仏教では詭弁にひっかからないためにどういう方法を教えていますか? 昔から詭弁を使って間違ったことを真実だと思わせようとしている人はいたと思うので、お釈迦さんは詭弁を見抜く方法を弟子に教えていたと思うのですが
自分ももうおばさんと呼ばれる大人なのですが、私が中学生のころに母は浮気してました。 母も詰めが甘いのですが、わたしと共用の携帯にツーショット写メが残ってたり、予測変換に「愛してる」「好き」っていうのが出てきたりで気付きました。 母親はバレてるの気付いてないか、気付いてるけど知らんぷりしてます。 先日、父から過去の不倫について責められると愚痴られたのですが、これについて母が「不倫してない、勘違いしてる」と言っているのを聞いて凄くショックというか、悲しくなりました。本当にしてないと思ってるのか、嘘かなので。 それ以外は良い人なんですけど、どうしても信頼できないというか、時々「不倫してたくせに」と心の中で毒づいてしまう時があります。 また、いま一緒に暮らしているのですが、母に対して傷つける様なことを言いたくなる時々があります。 離れて暮らした方がいいでしょうか
最近になってアドヴァイタという言葉を知りました。不二一元論とも言われるそうですが、「論」として語られることに違和感を感じました。 何故なら、アドヴァイタで語られることは言葉を超えており、さらには教えでもないし、思想などでもなく、シンプルな事実の描写だと認識しているからです。アドヴァイタとは思想の分野なのですか? よく知りもしないで言っていますので間違っているところがありましたらご指摘お願い致します。 さて、質問なのですが、そのアドヴァイタと仏教には、根本的に異なるところがあるのでしょうか? 私が思うに、アドヴァイタはどこの宗教にも属さない、スピリチュアルとも違う、全ての存在に共通して開かれた秘密だと思っています。 「秘密」と述べたのは、「自我」には見つけられない性質を持っているからです。 けれども明らかすぎる秘密なので、隠れていません。あまりに近いので見えない、という意味です。 的はずれな質問でしたら申し訳ございません。 よろしくお願いいたします。
現在結婚4年目で子供が2人います。 妻との関係も良好で、家庭環境は非常に安定していると思います。 私は3年前に私が既婚者であることを隠して女性を食事に誘い、ワンナイトラブの関係を持ってしまいました。 この不倫に関して妻も相手女性も悪くはなく、悪者は私一人で間違いないです。 その女性とはそれっきり連絡を絶ち、今日に至るまで一切ほかの女性との関係(1対1の食事も含む)を持っていません。 そんな私は、不倫をしたその日から今日にいたるまで、毎日罪悪感で押しつぶされそうになっています。 特に、妻や子供の笑顔を見るときが胸が締め付けられておかしくなりそうです。 完全に自業自得です。 一生この十字架を背負い、墓場まで持っていかなければならないとわかっているのに、 「いっそ妻にすべて打ち明けて謝罪して楽になりたい。妻に今後の家庭の方向を決めてもらいたい」 等という、他人任せに責任転嫁する自己中心的な考えが浮かんでしまいます。 そもそも、ここにこのような投稿をしている事も、少しでも誰かに打ち明けて楽になりたいという意地汚い考えからです。 ここ1か月ほど罪悪感がさらに膨れ上がり、不眠に悩まされ鬱状態に入ってしまいそうでそれを家族に隠すのに必死です。 私にこんなお願いをする権利なんて一切ないのは承知ですが、この罪悪感に少しでも耐えれるようにはどうすればよいか教えていただけますでしょうか。 このままでは頭がおかしくなりそうなのです。 キツイお叱りでもかまいません。 よろしくお願いいたします。
現代物理学には「ホログラフィック仮説」というものがあります。 これは、「私たちが実際に存在していると思っている宇宙も、実は宇宙の“境界(例えば宇宙の外縁)”にある二次元的な情報の投影である」というものです。 この仮説から、我々の物質世界は実はアカシックレコードにある情報が物質化されたものだと考えることができます。 また、過去から未来に流れる直線的な時間というのも実際には存在しておらず、情報が物質化されることによって、まるで時間軸に沿って物事が成立しているように感じられるのだと思います。 哲学者のベルクソンは、時間を「過去が現在に溶け込みながら未来を生み出す連続的生成」と考えました。 そして、世界の本体は「イマージュ」であり、それが外側に展開したものが「物質」、内側に沈潜したものが「記憶」であると考えました。 