昨年の9月から月に1、2回程、禅寺の坐禅会に通っています。初めは、自分探しというか、真実な私に出逢いたいというテーマで参禅していたのですが・・・。 その寺の住職に恋してしまったのでしょうか(私の片思いです)。煩悩は自分の力でなんとかしてはいけない、血で血を洗う様なもので、掴んだものは放下しなさいと住職は言われるのですが、その様にしても、禅会で住職が視野に入ってくると、せっかく忘れていた「好き」という気持ちが湧き起こり困ってしまいます。 迷いの炎が燃え盛っているそのままが、悟りの大禅定であるとも、住職は言われますが・・・・。坐禅していると余計に、切なくなるというか、どうしてこんな想いに囚われるのかと不思議に感じます。 では、好きという想いで三昧に入れということなのでしょうか。 今では、坐禅よりも、住職を一目見たい、声を聴きたい、側にいたいという想いで一杯になっています・・・・不謹慎というか、情けなくも感じています。
こんにちは、 私は一年前かその前くらいに、母と雑談をしていた時、調子に乗って 父の事を大仏のようだと比喩(のんびりしている、ぐうたらしている) と言ってしまいました。 その頃の私は仏教に対して全くの無知でした。 しかし最近、ハスノハを見るようになり、 仏教の素晴らしさと、お坊さんの言葉の数々を知り、なにより、善に溢れた仏教に感銘を受けました。 大仏様のあの姿々も悟りを開き、心の底から善の心を持っているからこそ、あのような姿をしているんだなと、自分の意識が180度変わりました。 あの頃の無知な自分が恥ずかしく、 仏様を怒らせてしまったのではないか? と思ってしまいます。 また、過去の過ち、反省を仏様は認めてくれるのか? と、考えてしまいました。 これからは、少しずつですが、仏教を通して 自分を成長させていきたいと思います。 このような愚行がある私でも、見守ってくださるでしょうか? よろしくお願いします
今日、誕生日を迎えました。 みな明日仕事だから寝てるのでしょう、家族と日付を超える前から電話をしていた友人以外からお祝いの連絡は来ておりません。 日付が変わり友人と電話を終えてから、家族以外からお祝いの連絡がない事に少しガッカリしていました。 しかし、先ほどからほかの質問者様方への皆さまの回答を拝見していたからでしょうか、気付いたら連絡が来てなくてもガッカリしてた自分がいなくなったのです。 強がりでもありません。 上手く言えないのですが、家族とその電話をしてた友人からお祝いの言葉を頂けただけでも「私はここに存在している」「生まれて良かった」と考えを変えることが出来たのです。 今までの私なら「友人から連絡が来なかった、私は友人にとって大した存在ではないんだ」と悲観していたと思うのです。 これが悟りなのでしょうか? なんだか、少しだけ生きるのが楽しくなってきてる気がします。大袈裟でしょうか。今までのネガティブな自分自身に初めて打ち勝てたような、そんな気がしてます。 とにかく、ここの皆さまとお祝いをしてくれた家族・友人にお礼が言いたいです。本当にありがとうございます。 今後とも前向きに生きていける様なお言葉やアドバイスがあれば、お願い致します。
