回転寿司が大好きで毎週のように回転ずしを食べています。 左上のhasunohaのロゴがホッキ貝と緑の割れたスシ皿に見えてしまいます。 それは置いてといて、お寿司を食べているときに、こんなにお寿司が好きなのに何か月前から通っているのか忘れてしまいました。 その時の初めて食べたネタのおいしさや歯ごたえの感動も忘れてしまいました。 そして、苦しみの方はどうかと思い、(中途半端に過去の)5年6か月と3日前の苦しみを思い出そうとしましたが思い出せませんでした。 (中途半端に昔の)5年6か月と3日前に私は何かをしていて何かの感情があり何か悩みや苦しみ、もしくは楽しみがあった、でも思い出せないのです。 つまり記憶も感情も行動もまた移り行くものだから忘れてしまう。記憶や感情といえど常なるものは無し。 これも諸行無常で苦を滅する方法は、『無常に気付き、常に自分も無常であると忘れないようにする』ことであると、そこら辺は、↓にも最終的には同じ意味で書いた通りです。 https://hasunoha.jp/questions/19539 https://hasunoha.jp/questions/19556 https://hasunoha.jp/questions/19587 しかし、どんなに気を付けていても自分(や愛しいもの)も無常の中にいるという事を忘れてしまう事があり、またも過去と同じようなことで悩み苦しむ事がたまにあります。 このまま人生を歩んで行っても、全く苦が無い生活を行うことは難しいです。 こうなってくると、テーラワーダか禅宗に出家して苦を滅するための八正道を人生のすべてとして生きていくしかないような気がしてきました。 アジアの上座部仏教国だと、サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)なんて言われて出家できますが、ここは日本で日本での生活があります。それを捨ててまでの出家だと親が泣くかなと思うのですが、在家のまま苦を滅する方法はありますか? または苦を滅したいからという理由で出家された方いますか?
今までずっと我慢してきました。常に他人に迷惑がかかるんじゃないかと思って、ろくに人に頼ることもできません。友達に相談したいのに、できません。自分のキャラに合わない。心配なんてさせたくない。親になんて相談したくありません。自分のこと理解しようとしてないんだなって思って余計へこむ。けど、最近相談して甘えたい欲求がでてきました。でも、当然甘えなんて許されない。浪人という分際だし。みんなは自立しろという。そもそも誰かに相談して解決するようなもんでもないし。 大好きな友達はいるが、折角友達と一緒にいても、「どうせ数時間後には自分は孤独だ」と思って楽しめません。そもそも、何か楽しいことがあっても、「どうせ終わる時がくる」と思って楽しめません。気を紛らわすなんて無理です。 それと、私は同性愛者ですが、そのことも自分を苦しめる要因の一つです。自分がメジャリティーだったならば、無意味なことで傷心せずによかったのになぁとどれほど自分を恨んだことか。 今まで見て見ぬふりをしていた感情、欲求不満が爆発しました。それらを解決するにはどうすればよいだしょうか? 拙い文章で申し訳ございません
私は長年、極楽浄土に往生したら仏となることが定まるだけで、往生したその時から仏となるための修行が始まるものだとばかり思っていましたが、最近知り合いの浄土真宗のお坊様から「往生した瞬間から仏」ような内容のお話を聞かせて頂いて混乱しています。 釈尊の次に仏になるのは弥勒菩薩であってそれは56億年後の話だから、少なくとも極楽往生してから56億年は待たないといけないのかと思っていました。 宗派による解釈の違いなどを取り違えていたんでしょうか?浄土真宗として正しい認識をどのように持てば良いのでしょうか?ご教授下さい。
私は男ですがある女性芸能人に本気で恋をしてしまいました。テレビに出てるのを見るのも辛いです。この先その方に恋人ができたり、結婚したりしたら、とても傷つくだろうなと自分の心を恐れています。ファンなら祝福するべき事かもしれませんが、本気で好きでいるので傷つく日がくるのがこわいです。その方を四六時中考えてしまい困っています。私も身近な方を好きになって恋愛できたら良いのですが病気で仕事もできない状態です。苦しいです。中年男がこんな気持ちでおり、気持ち悪いでしょうがご助言いただけたら幸いです。
