先々週、ペットが死にました。 すごく元気だったのに、今思えば、不必要な手術をしたのが原因です。 動物病院の先生には、 長生きするため、と言われて、、 特にペットは健康に問題があったわけではなかったのですが、 悩みつつも、やはり、少しでも元気に長生きしてほしくて、手術を受けさせました。 手術は一泊入院でした。 退院した日にペットは亡くなりました。 夜中だったので、夜間病院に連れていきましたが、もう手遅れでした。 翌日、動物病院に電話したら、 手術が原因だと思われると言われました。 すべては、 手術を承諾した私のせいであり、 ペットを死なせたのは飼い主の私だと思っています。でも、いくら悔いても、 あの子は戻らないというのは理解しています。 しかし、普段の生活にやる気がおきません。 どう生きていけばいいのか分かりません。 あの子がいたから、今までの私は何とか頑張ってこれていたんだと思います。 唯一の家族、そうずっと思って生きてきました。 いつも一緒にいたのに、今は あの子の気配が全くしません。 どうしてなのでしょうか? 骨も埋葬できず、 寝るときは一緒に布団に入れてます。 あの子は 自分の死や私との別れに納得して、成仏して何処かにいったのでしょうか? そうだとしたら、飼い主として喜んであげるべきですが、 全く気配が感じられず、淋しいです。 何か気配が全くないことに意味があるのでしょうか? あの子の気持ちは どうなのでしょうか。。
どんなに貧しくとも共同体を作ることで人は一定の満足を得て過ごすことが出来ます。仏教のサンガがもう一度日本民衆の支えとなれる存在になってほしいのです。孤独死なんてどう考えてもおかしい。なんで偉い人や頭のいい人が一生懸命議論していろいろな法制度を整えたのにこうなっているのでしょうか?アマゾンやアフリカの部族のほうがそんなシステム化しなくてもよっぽど上手に回っているのに。 私はもう分かりません。勉強したからって救われるのでしょうか?文明人が進歩だと思ってやってきたことは正しかったのでしょうか?基本的には人間は群れを作って初めて生き延びられる動物で本質はアフリカで人間が誕生した時から変わっていないのではないでしょうか?群れのために尽くす事と生きがいを一致させたら群れがどんな方向に向かっていくかなんて悩まなくてもとっくに人は救われているのではないでしょうか? ちょっと混乱しています。意味が分からないことを言ってすいません。自分でも道を追求しているつもりで様々な哲学・思想書に手を出しましたが、何だか盆栽をいじくり回して結局何も手を加えなかった方が立派だった様に感じて自分がちんけな存在に思えるのです。
仏教の本を読んでいたら次のような一節がありました。 若い人たちに授戒して騒ぎになり、授戒した僧を叱るお釈迦様の言葉だったと思います。 “二十歳に満たないものは、暑さ、寒さ、飢え、渇き、虫刺されと痛み、風と太陽、地を這う動物との接触、厳しくそっけない言葉に耐えられない。彼は、死に至るまでのあらゆる身体的不快や苦痛を、我慢できない。だが、二十歳になればそれができる。このことは、いまだ我々に信頼を寄せていない人々に信頼を抱かせることも、すでに信頼を寄せている人々の信頼を強めることもできない” 最後の一文はどういう意味でしょうか?本筋と異なりますが、もしよろしければ、あわせてご教示いただければ幸いです。 私は二十歳を超えていますが、これらのことに耐えることができません。本当に毎日つらくてたまらなく感じます。さらに年をとるとますますつらくなるのかと思うと、怖いです。 "二十歳になればそれができる"、とありますが、大抵の人は耐えられるのでしょうか。私は人生で、努力をしてこなかったから、苦しいのでしょうか?成長し損ねたのでしょうか?40になって今からどうしていけばいいのかと思います。 苦しい状態がずっと続いています。 お言葉をいただければ、幸いです。