また、我々の「脳」は、思考を作り出しているのではなく、「純粋記憶=情報」の中から我々の行動に役立つものを選び取っていると考えました。 これらの議論から、私は肉体的な輪廻転生はないと思います。 アカシックレコードにある「純粋記憶=情報」が物質化されたのが我々の生きる世界であり、輪廻転生とは「純粋記憶が物質世界に現れること」を言うのだと思っています。 三島由紀夫は「未来からの輪廻転生も考えなければならない」と言いましたが、これは以上の議論を踏まえたことだと思われます。 また、私は仏教の無我の思想は正しいと思いますが、一方で人間の「魂」の存在も信じたいと思っています。 古代中国には「魂魄」という概念がありました。 「魂」は精神を支える陽の気で、死ぬと天に昇るとされました。 「魄」は肉体を支える陰の気で、死ぬと地に帰るとされました。 私の考えでは、「魂=宇宙」であり、アカシックレコードの情報から脳が選び取ったものを「魂」と考えれば、仏教の無我の思想と矛盾しないと思います。 (魄についてはよく分かりません。) さらに、「生命」についてはシュレディンガーが言ったように「負のエントロピーを食べる存在」であり、暗黒流体という負のエネルギーによって成り立っていると考えています。 これらは全て、執行草舟氏の思想をもとに考えました。 私が言いたいのは「古典的な仏教の世界観だけでは、宇宙や世界を説明するのに不十分ではないか」ということです。 ご回答よろしくお願いします。
いつも頑張りすぎて疲れてしまいます。 なぜ、頑張る必要があるのでしょうか? みんな、自分のことばかりです。 相談しようにもいつも聞き役でなかなか相談できずに悩みがつきません。 ただ何となく生きていけば平穏な人生を送れるのでしょうか? どこを頑張れば良いのでしょうか? これ以上なにを頑張れば良いのでしょうか? このままでは自分がつぶれてしまいそうです。 助けてください。
先日12歳になる息子を亡くしました。 縁合って浄土真宗で葬儀行い四十九日法要も終わりました。 質問ですが、浄土真宗の教えに阿弥陀如来が全ての者を救うのが本願だと仰られましたが、親鸞聖人は必ず信心決定せよと言われその後、蓮如上人が生きている間に信心決定しなさいと言われましたよね。 でもそれだとウチの息子の様に毎日元気だった子供やまして赤子には無理だと思うのですが、自分の解釈は間違っておりますでしょうか?御教授下さい。
私は「とても真面目で冗談が通じない」とよく言われました。 私には、生まれて間もない弟がいました。 当時小学5年生だった私は、弟をあやしたり、おむつを替えたり、 時には夜泣きに気づいて親を起こしたりと、子供ながらではありますが一生懸命育児(?)に協力していました。 ところが、4ヶ月になった頃に、原因不明のまま亡くなりました。 とても悲かったのですが、それと同時に怒りが こみ上げてきてました。 「なぜ生まれて間もない弟が死ななければならなかったのか 神や仏がいるのならば、なぜ弟を選んだのか。 弟を殺したのは神や仏だ、私は絶対に信じない」 それから神や仏・宗教を一切信じなくなりました。 学生時代は性格が仇となって友だちもできず、 いじめの対象になることもありました。 社会人になる頃にはだいぶ和らいで、それなりにコミュニケーションを取れるようになりましたがうつ病を発症。心療内科に通いながらも 「この世界はとても生きにくい」 「死んだほうが楽になれる」 「生まれてきた意味が分からない」 と常に考えながら生きてきました。 しばらくしてから、某動画サイトで般若心経を 聞く機会がありました。 最初はネタ動画として見ていたのですが、 現代語訳がコメントされていました 「超すげぇ楽になれる方法を知りたいか?」 「生き方は何も変わらねぇ、ただ受け止め方が変わるのさ」 それらを何気なく見ていると、涙が止まらなくなりました。 物事が良くも悪くも転んだ時は、それが運命だと 半ば諦めながら生きてきました。 今まで思ってきた宗教観は間違いではないのか?今まで否定してきたけど、こんな私でも信じていいのか・・・? 神や仏を崇めるだけが宗教ではなく、もっと身近なところに「答え」みたいなものがあったのではないか?と考えるようになりました。 しかし、神や仏・宗教を信じないと思い二十数年経ちます。 今更考えを改めるのは、侮辱することになるのではないかと思い 申し訳ない気持ちで一杯でいます。 この世に神や仏がいるのかは分かりません。 しかし、般若心経を聞く(読む)と少しだけ見えるような 気がしました。 知恵も知識もない私ですが、少しだけ信じても 良いのでしょうか? わかりにくい長文になりましたが、 説教していただければ心がとても救われるような気がします。 何卒よろしくお願い致します。
