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検索結果: 303件

何をしても楽しくない

身内をなくして以降何をしても楽しくなくなりました。楽しいことは一瞬、悲しみは永遠です。1度しかない人生、楽しく生きれたら誰でもいいにこしたことありませんがそうもいかないのが人生。それでも皆、折り合いをつけ趣味にうちこんだりして楽しみをみつけ楽しんでます。 趣味はありますがどれも一人でできることばかりで楽しめはしてもその時だけで持続性がありません。翌日になればまたつまらない気持ちになり楽しかった前日を振り返れません。 身内をなくすまではそうではありませんでした、楽しかったことを振り返れたりお土産などがあれば眺めたりしてましたが今は何か買ってきても袋のまま放置かすぐ棚にいれておわりで思い出してみることはありません。何かだした際についでにみる程度の興味で、買いたいから買った物もそんな扱いで棚みる度、所詮ものは物で私の死後はただのゴミだしと。 周りをみれば皆楽しそうに話したり笑ったりしてます。そういう仲間が誰もいません、年中一人、どこへいくのも何するのも一人。気楽でいいですが全て自分の中だけでおわってしまうので今は何も楽しくありません。 一人の時間が長すぎるのもあるかもしれませんが気のあう仲間がいないならわざわざあわない人といる必要もないので人間関係の煩わしさはなくてすみますが。周りは既婚者と自分よりかなり年上の人たちばかりでちょうどよくあう世代の人たちがいません。サークルも探しましたが継続となるとそこまで興味あるものがなく1つだけ続けてるものは周りが皆おばさん世代ばかりで話があわないとわかったので話には参加せず活動のみの参加です。 人生が全く思い描いたものと違う最悪な人生だから何をしても楽しくないのは当然かもしれないですね、思い通りでなくても少しは希望や願いを叶えた人生ならいいけど全然そうではないので何でこんな人生なんだろうかと。 これからやり直す気力はもう残ってないのでこのままどうにかせめて病気せず生きてくしかないような気がします。能力の限界がみえてるのに頑張っても仕方ないとしか思えません。何かできる才能でもあればよかったですが何もないので。脳科学者が誰も取り柄のない人はいないと言ってましたが自分に何か取り柄があるとは思えず自分にダメだししておわってます。自画自賛できる人が羨ましいです。

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借りたのに返せないものが苦しい

何度も相談させて頂き、申し訳ありません。自分で解決しようと思っていたのですが、1人で考えるとぐるぐる悩み続け、体調もよくならないためどうか相談させて下さい。 私は、小学校の頃に1人の男の子に本を借りました。しかし、返すのを忘れていて今も持っています。最近になり、過去の悪いことを反省して、出来ることは謝罪していこうと思いました。この本も何とか返そうと高校が一緒で小学校も一緒であった人に連絡をとったのですが3人中、2人は知らない、もう1人とはまだ連絡がとれていません。他の子達とは中学校も違うことがあり、なかなか連絡をとることが難しいです。 母が小学校の時の友達のお母さんの連絡先を知っており、教えて欲しいと言ったのですが、多分その男の子の連絡先は知らないだろうし、就職活動がうまくいってなければ気まずいので嫌だと言われてしまいました。 家族は今更、小学校の時の本を返されたところで困るだろうし、返すことも自己満足だろうと私の行動に反対しています。 他の方法といえば、家がわかる子に直接手紙を入れるなどが思い浮かんだのですが、母から気まずいということを聞いて、私だけでなく家族に迷惑をかけるのは良いことなのかと思いました。 しかし、本がまだあるのは事実であるからには何とかして返さなければ反省したとはいえないのでは、反省しきれてない人間は、死後何かの罰を受けるのではと死後のことはわからないので考えてしまいます。 他にもイベントの露店で1つの値段で間違って2個もらったのに黙っていたことがありました。これも盗みになるのでは、弁償すべきてばと思い出してでも、どうやって見つければいいのだろう、会えるまでそのイベントに通いつめるべきなのか、でもどんな人かも覚えていない、だからといって諦めるのは罪なのではと苦しんでいます。 就職と共にこの町を離れることになり、本を返すこともイベントに参加することも難しくなります。しかし、本を返せるまで粘るべきではイベントの日にちを確認して毎年探して返そうとするべきではでなければ反省しきれてないのでは、そんなものには今じゃなくても死語罰が下るのではと思っています。 全ては自分が犯したことでこの苦しみも自業自得なのでしょうが体調もよくなりません。本を見るたびに苦しいです。私はこの本を一生持ち続けるべきなのでしょうか。吐き気がとまりません。今後どうすべきでしょうか。

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死ぬべき人はいますか?

