先日夫が自殺しました 毎日泣いて苦しいです 立ち直れるのだろうか?と不安です 自分も後を追いたいと考えてしまいます 自殺した人は天国に行けない、成仏できないとネットや友達から言われました それはそれでかわいそうだと感じました お坊さんのお考えを聞きたいです
駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。
今まで好きだった方には決まった相手が居るようです。 その彼女は私の友人でもあります。 二人の関係に気付いた時、「負けた」という感情がわきました。 「負けた」と思う自分に疑問を持ちました。 確かに、私は彼を射止められなかったから、負けたと言えば負けたのですが、 人を好きになることと、勝ち負けは関係ないのでは? 負けた感があるのは、そもそも「好き」以外の感情があったんじゃ? もう少しで答えが出そうな、はがゆい気持ちで今の感情に向き合っています。 御意見を頂けると幸いです。 よろしくお願い致します。
親の子育ては失敗ですよね? 子供の頃は親から 「お前はどうせ何をやってもダメなんだからやめろ、諦めろ」 「なんでこんな事もできないの?」とか言いまくって褒めてくれた事なんてないのに いざ自立してから 「やれる事は全てやってからだ、全て諦める人生になるぞ」「もう30才で大人なんだから、しっかりしてよ」 と言われます。 確かに私は社会常識のないクズですけど あんたら親が幼少期の人格形成に重要な時期に自尊心の育たない子育てとしつけばかりしてたから 私みたいな人間が育ったんだよ、お前らのせいじゃんと思います。 小さい頃親に悩み事や弱音を言うと頭ごなしに否定され怒鳴られるばかりで、 具体的なアドバイスをもらった事がありません。 小学校低学年で親に何をいっても無駄と言う考えになり、それが対人関係にも影響しお陰で人に頼るとか、相談するとか甘えるとか、悩みを自分の中で溜め込み 社会に出てからホウレンソウが出来ず苦労しました。 幼少期の実家は掃除もしてないので散らかり放題。 キレイな家が当たり前と言う感覚がないので、 一人暮らしの今でも掃除や整理整頓が苦手です。 私は両親のデキ婚の子です、妊娠当時両親にどんな背景があり出産したかわかりませんが まともに子育て出来ないなら産んで欲しくなかった。人生あと数十年生きるのがばからしい。 結婚は無理なので、動物が昔から大好きでペットを家族にお迎えしたら私の生活も少しは変わるでしょうか。 でも、 私に飼われるペット達がなんだか可哀想なのであとは自殺か何か消える方法を教えて下さい。
全ての苦しみから逃れることが出来、生きるという動から離れることができる。 自殺に対して迷惑!とか好きに死んでもいいけど、他人に迷惑かけるクズは死ぬべき!とかいっちゃう世の中の大半の利己主義な人達からも離れることが出来ます。 自殺は迷惑というのは=自分が損したくない、もしくは自分が死ぬ時に社会の迷惑になってないと思ってるお花畑。老人になって大量の国家予算のかなりの占める医療費を国が払い沢山のワーカーの働きにより初めて死ぬことができる。 しかし自殺は家で首をつれば終わり。アマゾンですぐ買える。 死ぬ前に警察でも業者でも呼んでおけばいい、もちろん死体の横に迷惑料数十万とか置いて掃除代金や葬式代にして貰えばいい。首吊る場所も山の中とかにすればいい。 本来ならマグマに落ちるとかそういうのが完全に死ぬ方法としては最高だと思うけど、そもそもマグマには行けないし遠い。 家族も悲しむけど、それだけ、遺書も70年分くらい書いたりしておけばオッケー。 でも生きてて変な苦しい生き方をしてて親も苦しんでるなら自殺した方が良くないか?と思うのです。 どうせこれから生きててもいい事はないし、小さなくだらん事で幸せを、噛み締めて生きるよりは安楽死した方がマシだろう。 いや実際こわいと思う、死刑囚と同じ死に方だし、何千億年も経っても目覚めないってのが壮大に怖い。 でもおそらく大半の自殺者はそれよりも今が苦しかった、あんまり考えてない小学生とかでも自殺してておそらくその場の雰囲気が大事。 輪廻転生とかいうけど本気で信じてるなら死も怖くないはずだよな。 生まれてきて知的障がいとか植物状態とかに生まれたらそもそも生きてる私という認識すら持てない認知症もそう。俺たちは結局は脳で動く電気信号にしか過ぎないって。 ISISとかの動画とか見たことあります?頭打たれて顔がそもそも原型をとどめていない。そんな人達が意識を残してると思う? 首切られた人は叫んでいて、ある一定に達したら半目になって徐々に意識を失う。 彼らの輪廻は?意識は?沢山殺した人はどうなるの? 結局チリになるだけだろう、魂なんてものはなくてコンピュータシミュレーションのようなこの世界で苦しみいつか死ぬ それが早いか遅いか。 何をしても苦しみはなくならない。 だから私は自殺は最高の救いではないか?と思う。そう思わないでしょうか?
