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検索結果: 873件
2023/02/03

日本人に根付くステレオタイプの宗教倫理観

① 日本人に根付くステレオタイプの宗教倫理観といえば、やはり「現世で善いカルマを積んで死後にいいところへ行き、やがて解脱する」だと思います。これはバラモン教やヒンドゥー教のようにも思えますが、このスタンスを基礎としている宗派はどこでしょうか。とてもシンプルゆえに子供の道徳教育にも有効で、信心もしやすいと思います。「○宗」とかでなく「大乗仏教」という括りでみんな当て嵌まっていそうではありますが…。 ② 永遠の幸福はあるでしょうか? この質問を日蓮正宗のお坊さんへお話したら、「物事には必ずそれを妨げる逆風のような働きがあり、何をするにしても程度の差こそあれど必ず苦難は待ち受けているから、永遠の平安は無い。しかし、その「苦難に耐えてダメージを受けずに済む心」は手に入れることができる」というお話をしていただき、私はその心があれば永遠に幸福になるという夢を叶えられるのではないかと思いました。そのお坊さんが言うには、やはり日蓮正宗なので南無妙法蓮華経のお題目でその心を手に入れることができると仰っしゃられておりました。これについて皆様の意見や、ほかに苦難で傷つかない心を手に入れる方法を教えていただきたいです。 ③ 仏教には「運の良さ」はあるでしょうか? これは仏教を信仰してギャンブル運を上げるとかそういうのではなく、「運命を変える力」です。信仰しようがしまいが運の流れ=運命を変える力が無ければ、人類も動物も全ての生涯はみんな最初から「運命」というレールに敷かれた出来レースであり、人間の自由意志や選択や信仰に価値が無くなると私は思っているので、「運命を変える」「人生に転機をもたらす」などの意味で、運(人生の風向き)を変えてくれる力は仏教にはあるでしょうか。宗派なども教えていただきたいです。ちなみに、日蓮正宗のお坊さんはやはり「その方法はズバリ、うちに入信して南無妙法蓮華経を唱えること。阿弥陀如来を信仰してもあの方はあの世しか管轄していないから人生は変わらない、日蓮なら変わる」と熱弁されていましたが、これについてはあくまで例ということで否定や肯定などの意思はありません。 長くなり申し訳ありません。これを読んでくださった優しいあなたへ、ありがとうございました。私は永遠に善人でありたいです

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宗教上で知り合った人たちと上手く馴染めません・・・

このことをこの場で話していいのか分かりませんが、友達に話しても「抜ければ・・?」「その人たちがつまらないだけだよ」などと励ましてくれたりするのですが、お坊さんの意見を聞かせてください。 私は2年前ぐらいに、あるキリスト教に入信しました。その教会はとても真面目で、皆さんが物凄く熱心に教会の活動に取り組んでいたり、他人に愛を込めて接したり、教会の教えに従ってて素晴らしい人達だなーっと常に感心してるのですが、もう2~3年もするのに、教会上で知り合った人達とどうも上手く馴染めません・・・。簡単に言いますと、学校やバイト先で知り合った人たちとはすぐ打ち解けるくらいに自分を出し馴染める(誰にでもフレンドリーで本当に素敵と言われます)のに、教会の人達とは自分を隠そうとし、一線を置いて接してしまいます。 教会の人達の仲良しグループみたいなのに入れない、友達ができません。なんかこう、幼い頃から知ってた人達同士で絡んでたり、教会の伝道経験など、教会だけの話題などで盛り上がってたりで輪に良く入れません。もちろん、話しかけてくれたり、私の長所を褒めてくれたり優しいのですが、こう・・・なんというか、私も彼らが何を考えているのか分からなくて、中高生みたいな仲良しグループで怖くて一線を置いてしまいます・・・。 この前、やっと仲の良い女友達ができた!と歓心したのですが、なんか彼女、共通の知り合いに「俺くんって本当に細くて変だよね(笑)」とか言ってたみたいで、裏切られたみたいで本当にショックでした。ちなみに彼女にはもうすでに体のコンプレックスのこと「運動や筋トレ、そして食べ物だって皆に引かれるぐらいたくさん食べているのに体重が増えない」悩みは話してあり、彼女は「それは神様が与えてる最高の体だよ」っと言っております。 そこに馴染めないのは私の信仰が足りないから、あるいは心が狭いからでしょうか? もちろん、教会には出会い目的ではなく、その教会の教えや、活動が好きで行っています。ですが、やっぱりどうせ行くなら、そこにいる人達とも仲良くなりたいです。