情報産業でサラリーマンをしているものです。 心の平穏に混乱しております。 3年程度の周期でうつ病の再発を繰り返してしましたが、現在服薬治療を受け、寛解しております。 倫理について調べ物、考え事をしていたところ、頭の中が混乱する出来事があり、その後、自分が満たされないという感覚や、不安、怒りなどがほとんど無くなりました。 苦しみはないのですが、こう言ったことは初めてなので、違和感や混乱が多少は感じられます。 この状態を色々な方々に相談するにあたり、便宜的に「悟り」という言葉を使って表現してしまっているのですが、 実の所自分の状態がどんなものなのかよくわかっていない為、不適切な表現をしているようにも思っています。 心理学などについて調べたところ、学術的には「継続的非記号体験」というものにどうやら近いということは分かったのですが、それも研究のための便宜的な定義だと思われるのでこの心の状態を正確に表しているともあまり思えませんでした。 現実世界と折り合いをつけ、人を幸せにしたいという思いを世に役立てる手段や、わたしの状態、これからすべき修行などについてご教授いただければと考えております。
これまでずっと色々なことがありながらも必死で頑張ってきました。 20歳で一度自殺未遂をしたものの助かり、どん底から何とかもがいてなりたかった仕事にも就けましたが、 それから常に気を抜いたら何もかもできなくなりだめになってしまいそうで、 「もう頑張れない、つらい、何もかもできない、動けない」という気持ちと 「頑張らなくては」という気持ちが相互に押し寄せます。 最近はふと負けそうです。 誕生日会を開いてくれるような優しい後輩たちと応援してくれる上司、仲良くなろうとしてくれている人たちもいながら、誰とも気持ちの繋がりが持てずに申し訳なく、来年結婚する約束の相手とも私が上手くコミュニケーションを取れないがためにだめになってしまいそうです。 20歳からずっと独りよがりの孤独感があり、甘えたことをと思いながら先に進めません。 お坊さんからの悟りやお言葉をいただきたいです。どうぞよろしくお願いいたします。
何度も質問してすみません。どうしようもなくなりまた質問しました。 左目の目尻からまぶたをある事故(アルコール依存の父親からの理不尽な暴力と、傷跡治療失敗)から損傷し、別人の顔になりました。損傷のない右顔は彫りが深く気に入っていましたが、左顔は見て身震いします。人工的な顔でもあります。しかし、これは自分の新しい顔と言い聞かせ、認知を見直そうとしますが、まだまだ修行が足りません。なんとか、仕事やプライベートの時間を気にせずに過ごしたいのですが、...生き地獄のようです。なぜ自分が...。なぜ一番気に入っていた部分が...。人に親切にしてきたのに...。経済的に恵まれいなく、全て自分のお金で学歴を身につけなるなど努力してきたのに...。自殺をすると周りを悲しませるのでできません。今は生きる屍のよう。なぜ...。仕事で評価され、プライベートでも一人ですが、静かながら楽しく生きていました。しかし、なぜ...。 絶望感が数ヶ月、定期的に訪れます。よく耐えました。 自分いじめをやめたいが、この違う醜く、別人の顔で一刻一刻をどう過ごすか。悟り(涅槃)でしか救われないでしょうか?
アップいただいた動画を、拝見致しました。ありがとうございます。 前回のご回答と動画で、坐禅ということを説明や言葉で理解すると、ダメなのはわかりました。自分で勝手にねつ造した”悟りの境地”や“坐禅の方法論”や“坐禅の手段”は、ことごとく通用しないということも分かりました。 しかし、そうなると、とても不安になります。どうしても、何らかの方法論や手段に頼ろうとしてしまうし、その結果、自分を観察して、分析して、改善しようとしてしまいます。「私は、○○だ」「うまくいった」「ダメだ」とかコメントを入れてしまいます。自分が見たもの、聞いたもの、したことを観察して、その観察した自分をさらに観察して、二重にも三重にも生活してしまいます。 そういうコメントを入れてしまうのは、それを止めるとかえって物足りない気がするからだと思います。観察しないと、「こんなのでいいのかな?」と非常に不安になってしまいます…。 それでも、理想を求めて自分を観察してはならないのでしょうか?