「仏教の目的」とは「輪廻転生からの解脱」ですが、阿含経によれば、それだけと言う大変厳しい教えです。 従って、この説教は釈尊の予言通り、没後500年で滅亡したようです。 自己否定の説教では誰も就いていけなかったのでしょう。 現代の仏教は四苦ではなく多くは「老病死」の三苦となっていますが、滅亡した仏教では「生」が最大の問題です。 以下順を追って経典を眺めて見ます。 阿含経典 縁 (南伝 相応部経典 12.20. 縁 ) 前略 「比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。生によって老死がある、という。このことは如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているものである。」(以下略) (私見) ここで「縁起」とは「生老病死」の四苦を言い、しかもそれは仏教とは関係のない、自然の摂理であると断定しています。 自然の摂理ですから、仏教はそれを救うことは出来ないと言う意味に取れます。 生まれたら苦しみを逃れるにはひたすら死を待つだけです。死ねば四苦から解放されます。 死後が無ければ、それですべて解決しますが、身体(色)は死んでも心(受想行識)は同時には死なないようです。身体は構造が複雑ですから故障しがちですが、心はその構造もわからず、臨死体験から想像すると多分空気のように軽いでしょうから、死ぬ要素が無いのでしょう。だから仏教では「死」を死と言わず「往生」と言っています。 従って仏教の救いは死後にあると言いうことになりますが、四苦が無いですから、仏教の出番は無い筈です。 多分前世に残った欲の記憶が、再び生へのあこがれになるのでないかと思います。 これは人間に限らずすべての動物に共通の営みでしょう。 これ等を生前に理解して実践し、再び出生しないよう救うのが滅亡した仏教です。
人間とは行動、言葉一つで人を殺せるものだと感じております。 それに動物も人間のエゴで去勢やら避妊など自然の摂理を無視したことを平気でやっております。私も猫を飼っており避妊と去勢をしました。人間の世界にとっては至極当たり前らしいのです。 ですが私は疑問に感じております。人間如きの裁量で他の動物達の未来を奪って良いものか?と。私が感じているのは人間如きに生命を自らの裁量で決めていいのか?ということなのです。 人間とは自分が気に入らなければ平気で他人を虐めたり殺したりしますよね?果たしてそんな罪深き人間に存在価値はあるのか?どうぞ御回答よろしくお願いします。
はじめまして 昨年大怪我をした猫が自宅庭に血だらけで来ました。動物病院へ相談をし餌を置いて馴れさせ捕獲して治療をしてもらい、結果罠にかけられ足先が無かったため外に戻すのは難しく家の中で飼育することに。 他に犬も飼っているのでこれからは自宅で飼うのは難しい為、それから来る子は去勢をして外へと戻していました。 1週間ほど前に母猫と4匹の子猫が来るようになり、小さいうちなら里親さんも見つかりやすいと思い保護しようと話していましたがまだ母猫から離すのは可哀想だと思い様子をみていた矢先、うちの車のボンネットの中に子猫が入っていたのを気づかず仕事へ向かいました。 主人は車に乗る前は車を叩いて乗っていないか注意して下回りも確認していました。なのでまさか乗り込んでいた事とは夢にも思わず車を走らせました。 20分ほど走って信号待ちして発車したときに何か踏んだ感じがありました… 助手席にいた私がミラーを見ると家に来ていた子猫ちゃんでした。 訳が分からなくなぜここにいるのかパニックになりながらすぐに引き返しましたがすでに亡くなっていました。 動物霊園に連れていき火葬してもらい共同墓地へ入れていただき、事故現場へお水と塩でお清めしました。 帰ると母猫が悲しい声で私を見て鳴きそれからずっと子猫を探しています。 その夜に1匹の子猫と1度だけ来ましたが他の子猫も来ません。 今は母猫だけしか来なくなり他の子猫はどうしたのか、まさか車に乗っていてどこかへ落としてしまったのか。 苦しくて苦しくて気が変になりそうです。 頑張って20分近くも車の中にいてやっと出れたのにひいてしまったなんて。 子猫が夜中に来てご飯を一生懸命食べている姿や母猫のシッポで遊んでいる姿が脳裏から離れず泣いてばかりの日々でどうしたら償えるのか、こんな酷いことをしてしまった事の後悔でいっぱいです。 もし餌やりしていなければ家に来ることもなく大きくなれたのに。 守ってあげるつもりが自分たちのせいで命を終わらせてしまったこと。 良かれと思ってやっていた事が間違えだったのか。今は何も考えられません。 猫の餌やりの場所にカメラを付けて家の中で見ているのですが、昨晩オーブの様な白い丸いものが長いこと漂っていました。 子猫が成仏できないのでしょうか。 今後どう償えばよいのでしょうか。 長文ですみませんが、よろしくお願い致します。