私は、自分自身は死んだ方が良い人間だと思っています。 私は犯罪者ではありませんが、たくさんの人に迷惑をかけてきました。 税金をもらって仕事をしているのに、何も成果を出せていません。 恵まれた環境を提供してくれた両親、祖父母には、何も恩返しをしていないばかりか、結婚式でひどい思いを味合わせてしまいました。 奥さんには、要求されたことを提供できないばかりか、マイナス思考をぶつけて泣かせる始末。 私とさえ結婚しなければ、幸せになれたろうにと本気で思います。 皆さんにできるだけ早く人生を改善してもらうために、事故に見せかけた自殺により死亡保険を獲得し、分配することを考えています。 自殺について話した職場の同僚の中に、五万でいいからくれと言っていた人がいるので、お金を渡すよう遺言を残せば喜んでくれると思います。 私の死により、税金、食べ物、エネルギー等の無駄が減るのです。 マイナス思考に晒される人もいなくなります。 悲しむ知人はいるかもしれませんが、転校してから一度も合わない友人と同じ状況になるだけですので、一週間も経たずに元どおりになります。何も問題ありません。 いいことしかありません。 死んだ方が良いのに、国家や仏教が生きろと言うのは、 納税者、信者という名の奴隷を減らさないためではないでしょうか? ささやかな幸せという名の幻想で人々を騙しながら、せっせと労働させ、お金を納めさせる。これが国家の真実だと私は思います。 税金を無駄にし、価値を生み出さない自分はゴミでしかない。 それでも、生きなければいけない理由はあるのでしょうか? 親族を悲しませてはいけないのならば、親族を皆殺しにしてから、自殺すれば良いのでしょうか? そもそも、このように人に皮肉や挑発ばかりする性格だから嫌われるんです。 現在、死亡保険や死後に必要な手続き、お葬式の準備など、少しずつ進めています。 お坊さんからも死ねと言ってもらえたら、初めて自分を肯定できそうな気がします。

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2022/09/08

浄土真宗に対するカルチャーショック

先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。

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気味の悪い疑問

突然変な質問をしてしまい申し訳ありませんが、 よろしくお願いします。 ぼーっとしていたら僕の心が僕の心に変な質問をしてきました (ぼーっとしていたら変な疑問が沸いてきました) その内容を 聞いていただきたいです。 命が尽きたとして、 もう一度生きた時間、生前にした行い、生前に起こった出来事、生前に感じた気持ち…すべて生前と同じことが体験できる、要は全く同じ人生を生きることができる.ただし、それを行うには生前の記憶は消される、 そんな体験をしてみないかと尋ねられたら、 あなたは「はい」と答えますか? というものです。 それで「はい」と答え、ほかの自分がやった人生をまた別の自分が自分として自分としての人生を自分らしく生きていくとしたら、なんなんでしょうか? 自分が自分で自分が自分で無いみたいです。 不気味な質問をしてしまってすみません。 自分とは何でしょう。 答えは僕で考えるべきことだと思うのですが、なんだか不思議な気持ちになったため質問しました。 異次元だとか、パラレルワールドに関する本を読んでいたためか、 はたまた疲れか 変な疑問が沸いてきて、なんとなく気になりました。 この問いに対して、 お坊さんたちはどのように思われますか?

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死んだ猫の供養について仏教の考え方は違う?

ウチの家は西本願寺系なので、ペットの供養を頼みにそこそこ有名な寺に行きました。 するとどうでしょう、御坊が言うには「あなたの気持ちはわからないこともないですが、そもそも宗教というものは、人の幸せを願ってできたもの。ゆえに人の供養、御先祖様の供養はしても、動物は言葉も発せず、理解もできず、ただただ人が擬人化したものにすぎません。人は人、動物は動物とお考えて下さい。ゆえにその動物のための法要はしません。」と・・・ 以前猫の死んでここで相談した時、「必ずやそのこは仏様のもとにて心安らかに成仏なさいます。そしてこらからもあなたをお見守りなさってくださいます。 いずれあなたの生命が全うされた時にはあなたは仏様のもとにてそのこに必ず巡り会います。そして以前のように親しくなさることでしょう。 」と書かれておられ私も喜んで頼みに行ったのですが・・・ その時は口では言いませんでしたが、「御坊だって、木や金属でできた像を拝んでるじゃないか!思いが大切なんだよ、思いが!オマエさんにはガッカリした!」と思って帰りました。 ウチが火葬を頼んだ東本願寺系は予約をすれば猫の法要しますと書いてあるのですが、動物に対する供養は、同じ仏教の浄土系のお寺、お坊さんでも考え方は違うのですか?