先日、千日回峰行を2回も行われた酒井雄哉さんの「一日一生」という本を読みました。とても読みやすく、酒井さんがこれまでの人生や行を通して学ばれた人生におけるものの考え方や、日常の小さな幸せに気づかせてくださる本でした。 ところで、千日回峰行のようなきつい修行は止めるなら死ぬ、というルールがあるみたいですね。このような感情を持ってはいけないのかもしれませんが、なんだか馬鹿馬鹿しい、と思ってしまいました。 『毎日毎日仏様にお祈りし、行をすることで、いったい世の中の何の役に立つのか?』と疑問に思いました。 千日間毎日山の中をぐるぐる回ってお祈りしても、今あらゆることで困っている人々が助かるわけじゃないですよね? お坊さん方に失礼なことを言っているのは分かっています。ただ純粋に疑問に思ったので質問してみました。
はじめまして。 暑さの厳しい日が続いておりますね。近頃、私の住む家の近くで風鈴を吊したお宅があるようです。 もちろん夏場に風鈴を吊す、夏の風物詩とも言える行為そのものに文句をつける気は毛頭ございません。 しかしこの吊されている風鈴というのが風鈴・オブ・ザ・風鈴とも思える素晴らしい風鈴でして、 強風の日はチリーンチリリリーンチリーン!!と元気よく、 いま風吹いた?というそよ風にすらチリーン…チリリーン…と健気に反応して見事な音色を辺りに響かせるのです。 風鈴としての役割を果たそうとするその懸命さには目を見張るばかり。 けれども修行の足りない私は、絶え間なく鳴り響く甲高い音に「ああ今日もうるせーな」と思ってしまうのです。 これで風鈴を吊しているお宅が分かっていれば直接出向いて交渉する事も考えるのですが、 場所がちょっとした音も反響するそこそこ閑静な住宅地、いまだどのお宅で鳴っているのか判然としません。 度々外出のついでに風鈴を探してはみるものの、件の風鈴を見つけ出すより先に 付近の窓辺をジロジロ見て回る不審者の噂が出てしまいそうで、もしそんな事になれば近隣の皆様の心痛となること必至です。 風鈴の音を心静かに受け入れるか、気にせずいられたら良いのですが、 いかんせん一度気になると鳴る度に「今日も鳴ってる…」と思えて仕方ありません。 7月に入ってまだ1週間、これからも風鈴は立派に己の役目を果たす事と思います。 この夏、私は風鈴の音色とどう向き合い、過ごして行くべきでしょうか。 何かアドバイスがございましたら、ぜひとも宜しくお願い致します。
転職をして、毎日忙しいです。今は正社員なので、前職に比べたら責任も大きいし、一人で業務をしているので相談する人もいないのでプレッシャーが大きいです。それでも二年目に入りますが、何のために仕事をして毎日生きていなければならないのかわからなくなりました。やりたいことはありません。目標もありません。励みもありません。成長しろと世間は言いますが、なぜ成長しなければならないんでしょうか。他人に搾取される他人に都合のいい人間になるためでしょうか。自分のためになるとは少しも思えません。面倒なことを片付けたところで、嬉しいとも思いません。また次の面倒ごとがやってくるだけで、もう毎日生きていくのがつらくなりました。
私は仏教徒の家庭に育ち、幼い頃からお寺に通い、お坊様と話すのが大好きな幼少期でした。仏教系大学を卒業しましたが、就職後、人間関係でうまくいかず、キリスト教と出会い洗礼を受けました。 しかし、教えへの疑問は続き、今は禅の考えに共感していて、キリスト教も仏教も 人の悩みに対する解決策としては考え方が近いなと感じています。 このサイトに出会い自分の疑問、不安を 質問させていただき、ありがたく感じています。 心配し過ぎず、考えすぎず、目の前の出来事だけを事実として生きていく?これでいいのでしょうか? 生き方と考え方のアドバイスをいただきたいのでよろしくお願いいたします。