10月14日、2歳8ヶ月、人間の歳でいうとおよそ90代のハムスターが亡くなってしまいました。 木曜日だったということで、高校2年生の私は学校から帰宅してから母に亡くなったことを告げられました。 死に目に会えませんでした。 亡くなったことを聞いた瞬間は (昨日まで元気だったのになぜ·····) という思いが強かったのですが、 少し時間が経ってから考えてみると 私のせいで、生きられたはずの今日という日を潰してしまったのかなと思います。 考えられる理由としては餓死です。 2019年の3月末、当時小学5年生の弟が飼いたいと言い始めて我が家にお迎えしたのですが、 弟が積極的にお世話をする様子が無かったので私が中心にお世話をするようになりました。 そのことで両親が何度か弟に対し ハムスターはおもちゃではないので可愛がるだけではダメなこと、 私たちと同じくちゃんと命があるということ、 飼いたいと言った以上責任をもって最期まで育てなければならないことなどを伝えていました。 ですが弟が改善する様子は最期までほぼ無く····· けれど私も私です。 亡くなる2~3ヶ月ほど前から、 飼っていた子がご飯が無くなったのでほしいとおねだりしてきた時、私が気づいてあげなければならなかったにも関わらず (1日くらい大丈夫·····) とそのまま本当に1日ご飯を与えない日が何度かありました。 それまではきちんとあげられていたのに、 自分でもなぜ最後の最後でこんなに怠惰になってしまったのか分かりません····· 一生動物を飼う資格が無いのは認識しているつもりです。 もっと私が弟の分も補ってきちんとしていれば····· 未だに悔やんでも悔やみきれません。 もし餓死だとしたら私は犯罪者です。 一生懸命生きてくれた子の命を、最後の最後で潰してしまいました。 これから私はどう罪を償っていけば良いでしょうか? ちなみに亡くなった日は布団に入れて一晩そっと寝かせてあげていました。 その日の夜と、次の日の朝に父がお経を唱えてくれて、(父は仏教系の学校に通っていました) 昨日、その子を布団に入れてあげて、いつも食べていたご飯と大好きだったおやつと一緒に土葬しました。 せめてもの供養になればと、アルバムを作り毎朝線香を立てて合掌することにしました。
中学生のときに飼っていたペットを安楽死させてしまいました。 病気というわけでもなく、よく脱走しており他の動物にも噛みついて危害をくわえるからという理由です そうさせてしまったきっかけとしては何度目かの脱走のときに私が近所のおばさんから「もう保健所に渡すことになるかもしれない」と言われたからです その時はなんとか捕まりましたが、その夜に親が「ペットのことどうしたい?」と聞いてきたため私はおばさんから言われたことをそのまま話しました なんとなく親もペットに手を焼いているということは思っていましたが私がそういうことを口に出すとは思っていなかったようで驚いた顔をしていました 私は保健所に行った動物がどうなるのか当時知っていたため「でもそれはかわいそうだと思うから安楽死っていう方法も聞いたことがある」と言いました それからは私の知らぬ間にペットは他の人の家に預けられ、病院で処置される日を待っているようになりました 処置される日は学校がある日で、当日母から今日病院に連れていくと知らされました 私は「そうなんだ」とだけ答えました 止めるなら今しかないということはわかっていましたが、他者に危害を加えてしまうことにハラハラする毎日に嫌気がさしていました 選択が正しかったとは当時も今も思っていません ただ自分には何もできないから言っても仕方ないと諦めていました 病院で処置が済んだ後は母が火葬場につれていき合同墓地に埋葬してきたそうです その後は実家ではペットの話はタブーになりました 飼っていたペットと同じ犬種がテレビに映ったら誰も何も言わなくなります 私は実家を出るまでこの件に蓋をするように過ごしてきましたが、出て同棲するようになってから一気に記憶が押し寄せてきました そして今まで墓参りにもまともに行ってやれませんでしたが、最近は墓地に赴き、自宅にも簡易的ではありますが仏壇を置いて毎日水を汲み、お鈴を鳴らしています ですがこんなことはただの自己満足であるという自責の念が消えません まだ思い出しては涙が出てきます 楽しかった思い出、嬉しかった出来事を今になって思い出して後悔するばかりの毎日です 過去に戻れるとしたらペットを飼いたいと言っていた自分のことをひっぱたいてやりたい。 そうしたらあの子はこんな目に合わずに、どこかで幸せに暮らせていたかもしれないのに。 怒りや悲しみでいっぱいです
