるのに、私のお店で6時間のコースを予約して 店外デートをしてみたいと言っていました ( お金には余裕があるみたいです? ) ( お断りするつもりでしたので、デートはしていませんし 今は疎遠です ) 特に何の関係もなかったですが そのお坊さんは とても笑顔が素敵な方で、お喋り好きな方で 魅力はありました 少し、気になりだした矢先でした(笑) 危なかったです!! ( かなり以前のお話です ) 血液型は関係ないですが その方はAB型で 明るく気さくな反面、いけないことはいけないと とてもハッキリとおっしゃる厳しい面もお持ちでした ( そこにも嫌気がさしましたが ) 話が長くなりましたが 遠い知り合いのお坊さんには このような方もおられ とてもこの方からいくら知り合いでも? 仏教を学びたいとは言えなくて・・・ 心から尊敬できる師匠に出来れば地元で出会いたいのですが どうしたら良いのでしょうか? よろしくお願い致しますm(  )m

有り難し有り難し 25
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49日までの間、残された私達がするべき事!

父が、急死して母は毎日泣いてます。 「お父さんは自分が死んだ事に気付いてないと思うから、あっちにいけるか心配」と母は言います。 もちろん、ささやかですが葬儀を済ませ、実家には毎週、曹洞宗のお坊さんがきて下さりお経をあげて下さってます 実家へも車で片道三時間かかりますが、出来る限り私も行って、父に手を合わせ「お父さん大丈夫だからね、私達も頑張るから!」と声をかけに通っています。 父は、一瞬過ぎて、死んだ事にきづいていないのでしょうか? 私達の事は見えているのかな? 49日までに、してあげると良い事、その後出来なくなる事など何か些細な事でも、ありましたら教えて頂けたらありがたいです。 一番近くにいた父がなくなり、49日までのお互いの過ごし方やマナーなど、きっと知らない事もあるのでは、と不安です。 お花、お経、ロウソク、通常のお供え物の他に仏様が、喜んでくれる物や事もあれば、ぜひお教え下さいm(__)m いまだから、父にしてあげられる事、してはいけない事、初歩的な質問かも知れませんが、改めて教えて下さいm(__)mませ。 お忙しいところ、最後までお読み頂き感謝です ありがとうございますm(__)m よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 41
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修行の道を選ぶことは社会の弱者より自分を優先すること?

(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?

有り難し有り難し 86
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プライドの煩悩と能力を反比例させるには。

1、これまで出会ったデキル人達は、在家も出家も 男性も女性も 総じてプライドの煩悩も強かった気がします。他を見下している人も多かったです。攻撃的な性格の人も多かったです。 有能、優秀で、実績もあり、容姿も優れ、尚且つプライドの煩悩もない、もしくは平均よりだいぶ少ない人物を ご存知のかたいましたら、ぜひ教えてほしいです。こっそり尊敬してお手本にします。 2、読み物を読む限りは、お釈迦様はプライドが高いように感じられるのですが、皆さんはいかがお感じですか? 実際にはお釈迦様は無上の悟りを得ておられるということは、プライドの煩悩も皆無ですよね? プライドが高いかのように描かれているのは書き手の技量不足によるものですか?  3、プライドの煩悩を弱め、最終的には消すための具体的方法をご存知のかた居ましたら、教えてほしいです。 また、実際にプライドを弱めることに成功した体験者のかたいましたら、ぜひ体験談や修行方法を教わりたいです。私も修行に励みたいです。毎日の八正道の実践は正直難しいなぁと感じていますが、難しいなりに心がけてはいます。私は怠け者なので、正精進するだけでも、プラスの効果を感じております。アドバイスくださったお坊さん、有り難うございました。

有り難し有り難し 23
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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 411
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2023/02/23

人間の存在意義 with 人工知能

私は絵を趣味として活動しています 制作活動をネットのコミュニティで共有しています。ここには同じように絵を趣味や仕事にしている人が在籍し、私に心地良い場所でした ところが近年開発されたAI(人工知能)に画像を精製させる技術の普及によって、この場所は変わってしまいました。AIに高速で画像を生産させたユーザーが短時間に大量の投稿をし、人間が制作した作品を量で凌駕し、埋もれさせてしまいます。ちなみにAIに画像を精製させる方法は、自分の望む詳細を言葉に表しAIに送信するだけで、(例:水彩画、森の中、走るキツネ)投稿されるAI産画像には投稿者本人の筆が一切加わっていないことがほとんどです。皆似たり寄ったりのAI産画像が溢れ、以前からいる、人間の絵描き達は嫌気が差し去って行きました また、AIの悪用も目立ち、AIが作った画像を「自分が筆を持って描きました」と嘘をつき、(偽の)技術や努力に対する賞賛を得ようとするユーザーが多く見られます。中には、悪意を持って既存の絵描きの作品をAIにコピーさせ複製を作らせる嫌がらせもおり、これらを目にする度に嫌な感情が湧き私の好きだった場はストレスの溜まる所になってしまいました。悲しい思いをしています そもそも画像精製AI自体が、人間が制作した著作権のある画像を無許可で学習元データとして利用しているグレーゾーンな代物で、訴訟もされています 前置きが長くなってしまいましたが、全体的な疑問として、AIと共にある人間の未来は明るいのでしょうか? 既にニュースの原稿が自動音声AIによって行われているように、AIは人間の活動をコピーし、どんどん人間の代わりとして使われていきます。これは、人間の活躍する場所がAIに奪われていくとも言えます。例えば、アナウンサーに憧れていた子供が職業として目指そうとした時には既にAIが枠を永久的に占領しているので、夢が叶うことはないのです AIがあらゆる分野で高品質・高速・不老で活動し人間を凌駕するようになった時、人間が努力や勉強をして何かの技能を磨くことに意味はあるのでしょうか? 人間、自分が持って生まれた才能や、好き・得意なことで活躍し、生きがいを得たいものだと思います。将来、AIがほとんどの職業に成り代わった時、人間は努力する意義を無くし、ただAIによって全てをお世話される人形の様になってしまうのではないかと不安なんです

有り難し有り難し 18
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自分に合う仏教の宗派

 生きていく指針を探しているうちに仏教が合うのではないかと思うようになりました。  大学がキリスト教という事もあり、キリスト教の宗派だけでなく、イスラム教や神道も調べてみましたが、自分の考え方とは異なる印象があります。  キリスト教の一宗派であるプロテスタントの勤勉さやキリスト教全体が持つ他者との共存や無償の奉仕には同意するのですが、自然に対して人間優位的な部分も見られるので、研究対象にはできるのですが、生きていく指針として合いません。  そういった経路もあり、仏教に重きを置くようになりました。そこで、仏教の宗派を調べています。私が持つそれぞれの宗派についてですが、法相宗の色々な修行がある事には同意するのですが、『この世の物は自分が作り出したものである』という暴力的な印象を受け、日蓮宗や密教、浄土真宗、浄土宗はただ念仏を唱えているだけ、そして禅系は座っているだけという印象を持っています。  私自身は、自分の心身を持って他者に貢献しながらも、修行をする事で悟りは開けるものだと考えています。また寺などのいわゆる(適切ではないですが)宗教施設にいるのではなく、浮世に属しながら伝えていくのが伝道だと考えており生き方にしたいです。  伝えられていないとは思いますが、教えを下さい。

有り難し有り難し 166
回答数回答 6

仏教における勉学

ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。 誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。 ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。 仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 27
回答数回答 3

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