私は去年のちょうど今ごろ大好きで結婚まで約束していた元彼に浮気された挙句デキ婚され精神的にもおかしくなり自殺未遂までしました。見返してやろうと頑張ったダイエットもいつのまにか摂食障害になり拒食と過食嘔吐を繰り返すようになりもう生きてる意味も分からなくなりました。家にも居場所がなく、母親には新しい恋人もでき邪魔者扱いされる始末で、あの時に死んでおけばよかったと日々感じて生きています。友達とも呼べる人はいなくて家族も誰1人信じられずに人間なんてみんな嫌いだとも思っていきてきました。小学生の頃からいじめにあい日々今日事故にあって死なないかなとか考えながら生きてきました。でももう本気で限界に達してしまい、今車の中で首吊り自殺しようか悩んでいます。自殺したところで周りにまた迷惑かけることもわかっています。でも綺麗事を言われてももう何も響かなくて生きる意味も分からずもう何も感じないただのゴミ人間になってしまった私はどうしたいのかも分からず質問してしまいました。メッセージお願いします。
こんにちは 初めて質問させていただきます この数年間、仏教の本を読み考え瞑想したりしてきました そして、ついこの間、瞑想していた際に表現しがたい体験をしました 言葉にするのが難しいのですが、一体感というか、全てが一つに感じられ、自分というものが消えたというか、輪郭がなくなったような体験です そのあと、一時間にも満たない間、まとまりのようなものを感じることが続き、やがて普段の感覚が戻ってきました その後の生活では、嫌だなあという感情が全くなくなったわけではありません そもそも、この質問をしている時点で悟ってはいないのでしょうか? 悟りの自覚は明確なものなのでしょうか? この表現しがたい体験は悟りではないのでしょうか?
二度目の投稿です 前回、両親に優しく出来ないことをご相談させていただきました。 両親にきつくしてしまう度に、弟の写真を見てしまいます。 私に後ろめたさがあるからでしょうか? でも、弟の顔が怒っているようには見えません。 むしろ、穏やかで優しさすら感じます。 弟が亡くなり一ヶ月が過ぎました。 弟は今どこにいるのでしょうか? 私が両親にきつく言ってしまうこと、私が、この家の後をとること 弟は納得しているのでしょうか? わたしは、死ぬまでこんなことを悩まなければいけないのかと、毎日のように考えてしまいます。 弟が亡くなった次の日、実家に近い職場の赴任決まるなど、何か偶然とは思えません。 考えすぎなのか、必然なのか 不思議です。 人は亡くなると、どうなるのでしょうか 弟は今、私たちの事を見ているのでしょうか? 自分が亡くなったことを納得しているのでしょうか? 親に冷たくする私は、地獄に堕ちるのでしょうか? とても怖いです
こんにちは、宜しくおねがいします。 生き方について悩みが多く、暴れる心をなんとか鎮めたいと最近、 浄土真宗の聞法に通っています。 随分昔に死んだ明治生まれの祖母を思い出したからです。彼女は封建的な夫に黙々と仕え、息子に戦死されても、一人娘に急死されても、毎日の日課を黙って静かにこなし、仏壇になんまんだを唱え、老いては子に従い、右を向いていろといわれれば右を向き、左を向いていろといわれれば左を向いているような、大切にはされていたのでしょうが全く存在感のない祖母でした。無口で静かでしたから声も覚えていないのです。すっかり忘れていたのです。 ところが、自分も老境に入り、しかしいまだ心穏やかならず、怒りや貪りに振り回され苦しむ有様で、あの諦観したのか、または阿弥陀様にお任せしきったのかのような祖母の姿が私を聞法に向かわせました。 しかしこの身はしぶとく、聞法をいただいている間は少しは素直な気持ちになるのですが、それもなが続きしません。 第一、近代教育を受けた私には、「はからいを捨て、お任せする」のは難しいです。はからうことばかりを目指し、学び、訓練してきたのですから。もしかすると、もっと死が近づいたら少しはそんな気持ちが持てるのかもしれませんが・・・ ただ、三木清が言うように「自分は最後は親上人の言葉どうり、あの世で懐かしい人たちに会えることを信じている」のは私も同じです。 問題はあの世のことでなく、日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されることです。 