初めまして。 早速ですがご相談です。 お坊さんにこんなことをお尋ねするのも非常に申し訳ないのですが、私は最近仏教ではない宗教に興味を持ち、いずれ信仰したいと考えております。 ですが私は仏教的な考えである輪廻転生を信じております。その宗教では輪廻転生はないものとして考えているみたいなのです。 この点以外ではその宗教の考えに大変共感しているのですが、こんな私でもその宗教を信仰してもいいのでしょうか? それとも、やめた方がいいのでしょうか? 誰にも相談できないことなので、是非お答えいただきたく存じます。
別居中の主人が自殺しました。 2年半前に、アルコール依存性として強制入院。その後半年自覚なく、飲み続けていました。 目が離せない状態が半年以上続き、3度目の救急車で、依存性であることを自覚し、毎日の飲酒を週一、二回にまで制御するようになりました。衰えていた身体の機能も随分回復し、一年ほど前から、バイトを開始できるほどに。 ただ人間関係やプライドなどか、数ヶ月もせず辞めてしまい、その事実も隠し、嘘に嘘を重ねる生活。 私自身も身体を壊し、騙し騙し続けていた仕事も昨年秋で退職。リハビリの生活の中、奮起してくれるかと思いきや、家でダラダラし、2人で顔を付け合わせるとイライラしている主人と離婚話も付いて回り、2ヶ月前についに追い出しました。 別居して1ヶ月、バイト始めたと話があり、改めて離婚は考え直して欲しいと話がありました。 今迄、許すとすぐ辞めてしまったこともあり、甘く出来ないと色良くない返事を。その後就職の相談もあり。 心の中で前を向いてくれたと喜び応援していました。 今年に入って、仕事帰りに痩せてしまった彼と数回食事をし、来週には友人の開店記念にお呼ばれし、2人で行く約束をしました。 そんな彼が、実家で夜お酒を飲み暴れ、明け方には首を吊って発見されました。 義母の話しでは、この2ヶ月朝まで飲んでいたことが数回。仕事の前の日は飲まないものの、それ以外の日は飲んでたよう。実家は皆お酒好きで、すぐに飲める状態でした。 暴れたのは、2回目でその日は2時に先に寝たそうです。 遺書はなく、明確な理由はわかりません。 収まったと思ったアルコール依存性が出た為か、様々なことを悲観したのか、発作的なものかわかりません。 ただ、身近にいれば、お酒は止められたし、そんなことをさせたりしなかったと後悔してやみません。 夫として頼りなかったにせよ、大切な人でした。 ミッションスクールで育った私は自殺がとても重い罪と聞かされ育ちました。 彼の家は仏教で、成仏できると信じたい。義母は世間体を考え、亡くなった理由を親戚にもお寺さんにも隠しています。お通夜も告別式もせず、会葬のみ行いその際にはお寺さんに来て頂きました。49日は近親者で行う予定です。49日までに次が決まるとか。私はどのように彼に償い、彼の魂が安らかななるように弔えばいいのでしょうか。どうか教えてください。よろしくお願いします。
こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。 私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。 題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。
私は小さい頃から悪いことばかりしてきました。 万引き、キセル、暴行、詐欺、営業妨害、公務執行妨害などなど。 逮捕歴はありません。 罪を償ったことはありません。 もちろん、時には誰かのために行動したこともあります。 でも自分をよく見せるためだったり、たまたま気分がよかったりなど、本当にその人のためを思ってしたことはほとんどないように思います。 いいことと悪いこと、どちらが多いかというと圧倒的に悪いことです。 こんな私は死んだらどんな処罰が待っているのでしょうか。 例えば自殺した場合、その処罰は重くなるのでしょうか。 よく「死んでお詫びを」って聞きますけど、自殺したら軽くなるのかなとも思います。 でもそれってやっぱり自分の罪を軽くしたいということだから自殺したら重くなる? どうなんでしょうか?