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「アブラハムの宗教の唯一神」の仏教的解釈を教えてください。

仏教は世界に名だたる宗教ですが、最も信者が多い宗教は何と言ってもキリスト教、ですよね?またイスラム教もかなりの影響力がありますし、それらの始祖たるユダヤ教も、アメリカの政経界に強い影響力を依然として持っていると聞きます。 そんな世界的な影響力の持つ、これら一神教が冠する「アブラハムの宗教の唯一神」に対して、仏教がなんのアプローチもした事がないとは個人的には考えにくいのですが、なんらかの仏教的解釈を加えて、仏教の中での位置づけ、みたいなものが決まっていたりするのでしょうか? ヒンドゥー教や神道などの多神教の神々を仏教の中に取り込んでいくのは、日本でも本地垂迹の歴史等があったように、既にやられて来たことですし、個人的にもそこまで波風が立つような事ではないと思います。 が、流石に「アブラハムの宗教の唯一神」を仏教の中に位置づけようとすると、各一神教徒から「そうじゃねーよ唯一神なんだよ!仏の中に入れるんじゃねーよ」と大バッシングが食らいそうで、なかなか難しさを感じます。 他宗教との兼ね合いの話になってはしまいますが、もし仏教として果敢に唯一神を取り込もうとした歴史や、または現役のお坊さんとして私はこう考えているなどありましたら、小生にご教授頂けたら幸いでございます。 ※最後に、小生はあくまで仏教や神道、一神教に対してはズブの素人です。質問文に根本的な間違いがあるかも知れません。その際はお手数ですがご指摘願います。

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お坊さんを蛸と掛け合わせて、笑いを取るような掛け軸について

どうしても意味・ユーモア感覚が分からないので、ここでお坊さんに直接質問をさせて頂きます。 いま私は、とある掛け軸について研究をしています。ですが、私は仏教の世界を深く知るようになったのは、つい最近になってからであり、そのせいで仏教世界のユーモアが分かりません。 研究している掛け軸には、掛け軸の下の方に、『十六羅漢のうち十人が水が足首らへんまでしか来ていない海(若しくは川)の浅瀬を渡って、上の方を見上げている』描写があり、左上の方に、『龍頭観音と思われる龍が一匹と、龍の口らへんに、モワモワした煙と共に、お花のような(?)ものを手に持っている着物を着た女性が一人立っている』描写があります。更に、この空の方へ登っている龍には、十六羅漢のうち六人が乗っており、そのうちの一人が釣り糸みたいなもので蛸を海から釣っています。 十六羅漢が川ではなく、海を渡っているのは、蛸が海にしか生息していないからという理由で、海だと推測しました。 この絵には漢詩が付いているのですが、以下のようなものです: 是秋釈子袿第響 無転十六蛸入道 為老先生博祭無事居楽 遊印には→星洲晩漁 と書いてあるはずなのですが(あまりきちんと読めませんでした)、漢詩の意味は全て分かりませんが、ここには蛸入道としっかり書いてあります。 以上のことから、私は、蛸とお坊さんの頭を掛け合わせて、笑いを取るような絵だと見受けました。 が、私の感性では、釈迦の弟子たちで笑いを取るという感覚が全く分からないのですが、ひと昔の日本では(明治・大正あたり)、このようなことはよく起こり得たのでしょうか?またこのような、ブラックユーモア的な掛け軸は、よくあったのですか? ちなみに、私の推測はあっていますでしょうか?(蛸とお坊さんの頭を掛け合わせることで、笑いをとるという感覚) 若しくは、他に何か意味があるのでしょうか? 漢詩の意味も分かりませんが、このセンスが本当に意味が分からなくて、大変困っております。どなたか詳しく説明して頂けますと幸いです。 掛け軸の絵を写真で添付できないので、絵そのもののイメージがし辛いと思いますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ちなみに、この掛け軸は、近代に描かれました。