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2022/06/30

浄土真宗(お西さん)亡くなった後の考え方

私は浄土真宗では無いのですが、今回母方の祖母が亡くなりました。お西さんでした。考え方と葬式での話になるのですがご了承ください。 浄土真宗では亡くなった後すぐに仏になるとありました。 そうすると、棺に手紙などを入れても結局遺族の自己満足で終わると言う事なのでしょうか。(冷たく考えればどの宗派でもそうなってしまうのかもしれませんが) 49日や各七日の考えも、故人の為ではないと言う事なのでしょうか? 私は父方が曹洞宗で子供の頃に習った話だと、こう言った法要は故人のためだったはずなのです。子供の頃の記憶なので完全に間違ってるかもしれませんが。 祖母にはとても愛されて居ましたし、私も大好きな祖母です。 祖母の為には何をしてあげれるのかと思うとちょっとわからなくなってきました。 今年は新盆ですが、お供えを故人の事を思って選んだ方が良いのか、適当で良いのか・・・ 私としては故人の事を思って選びたく思うのです。 また、納棺の際に他の遺族の連れ合いが壁に寄りかかりながら腕を組んで参加していたりしたのですが、お坊さん的にはこれってありなのでしょうか。 その連れ合いはまだ若いです。最近結婚したばかりなので、祖母ともそこまで面識がありません。 私からすると参加するのであればちゃんとした態度で参加した方が良いですし、そこまで人から見える場所に居る立場ではないとはいえそう言う事はやらない方が良いと思います。 これが母や叔母が憔悴しきって居てならまだ分かりますが、当日来たばかりで憔悴するような立場ではない人間なのです。 こうあるべきと言う考えが強いのかもしれませんが、ちょっと腑に落ちないのです。

有り難し有り難し 18
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比喩表現なのか...謎

お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。

有り難し有り難し 13
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亡くなった主人に会いたくてたまらない

二度目の投稿です、以前、主人が亡くなって26日目ですというタイトルで相談させていただきお二人のお坊さんから、目には見えなくても、あなたが想うとき必ずご主人は優しい眼差しであなたを見守ってくれています四十九日が過ぎても、ずっとそばにいてくれますよと回答いただき涙が溢れ心から嬉しくありがたく思いました、でもまた私の心は揺れています、毎日、時間ごとに分刻みに揺れ動きます、大変失礼な言い方だとわかっているのですが、お坊さんだって生きている人間なのにどうして亡くなった人がそばにいるとわかるのでしょうか?大切な人を亡くしてしまったらそのようにおもわなければ生きていけないから、そういう考え方をするんでしょうか?わからないんです、いくらそばにいてくれると思っても私には見えないし声も聞こえない何も感じない主人と出会って30年以上、今年の6月は結婚28年目でした、今思えば不思議なことに去年の結婚記念日には私が初めて手作りのケーキを作り、その前の年は主人が初めて、いつもありがとうと書いたケーキを買ってきてくれました そして娘がお腹にいる時の日記を読み返していたらなんの記念日でもないのに3月13日パパがママにピンクの花を買ってきてくれましたと書いてあり3月13日は主人の命日です、それと私はブラックなコーヒーが大好きだったのに主人がいなくなってからそれが突然飲めなくなり主人の好きだった甘い缶コーヒーを毎日飲んでいます、出会ってからずっと会えない日もあったけど声を聞かない日はなかったので亡くなってからずっと声が聞こえない手を握れないのがたまらない毎日作っていたお弁当はキッチンに置いたままです、失礼な質問かもしれませんがどうか教えて下さい。