小さなIT系ベンチャー企業の社長をしています。煩悩の塊のような性格です。いつも「今を生きる」という気持ちで生きてきました。 成功したい。金持ちになりたい。恋人がいるにも関わらず、女遊びがやめられません。セックス依存症なのかもしれません。遊びを覚えてしまったせいで、色々失ったものもあります。誠実な気持ちや人間的な感情を失い、恋人が浮気していたことを知ってしまいました。恋人は私のビジネスに関わっていることもありますし、もう長い付き合いで家族のような存在です。別れるという選択も考えましたが、自分の蒔いた種だったので今は反省しています。しかし一時の快楽に勝る楽しい経験もこれまでなかったので、後悔することはできません。 これからの人生をどう生きていけばいいのか迷っています。落ち着いた普通の人生を過ごそうとしても、何かが満たされない気持ちになります。刺激のない人生を送ると枯れて死んでしまいそうな気がします。かといって金と女に生きる派手な人生を選んでも、一時的に快楽を得るだけでふとした時に孤独で辛くなるのだと思います。バランスを取ろうとしてもそれは結局うまくいかないことがわかりました。理想の人生がわかりません。
夫が自死して2か月が経ちました。過労により精神を病んでいたのだと理解しています。 夫の死後、仏教を学び、これまでの苦しさは煩悩であり、夫は自らの煩悩に飲み込まれるように亡くなったのだと思うようになりました。生きることは苦しいことだらけ。執着を無くすことが悟りへの道。 「生きたい」という欲望は、「生かされている」と感謝する気持ちで付き合うことが大切なのかなと思うようになりました。 苦しんでも良い、この身を引き裂かれる苦しみすらもいつか何かを悟る学びになると思っています。ですが、お腹を痛めて産んだ息子、血を分けた兄弟を失った悲しみを抱えた義実家の方々の苦しみの前ではそんな事を申し上げることもできません。冷静な自分が、自分だけ苦しみから逃げているような非情な感覚がします。 なぜ1歳の娘を、大切にしていたお父さん、お母さん、お姉さんをおいていってしまったのかという怒りが昇華できない自分もいます。これはどうしようもない感情なのだと半ば諦めかけてもいますが・・・できれば故人のことは温かい気持ちだけで思い出してあげたいものです。 人を幸せにしたい、自分も幸せでいたい。それ自体も煩悩でしょうか。よりよい未来を望むことに罪悪感を感じます。どのような心がけで生きていけば良いのでしょうか。「悟る」ことと「諦める」ことの境界に悩んでいます。ご教授頂けたら幸いです。
前回の質問の回答が、よく分かりませんでした。 (※特定の宗教団体に関する書き込みがあったため、質問は削除されたみたいです。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Q「慈悲」は人によって全く違うのか あるお坊さんの問答にて1 「私は仏様の存在を感じることが出来ます。けれど、周囲にこの話をしても誰も信じてくれません」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「それはとても悲しいことですね。その人はかわいそうな人です。地獄に落ちるように祈ってあげましょう。それも慈悲なのですよ」と。 別のお坊さんの問答にて2 「過去に人からされたことで苦しんでいます。どうすればいいでしょうか」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「自分は遥かに優れていて、相手は可愛そうなのです。そのように見てあげる慈悲の心を持ちなさい」と。 どちらも実在するお坊さんの問答です。 慈悲とは何でしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この回答で、 「そのお二人のお坊さんの言葉は慈悲の間違った使い方だ」 というご意見と 「この言葉・表現により、仏の悟りが具体的にその人にはたらくならばそこには「慈悲」があるのです。「その人の」ではなく「仏の」慈悲です。」 というご意見がありました。 双方、慈悲についての説明があり、仏教にとって「智慧」と「慈悲」はとても大切なものなのだと知りました。 しかし、間違いないのか間違いではないのか分からないまま終わりました。 非仏教徒である私や詳しくない人は、例に挙げたような話をされると、言葉通りの意味=仏教でいう慈悲なんだと信じてしまいます。 間違っているのでしたら、どのように間違っているか。 どのように見分ければよいのでしょうか。 仏教に無知な私にも分かるように教えてください。 お願いします。