小学1年の息子が夜になると死にたくないと言って泣き出します。 詳しく聞くと自分が死ぬことだけでなくパパやママが死ぬのも嫌で 一人になるのが嫌だとのこと。 「新しい命が生まれる為にいつかは死ぬんだよ」と説明すると 「どうせ死ぬなら皆で一緒に死にたい」と言ってきます。 でも、自殺は天国に行けないからどうしらいい?と聞いてきて困っています。 今はとりあえず「死ぬのはまだ先のことだから大丈夫」と言って落ち着かせますがそれ以上良い回答ができません。 息子が落ち着ける助言をお願いします。
いつも様々なお坊さんの回答を読み、勉強させて頂いています。 輪廻転生の考え方では、前世での行いが悪いと畜生や地獄に生まれ変わると聞きました。 仏教では、人間は畜生より格上(優秀な生き物)と考えるのでしょうか。 わたしは人として生きるのがとてもつらく、植物や虫、大自然のなかで生きる動物たちがとても幸せそうに思えます。 本能や生命システムのみに従ってただ「生」を邁進する生き物より、苦しみや醜さ狡さを背負ってでもなお人間の「生」には価値があるのでしょうか。 お互いを脅かし傷つけ合うのが人間の性でもあるのなら、人間より畜生のほうが全うな道であるように思えます。 人間がすばらしい生き物とは思えず、人間に生まれて良かったとも思えず、苦しい気持ちを持て余す毎日です。
先生方、先日は親身になって相談に乗って下さり、本当にありがとうございました。 中でも特にお世話になった先生もいらして(噛んで含めるようにお話し下さって、本当にありがとうございます。心が楽になりました)、まずそちらに先にお礼を申し上げてからが礼儀だろうと思いましたが、一人の先生にあまりに頼りすぎてしまうのもご負担が掛かりすぎてしまいますし、別の質問事項ですので、あらためて投稿させていただけましたら幸いに存じます。 先日、他の方のご質問で「枕経」のお話がありました。 ここに、どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っているとして、その人に何とお声を掛けて下さいますか? そのような人の、死に際しての心構えを教えていただけましたら本当に有難く思っております。 先生方にはお忙しいところ誠に恐れ入りますが、もしよろしかったら、「枕経のようなつもりで」お教えいただけましたら有難く存じます。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
ブラック企業に勤めていて一身上の都合で退職し 転職活動を半年程度長く行っていました。 現在は、晴れて転職に成功し在職中です。 転職活動を始めて数ヶ月 誰もが知る一流企業に内定をもらった際、断るか迷いました。 3年間という期間限定ではありますが、危険域での作業が伴うからです。 自分の命か家族の生活の安定か はてまた辞退したところで次の転職先は決まるのか生きていて一番悩みました。 結果、一時の収入は上がれど、健康を害し入院すれば無収入になれば意味がないと自身で納得し辞退をしました。 その時、義理の父に『その企業の内定を蹴ったら、お前なんかどこも就職できない。いつまでも学生気分でモラトリアムに夢を見ているんじゃない。』と言われました。 0歳児を抱え無職、見れる夢なんてありません。 不安で寝てみる夢さえ観れない時期でした。 そして、妻の義理の父は、浄土真宗のお坊さんでした。 私は 今は、ココでも将来設計事務所を開き生涯出来れば現役で働きたいという夢をずっと見続けています。 誰にも汚されたくない私の生き甲斐です。 そして、妻側の両親の全てが嫌に成りました。 それを否定もせず、私の肩を持つでもなく、ただ『今まで我慢していた。』と言う妻への愛情は限りなく0に近くなりました。 しかし、子供は、とてもかわいいです。 でも、一緒にいる妻を見ると鼻に付き、嫌な気持ちに成ります。 最初は、何とか家族として再構築して行こう!と必死に頑張りました。 しかし、上記の忌まわしい記憶と努力を水の泡にするような妻の無関心な態度を見ると 最近は、『離婚しよう』と思います。 もう、頑張れません。 つらつらと経緯を書きましたが、本題です。 そこで疑問です。 『仏教は、なぜ仏様の教えが正しいと説くのですか?』 全て知っているかの様に、上からの目線で物を言うのは何故ですか。 教えてください。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
結婚も出来ず子供もいません。 好きな人には好きになってもらえない運命だったんです。 死にたいくらいの嘘つかれました。私には存在価値はないとわかりました。 死んだ後も苦しみが続くとか聞きますが生きてても苦しみは続きますから自殺する事に決めました。自殺した罪を死んでから償えば極楽浄土にいけますか?