有り難し有り難し 255
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2022/07/18

地獄に落ちるのかという不安

お伺いしたい事が3つあります。 私は、人にすぐに苛立ちを覚えたり(多分それが態度に出ていることがある)、食欲や怠けたい欲が強かったり、罪や煩悩が多いのではと思います。 また、学生の頃に人に酷く接してしまったり、振り返っては後悔する事が多々あります。 「〜ことをした、地獄に落ちるのではと不安」という相談に対し、こちらのサイトでは「それらを反省し、仏様やご先祖様に懺悔し、罪を重ねないように生きていきましょう」という回答を目にしました。 これを読み、そうだよな気をつけようと思っても、また直ぐに後悔したり、地獄行きに値する生き方なのではと不安になるような事をしてしまいます。 怠け者だと罪悪感を抱いても、面倒臭かったり、頑張る気力が湧かなかったりが、勝ってしまうのです。 人にドン引きされない程度に、ほどほどで生きようとしてしまいます。 上記に基づき、お伺いしたい事は以下になります。 ① 死後の世界に地獄と天国があるとして、天国に行けるのはどれくらいの割合なのでしょうか。(人間の大半が地獄に落ちるなら、諦めも必要かと思いまして。) ②反省を実行に移せない私は、地獄行きになってしまうのでしょうか。 ③こんな私でも、天国に行くために出来ることはあるのでしょうか。

有り難し有り難し 37
回答数回答 1
2022/01/16

いつか必ず死ぬ恐怖を克服する話

小さい頃から、夜寝ている時にふと、自分という存在はいつか必ず死ぬんだと考え、それを想像したときに恐ろしくなって...というのを20年以上続けてきました その恐怖を克服するために自分なりに考え出した答えがあります 人間というのは、科学的に言えば素粒子の塊である、死ぬということは今まで塊になっていた粒たちがバラバラに解散することである、粒そのものが消失するわけではない、あくまで失うのは「人間」という形だけである 他の粒たちの助けを借りて実現できていた、見る力、聞く力、考える力、記憶などは全て失われる でも、この身体(脳)の中心にいる「自分」という個性を持った粒は失われない 火葬され、煙突から吹き上がり、風に乗り、また別の何かになる 何にしても、死ぬということは、人間という形を手放し、先に逝ってこの世界を舞っている皆のもとに合流することである... こういう風に考えると、死ぬということが絶対の孤独をもたらすものではなく、むしろ生き抜いて老いた後の孤独を解消するものであるとさえ思えてきました 自分なりに納得できる答えで気に入っているのですが、こんな話をする機会がありません(家族や友達といきなりこんな話をする気にはならない) お坊さんの方々はいつか必ず死ぬことについてどのように考えているのでしょうか 仏教の教義には色々な考え方があると思うのですが、それを絶対の教えとされているのでしょうか

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皆さんの考える最期の迎え方とは

昨年の秋頃に、NHKのドキュメンタリー『ありのままの最期 末期がんの“看取り医師”死までの450日』が放送されました。医師で僧侶の田中雅博さんが、末期がんとなり亡くなるまでを記録した番組です。 田中さんは「死ぬのは怖くない。看取った患者から死に方を学んだ。」と語っておられました。 とはいえ、現実には思い通りにはいかないこともあり、言葉を失うくらい壮絶な内容でした。 私にも一応、理想の最期のイメージはありました。誰でもいつかは死ぬのだからじたばたしても仕方ない、自分らしく生き、寿命が来たらそれはそれで受け入れるだけだなと。 でも、実際にそれを間近に感じた時には不安だらけ。じたばたしまくり。私はこんなに弱かったのかと愕然としました。 この時は単なる体調不良でしたが、現実は自分が死ぬなんてそんなに簡単に割りきれるものではないことを経験し、分からなくなりました。 「死に行く者の死に方から学べ」と田中さんはおっしゃったそうです。 “人の生き死には思い通りにはいかない。それでも、なるべく冷静に過ごすにはどうすればいいだろう” 今度は慌ててしまわないようにと、以来ずっと考えていますがまだ答えが出ていません。 お坊さんはたくさんの方の最期に向かい合っておられるので、ご自身に関しても既にイメージがあるのではないかと思います。 例えば病気で余命宣告されたとしたら、暫くの間は痛みや不安など心身の変化に耐えることになりますよね。 今回お尋ねしたいのは「最期の、耐えて待つ生き方」です。どのような心境で、どのように過ごしながらその時を迎えようと思いますか? お坊さんとして、でもいいですし、一個人としての思いがあれば教えていただきたいです。参考にします。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 15
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