そんな私が禅宗の教えで行住坐臥を整えることや、禅の言葉に従うことで、少しは苦しみから離れられるように思うことがあります。 子供のころ永平寺を訪れて、「こんな風に生きている人もいるのだ」とショックを受けたことから大人になって、禅林句集や道元禅師を読むようになりました。指針になります。 阿弥陀様にお任せできない私が曹洞宗に頼るのはいけませんか? 浄土真宗では一筋でないといけないと聞きます。お任せしきらないといけないと聞きます。浄土真宗と曹洞宗の二股みたいで罪悪感があります。 迷える私にお言葉をいただきたいです。 宜しくおねがいします。 とんぼ
こちらで戒名を載せていいものか悩みましたが、どなたかアドバイス頂けますでしょうか。 先日、最愛の実母が亡くなりました。長い長い闘病生活、長くはない命と分かっていながらも素直になれず困らせたり、もっと何かをしてあげればよかった、の後悔ばかりの日々を送っています。 私達(姉がいます)に父親はいません。母の葬儀が人生初の葬儀(幼少期に祖母がなくなりましたが記憶に薄いです)となり、姉が喪主となり2人で右も左も分からないまま、ただ母の旅立ちをしっかりととの思いで通夜告別式を執り行いました。 準備段階での事です。母に戒名を頂くために、母の両親を連れ、ご先祖様のお墓のあるお寺の住職さんに戒名のお願いしました。しかし、住職さんはお年を召してるのか全くこちらの話を聞いて下さらず、ただただ同じ事を繰り返し言うのみ。遠方だったので、一度戒名をつけて頂きたいと電話で伝えた際に姉がうまく伝わっていないと思う、と言うので心配になりいざ出向いてみるとすでに戒名が決まっていました。電話で伝えたのは名前と歳のみです。 私達はお恥ずかしながらあまり知識がなくネットなどで調べるのが精一杯です。戒名とは、俗名から一字、人柄から一字、というのは間違った情報でしょうか? 母の戒名は、瑞雲蓮花妙○○大姉霊位、です。○○の部分には母の俗名がそのまま入っています。意味を伺っても、読み方しか教えてくれず、母の両親に訴えても、もう決まったみたいだから、と。 もちろん、頂いた戒名に不満があるわけではありません。ただ、人柄なくして戒名がつくのか、どういった意味合いなのかが知りたくて投稿させて頂きました。 よろしくお願いします。
ずっと心に気になっていることがあり、お伺いします。よろしくお願いします。28年前に結婚し、マンションに野良猫がよく来ていたので、餌を与えていました。離れているぶんには逃げないのですが、手を出すと逃げていくような関係でした。でもある日、とても雨がひどい日のことでしたが、その猫が具合が悪いのか濡れそぼってやって来て、部屋に入りたがりました。今まではいくらこちらから近寄っていってもさっと逃げて行っていたのに、猫のほうから部屋に入れてと言うように鳴きながらやって来ました。私は長女を妊娠中で、お腹の子への影響を気にして(猫が持っている菌による奇形)可哀想と思いながらも入れてあげませんでした。猫はしばらく鳴いていましたが、どこかへ行ってしまいました。いくらお腹の子への影響が心配とはいえ、ひどいことをしてしまったと、この時のことが心から離れません。思い出すと、心が痛く、自責の念から逃れられません。長女はトラブルメーカーで何かと心配事を次から次へと起こし、実家を離れて一人暮らしをしている妹も姉の愚痴を聞くの嫌だから帰って来たくないと言います。長女がこのようなのは、あの時助けを求めていた猫を見捨てた報いなのでしょうか?
数年前に得度をさせて頂いて週末、お寺でお経などの勉強をしてたのですが兄弟子達が、だらしなく嘘・ごまかしばかりして住職(師匠)に隠し事ばかりして 結局…バレて怒られる事を何度も何度も繰り返し全体責任で私も毎回怒られれ、余りにも兄弟子達を見てるとバカバカしく思えてお寺に行くのも嫌になり 住職(師匠)に辞めさせて欲しいと言ってお寺を後にしました が師匠には恩も有るから何かさせて欲しいと言う気持ちは、有るのですが こんな兄弟子達が居てると思うと又…一緒に怒られると思うとアホらしく思うのです、兄弟子達は某大学や某高校(仏教系)卒業した人たちです、学校で誤魔化す事を教わって来たのかと思えて仕方ないです。 得度を受けたら他のお寺で勉強する事は無理なんでしょうか?