この世は迷い苦しみの世界であり、私たちはこの世界を生まれ変わり死に変わり、終わること無く繰り返しています。 仏教の目標は、この六道からの解脱だと伺っております。 しかし苦しみから開放された不変の世界があるとする事は諸行無常や空説に反していないでしょうか。 仏陀は「愛は苦しみの原因」と仰られました。 他にも、様々な欲求は苦しみの原因だと仰りました。 仏陀の仰る通りだと思います。 人は手に入らなければ悩み、手に入るともっと欲しくなりまた悩みます。 そして手に入れた物はいつか失います。 失うと悲しみます。 しかし何も求めず、何も持たないのが苦しみからの開放に繋がると言うのは 極端なニヒリズムに感じます。 仏陀の目指した解脱とは何だったのでしょうか。
2年ほど前に「カタツムリの外見が苦手なのだが見た目でモノを判断するのはどうなんだ」という相談をして、「恨むほどでもないなら別に嫌いでもいいじゃない」といった旨の助言などを頂いたのですが、そのお陰なのか今では手で触れられる(寄生虫がたまについてるらしいので手は洗いますが)ほど克服してしまい、当時を思い返しては内心で驚いています。 ただ、自分の価値判断を省みる中で一つ気がかりな事を見つけて、その事が少々悩みの種になっています。 というのも、これまで蛇蝎の如く嫌っていたカタツムリを克服した事で心持ちに相当の余裕は出来たのですが、自身が本来したかったことはいわゆる瞋恚の克服であり、しかもカタツムリに関しては貝類の図鑑を眺めたりしてどうしたら克服できるか考えあぐねていたはずがいつのまにか慣れてしまったこともあり、実は本当の問題が解決していないのではないか…と思い悩んでいるのです。 浅学の身で大変僭越ではありますが、私の知る限り悟りというのは本来その実利を全く求めずに明鏡止水の心持ちで行を繰り返す事であると聞きます。 ですが、自分はたまにカタツムリの画像を見ては「どうすれば好きになれるかなぁ」と欲望まみれでひとりごちていただけで具体的なことは殆ど何もやってなかったと思うのです。 今は不便こそしていないものの、もし克服したと思った心持ちが来年変わったら…もし再び嫌いはじめたら…と思ってしまうとゾッとします。 それ故、この心持ちが偶然で終わる前に揺るがなくなるような方法を教えて頂きたいのです。 これは、嫌いなものを増やさない為だけではありません。 自身の身に合わないと思ったものを排斥することに執着しない為でもあります。 これは拙い持論ではありますが、人は好きな物事を愛で続けるより、嫌いな物事を憎み、気がすむまで叩きのめすことにより快感を感じる傾向にあると思っています。 しかし、排斥することに味を占めると終わらない闘争の火種になりますし、何より自身の不満不幸に執着し続け、目の前の満足や幸福を取りこぼす事が自分には一番の災厄だと思います。 物事の全てを愛でるには自分はちっぽけではありますが、せめて恨むなら「恨む」という事そのものだけに留めておきたいと思うのです。
2008年くらいに、ふと、もう人生でやり残したことはない、という感じになり、それから7年間生きてきました。 その間に離婚も経験し、子供もいません。 お金もたくさんあるわけでもありませんが、仕事は普通に好きですし、友人たちにも恵まれています。 そういう人たちと旅行に行った帰りなどに、あぁ今日も楽しかったなぁと思うと、もうこれでやっぱり終わっても良いなぁと思ったりします。 積極的に死にたいと思ったことはほとんどほとんどないのですが、終わっても良いとはいつも思います。 こういう時には、どういう心持ちでいることが「よい」ことなのか、お言葉をいただきたいです。