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三十代男 脱引きこもり 坊さんに感謝

男、山陽地方、三十代、田舎者。引きこもりでした。 高校卒業後、工場で仕事するも数年でリストラ。無能には世知辛い時代。 うつ気味になり無気力、怠惰、だらだらと引きこもる。漫画、テレビにはまる。 5年が経ち、弟に怒られる「おまえいつまでそうしているんだ」 反省。しかし翌日よりまた引きこもる。とうとう、弟が俺を引っ張り出す。 スーツ(そんなもの着たこと無いが)をあてがい面接にいけという。 しかしその前に知り合い(どうやら知り合いの檀家つながりらしい)の坊さんに喝を入れてもらえと、嫌々会う。 おれと同じくらいのふつうの坊主。当時仏教など心底ばかにしていた。宗教を信じていなかったので。 しかしその坊主、なかなか話が達者。同世代でこうも人生経験に差があるのかと辛くなる。だが元気も出た。 面接は落ち続けるも、坊さんと話すために部屋の外へ出る機会が増えた。 ありがたい(?)お説教もありながら、仏教のあれこれも交えつつ、人生をそこそこうまくやるのに元気をくれた。 それから半年くらい経ちアルバイトではあるがなんとか働き口を見つけ今に至る。 時間はかかったが社会復帰。 変な文章すみません。 投稿できればうれし。 採用されればなおうれし。 すべての坊さんに感謝。 弟にも感謝

有り難し有り難し 35
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「葬式の度に違う宗派のお坊さんを呼んでいる」の件。真相

前に「葬式の度に違う宗派のお坊さんを呼んでいる」と書きましたが、あの後父に詳しく尋ねたところ、ずっと葬儀社から紹介された浄土真宗大谷派のお坊さん(同じお寺の方です)を呼んでいたんですが、祖母が亡くなったときに、祖母の遺言で伯父の知り合いのお坊さんに、葬式の依頼をすることになったそうです。 それまで呼んでいたお坊さんのお寺を我が家では「菩提寺」と認識しておらず(葬儀社から紹介されただけの関係としか思っていないらしい)、祖母の葬式のときに違う方を呼んだものだから、父いわく「菩提寺とかない」だそうです。 お墓もそのお寺とは違う一般の(?)霊園にあるので、父としてはピンときていないみたいなんですよ。 私としては明らかに「菩提寺あるじゃん!」なんですが、お寺側から何か言われたこともないし、たぶんお寺側も私たちのこと覚えていないと思うんですよね。 ともかく、自分の菩提寺がわかって安心いたしました。 以前の質問で不快に思われた方々、本当に申し訳ありませんでした。 あと、質問ではなくてすみません。 余談ですが、hasunohaのお坊さんから教えて頂いたお寺がいまお話したお寺だったんですよ…何たる縁…南無阿弥陀仏

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〇〇宗のお墓の前で、無宗教の人がお経を唱える意味は何ですか?

今や自分はともかく親が何を信仰しているかも分からない場合が多いと思います。そして特定の菩提寺を持たない場合において、祖父母の墓参りなどで直面する、お墓の前で唱える言葉の意味についてどう考えたらよいのか悩んでいます。 基本的には自分が信仰する宗派において、自分自身のために唱えるのは理解できるのですが、故人のために唱える場合は、どういう意味があるのでしょうか。 そもそも故人は自身の信仰によって成仏されていると思うのですが、それに対し後世に他人(親族です)が言葉を唱えることの仏教的な意味を知りたいです。 また、〇〇宗を信仰された祖父のお墓の前で、▲▲宗を信仰している(もしくは何も信仰していない)孫が唱える言葉は何が良いのでしょうか? 一般的には〇〇宗のお墓の前では、〇〇宗の言葉(例えば南無阿弥陀仏など)と教えられたのですが、よくよく考えていくと自分の信仰していない宗派の言葉を「形式的」にだけ唱えるという事になってしまい意味があるのかな、と思い始めました。 浄土宗などは念仏を唱えることに意義があるという点では、形式上であったとしてもある程度は理解できるのですが、浄土真宗やその他禅宗などにおいては意味があるようには思えないのです。 今まで深く考えず、親に教えられた通りに唱えていたのですが、勉強すればするほど分からなくなってきてしまいました。 迷える子羊をお救いください。

有り難し有り難し 19
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観音経の七難。枷鎖難、王難って?反社会的な坊さんって何?