タイトル通り、事故で死にかけました。 その時、はっきりと死を覚悟した感覚がつきまとって離れません。 寝ていても苦しくなって過呼吸のようになり目が覚めます。 こわくて仕方ありません。 そしてわたしの人生を振り返るようになりました。 たぶん幸せな人生でした。 つい5年前くらいまでは。何1つ疑うことなく生きてきました。でも5年前に4番目の子を産んでから劇的に変わりました。 4番目の子は重度の自閉症があります。 言葉は話せません。ガマンもしません。言葉は悪いけど動物のようです。 本能のままに生きています。 わたしはこの子がとてつもなく愛おしいです。 笑っていても泣いていてもです。 道路でもお店でもジタバタしながら泣きわめく子を周りの人は何事?と怪訝な顔をして見ていきます。 でもわたしはうらやましく思い自分を素直に表現する我が子を愛おしく思うのです。 でも、そんな我が子を見ながらわたしはこの子を幸せにしてあげられているのかと思ってしまうのです。 わたしは病気がちで休みの日も家にいることが多くつまらない思いをさせてはいないだろうか… わたしの勝手で離婚してしまったからこの子にもっとあげられるはずだった幸せを奪ってしまったのではないか… そんな時強く思うのです。 この子はなぜわたしを選んで産まれてきてくれたんだろうと。 わたしじゃなかったらもっと幸せだっただろうに… この子を本当に愛おしく思うからこそ苦しくなります。 そしてあの時、あの事故の時にわたしなんて死んでしまえばよかったのではないかという思いに取り憑かれてしまいました。 疲れてしまったのもあるのかと思いますが… 1人で思い悩むのにも疲れてしまいました。 何かお言葉がいただきたいです。
先日、私のせいで最愛のオカメインコを死なせてしまいました。 具合が悪そうかなと気が付いてたのですが、大丈夫だろうと安易に思ってしまい、そんな子に消化の悪いボレー粉(カルシウム)をあげてしまい病気になり、追い討ちをかけて死に追いやってしまいました… 具合がかなり悪くなった時に動物病院には行ったのですが、午後仕事に行ってしまい、帰ったらかなり苦しそうにしてて、その子を手に抱っこしててあげればよかったのに、診てくれそうな夜間病院に電話をかけまくってる最中に亡くなってました。 見取りも出来なかったです… 病気で子供もいなかったので娘として13年間毎日ずっと一緒にいて、離婚時など、あらゆる苦しみ悲しみを助けてくれました。 全身全霊で私を信頼してくれて、私にべったりで、幸せをたくさんくれた子をこんな形であっけなく失ってしまい、この先どう生きていけばいいか分かりません。 亡くなって2週間過ぎても毎日、 何で仕事してるのか 何でうちに帰るのか 何で私が生きてるのか と思い、普通に生活してると自分が嫌になり自分に吐き気がします。 私にはあの子しかいなかったのに、この先、何を糧に生きていけばいいのでしょうか… よろしくお願い致します。
7月12日に『愛犬の死 その後不思議な生活音が聞こえる』とご相談させていただいた者です。 kousyo Kuuyo Azuma様、りゅうよう様 温かなお言葉を本当にありがとうございました。 不思議なことに愛犬が亡くなってから四十九日間近頃になって、物音がすっかり聞こえなくなりました。 旦那さんとふたりで、愛犬はきっと無事に天国に行けたのだろうと、確信を持って話しました。 人が亡くなってから四十九日が経つと、仏様になると言われていますが、動物にもそのお話はあてはまるのですね。 まだまだ悲しさは消えませんが、それでもだいぶ気持ちが穏やかになってきました。 毎日朝晩、愛犬の小さなお仏壇に手を合わせ、骨壺を撫でて話しかけています。 kousyo Kuuyo Azuma様、りゅうよう様 本当にありがとうございました。
