先日、親友が亡くなりました。 がんでした。 発見された時は既に全身に転移していて、 治療を行うことなく緩和ケアをしていました。 末期がんということで覚悟はしていましたが、 今まで当たり前のようにいた親友が いなくなってしまったことはまだ受け入れられません。 でも、その傷はいつかは癒えると思います。 僕には僕の人生があるし、何より親友が、「僕のことは心の片すみにおいて、たまに『いいやつだったな』と思い出してほしい」といっていたからです。 ここで、本題に入ります。 僕はいつかこの試練を乗り越えられるのだと思います。 しかし、親友は亡くなりました。 親友にとって、がんで亡くなることは、「乗り越えられる試練」だったのでしょうか? 「神は乗り越えられる試練しか与えない」。 この言葉を信じることができなくなりました。 この言葉はどういう意味なのですか。 親友は、試練を乗り越えたのですか。 教えてください。お願いします。
お坊さんたちに4つ質問がございます。 どんなに難しい回答となってしまっても構いませんので(仏教を勉強して頑張って理解します)、何卒よろしくお願いします。 ① 人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。 ② 人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。 ③ 人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。 ④ 「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。
生まれる前に決められた”生きる時間”があるとして、その途中で生きるのを自らやめてしまった人はどうなると思いますか。 病死や老死などの、人生を真っ当に生きた人と、自ら命を絶ってしまった人では魂の行先は違うと思ってます。 自殺したら楽になるとよく言ってる人を見ますが、本当に楽になれると思いますか…?。 私達は私達の世界しかしらないだけで、その後の世界のことを知りません。 ”その後”に何かがあるのかもわかりません。 だからこそ”楽になる”と、なにもわからないのに言います。 自殺をしたら、どのくらい苦しいことが待ち受けていると思いますか…?。
こんにちは。初めて質問させていただきます。 じぶんは花屋に勤めているのですが、最近どうも、これは因果な商売だという気がしてなりません。 というのは、われわれは花を切ったり折ったり、娯楽として楽しんでおり、それはこのうえなく命を粗末にしていると思うのです。生きていくために仕方なくならまだしも……です。 故人にお花を供える文化もそうですが、花にしてみれば土から身を引き抜かれて、あとは枯れるのを待つばかり……などと考えてしまいます。 仏教の精進料理や、いま流行りのヴィーガンなどは、動物の命はちょうだいしません、かわりに植物を食べますと認識していますが、科学が発展し、植物も命のひとつであることを疑う人はいなくなりました。そうすると、「殺生はしない」という主義主張が植物のせいでおかしくなってくると思うのです。 道徳や倫理は人間本意で作られていて、それを動物や虫にまで広げたのが仏教の教えにあるという印象です。とても心の優しい 宗教だと思います。そこへ、植物が入り込んできたら、いったいどうなるのだろう……という疑問があります。 植物には神経が通っていない、よって痛みは感じないと聞きます。ですから正直あまり可哀想とは思いませんが、それでも自分が同じ立場になったら……ちょっと恐ろしいです。 いま現在、仏教に身を置く方々は、植物の命についてはどのようにお考えなのでしょうか。責めているのではなくて、単純に思想に興味があります。私自身は肉も食べれば、フラワーアレンジメントもします。ふと気になって、お尋ねさせていただく運びになりました。
