突然の質問ですが、ご縁とは仏さまが私に与えてくださっているものなのでしょうか? 仕事で営業をしています。 辛いことが8割、感動が2割というところでしょうか。今日はお客さまが私のことを慕ってくださり、あぁこんな私を大切に思ってくださって嬉しい、と感じました。お客さまが幸せでありますように、と心の中で強く強く願いました。 営業はイキナリ叱られたり、怪訝な顔をされたり、辛いことが多い仕事ですが、時々出会うこのご縁に涙が出そうになるくらい嬉しさを感じます。これは偶然かそれともご先祖の導きではないかと不思議な気持ちになったのでご質問させていただきました。 皆様のお考えや仏教としての解釈のようなものがあれば教えていただきたいです。よろしくお願いします。
最近、父が自ら首を吊ってなくなりました。 私は家族とは離れ1人暮らしなのですが、家族の話ですと前の晩も当日も普段と変わりなかったようです。 遺書とか何もなく、自殺の原因が分かりません(鬱病とかでもありません) 思い当たる事と言えば、父は若いころからずっと運転に係る仕事をしていまして(数年前には年で辞めています)運転には自信があったようなのですが、その父が亡くなる少し前に運転中に意識が無くなったらしく、事故を起こしてしまったのです。 幸い人も巻き込まず、本人もムチウチと少し少切り傷が出来た位で、 1週間弱で退院出来ました。 家族もよくあの事故でこの程度でで済んで良かったと安堵しており、ただし、また運転中意識が無くなったりしたら大変なので心配だから今後はもう運転はしない方がいいね、となっていました。 そうすると大好きな孫(弟の子供)の送り迎えも出来ず、楽しみがなくなったのかな? 運転に自身あったのに、事故を起こして本人は気にしていたようなので自信喪失したり、老いを感じたのかな?等、それ位しか自殺の原因が分かりません。 残された私たち家族は原因も分からず、とても辛い思いをしております。 ですが原因はもう父しか分からないので仕方ない、とは思いながら自殺してしまった人の魂はどうなるのかとても気にかかります。 人生を全うして亡くなった方と違って、成仏できるのでしょうか? 生きるのが辛くて自ら命をたったのに、成仏できないとか、天国と地獄があるのなら、地獄に行ってしまうとか、亡くなっても尚更、辛い思いをするんではないか?と胸を痛めております。 どうか教えて下さい、お願いします。
簡単に言うと、“考え方や本当に思い込めばその通りになる”ということらしいです。 量子物理学的に「思考は現実化する」という学者もいたりします。 言葉に発するなどはできるのですが、心に思い込むというのはなかなか難しいですし、どうしても悪いことや嫌な事、嫌なニュースに怒りを覚えたり、他人を妬んだりうらやんだり。マインドコントロールでもしない限りそんな人にはなれない気がします。 プラス思考は大事だと思いますが、そんな四六時中プラス思考になることなんてできるのでしょうか。嫌なことから目をそむけ、ある意味思考を停止して単純思考にならないと難しいと考えます。 量子物理学、プラス思考、コントロールとなるとなんとなく胡散臭く感じてしまいます。 そもそも“引き寄せの法則”という考え方は仏教にはあったりしますでしょうか? 教えて! お坊さん!