はじめまして 現在独身で、関係が良好で健在の両親とペットたちと敷地内同居しています。 最近自律神経の不調により精神不安が増大し、将来や死について考え過ぎてパニックになり様々な不調が出てきました。 今は少しずつ改善されてきましたが、未だに不眠や不安で苦しくなったりします。 精神不調の時は「今〇歳だから△年後に衰えて□年後に亡くなってしまうんだな」と考えて、収入についての不安というより心の寂しさが大きく強くなってしまい目の前の作業効率が落ちてしまう事があります。 死については、このサイトの他の方の問答を拝見したり色んな方からのアドバイスで「死後家族や縁のあった動物たちや友人たちとの魂の繋がりは無くならないので安心してください」「両親も自分たちの両親に会える幸せがある」「死は不幸では無い」「また会える」と受け取れる内容のものがあり、そういうものなんだと考えると死自体についての恐怖は少し緩和されました。 しかし、今生きていて、現在パワフルな両親が数年後衰えて介護が必要になる姿を目の当たりにした時のショックは大きいだろうな、本人たちも苦しいだろうな、社会性の乏しい自分が介護や契約等きちんとフォロー出来るだろうか、市役所が助けてくれるのだろうか、今元気なペットたちもいずれ…そもそも自分が先に自死では無く事故や病気等で亡くなってしまったら…と想像した時にまた不安が増大します。 目の前にある成長のための物事に一生懸命取り組みたい、進化したい、けど避けられない将来の寂しい思いが強く出てきて不安が増大し、立ち止まってしまいます。 両親への敬意や感謝の気持ちが非常に強いので、寂しさが強いのだと思います。 ペットロスは3回経験しましたがとても辛かったです。 姉夫婦と甥と姪が隣県に居ますが、関係が良好でも頼っても良いものなのかという不安もあります。友人たちも遠方なので苦しい時は一人なのか、というのも不安です。 自律神経の改善が進めば多少落ち着くと思います。将来寄り添ってくれる友人と出会えるかもしれない。自動運転や色々な相談窓口等世のシステムが進化して生き易くなってるかもしれない。とポジティブに考えたいのですが、やはり不安が強いままです。 考え方を上手に切り替えるアドバイスやお話を頂きたいです。 宜しくお願いします。長文失礼しました。
前にも似た様な質問を行いましたが、また、その時の恐怖が出てきました。 仏教では輪廻転生の教えがありますよね。死後に自分の行いや業によって六道のどれかに落ちるという。 前に仏教は今をどう生きるかを説いている、死後の事は分からないというお答えを貰いました。 だけど、折角お答えを貰ったのにまた生まれ変わりに対して恐怖が出てきたのです。 私はまだまだ自分の人生を生ききっていない二十代の小娘です。 だけど、来世を恐れ、来世を心配するという考えに取りつかれています。 来世が動物や虫になってしまったら、どうしよう。それで酷い目に会ったらどうしよう。怖い目にあったらどうしよう。 運よく人間に生まれ変わっても、今の様に平凡だけど幸せな環境のようば場所じゃなくてテレビいえ、私が知れないだけで想像も絶するような場所に生まれたらどうしよう。 もし、そこで酷い目に会ったらどうしよう、非人道的な扱いを受けたらどうしよう、誰かに殺されたらどうしよう。悪人になってしまったらどうしようという考えが頭の中をぐるぐると回り、自分が酷い目にあっている所まで想像してしまいます・・。 別にそんな目にあいたくないですし、本当に嫌です。 こんな事を考えても仕方ないし、今の心配をしろよですし、来世だから今の私の自我があるかどうかも分かりません。だけど、こんな目にあいたくないという気持ちが強く出ているのです。未来の私かもしれないという考えがあるのかもしません。 こんな目にあいたくない。こんな目に合う位なら死にたくない。 死後の地獄も嫌。死んでも自分が消えるのも嫌。 死んだらもう、この世に生まれ変わりたくない。人間にも動物にも虫にもなりたくない。死後の世界があるのならただ穏やかでありたい 嫌だ!嫌だ!嫌だ!とか心の中で叫んだり あれ?私はこんなに信心深い方だったけ?私は何の為に生まれたの? この世は魂の修行場だと聞いたけれど、そんなの誰が決めたんだ、苦しいのは一回きりで十分なのに、という考えが自分の中になってそれで体調が悪くなったり気分が沈み胃が荒れている状態です。 もしくは引きこもっているから、こんな事を考えてしまうのか、精神的にはおかしくなっているのでは・・と思います。 折角頂いたお答えもあるのにどうにかしたいけれど、またこんな調子になってしまい解決策が見出せない状態です・・。