はじめまして。 以前ハスノハでお坊様の回答を拝見していたら、日比野雷風というお侍様と石川禅師さまの法話がありました。 禅師さまの数珠を欲しがった雷風さまに、禅師さまが「それならお前の癇癪玉と交換しよう」と仰い、以降雷風様は短気を起こしそうになるとグッと数珠を握って耐えたというお話です。 大変感動しました。 私の話になるのですが(すみません)、私の本名には「香」という漢字があります。 漢字一字一字の意味まで考え抜かれた長男長女とは異なり、次女のわたしの名前は「適当につけた」と母に幼い頃言われてから(笑)あまり自分の名前が好きではなかったのですが、「香」は仏教的にとても素敵な意味のある漢字だと知りました。 蓮のように、清浄な香りが立つような人になりたいと願っています。 そして、最近、蓮の描かれた略式念珠を頂くことになりました。もうすぐ手元に届くので、楽しみに待っているところです。 そこで標題に戻るのですが、ハスノハのお坊様方、どなたか私の癇癪玉を貰っていただけないでしょうか。 ハスノハのお坊様からいただく数珠ではないのですが、私が仏教に興味を持てたのはこちらのサイトのお陰なので、巡り巡って…(?)ということで…… 自分に対して、人に対して、世間や事柄に対してまで、何かと気が立ちやすい私の癇癪玉を、どなたか受け取っていただけたら……雷風様のように頑張れる気がするのです。 いらないと思いますが、ものすごーくいらないと思いますが……どうぞよろしくお願いいたします。
初めて質問します。 小学校から高校までいじめを受けていたり 弟が障害があったりしたからか 大人になり26歳になった今も昔より 心がどんどん不安定になって、精神的に 色々思い出したり自分はダメな人間なんだと辛くなり死にたくなったりしてしまいます。 病気で亡くなったり、子供がいるのに という意見もあると思いますが、正直 生きていることがつらいです。 病院でその気持ちを伝えますが、口下手も あってちゃんと気持ちが伝わらず、なんで わかってくれないのという気持ちになりますし 薬も増えていくばかり。旦那に訴えても 気持ちの持ち用といわれ、家族も遠方なのと 迷惑をかけたらいけないと言えません。 人にも会いたくないし外出も子供と公園に 行ったりする以外は出掛けたりできません。 まとめ買いでご飯も作りますが、ご飯を 作れない日もあり、買ってきてもらいます。 最低限はしますが、最近はひどくなり体が動かなくなり、起きれません。 こんなにわがままで役立たずの私なら 働いていないし育児家事もままならないし 正直生きているだけで迷惑な存在だし 気持ちをわかってもらったりする気力も なくなっていますし、出来るなら死んで しまいたい。でももらった命苦しんでる 人もいるなか粗末にしてはいけないと 思います。解決したい。でも出来ない。甘いと思いますが、もう限界です。どうしたら もっと前向きに頑張ろうという気持ちに なれますでしょうか?こんなことで悩んでいる 自分が本当に嫌いです。もっと頑張っている 人はたくさんいるのに。頑張れません。 こんな私に喝を入れてほしいです。
おはようございます。 今日は文化の日で、イジメが原因で中退させて貰いましたが母校では文化祭を催しています。実の妹も母校の出身なので必ず来ているので私は行きません。私がイジメに遭っている時はまだ妹も小さかったので話しませんでしたが二親は無視でした。有名校なので卒業して欲しかったんです。でも出来なくてもう、この時点で不名誉な子になったんだと思います。おまけに高卒止まり。妹は有名な大学2つ出ましたし。笑えます。 座間市の事件はその猟奇さが際立っていますが大抵の人は信じられない、遺体の一部と生活なんてetcと言っている人は沢山います。私もそう思いますが容疑者は想像し得ない闇を抱えているのでは?と思っています。私もイジメに遭って家族の中でも孤立してから闇を抱えていると思っています。誰かしらあるのでしょうが深ければ深いと厄介なものです。闇に潰されない様に私はお坊さま方や周りの人に助けられながら四苦八苦していますが、私はこの容疑者を非難する人達よりは、闇を持つ容疑者に近いと思っています。自分を律しないといけないなと思いました。どうかお坊様方お祈り下さい。お願いします。