前回の質問時に生じた質問です。 もう何年前のことだか正確に覚えていませんが・・・ある日のこと、前途ある若き僧侶が殺害されました。夜間、路上で危険行為をしていた青少年らを注意したところ、逆上した彼らに暴行され、その末に息を引き取ったそうです。 当時、この報道を偶然テレビで観ていた私はとてもショックを受けました。僧侶という特殊な立場の人が犠牲になったことや、私個人のそれまでの想いや経験とも重なったのでしょう。暫く、忘れられませんでした。けれども、年を経るごとに少しずつ忘れ、思い出すこともなくなりました。しかし、数年前にお坊さんが書いたあるエッセイを読んだ時、一気に思い出したのです。 そこには偶然にも、あの事件のことが書かれていました。もちろん、実名などの記載はありませんでしたが、私はフラッシュバックのように、当時、テレビに映し出されていた事件現場を思い出しました。どこにでもありそうな人気もまばらな夜間の風景、暗い夜道と街頭、街頭に照らされた白いガードレール、記事を読む女性アナウンサーの声。 筆者と被害者の男性は、修行道場で先輩・後輩の関係で、男性は修行を終えて実家のお寺に帰った後に急死。彼の父親であり、師匠でもある住職は、葬儀の挨拶の中で、こう述べたそうです。 「それでも、許さないといけないのでしょうかね・・・」 仏教の教えでも、何であっても、人は皆平等で、言動には大なり小なり理由があります。加害者となった青少年らにも、殺意があったかどうかはともかく、腹立ち紛れに暴力をふるった原因や理由がそれぞれあるでしょう。しかし、だからと言って許せるかどうかは、また別の話。けれど、許すか諦めるかしなければ、生きている限り、苦しみ続けなければならない。また、こういったことが二度と起こらないように、暴力事件の被害者の方々が活動しておられますが、その活動は別として、果たして、彼らに救いはあったのでしょうか。 「許す」って何なんでしょう。諦めたら救われるのか・・・ただ、どうしようもない「ままならぬのが人の世だ」と分かっただけではないのか・・・「救い」って一体、何なのでしょうか。
生きるのがつらくて、阿弥陀様になんとか救って頂きたくてお縋りしています。 でも阿弥陀様が約束された救済は死後の救済、今生ではありません。なので阿弥陀様を拝んで顔を見上げる時に「死んだ後と言わずに今救われたい…」と思ってしまいます。 阿弥陀様に良くなりますようにと祈っても現世利益はないと言いますし、私はどんな気持ちで阿弥陀様と向き合えばいいのでしょうか? とても恥ずかしいし苦しいし、阿弥陀様に申し訳なくてご本尊の前にいられません。私は地獄に落ちるのでしょうか。
例えば浄土宗の檀家で、普段は念仏を唱えているけれど、ときどき座禅や阿字観に参加したり、お護摩に参加する。 そう言う人が知人に居ます。 私の場合、浄土宗で冠婚葬祭も勤行も、阿弥陀様メインではありますが、同時にお不動様と大黒天様に惹かれ、こちらも勤行しています。 (浄土宗のお寺にも多くは無いですがお不動様をお祀りしている所があるので、大きな軋轢は無いだろうと思いました) 最近、一般向けの仏教の啓蒙書でも、そうした「宗派にこだわらない」立ち居地から仏教を紹介している本も少なくないように思います。 私も、とある有名な仏教解説者の影響を受けて、こうした立ち居地が、個人的に合うように思い、そうしてきました。 ただ、色々と仏教を勉強していると、「そうした信仰はよくない、宗派は1つに絞るべき」と言う意見にも、しばしばぶつかります。 最近では、浄土宗の檀家の私が、護摩に参加するぐらいならともかく、結縁灌頂まで受けるのはやり過ぎかな? と悩んだりもしています。 お坊様は「宗派にこだわらない信仰」についてどう思われますか? この質問は聞きずらいですし、お坊様がたもお答えしずらいかもしれませんが、「宗派にこだわらない」一般仏教啓蒙の影響を受けた者には、けっこう切実な悩みです。 よろしければ、ご意見を伺えたら幸いです。
お願いします。 災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。 記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。 もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。 明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。 私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。 何か意味があるならばお考えを教えて下さい。 それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。
報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?
昨夏、このサイトで相談したものです。 相談・・・というか、宣言に値してしまいますが、お目通し下されば幸いです。 今、私が病気で苦しんでいるのは、 前世、何か罪を犯したことのペナルティなのでしょうか? 治療が難しい病気(症状)と闘い、様々な医療機関にかかってきました。 期待の持てる療法もいくつか試し、治癒への期待もかけましたが、少しも改善せず、日々症状の悪化にひたすら耐える日々です。 でも、その症状自体は死に至るものではなく、文字通りの生き地獄をさまよっています。 これまでは治る見込みにむけて頑張る気持ちがありましたが、もうその気力が果ててしまいました。 医学的にはあらゆる検査をしても異常が見つからないのです。 自律神経のアンバランスとか、ひいては精神的な事によるもの・・・と、 かたづけられてしまいますが、そんなことが原因ではありません。 物事に対する優先順位などに対しての冷静な判断など、症状さえなければ 至って理性は働いているので、鬱でもメンタルトラブルでもありません。 むしろ難病指定されたり、余命宣告を受ける方がよっぽど割り切れます。 身内を始め、関わってくれるドクターなどは親身になって対応してくれます。でも、もうこれ以上は無理です。 できるだけ廻りの人には迷惑をかけないように段取りたいと思っています。 一般的には自殺自体が周りに迷惑をかけると言われますし、私もずっとそう考えてきました。 でも、病気が治らない事で、心労や金銭的に家族に迷惑をかけている事の方が辛いです。 そろそろ期限を設定しようと思っています。
お忙しい中、申し訳ありません。 お釈迦様本来の教えに最も近いと言われる最古のお経の中には、 お釈迦様は、何がしかの行為を行った場合にお布施を受け取ることを拒否された、 と書かれていると聞きます。 またお釈迦様は、死者に念仏のようなものを唱えることは意味がない、と説かれたとも。 お釈迦様が対機説法を用いられたと言われていることを少しは存じておりますが、 お釈迦様の教えを学び実践する目的は、たった一つしかないと思っています。 現代のお坊さまの方々は、葬儀などでお経を上げお布施を受け取ることを、どのように考えておられるのでしょうか?