つい1週間前に、1歳10ヶ月だった息子を亡くしました。母親である私の誕生日に、あまりにも短い生涯を終えてしまいました。 スクスクと元気に育ち、誰から見ても健康優良児だった息子。何の前触れもなく亡くなり、原因不詳の突然死と診断されました。 命日の前夜、いつものように平和にスヤスヤと眠りについた息子は、 翌朝には冷たくかたまり、帰らぬ人となっていました。 息子が亡くなった日は、私の30歳の誕生日でした。一体なぜこんなタイミングで… 愛する我が子がこんなにも急に亡くなってしまい、 残された私たち家族は絶望と悲しみに押しつぶされそうです。まさに、生き地獄です… 私自身、息子と極楽浄土でまた会いたいと願っていますが、 本当にそんな世界があるのだろうか? 人間は亡くなると"無"になって、骨しか残らないのではないか? …など、悲しい考えが頭をよぎってしまい、気持ちを切り替えることができません。 できるものなら、息子に心配をかけないためにも前向きに生きていきたいですが、 この空虚感、絶望感とどのように向き合っていけばよいのでしょうか。 どうか、アドバイスをいただきたくお願いします。
知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・ ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)? 大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある) 菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
死にたくて死にたくてたまりません。 近いうちに死のうと考えています。私が死んでも悲しむ人はいません。死んでも地獄だとしても構いません。もう限界です。生きる価値がないので死ぬだけです。地獄でもいいのですがどちらかというと極楽浄土に行きたいので祈ってください。厳しい言葉は聞きたくありません。聞き飽きました。仏教の勧誘も入りません。わがままでごめんなさい。
お世話になります。じゅんちです。 15歳の娘の突然の死から8ヶ月が過ぎました。まだまだ涙が乾く日はありません。 月命日には友達が相変わらず来てくれて賑やかにしてくれます。 寂しい、会いたい、いろんな気持ちにもちろんなります、二女が姉の服を着たり同じような仕草をしたり、行事があるたびに思いだし二女の姿を見ながら同じような事が起きやしないかとたまらなく不安になったりの繰り返しです。 私自身が楽しい時間を過ごすことに罪悪感を覚えます。 友達に会ったり、笑う時間もありますがそれがふとたまらなくなるのです。 長女にも楽しい時間がたくさんあったはずだと。 長女は空から私が笑ってるのを見たいはずだよねと思うのですが、気持ちが頭がバラバラです。 どんな思いでいたらいいのか整理がつかず辛いです。 お言葉をいただきたいです。宜しくお願い致します。
お世話になりますm( )m 今臨死体験の本なども読んだり ネットでも見たりするのですが 地獄についてどう思われますか? 私は地獄があってほしい派です 世の中には人を平気で苦しめて 平気でいれる人がいます まさに悪魔そのもので 自分には理解できません 極端な話がテロリストなど イスラム国の人達など あのような残虐な事が平気で出来ることが 本当に信じられませんし あのような事を平気でしてきた人達が 何の裁きも受けないのはあり得ないと 私は思います 同じ人間なのに どうしてあのような事が出来るのでしょうか 私は悪いことをすれば 必ず報いを受けるべきだと望んでいます 完ぺきな人間はいませんから 多少の悪は仕方がありませんが そうゆうレベルではなく もう「 死んでしまいたい 」と その人をおとしめてしまうような 詐欺だったり、泥棒だったり 苦しむことを平気でやった人に対する思いです 殺人は相当に罪が重いと 私は思います しかしネットで見たのですが 地獄は存在しない 人はみな天国へ行く どんなに悪いことをした人でも 天国へ行くと書いてありました ( 死後の世界や天国は信じる方ですが 地獄は存在しないと言われる方です ) と書かれているのを見て そんな訳はない!!と 思いました、納得できません 今自分が読んでいる本( 臨死体験の本です、カールベッカーさんの本です )には( まだ読んでる途中ですが ) 地獄が存在すると書かれてありました ( 臨死体験された方が見てきた ) 鬼の様な人たちがいて その人?により そこに拷問を受けて 苦しんでいる人たちがいた と書かれてあります グロテスクではありますが 散々悪いことをしてきた人たちには この様な裁きを受けるべきだと 私は思っています!! お坊さんはどう思われますか? よろしくお願い致します