人ではないのですが… 1月18日20時15分に、10年8ヶ月飼っていた愛犬が他界しました。 去年の12月頃から様子がおかしく、私と愛犬しかいない部屋の壁を黙って見つめていたり、夜中にクンクン鳴いたかと思うとおもちゃをくわえ壁を見つめていたりしていました。 そして、今月4日突然愛犬の両目がショボショボし始め病院へ連れて行くと白内障になりかけてると獣医に言われました。 その後、薬で治療していましたが、亡くなった日の明け方にてんかんの発作を起こし病院へ。 点滴などの治療をしましたが、その日の20時15分に、苦しみながら旅立ってしまいました…。 その後、とてつもない脱力感、絶望感と寂しさに襲われています。 私自身も一昨年暮れに大病を患い危なかったところをなんとか名医に助けられました。 しかし、まだ未だに体調は良くなく後遺症と戦っている日々での愛犬との別れてでした。 未だに、首輪につけていた鈴の音がたまに聞こえ、近くにいるのかな?と思う日々です。 親友に、虹の橋の話を聞きなるべく泣かないように、後悔しないようにしているのですが立ち直れません…。 あの子の苦しみながら亡くなった時が未だに頭に残り消えず、新しくペットを迎えるきにもなれず…。 看取れただけでも良かったでしょ? 最後まで一緒に寝られたから良かったでしょ?と家族に言われますが。笑顔で対応する事は出来ません。 私としては、ずっと愛犬のお骨を家に置いて起きたいのですが 駄目なのでしょうか? ワンちゃん用の骨堂に置いた方があの子の為によいのでしょうか? 人や、動物の死は本当に辛いです。
私は5年ほど前に躁鬱病と診断され、今年の夏には乳ガンと告知をされました。 早期の発見だったため、抗がん剤治療と手術で完治する予定です。しかし、私は完治したくなかった。出来れば転移してくれれば自死を選ばなくても若くで死ぬことが出来たのに、と思うのです。 乳ガンを、見つけた時にはまずお医者さんと思いましたが、これが人間の生への執着なのだなと思いました。 でも、親に心配をかけ、辛い抗がん剤治療をうけながら働き、高額な医療費を払い、こんな事転移してたらやっていられません。 治療拒否も自死と同じ扱いになるのでしょうか?
質問の前に一つお坊さんの皆さまに感謝を申し上げます。 自分はここ数年の間、生きる目的を見失い、心の中でずっと死を望みました。時には誰かを傷つけたいと思いました。そこで何度かここにお邪魔して、お坊さんの皆さまに質問をしました。皆さまのアドバイスを何回も見返して、何度も自分で考えました。 自分の周りと自分自身の変化、そしてお坊さんのお言葉もあり、完全ではありませんが今はとても精神的に楽な気持ちになり、他人に対しての優しさを取り戻せました。 ここで感謝を申し上げます。ありがとうございます。 しかし、また自分の力だけでは拭えない悩みが出てきました。また皆さまの御力をお借りしたいです。 では本題に入ります。 様々な人間の残酷な事についてです。 動物、女性、幼児虐待。誘拐、人身売買など、自分の価値観や考え方では到底許せない事がこの世の中に溢れかえっています。 今までは自分は意識しないで生活をしてきました。しかし、あるニュースを見てしまいました。 数年前に誘拐された少女が現代まで生きていた。が、その少女だった女性は山に裸で捨てられて死んでいたという事件でした。 自分にとってとても衝撃的なニュースでした。 特に誘拐された女性の両親の絶望、それを考えてしまうと自分も身内になったかのように非常に悲しみ、怒りを感じてしまいます。 そしてそのニュースを見て以来、こんな事をずっと考えています。 こうやって自分が今、平穏の中で暮らしている間、常人では考えられない程の苦しみを味わっている人がいるのではないか。 この考えがずっと心の中をモワモワして漂っています。時にはそれが大きくなって眠れなくなったりしました。 その事に対して自分でできる事はあまりにも無力。その事から外にいる人間。しかし、無力だからと言って今にとても苦しんでいる人を助けたい。けど助けられないという、一瞬の思考のループができてしまいました。 そこで2つ質問です。 この世の中で起きている残酷な事に対しての心構え、見解。そしてこの世での救いはあるのか。 またお坊さんの御力が必要になりました。 どうか皆さんの意見を自分にお聞かせください。