ここ最近、数年ほど前から特に、不平不満、悪口を口にしてしまいます。 元々、何にでも文句をつける癖はあったのですが、ここ数年、仕事のストレスが溜まるようになってから、特にお酒の席で、文句、誰かの悪口を言ってしまいます。 1人になると、自分の心には闇のように暗いものが残り、言った分だけ自分に跳ね返ってくるかもしれない恐ろしさにゾッとします。 悪口の言葉で、笑いをとり、盛り上がったように感じていたのは自分だけで、一緒にいた人は楽しくなかったのでは? こんなことをしていては、誰も自分を信じてくれない、いつか痛い目に合う。 いや、もっと酷い目に合うんではないか、そう感じます。 世の中には悪口や愚痴を言わない人がいる中、自分は本当に心が荒んでいると感じます。 愚痴を言わないように自分が気をつけるしかないのですが、 そもそも物事を悪く感じてしまうことをやめたいのです。 ちょっとしたことや、他人の違いを認められない、心の狭い自分を変えたいです。 日ごろから気をつけること、心がけることはなにか、ご意見をお願いします。
私は同性愛者です。 でも信頼している友人や母や親族には言えません。 今お付き合いさせていただいている方はいるのですが、恥ずかしいと思うことはやはり相手に失礼なんでしょうか? でもいずれは言わなくてはいけないと思ってます。 しかし、周りの目が気になってなかなか言い出せません。 隠し通すべきか、打ち明けるか悩んでいます。
看護師をしています 『もう死にたい 死ねる薬ないか 』と 治療にせっせと通われる患者さんが 多くいます。それなら薬も飲まず治療に来なければいいのに。医療費がもったいないと常々思います。笑顔で点滴やお話しを伺ってはいますが、心の中では もう早く死んじゃえ と酷いことを思ってしまいます。患者さんの言葉は本心でなく生に執着してることの裏返しだとは思うのですが、死んでしまえ と思う自分の腹黒さと傲慢さを 治したいのです。方法はありますか?
つい最近 「hasunoha」 をみつけて登録したものです。 早速ですが、 仏教では自殺を悪いことだとは言わないのでしょうか。 自分の肉体の生命を自分の意志で終わらせることを自殺であると定義したとき、仏教では、自殺はとがめられる行為ではないのでしょうか。 私は、キリスト教徒ではありませんが、自殺はしてはいけないとする意見に賛成するものですので、たとえば意識を失うほどの肉体の苦痛が私のところにやってきたとしても、その苦痛に忍耐するつもりで生きています。 そもそも、釈迦がいうところの「空」を素直に学べば、自殺は起こらないのではないでしょうか。 ご教示お願いいたします。
初めまして。浄土真宗の思想についての質問です。 浄土真宗に「悪人正機」という思想がありますが、これはどんな悪人であっても阿弥陀仏様を信じれば浄土に往生することが出来るという意味なのでしょうか? もしそうなのだとしたら、数百万人を粛清した独裁者や数千億円を騙し取った詐欺師も阿弥陀仏様を信じてさえいれば浄土に往生することが出来るということになりますが、何だか不公平な気がしてなりません。 初歩的な質問ですいません。以前からずっと気になっていたので、この場をお借りして質問させていただきました。よろしくお願いいたします。
私は小さい頃から悪いことばかりしてきました。 万引き、キセル、暴行、詐欺、営業妨害、公務執行妨害などなど。 逮捕歴はありません。 罪を償ったことはありません。 もちろん、時には誰かのために行動したこともあります。 でも自分をよく見せるためだったり、たまたま気分がよかったりなど、本当にその人のためを思ってしたことはほとんどないように思います。 いいことと悪いこと、どちらが多いかというと圧倒的に悪いことです。 こんな私は死んだらどんな処罰が待っているのでしょうか。 例えば自殺した場合、その処罰は重くなるのでしょうか。 よく「死んでお詫びを」って聞きますけど、自殺したら軽くなるのかなとも思います。 でもそれってやっぱり自分の罪を軽くしたいということだから自殺したら重くなる? どうなんでしょうか?