お世話になります。 いつも励まされております。亡くなって4ヶ月、来月には16歳の誕生日を迎えます。 朝5時半、お手洗いで倒れていた姿は何度もフラッシュバックします。 4時には声を交わしていた娘、一週間前前は二女と買い物、プリクラの元気な姿、翌日は卒業式、誰が悪性腫瘍がらあったなんて思うでしょうか、今でも信じられません。 そのお手洗いの意識のないのがわかる、普通じゃないと感じたあのショックもあり、引っ越しを考えています。 ただ、やはり引っ越しもありじゃない?てかたもたくさんいますが 中にはお姉ちゃんとのここでの思い出がなくなるんだよ!て言われるかたもいて気持ちは引っ越しに向かっていますが、もしかして長女はここに居たいんじゃないかとか考えてしまいます。 前向きに考えたいのに、いつもいいのかなて悩んでしまいます。
古代人は、漢語が分かったので、あえて日本語に訳す必要がなかったそうですが、現代人にとっては、難しいと思います。本来、仏教は生きている人への教えなはずです。みんなに教えを分かりやすく伝えることが大切ではないでしょうか。お坊さまの中には意訳を取り入れている方もいらっしゃると聞いています。もっと、意訳勤行が広まればいいのに・・・と思います。 当方は、真宗大谷派の門徒です。
私は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という作品が、昔からいろいろに解釈できて、ずっと不思議に思っていました。 最初に読んだとき(子どものとき)は、 ①カンダタは莫迦だなあ、自分ならきっと、みんなと力を合わせて、みんなで極楽にたどり着くのに と思った ちょっと時間がたって(思春期) ②どうせ私もカンダタと同じだろう、きっと誰でもエゴが勝ってチャンスをだめにしてしまうに違いない と思った またしばらくして(反抗期) ③お釈迦様って何様なんだ!(お釈迦様だけど。)教養もなく悪人として生きてきたカンダタを、カンダタが成功しそうにない極限状況で試すなんて。助ける気なんかもともとないじゃないか、この話に正解も救いもないじゃないか と思った また少しして(青年期) ④カンダタが蜘蛛の糸を見ても登ろうと思わないくらい達観していたら、もしくは落語の江戸っ子のように、「一度地獄に落ちた身分の自分が、いまさら蜘蛛の糸などにすがってたまるか」と居直っていたら、お釈迦様は確実にカンダタを助けていたのかも と思った そして今(中年期) ⑤芥川が絵本として子供向けに書いた以上、一周回って、①の子どもらしい慢心(カンダタを通した戒め)が作者の意図した一番素直な読ませ方なのでは とも思う そこで質問です。 カンダタが確実に極楽に上がるためには、どうすればよかったのでしょう。 回答者陣のお坊様方は、自分の仏教に関するすべての見識や体験をふまえたならば、助かりたいカンダタに何とアドバイスしますか? それともこれは、カンダタはどうやっても助からないというお話なのでしょうか? その他、この作品に対してどう解釈しますか?
昔から宗教に興味があったので、キリスト系・仏教系問わず、新興宗教でも縁があった時は、資料を受け取ったり、話を聴いたりしていました。 しかし、いずれの宗派も絶対的な確信を持つことは出来ないので、入信することはありませんでした。 その中で、昔からの友人が「あなたを救いたい、あなたのために24時間勤行をする」などと親切心で熱心に勧誘しています。「その気は無い」と断りつつも20年になります。(最近は年に数回程度ですが) そして、数年前、主人の余命宣告を受けた時、私としては人生の中で一番宗教を求めていました。しかしながら、その数ヵ月間はまったく連絡がありませんでした。 その事から、最近は「私が一番必要としていた時期に縁が無かったのだから、あなたの宗教に入ることは絶対にあり得ない。」と明確に何度も伝えています。 「勧誘であれば、話をすることは無い。勧誘の話は聞きたくない。勧誘の電話はしないで」ということも何度も伝えています。 それでも、「そろそろわかってくれた?入信する気になった?」と連絡して来ます。 その友人と同じ仲間が他に数人いますが、熱心に勧誘されているのは私だけです。他の友人たちは最初の頃に断っているためにその後は勧誘していないようです。 できることならば、他の友人のように勧誘を止めてくれたならば、その友人が企画する同窓会にも参加したいのですが、私の顔を見れば執拗に勧誘をするので参加できませんし、他の友人たちとも疎遠になってしまってます。 今まで「宗教に興味がある」という態度をしていた私の責任でもありますが、20年かかりましたが、「入信しない」という結論が出たので、それで納得して欲しいのです。 20年分の期待感があるので、宗教抜きの友人関係は無理なのでしょうか? その子が中心の他の仲間たちとの関係も含めて、バッサリと縁を切るべきなのでしょうか?