こんばんは。 同じような質問を他でも見かけるのですが、改めて質問させてください。話をまとめるのが苦手ですので長くなりますがご容赦ください。 一週間ほど前に出会った海外の僧侶の方に、 「なぜ、日本の僧侶は結婚するのか」 という質問をされました。 私の生半可な知識では到底答えられなかったのでhasunohaで見かけた意見などを紹介してみたのですが、いまいち質問の意図にそぐわない気がしました。 彼が訊ねていたのは妻帯を許されるようになった歴史とか、結婚したらしたなりの別の修行があるから、というようなことではなく、なんと言えばいいのか…もっと根本的なことのように思います。(と、いっても私の拙い英会話力での印象ですが) 会話の中では"不必要な結婚"(わざわざ戒律を破る不可解な行為)とも表現していました。 彼はインドで修行を開始し、その後"世捨て人"(なんと訳せば良いのかわかりませんが、英語ではrenunciantと呼んでいました。彼は家も(自認する)国籍も持たず、各地を放浪しながら乞食修行を行なっているようです)になったようです。不学なので詳しくはわからないのですが、インドでの仏教のあり方に最も共感しているようです。それ故、日本でのこの特殊な仏教のあり方に心底疑問を抱くようで、お寺が世襲制であることにも違和感を感じているようです。また、人によってそれぞれ適した修行方法があるし、だからこそ妻帯者には妻帯者なりの仏道修行があるのは認めた上で、それでも、最終的には乞食修行に行き着くのではないか、とも語っていました。 日本という国や仏教に関心を寄せる身として、「今後空海のような人が日本から出てくることはないだろう」とか、「日本のお坊さんは会社員と同じ(誰でも望めばなることができるし、ビジネスとしてやっている)」などと言われてしまうとなんだか悲しくなってしまいしたし、うまく答えられないことがとても悔しく感じました…。勿論、彼に日本を貶めようとかいう気が全くないことは重々承知の上ですが…。 長くなりましたが、hasunohaに集うお坊さま方は彼の質問"日本の僧侶はなぜ妻帯するのか"にどのようにお答えになりますか?是非皆様の智慧をお貸しください。 彼はまだしばらく近くに滞在しているので、会う機会があれば伝えたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。
こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。
一休さんはとんちが得意なのですが、お坊さんはみんなとんちが得意なのですか? どうやって磨くのですか?とんちが得意になりたいです。
高齢者の安楽死についてご意見をお願い致します。90歳になる身内の者が倒れ入院となった際、医師に言われました。平均寿命を超えているからもういいのではと。つまり、延命治療をせずに逝かせるということです。家族は反対し、できうる限りのことをしてほしいと願いましたが、いざ胃瘻をどうするかの際に、この医師は容態について虚偽の説明までして胃瘻を阻止しようとしました。 高齢者の医療負担が大きな問題となっていますが、この医師も口から食べられなくなったら寿命とは言うものの、だからといって家のように栄養を少しずつ減らして二三ヶ月で逝かせましょうだなどと私はどうしても疑問を拭うことが出来ません。 医師が捉える死と御坊様が捉える死とは違うとは思いますが、命を救うのが医療であって、そこに延命も何も無いのではと私は思ったりもするのです。蝋燭は燃え尽きてこそ終わりです。口から食べられない、平均寿命を超えていることから死に至らしめようと安易に考える医師に私は命に対する驕り高ぶりと恐ろしさを感じます。たとえ口から食べられずとも、今その目の前に尽きていない命があるのですから。
お願い致します。 仏教では「人生は修行」と、キリスト教では「耐えられない苦難は与えない」と言います。しかし世界には過酷な悲惨な状況下に於いて命を落とす人達が多くいます。赤ん坊や幼い子供であっても容赦のない状況があります。修行でも 耐えられる苦難でも無く 生まれてきた意味さえ見つからないと思うしか無いような。 長い間の疑問です。お教えいただきたくよろしくお願い致します。
人生の中で苦しい時に勇気づけれられるようなイイ言葉をお坊さんに聞きたいです。このサイトを見ている皆さんの応援歌となるような勇気づけられるような言葉をお願いします。お坊さん自身が勇気づけられている言葉でも大変ありがたいです。