私は今大学生をしています。 生活を送っている中で努力の意味がよくわからなくなってきてしまいました。 成功を収めるために努力をする。すごくわかります。努力なしでの成功はあり得ません。 しかし成功しなかった場合の努力はどうなのでしょうか?失敗が許されるときの努力は意味があると思います。それを糧に本番で失敗しないようにすればいいのですから。 ですが、例えば浪人をしたのに受験を失敗、単位取得のために勉強したけれど結局取得することができなかった、など失敗が許されなかったときの努力には意味があるのでしょうか? 成功するために努力した。けれど何の結果も残せていない。結果論になってしまいますが、その場合は単なる時間の無駄だったように感じてしまいます。 努力に意味はあるのでしょうか?また失敗が許されないときに失敗してしまったその努力にも意味はあるのでしょうか?回答のほどよろしくお願いいたします。
いつもお世話になります。 立場の弱い者の苦しみ…というとおおげさかもしれませんが、それに近い状況なので相談させて下さい。 私は非正規職員で仕事をしています。 今多い、仕事は正規職員並みに待遇は非正規職員という感じでしょうか。 その仕事内容は割り切って我慢しておりますが、先日以下のことを頼まれました。 時期的に閑散期になると私の課が職場施設の施錠をやることになっておりますが、正規職員の仕事をする事務所のブラインド閉めとお客様窓口のカーテン閉め二カ所です。 仕事内容的に面倒はないのですが、心情的に苦痛です。 私が閉める時間は夕方6時過ぎ、日暮れは5時前でその部屋で早い退勤の人は5時に帰ります。 その帰る人が閉めるのが当たり前だと思います。 なのになんで私が関係ない部署の机の合間を縫って入って閉めるのか? 単なるブラインド閉めとカーテン閉めですから、その部屋を使っている職員が閉めるべきなのに、なんでわざわざ関係ない私がやらなければいけないのか!と思っています。 そして、そんな単純なことも出来ない正規職員に苛立ちを感じています。 こんなどうしようもない話ですが、どのように考えて仕事をやっていくべきでしょうか?
以前にも質問にお答え頂き、その節はありがとうございました。 hasunohaで日々仏教の教えを学ぶ中で、どう考えて良いものかわからない点がありますので、質問させてください。 私は今、うつ症状等ため精神科に通院しています。 その治療の一環として、カウンセリングも受けています。 その中で、臨床心理士より「感情を抑制していることが無気力や不安感に繋がっている」とのことを言われました。 感情を感じて表に現すことが、治療方法のひとつであると言われました。 私は確かに、自己犠牲的な考えや自分に自信がない部分があり、素直に自分の感情を出せるようになれたらいいなと思いました。 と同時に、仏教では、物事を評価しないでありのままを見ることが大事だと学び、それも確かにそうだなと思いました。 私にはどちらの考え方もとても納得のいくものなのですが、 自分の感情を感じることと、物事を評価しないことは両立し得るのでしょうか。 例えば、私が今寂しいと感じることは、評価していることになるのでしょうか。 仏教の教えでは、寂しいと感じてはいけないのでしょうか。 どのように考え、どう自分の心を扱えば良いのか、お教え頂ければ有難く存じます。
3年位前に、お坊様がTVで『とらわれない心が大事』と話されてるのを観てから、ずっと気になっていることがあります。 『とらわれない心』というのは、自分の欲や我を手放して、人と争わずおだやかに生きること、ではないかと私なりに受け止めました。 でもそれで、『私はこうしたい、こうなりたい』という目標があって、人と意見がちがったら、『私はこうしたい』と言うのは『とらわれている』のでしょうか? 意見がちがうときは自分か相手が譲るか、全く別の案を見つけるかだと思うのですが、いつも自分が譲るスタンスなら私はその人のいいなりになってしまいそうです。 自分の欲というのは望みであり、自分のあかしでもあると思います。 その欲=望みがなるべく汚いものではなく、きれいなものであるように願っていますが、他人から見たら『我』でしかないのでしょうか? とらわれない=思い通りになるようコントロールしない、ということだとしたら、将来に期待はしないでただのぬけがらになってしまわないか疑問です。 私も未熟ながら、人にやさしくありたいと願っています。相手にとって安らげる存在になりたいです。自分と相手をともに大切にして、なおかつ『とらわれない』境地って私にはまだわかりません。 どうか、私に道を説いてくださいますよう、お願い申し上げます。