先日 墓前に手を合わせてきたのですが いつもなら ただ心のままに手を合わせ小さい時から耳馴染んできた南無阿弥陀仏と声に出さずとも…なのに 今は亡き父が闘病生活で今まで仏壇すらなかった家に見たこともない位に大きなそれに手を合わせ南無妙法蓮華経と一心不乱に題目してた記憶が頭の中を駆け巡り自然と南無妙法蓮華経と呟いていた自分が居ました。横で手を合わせていた子ども達が不思議そうに私を見て ふ と我に戻ったような気持ちで家についてからも悶々とした状態でした。数ヶ月前から、何度となくハスノハに質問し、有難い回答を宗派問わず色々な角度から聴かせて頂き、座禅会や供養で敷居が高いと遠慮していたお寺にも足を運び 随分と穏やかに過ごせるようになった今 菩提樹もなく仏壇もない自分ですが 一つの宗派にとことん向き合い毎日を丁寧に生きたいと強く思うようになりました。 ただ一つに決める事が出来ず身近な信頼してる人の話しを聞いたり足を運んだりしながらも本を読んでみたり…良いとこどりのズルイ信心だねと 、からかわれたり… しばらく、こんな状態が続きそうで ごめんなさい、コチラで愚痴らせていただきました。 ハスノハは、こんな中途半端な私の拠り所となり有難い居場所です。
また、ご質問すいません。 前にアドバイスされた通り、祖父母の仏壇にお線香を供え、子供の頃のやらかしや失敗などを手を合わせながら「ごめんなさい」と謝ったりしました。 だけど、また自分の嫌な所ばかり思い出し今度は自分の死後の心配をするようになってきました。 まだ、二十代の小娘ですが、正直に言って地獄が怖いです。 子供の頃に子供特有の残酷さと好奇心で生き物を死なせたり世話をしないで死なせてしまった貰い物のカブト虫の事を思い出したり、謝れなかった事、嘘を付いたり間違いを犯したり人を馬鹿にしたり傷つけたり、悪口や心の中で悪態をつたいり、とんでもない事を考えたり、借りた物を返さなかったりと本当に悪い事をしてきたと思うようになったりしました こっぴどく叱られたり、私自身も嫌な思いをしたり物を返してもらえなかった事もありますし、人の役に立とうとしたり良い事もした事もあると思います。 でも、自分の悪い所を思い出しその後に地獄を思い出して怖くなってきました。 昔絵や絵本で見た地獄を本当に怖がり悪い事をしたら地獄に落とされるという事に怯えていた記憶があったと思うのに、でも、大きくなってそういった感覚が薄れていき人の死に対して無関心な部分が出てきたり地獄を題材としてを扱った漫画やアニメを見てもフィクションだと思って受け流す事もありましたが地獄に行った人が鬼に身体を斬られたり責め具を受けているのを見て怖くなって目を背けた事もあります。 それらを思い出し、また罪悪感が蘇り私が死んだ後に地獄に行く事になったら・・と考えたらとても怖くなり、しかも、本やネットでは相当長い年月を罰で苦しむと書かれていたので本当に怖いです。 正直に言って地獄に行きたくありません。むしろ幽霊になってずっと現世に留まっていた方がいいんじゃ・・でも、それはそれでどうなんだ?と思考がぐるぐるとまわりました。 自分勝手だと思いますが、生前の罪を償う為とはいえ死後も痛い思いや苦しい思いをするのが嫌でたまりません。 違う事も考えようとしましたが、結局また思い出して時に心の中で絶叫したり誰か助けてと思う事もありました。 楽しいと思える事も怖く感じる時もありこの思考を止めるには一体どうすればいいでしょうか?これらの事を思い出すのは何か意味があるのでしょうか? 地獄に落ちないようにするにはどうすればいいでしょうか?
浄土三部経が偽経や非仏説と言われている事についてどう向き合えばいいでしょうか。 自分はこれで阿弥陀様の信心を失ってしまいました。 事実としてお釈迦様が直接説いたわけではないことは、「歴史的」には分かっているそうですし、それでもお釈迦様以外の仏様が説いたので仏説と言われていたりと、結局どれが真実なのか分からなくなってきました。 浄土宗や浄土真宗のお坊様はこの事についてどう思っているのですか? そしてどうやって信じているのでしょうか。 自分はこの事で信心をもらえそうにないです。 回答お願いいたします。 この前までは単純に阿弥陀様を信じられていませんでしたが今度は大乗非仏説で信じられなくなっしまいました。
私はきっと周りから普通に見えると思います。 でも精神がおかしいのです。 生きたい、けど死にたい。 その感情が尋常じゃなく波のように押し寄せる。 死にたいのか、逃げたいだけなのか、ただ弱い人間だからこういう思考になるのか。 お坊様方の色々な体験談を聞きたいです。 人生の参考に。 私は今、煩悩を勉強しています。 出家も調べました。 でもまだまだ私には覚悟が足りません。 うまく説明できません。苦しいです。助けてください
私が仏教に関心を持つようになったのは最近の事です。 あまりにも辛い出来事があり、うつ病になりかけた時に、偶然テレビで般若心経を解説するプログラムを見て、心がすっと軽くなった、というのがきっかけでした。 ところで、わが家は浄土真宗なのですが、浄土真宗では般若心経を唱えるべきではない、と聞き拍子抜けしてしまいました。般若心経の教えに救われた私としては、何だかスッキリしません…。 実際に浄土真宗のお坊さまたちは、般若心経についてどのようにお考えなのか、お聞きしたいです。
解決しない悩みばかり抱えて辛いです。 何年も前から、死にたいって願望があり自分の体を傷つけたり首を絞めてみたりしています。 死にたくなったらどうしたらいいですか?