こんにちは。 先日、ショッピングモールの駐車場で、運転席のドアを隣の車にぶつけてしまいました。(恐らく) 隣にぶつからないように開けたのですが、丁度強風が吹き、その勢いで隣の車にぶつけてしまったようです。 当たった音はなんとなく分かりましたが、自分がやったと思いたくなく。。。 隣の車を確認したところ、5mm程度の白い傷がついていました。 元々傷があったのか、私がやったのかは確認しておりません。 小さな傷、その時子どもがくずっていた、強風のせいにし、その場を立ち去ってしまいました。 でも、ダメだと思って、もう一度戻ったところ、ちょうど車のオーナーの方がいたので、言おうと思ったのですが、言えず。 結局、何事もなったように再度隣に止めて、ショッピングモールに行きました。 駐車場には防犯カメラもついていたので、バレたらどうしようと毎日不満で仕方がないです。 またあの時、言えなかった自分が情けないです。 他のことでバチが当たり、スッキリできないかと思っています。 どうしたらよいでしょうか。
12月5日付の新聞報道にアインシュタインの手紙が競売に付され高額で落札されたとの記事がありました。 その手紙に宗教の神に対する否定的な見解が示されていました。 仏教は神がいないことで、宗教ではないと言えます。 仏教の基本は真理と論理による宇宙の真実が語られています。 真実とは、宗教の信仰の有無や宗教の種別に関係なく、すべての人に等しく適用されるものです。 真実の中身は、宇宙のすべてが空で構成され(色即是空、諸法空相)、現実の世界は空が物質に変化したものである(空即是色、諸行無常)と説明しています。 そして論理(縁起の理法)により、身体はその構造が複雑で故障しやすく死に到りますが、構造の簡単な心は死ぬ要因ががなく、通常の心境ではいつまでも生き続けます(輪廻転生)。 涅槃(心を空に戻す)に依る以外に四苦から逃れることが出来ないと言う、瞑想から得た真実の悟りをすべての人に知ってもらう為に、仏教として広めたのです。 心境のレベルによって、涅槃を求める方法が多岐にわたるため、宗派が分かれたと思います。 アインシュタインも、深い洞察でその見解をえたのではないでしょうか?
「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」 これが第二のキーフレーズです。 「諸法」について花山勝友先生は「この世の中のあらゆる存在や現象」と解釈されていますので「宇宙」と解釈するのが正しいと思います。 横道にそれますが、「空相」は「空の姿」ですから、それに対比する「実の姿」があっての「空相」です。 従って本来はその前に「是諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)があるべきです。 「如是我聞」は釈尊が弟子(比丘)に説教するのが大部分ですから、常識的な会話は無に近いです。だから重要な「輪廻転生」の話はほぼ皆無です。 ここでも「諸法実相」が省略されたのでしょう。 では「諸法空相」に戻って、ちっぽけな「色」(身体)の説明になぜ宇宙を持ち出さなければならないのか不思議です。ここがキーポイントです。 「空の姿」の宇宙は自然界で唯一「閉じた系」です。 「閉じた系」の有用性は、皆様も中学、高校時代に物理で教わったように、「エネルギー保存の法則」です。 同じ空相でも「閉じた系」でなければ、「不増不減」(一定量)とはなりません。だから「色空相」として説明できないから宇宙を持ち出したのです。 これで「空(空性)」が「エネルギー」であることが確定したのです。 「是故空中、無色、無受想行識 無眼耳鼻舌身意無色声香味触法 無眼界 乃至 無意識界、無無明 亦無無明尽 乃至、無老死、亦無老死尽、 無苦集滅道、 無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」 「是故空中」とあるので、諸法空相を受けて、宇宙全体をエネルギーと見做せば、総てが無になることを説明したに過ぎません。 以上が「色即是空 空即是色」に関する説明です。 明治時代以前迄は、釈尊が悟りを開いたとき「これは非常に高尚で誰も理解できないだろうと」と布教を諦め、「この喜びのうちに生涯を終えたい」と神通力を駆使して自殺をし、彼岸に渡って「梵天勧請」事件を経て、再び生き返り諸転法輪を回したほど、難解な内容でしたが、現代では教科書で学ぶほど、「般若心経」は科学的常識となったのです。