こんばんは、夜分遅くに失礼いたします。 昨年末、とても大好きだった愛犬が虹の橋を渡りました。 皮膚の病気を長年患っていて、ある年からは50匹に1匹と言われる珍しい病気にもなって嘔吐する時、同時に倒れてしまうような病気でした。 最期はその病気による誤嚥ですぐにかかりつけの動物病院に連れて行って、その日の昼過ぎに仕事で他の家族はおらず私だけが看取りました。11歳と3ヶ月でした。 もういなくなってから早くも4ヶ月が経とうとしているけど、未だにあの日を思い出して心が痛くなります。 そして最近耳に入ったとある方の曲を聴いていて、ふと思ったことがあります。 死んだ人やペットに意識のようなものはあるの? 今まで私は死んだらどうなるんだろう?とか死の先には何があるんだろう?とぼんやりと考えてことはあっても、きっと死んでしまえば何も考えなくなるのかも、と考えていました。 けれど最近聴いたその曲の歌詞を見た時、もしも死んだ側に意識のような何かがあるのだとしたら、その死んだ誰かにも大好きで大切に想う誰かがいて、その誰かの傍にいるのなら死を悲しむその誰かに語りかけているかもしれない。と思ってしまい、それが虹の橋を渡った愛犬だったらと考えた時、とても苦しくなりました。 マイペースで甘えるのが下手な子だったけど、とても甘えんぼなあの子がもし私たち家族の近くにいてずっと話しかけてたら。私たち生きてる者には見えないし、声を聞いてあげることもできないのに、ずっとずっと近くで話しかけてたらどうしよう…と堪らなく悲しくなりました。 もし、死後も意識があってあの子が私に話しかけてるのに気付けないせいで寂しい思いをしてたらどうしたらいいのでしょう。
先日ある野良のまだとても小さな子猫に出会いました。 車に轢かれそうになっていて急いでいたためとりあえず家に連れて帰り少しご飯を食べさせ母猫の元にすぐ返したのですが嫌な予感がしてその後見に行くと1匹車に轢かれていました。 ショックでした。轢かれた子は林に埋めました。 このままでは残りの子も死んでしまうと思い林の奥に移動させましたがすでに育児放棄されていたようで天候がとても悪かったためいけないと思いながら見に行くととても汚れて弱っている様子でした。 このままでは死んでしまうと思い家に連れてきましたが家はすでに猫を飼っており夜中まで話し合いましたが経済的な理由から(現在私が心身共に具合が悪く働きに出られないため)飼えず里親探しも考えましたがもし見つからなかった場合の事を考え助ると諦めるしかありませんでした… 話し合った結果あそこなら生きていけるかもしれないという場所に置いてきてあとは元気に生きてけるようにと祈ることしかできず帰りました。 その後毎日頭から離れず涙がとまらない日々でした。 そんな私を見かねた旦那がある日見に行くと体の大きな子は元気になったようで遊びまわっており小さな子の方はもう弱り切っていつ死んでもおかしくない状況だったようです。 でも誰かが世話をしてくれている形跡がありその話を聞いて涙がとまりませんでした。 そしてその数日後SNSをみているとなんとあの体の大きな方の子猫が心優しい方に保護され里親募集されていました。 その子だけが生き残ったようです。 その後最初に見つけた道路のあたりで子猫が車に轢かれていたのでその子も兄弟の子だったようです。 1人ぼっちでさまよっていたのですね。 私は身内やペットが死んだ経験がなく、その三匹の子猫が初めての死を目の当たりにした経験でした。 この世にはこんなに悲しい現実があるのかとショックです。 とても可愛らしく過酷な状況の中一生懸命に生きようとしていた姿が 目に焼き付いて離れません。 なぜあの子猫たちが死ななくてはならなかったのでしょうか。 あの子達のような子がたくさんいるのかと思うとどう自分の気持ちを整理すればいいかわかりません。 自分のした事は良かったのだろうか…無力な自分が情けないです。 早く元気になり働いて動物のボランティア活動をしようと思っています。