 いつもお世話になっております。  私は幾度か、目の前で人が逮捕されて連行される瞬間を 見たことがあります。  「あぁ…これが枷鎖難か」と思うと同時に、  それじゃ、警察や軍隊(我が国では自衛隊)は、仏教では 悪者扱いってことなのか?時折、「王様は悪い、怖い」 と言っているとも取れる記述があったり、  解説書も、著者によっては君主を避難するようなことが 書いてあったり、  実際に私が以前通っていた寺も、  住職を初め、組織的に当時の政策を法話等々で非難していたり、 悪質なうわさに便乗し、若者世代や、神経系の内部障害の人を、 そうとは気取られぬように叩いたり…  私自身も、嫌がらせを数え切れないほど受けました。  ですが、私が今通っている数カ所の祈願寺は、そう言った ことはありません。  むしろ、境内で生活安全キャンペーンを開く等、 警察、消防からしっかり指導を受け、お寺を運営、 もっとも現実的な仕方で衆生の教化に当たっている印象です。  私自身も、特に公安関係の方々に、自分が仏教徒であることを 告げたり、境内でお顔を合わせても、肩身の狭さを感じることは ありません。むしろ、 「こんにちは」「いつもありがとうございます」 とお声掛けすると、非常に喜んで下さいます。  確認になりますが、仏教は、政府や国家に歯向かう為の 教えではありませんよね?たまに、そう言うことを言っている 人を見かけると不安になります。 

有り難し有り難し 12
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興味と愛情

私はいろんな宗教の教えに興味があります。その中でも特に仏教に興味を持っています。 海外では激しい宗教対立がある中で日本では独自の均衡を保っているように思い非常に素晴らしいことだと感じています。 しかし教えを拝聴することも有り難いのですが、等身大で「話し合える」お坊さんとお酒でも飲みながらぶっちゃけトークをしたいと常々思っていました。 ところで、私の両親は敬虔なクリスチャンのはずなのですが、幼い頃から私を殴ったりののしったりして、彼らが思う通りにした時だけ「愛してる」と言われてきたので、「相手の思う「何か」をしないと私はいてはいけないんだ」と思うのが当たり前でした。 そして心身ともに病んでしまい、病院に通うも長年の投薬の副作用でホルモンバランスを崩し体重の激しい増減を繰り返し、免疫力がなくなり肝臓、腎臓、皮膚疾患、病気になりやすく転職を繰り返しています。 そんな私を両親はののしり、私は自分自身の不甲斐なさに落胆しています。 何回も挫折を繰り返してきましたが自分や病気、誰かのせいにするのではなく心の平穏を得たいと前から気になっていたお寺に通い始めました。 最初はただ境内を歩いたりするだけでしたが、本堂でお経を読む会に参加したりお坊さんとお話をするようになりました。 そして少しずつ前向きになり転職先も決まりこれからという時に 檀家さんの派閥争い?の様なものに巻き込まれ、悪口を耳にし凄く悲しい気持ちになっています。 なぜ同じ「仏」「神」を信仰しているはずなのに、他人の行動を批判するのか? 私には解らないのです。 また同年代のお坊さんの考えや展望など率直な意見を交わしたいのです。 そんな思いの中、少し年下のお坊さんでフランクな対応をして下さる方に最初に記述したお酒を飲みながらぶっちゃけトークをこの方なら出来るのではないかと思い連絡先を渡し飲みに行きたい旨をお伝えしました。 今はこれが知的好奇心、興味なのか恋慕なのかわからなくて混乱しています。 そしてそれが相手のご迷惑になっているのか不安です。 皆様からしたらこういう事は迷惑でしょうか?

有り難し有り難し 16
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