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hasunoha 問答検索結果 : 「私 キリスト 」
検索結果: 403件

不倫の罪悪感が消えません。

現在結婚4年目で子供が2人います。 妻との関係も良好で、家庭環境は非常に安定していると思います。 私は3年前に私が既婚者であることを隠して女性を食事に誘い、ワンナイトラブの関係を持ってしまいました。 この不倫に関して妻も相手女性も悪くはなく、悪者は私一人で間違いないです。 その女性とはそれっきり連絡を絶ち、今日に至るまで一切ほかの女性との関係(1対1の食事も含む)を持っていません。 そんな私は、不倫をしたその日から今日にいたるまで、毎日罪悪感で押しつぶされそうになっています。 特に、妻や子供の笑顔を見るときが胸が締め付けられておかしくなりそうです。 完全に自業自得です。 一生この十字架を背負い、墓場まで持っていかなければならないとわかっているのに、 「いっそ妻にすべて打ち明けて謝罪して楽になりたい。妻に今後の家庭の方向を決めてもらいたい」 等という、他人任せに責任転嫁する自己中心的な考えが浮かんでしまいます。 そもそも、ここにこのような投稿をしている事も、少しでも誰かに打ち明けて楽になりたいという意地汚い考えからです。 ここ1か月ほど罪悪感がさらに膨れ上がり、不眠に悩まされ鬱状態に入ってしまいそうでそれを家族に隠すのに必死です。 私にこんなお願いをする権利なんて一切ないのは承知ですが、この罪悪感に少しでも耐えれるようにはどうすればよいか教えていただけますでしょうか。 このままでは頭がおかしくなりそうなのです。 キツイお叱りでもかまいません。 よろしくお願いいたします。

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2025/10/10

輪廻転生について

現代物理学には「ホログラフィック仮説」というものがあります。 これは、「私たちが実際に存在していると思っている宇宙も、実は宇宙の“境界(例えば宇宙の外縁)”にある二次元的な情報の投影である」というものです。 この仮説から、我々の物質世界は実はアカシックレコードにある情報が物質化されたものだと考えることができます。 また、過去から未来に流れる直線的な時間というのも実際には存在しておらず、情報が物質化されることによって、まるで時間軸に沿って物事が成立しているように感じられるのだと思います。 哲学者のベルクソンは、時間を「過去が現在に溶け込みながら未来を生み出す連続的生成」と考えました。 そして、世界の本体は「イマージュ」であり、それが外側に展開したものが「物質」、内側に沈潜したものが「記憶」であると考えました。 また、我々の「脳」は、思考を作り出しているのではなく、「純粋記憶=情報」の中から我々の行動に役立つものを選び取っていると考えました。 これらの議論から、私は肉体的な輪廻転生はないと思います。 アカシックレコードにある「純粋記憶=情報」が物質化されたのが我々の生きる世界であり、輪廻転生とは「純粋記憶が物質世界に現れること」を言うのだと思っています。 三島由紀夫は「未来からの輪廻転生も考えなければならない」と言いましたが、これは以上の議論を踏まえたことだと思われます。 また、私は仏教の無我の思想は正しいと思いますが、一方で人間の「魂」の存在も信じたいと思っています。 古代中国には「魂魄」という概念がありました。 「魂」は精神を支える陽の気で、死ぬと天に昇るとされました。 「魄」は肉体を支える陰の気で、死ぬと地に帰るとされました。 私の考えでは、「魂=宇宙」であり、アカシックレコードの情報から脳が選び取ったものを「魂」と考えれば、仏教の無我の思想と矛盾しないと思います。 (魄についてはよく分かりません。) さらに、「生命」についてはシュレディンガーが言ったように「負のエントロピーを食べる存在」であり、暗黒流体という負のエネルギーによって成り立っていると考えています。 これらは全て、執行草舟氏の思想をもとに考えました。 私が言いたいのは「古典的な仏教の世界観だけでは、宇宙や世界を説明するのに不十分ではないか」ということです。 ご回答よろしくお願いします。

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生きていくにあたっての考え方

私は「とても真面目で冗談が通じない」とよく言われました。 私には、生まれて間もない弟がいました。 当時小学5年生だった私は、弟をあやしたり、おむつを替えたり、 時には夜泣きに気づいて親を起こしたりと、子供ながらではありますが一生懸命育児(?)に協力していました。 ところが、4ヶ月になった頃に、原因不明のまま亡くなりました。 とても悲かったのですが、それと同時に怒りが こみ上げてきてました。 「なぜ生まれて間もない弟が死ななければならなかったのか 神や仏がいるのならば、なぜ弟を選んだのか。 弟を殺したのは神や仏だ、私は絶対に信じない」 それから神や仏・宗教を一切信じなくなりました。 学生時代は性格が仇となって友だちもできず、 いじめの対象になることもありました。 社会人になる頃にはだいぶ和らいで、それなりにコミュニケーションを取れるようになりましたがうつ病を発症。心療内科に通いながらも 「この世界はとても生きにくい」 「死んだほうが楽になれる」 「生まれてきた意味が分からない」 と常に考えながら生きてきました。 しばらくしてから、某動画サイトで般若心経を 聞く機会がありました。 最初はネタ動画として見ていたのですが、 現代語訳がコメントされていました 「超すげぇ楽になれる方法を知りたいか?」 「生き方は何も変わらねぇ、ただ受け止め方が変わるのさ」 それらを何気なく見ていると、涙が止まらなくなりました。 物事が良くも悪くも転んだ時は、それが運命だと 半ば諦めながら生きてきました。 今まで思ってきた宗教観は間違いではないのか?今まで否定してきたけど、こんな私でも信じていいのか・・・? 神や仏を崇めるだけが宗教ではなく、もっと身近なところに「答え」みたいなものがあったのではないか?と考えるようになりました。 しかし、神や仏・宗教を信じないと思い二十数年経ちます。 今更考えを改めるのは、侮辱することになるのではないかと思い 申し訳ない気持ちで一杯でいます。 この世に神や仏がいるのかは分かりません。 しかし、般若心経を聞く(読む)と少しだけ見えるような 気がしました。 知恵も知識もない私ですが、少しだけ信じても 良いのでしょうか? わかりにくい長文になりましたが、 説教していただければ心がとても救われるような気がします。 何卒よろしくお願い致します。