夜、道路で猫をひいてしまいました。 気づいた時、咄嗟に避けようとしてハンドルを切ったのですが猫も同じ方向に動いてしまい、ブレーキを踏む間もありませんでした。 運転していた時スマホを手に持っていました。スマホを見ずにもっと前方を注視していたらもっと早く気づけたかもしれません。 ああやってしまったと思ったのに、怖くてすぐに確認せずそのまま元々の目的地に向かってしまい、冷や汗や動悸や自責の念に駆られながらも頭の中で帰りはこの道は通らないようにしようなどと考えてしまいました。 なぜ私なのか、毎日死にたいと考えている罰なのかと、神様なのか運命なのかどちらに対するもよなのか、恨みすら湧いてしまいました。 自分の用事を終えたあとに、このままではダメだと思い一度家に帰って家族に同行してもらい、ダンボールとバスタオルを持って亡骸のもとに戻り、連れて帰ってきました。抱き上げた亡骸はまだ暖かかったです。 近所に動物の供養をしてもらえるお寺があり、明日の朝伺う予定です。 自分が命を奪ってしまったことも、その時の思考、行動も怖いです。法律で罪に問われないだけでとんでもないことをしでかしたのに、人間だったらどうなっていただろうかなどと考えてしまったことも怖いし、そのままにしておく人も多いのに自ら向き合いえらいねと家族に言われたことも腑に落ちません。えらいわけがないです。 家族は、こういうときはごめんねと思わずに成仏してねと願うんだよ、と言いますが本当でしょうか。 わたしはどのような気持ちでいるべきでしょうか。 なんの償いにもなりませんが、しばらく供養をしていただくお寺には通うつもりです。こうしてここで相談して心を軽くしようとしているのも卑怯で、本当に申し訳ない気持ちです。
去年の夏、12年飼っていた猫の体調が悪くなり動物病院で検査して貰ったところ、数値が悪いことが判り、覚悟しておいた方がいいですよ言われ自宅でお薬を飲ませて看病をしていました。 その頃、隣で建物の建設が始まることになり、騒音や振動で平穏な生活がおくれない恐れがあるため、建築会社と相談し、建設が落ち着くまで私ひとり近くのアパートに引っ越しすることになりました。その間、猫はそのまま元の家に置いて、主人が仕事から帰って次の日仕事にでかけるまで元の家で猫の世話をしていました。 主人によると、猫は主人が帰ってきたらちゃんとお出迎えに来てくれて大丈夫いつもと変わらないと伝えていました。 それから数日後、主人が出張になったため、ときどき利用している動物病院内にあるペットホテルに預けることにしました。 そして、その預けている間に容態が急変し、亡くなってしまいました。 亡くなった翌日、主人が動物病院(ペットホテル)に亡骸を引き取りに いって、そのまま市内のペット霊園で火葬し、遺骨は同じペット霊園の 祭壇に置いて貰っています。 火葬して貰った翌日が、ちょうど月に一度の合同供養祭であったため 私も、その合同供養祭に参列していっしょに拝みました。 それから2〜3日して今日まで毎朝、愛猫が夢に出て鳴いてます。 たまに夜中にも出ます。それから犬や他の猫、小鳥男女若い人間までも 夢に出てうなされています。 この悩みも聞いて貰おうとペット霊園の合同供養祭をとりおこなって いるお寺さんにも話してみたのですが住職が退院したばかりで相談に のることは難しく、また実際に合同供養祭をとりおこなっているお坊さんはそのお寺で雇っている人とのことでした。 元の家では、祭壇を作って毎日お水やご飯や好きだった食べ物をお供えし、毎朝お線香も立てています。 元の家で主人と食事をしていると、愛猫が生前、私達の食事中にいつも立ててた”コンコン”という音が聞こえたり、猫が自分でドアノブを開けるときの”ガチャガチャ”いう音が鳴き声と一緒にしたりします。 さらに、寝ていると上から他の猫もジャンプして降りて来たり、顔にへばりついたりします。 前にも書きましたが、昨年、愛猫が亡くなってからこのような現象が毎日続いており、落ち着いて眠ることができず、体力的にも弱って来ています。 落ち着いて眠りたいです。どうしたらよいでしょうか?