こんばんは。先日は私の質問に真摯にご回答下さりまして、誠にありがとうございました。こちらで質問させていただいて、お坊さま方の回答から今後の生活のヒントになることを沢山学ぶことができました。本日は、さらに質問したいことがございますので、ご迷惑かとは存じますがご回答頂けますと幸いです。 私は、仏教について勉強していく中で、日本では仏教と神道が結びついて独自の文化を形成してきたということを学びました。それは、ヨーロッパのような激しい宗教対立ではなく、大乗仏教の柔軟な教えがあったがゆえに土着の信仰を包摂できた結果生まれたものであり、世界の中でも珍しい信仰体系であると思います。 しかし、仏教の教えと神道の教えは相容れない所があるようにも思い、そこが自分の中で考えの整理がつかない点でもあります。例えば、先祖崇拝はもともと仏教の教えには無かったと学びましたし、神道の荒魂・和魂といった概念も仏教の教えとは異なるもののように感じます。この両者の教えの違いをお坊さまはどう整理されているのでしょうか。 なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、私の実家の信仰と上記の問題が関連しているためです。私の実家の宗旨は浄土真宗なのですが、仏壇の他に神棚もありますし、両親は仏壇の他にも調理場や庭石などにお供えをしています。また、お寺にも神社にもお参りに行きますし、お墓へもお参りに行きます。これまではこれらを当たり前のこととして受け取っていたのですが、仏教を勉強していくうちにこれらの習俗に対して疑問が湧いてきてしまいました。 浄土真宗を信仰する家庭では、神棚は基本的には置かないと伺っております。また、死んだら即成仏という考え方であるため、位牌も必要ないと聞いております。しかし、私の実家には神棚もありますし、黒塗りの位牌もあります。この両者の間の矛盾をどう整理すれば良いのでしょうか。菩提寺の住職様に質問はしてみたのですが、曖昧な答えで納得のいくものではありませんでした。私は、人生を生きていく上で道標となるものを得たいと思い、仏教の勉強をしてきたのですが、現実の生活に活かせるように整理しようとすると、矛盾点が多く悩みはむしろ以前に比べて増えてしまっているような気がします。 お忙しいと思いますが、お坊さま方のご意見を伺えましたら幸いです。よろしくお願いします。
はじめまして。 よろしくお願い致します。 私は決まった宗派に属している訳ではないのですが、以前からお寺と仏像が好きで、あるお寺に月に1度程度なのですが参拝しています。 そのお寺のご本尊はお不動様なのですが、何度も通い拝んでいる内に、何とも言えない心の満足感や安らぎを感じるようになりました。 そこで、自宅でもお不動様を拝みたく、木彫りの不動明王像を購入しました。(ひと目見てとても気に入り、彫刻家の方に直接連絡をとってオーダーメイドで造って頂きました。まだ手元にはありません。) 生活状況から毎日しっかりお勤めができる自信が無い為、開眼供養はしないつもりだったのですが、調べている内にしないで拝むと魔が入るという事を目や耳にし、大変不安になっております。。。 お勤めがしっかりできなくとも開眼供養はするべきでしょうか? そもそもそんな心構えでは仏像を手元に置くこと自体間違っていますか? 魔が入るといるのはどういった事なのでしょうか? 勉強不足で申し訳ないのですが、ご助言頂けると嬉しいです。
33歳の息子と2人で暮らしています。 2年前ぐらいに不安症になり、1年ぐらい病院に通っていましたが、よくなっていました。 最近は、人が変わったように喋らなくなり、こっちも暗くなってしまいます。 人生を諦めてしまった様に感じます。 私も今の状態が続くなら死んでしまった方が楽だと思えてしまいます。 どう接していけばいいのかわかりません。