先日、7ヶ月お付き合いしたW不倫の彼とお別れしました。 不倫は二度とする気はありません。 今は辛い気持ちも少しありますが、わりと元気に過ごしています。 相談したい内容なのですが、今、人生がとてもつまらないものに思えてきてしまいます。 ただ、普通の日常に戻るだけです。ずっと結婚生活10年歩いてきた道。 不倫をしていた七ヶ月間、苦しい時もあったのですが、毎日が幸せで仕事も子育ても夫に対しても本当に楽しくて色んなことが前向きにできていました。 彼と会ってない時間は家庭のことを全力でやろうという気になっていて、自分に関しても向上心がありました。夫にも、彼と会ってたときのほうが、この人を絶対に幸せにしようという気持ちでいっぱいになっていて、 今回別れて油断して夫に疑われてしまいました。ごまかして誤解だと納得させたのですが、夫の元気がなくなっています。結婚して10年本当に夫には酷いことをされ続けましたが、ずっと夫に全力を注いできましたが今は正直めんどくさいのです。好きには変わりないんですけど 子供は3人中2人が障害者。夫も発達障害です。 子供に関しては本当に将来どうなってしまうのだろう、この子はという思いです、毎日毎日。 七ヶ月間、楽しいことがあり、自分の好きなように生き、やることは全力でやろうと前向きに家庭のことに取り組んでいたのですが、 今は私の人生、やらなければならないことをのみする人生と思ってしまってます。 普通に過ごしてます。毎日やることこなしてますが、つまらない、これをこなしていってもなんになるのって。 勝手なこと言ってるのは分かってます。 でも、人生ずっとこんなんなんですかね。。 不倫前はこんなこと考えもしなかったです。 子どもたちや夫のこと私の理想があり、それに向けて毎日試行錯誤して自分は絶対に幸せになるんだって前向きに取り組んでました。 今は別れたばかりだからなのでしょうか。たんたんと日常を過ごしていたら元の自分に戻れますかね。
前回の質問の回答が、よく分かりませんでした。 (※特定の宗教団体に関する書き込みがあったため、質問は削除されたみたいです。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Q「慈悲」は人によって全く違うのか あるお坊さんの問答にて1 「私は仏様の存在を感じることが出来ます。けれど、周囲にこの話をしても誰も信じてくれません」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「それはとても悲しいことですね。その人はかわいそうな人です。地獄に落ちるように祈ってあげましょう。それも慈悲なのですよ」と。 別のお坊さんの問答にて2 「過去に人からされたことで苦しんでいます。どうすればいいでしょうか」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「自分は遥かに優れていて、相手は可愛そうなのです。そのように見てあげる慈悲の心を持ちなさい」と。 どちらも実在するお坊さんの問答です。 慈悲とは何でしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この回答で、 「そのお二人のお坊さんの言葉は慈悲の間違った使い方だ」 というご意見と 「この言葉・表現により、仏の悟りが具体的にその人にはたらくならばそこには「慈悲」があるのです。「その人の」ではなく「仏の」慈悲です。」 というご意見がありました。 双方、慈悲についての説明があり、仏教にとって「智慧」と「慈悲」はとても大切なものなのだと知りました。 しかし、間違いないのか間違いではないのか分からないまま終わりました。 非仏教徒である私や詳しくない人は、例に挙げたような話をされると、言葉通りの意味=仏教でいう慈悲なんだと信じてしまいます。 間違っているのでしたら、どのように間違っているか。 どのように見分ければよいのでしょうか。 仏教に無知な私にも分かるように教えてください。 お願いします。
自殺はダメですか? それはなぜですか? 辛いのは僕なのに外野になんやかんや言われないかんのですか?