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主人が自殺しました

別居中の主人が自殺しました。 2年半前に、アルコール依存性として強制入院。その後半年自覚なく、飲み続けていました。 目が離せない状態が半年以上続き、3度目の救急車で、依存性であることを自覚し、毎日の飲酒を週一、二回にまで制御するようになりました。衰えていた身体の機能も随分回復し、一年ほど前から、バイトを開始できるほどに。 ただ人間関係やプライドなどか、数ヶ月もせず辞めてしまい、その事実も隠し、嘘に嘘を重ねる生活。 私自身も身体を壊し、騙し騙し続けていた仕事も昨年秋で退職。リハビリの生活の中、奮起してくれるかと思いきや、家でダラダラし、2人で顔を付け合わせるとイライラしている主人と離婚話も付いて回り、2ヶ月前についに追い出しました。 別居して1ヶ月、バイト始めたと話があり、改めて離婚は考え直して欲しいと話がありました。 今迄、許すとすぐ辞めてしまったこともあり、甘く出来ないと色良くない返事を。その後就職の相談もあり。 心の中で前を向いてくれたと喜び応援していました。 今年に入って、仕事帰りに痩せてしまった彼と数回食事をし、来週には友人の開店記念にお呼ばれし、2人で行く約束をしました。 そんな彼が、実家で夜お酒を飲み暴れ、明け方には首を吊って発見されました。 義母の話しでは、この2ヶ月朝まで飲んでいたことが数回。仕事の前の日は飲まないものの、それ以外の日は飲んでたよう。実家は皆お酒好きで、すぐに飲める状態でした。 暴れたのは、2回目でその日は2時に先に寝たそうです。 遺書はなく、明確な理由はわかりません。 収まったと思ったアルコール依存性が出た為か、様々なことを悲観したのか、発作的なものかわかりません。 ただ、身近にいれば、お酒は止められたし、そんなことをさせたりしなかったと後悔してやみません。 夫として頼りなかったにせよ、大切な人でした。 ミッションスクールで育った私は自殺がとても重い罪と聞かされ育ちました。 彼の家は仏教で、成仏できると信じたい。義母は世間体を考え、亡くなった理由を親戚にもお寺さんにも隠しています。お通夜も告別式もせず、会葬のみ行いその際にはお寺さんに来て頂きました。49日は近親者で行う予定です。49日までに次が決まるとか。私はどのように彼に償い、彼の魂が安らかななるように弔えばいいのでしょうか。どうか教えてください。よろしくお願いします。

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慈悲とは、共感、広い心?

こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。 私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。 題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。

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何をやっていても罪悪感が拭えない

先日、アメリカのサーカス団が閉まるというニュースを見ました。動物愛護団体からの訴えにより動物の出演が困難になり、利益が出なくなったそうです。愛護団体の中には人間に屠殺される家畜、つまるところ動物に対する念から菜食主義をしている方もいることを知りました。世の中にはいろんな考えの人がいますね。 私はそこから、 何かを創り出すことは何かを奪い壊すことなのではないかと思いました。命は他の命を奪って創られます。紙は木の命を壊して作られます。そう考えるとなにをするにも、自分が誰かにとっての犯罪者のように思えてしかたがないのです。 食べるという行為は生きるために必要なことで、そのために他の命を頂戴しているのだと考えています。これは生きるという最終目標に意味がある。だから過程の「殺す」という行為にある意味で目をつぶれている?きがします。過程に罪の意識を持ち、快楽を感じなければ批難されない。 今の研究では動物を殺さずに細胞を培養して食そうとする試みもあるそうです。細胞の命を奪うことにはなるかもしれないけれど、未来では今の過程の罪が無くなるかもしれません。そうなったら、昔の人々は野蛮だという烙印を押されるのでしょうか?私の今生きている世の中は、生きている私は、野蛮で愚かで間違った行為をした低俗な人間になるのでしょうか? そう思うと晩御飯を美味しいと感じる己が悪人に思えます。 趣味はもっと悪いことの様に思えます。動物や植物、石、あらゆるモノの命を破壊して、加工し楽しんで快楽を得ているのですから。しかも、趣味にはこだわりがあって選り好みするし、いいなと思うものが増えるだけ、消費する量も増えます。しまいには、造る、加工する趣味は「過程」に快楽を感じています。絵を描いている時は描いている時が楽しい、編み物も編んでいる時が楽しい。完成品も誇らしいけれど、私は過程が楽しくないと続けられません。魚を捌くことも好きです。包丁を入れて身に刃が綺麗に入っていくのが気持ちいいのです。魚にとってみたら恐ろしい人です。生きるための枷ではないものを楽しいと感じる己がひどい人に思えて仕方ありません。 罪悪感に飲まれ何をしても苦しいです。結局また、今を生きれていません。不甲斐ないです。早く変わっていく価値観に取り残されて行きそうです。とっても恐いです。私はどうすればいいですか?

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