先日、祖母が亡くなりました。 葬儀会社は決まっていたので葬儀の予定は滞りなく決まったのですが、菩提寺にお渡しするお布施が高く、どうしたらいいのかと悩んでいます。 自宅は千葉、お寺は東京にあるので、電話でお話をしました。 失礼かと思いましたがどのくらいお布施をお渡ししたらよいか分からなかったのでお伺いしたところ135万円と言われました。 思っていた金額よりかなり上でした。 こちらに余裕がある生活をしていればご縁もあってのことですしそのままお願いするかもしれませんが、お恥ずかしい話そのような経済状況ではないもので、そのむね事情を伝えさせて頂き、一括でのお支払はできませんが何度かに分けてなどはできないものかとご相談もしたのですが、今まで分割で支払いをうけたこともないしこれが最低ラインです、と。 どうぞ135万円お包み頂いてお越し下さい、と言われました。 それくらいだすのが当然ですよと、言わんばかりの雰囲気でした。 高額なのとお寺の電話での話ぶりと、気持ちがつりあわなくて、こんなことを思う私が悪いのか、でもどうにも金額が高いのではないのかと、そんなことばかり考えてしまって元々の祖母をきちんと送りだしたい気持ちよりお金の事が頭をしめてしまっています。 ちなみにもし自宅の方で火葬まですませて、戒名だけとなったらいかがでしょうかと尋ねたら、それでも同じ金額です、とおっしゃっていました。 なんとかその金額を準備しても、葬儀代も納骨もまだいろいろあります。正直生活がままならなくなってしまいます。 お布施とはそんな気持ちで納めるものなのかと。 なにもお渡ししないまま戒名をつけて頂きたいなんてそんな事は思ってはいません。できるところまでは感謝の気持ちでお布施できればと考えています。 ですがご提示の金額は高すぎるのではないかと。 その金額は相談できないものなのでしょうか? 戒名だけつけて頂くのも同じ金額とは、そのようなものなのでしょうか? わざわざ東京から来て頂いかなくてよい分お布施の金額をおさえてお渡しすることは失礼でしょうか?それはこちらの勝手な言い分なのでしょうか? 長文、乱文で申し訳ありません。 ですが、どこで、どなたに相談したらよいものかもわからずネットで検索していたところこちらを見つけて、もうここしかないと… よろしくお願いします。
こんにちは、今年の5月にアメリカ人の義母の死について相談に乗って頂いた者です。 その節は大変お世話になりました。 今年は災難続きで12月はじめに今度は日本にいる最愛の母を亡くしました。 高齢でしたが健康そのものの母でしたので、家族も親戚も驚きでいっぱいでした。 連絡を受けて5時間後には飛行機に飛び乗り日本へ向かうことが出来、意識はないものの母に会えたし、病院で数日間過ごし苦しむことなく亡くなる母の最期看取る事が出来ました。 葬儀も済みアメリカに戻ってきましたが、まだ母が亡くなった実感が湧きません。 姉は母が亡くなって次の日に、少し元気になって布団から少し身体を起こして無言で吸い口で水を飲む母に高い壁越しから見かけて「ママもうそんなに快復したの?!」と思わず声をかけた夢を見たと言っていました。 なのに私は全く母の夢を見ないのです。 母が亡くなる2日前に電話で話しをした時の最後の会話は、「夫が私や子供達の事を大事にしてくれること、子供達が健康で健やかに成長していること、三月に日本に子供達を連れて日本に遊びにいくよ、私はアメリカで幸せに暮らしているから」みたいな事を話したのですが、母が夢に出てきてくれない事が悲しくて毎朝起きてはガックリしています。 まだ四十九日も来ていませんが、母ともう一度話してみたいのです。私たち家族は大変仲良しでしたが、私の所にも夢に出て欲しいのです。 私の事を溺愛してくれた母が夢にも出てきてくれないのは何故なのでしょうか?
30歳を過ぎだ頃から体調不良が続いています。一つの病気がようやく治ったと思ったら、また別の病気が発覚します。 どれも日常生活に支障がある病気ですが見た目には健康なので周りの人達との関わりに悩む事もあるし、どうしても、そんなに悪い事をしてきた覚えはないのに何で次々に病気になってしまうのかなぁと落ち込みます。悪気のない励ましのつもりでしょうが、病は気から等の言葉をかけていただく事にも疲れました。 心が疲れた時に気持ちを切り替えられる良い方法はないかと相談しました。