死にたいと思ってしまいます。 本当に思っているのかはさておき、辛くてたまらないことが重なると「早く死にたいな、早く解放されたいな」と考えてしまいます。 生きる=辛い・苦しい 死ぬ=生きることからの解放 という図式が自分の中にあります。 なので辛いことが沢山あると早く死にたいなーと思ってしまいます。 楽しいことももちろんあるのですが、ふとしたときに早く救われたいなと考えてしまいます。 死ぬときのことを想像するととても安心します。 でもこの事を話すと母に怒られてしまいましたが、何故怒られているのかわかりません。
先日、アメリカのサーカス団が閉まるというニュースを見ました。動物愛護団体からの訴えにより動物の出演が困難になり、利益が出なくなったそうです。愛護団体の中には人間に屠殺される家畜、つまるところ動物に対する念から菜食主義をしている方もいることを知りました。世の中にはいろんな考えの人がいますね。 私はそこから、 何かを創り出すことは何かを奪い壊すことなのではないかと思いました。命は他の命を奪って創られます。紙は木の命を壊して作られます。そう考えるとなにをするにも、自分が誰かにとっての犯罪者のように思えてしかたがないのです。 食べるという行為は生きるために必要なことで、そのために他の命を頂戴しているのだと考えています。これは生きるという最終目標に意味がある。だから過程の「殺す」という行為にある意味で目をつぶれている?きがします。過程に罪の意識を持ち、快楽を感じなければ批難されない。 今の研究では動物を殺さずに細胞を培養して食そうとする試みもあるそうです。細胞の命を奪うことにはなるかもしれないけれど、未来では今の過程の罪が無くなるかもしれません。そうなったら、昔の人々は野蛮だという烙印を押されるのでしょうか?私の今生きている世の中は、生きている私は、野蛮で愚かで間違った行為をした低俗な人間になるのでしょうか? そう思うと晩御飯を美味しいと感じる己が悪人に思えます。 趣味はもっと悪いことの様に思えます。動物や植物、石、あらゆるモノの命を破壊して、加工し楽しんで快楽を得ているのですから。しかも、趣味にはこだわりがあって選り好みするし、いいなと思うものが増えるだけ、消費する量も増えます。しまいには、造る、加工する趣味は「過程」に快楽を感じています。絵を描いている時は描いている時が楽しい、編み物も編んでいる時が楽しい。完成品も誇らしいけれど、私は過程が楽しくないと続けられません。魚を捌くことも好きです。包丁を入れて身に刃が綺麗に入っていくのが気持ちいいのです。魚にとってみたら恐ろしい人です。生きるための枷ではないものを楽しいと感じる己がひどい人に思えて仕方ありません。 罪悪感に飲まれ何をしても苦しいです。結局また、今を生きれていません。不甲斐ないです。早く変わっていく価値観に取り残されて行きそうです。とっても恐いです。私はどうすればいいですか?
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
また、よろしくお願い致します。 私達夫婦は、後継者が、いない為、 寺院の境内にある「永代供養付樹木葬」の 見学を始めました。 候補が、二つに、しぼられて どちらも格式高い、お寺様で、二つとも気に入って 本当に、どちらにしようか真剣に考えております。 二つとも「永代供養墓普及会」の紹介なので、 形や値段は全て同じです。 ただ、一つは「浄土宗」の寺院、 もう一つは「真言宗」の寺院です。 樹木葬墓地は宗派は問わないのですが、 納骨する時は、その寺院の御坊様に拝んで頂くことになります。 私は、戒名は頂きたいので、やはり選んだ寺院の宗派の 戒名になると思います。 そこで、 「浄土宗」と「真言宗」の考え方が、 どのように異なるのか教えてください。 できれば、 「浄土宗」の御坊様と、「真言宗」の御坊様の 双方の立場から教えて頂けると有難いです。 よろしくお願い致します。
はじめまして、宜しくお願い致します。 主人の家と私の実家では宗派が違います 私は浄土宗です 結婚したら嫁ぎ先の宗派にならないといけないのですか?
親友が自らの命を絶ってから来月6日で7年です。 聞くところによると、命を絶ってしまった方は暗い闇の世界を彷徨うとお聞きした事があります。自分は、親友がこちらの世界で苦労してたので、あの世ではお釈迦様の側でおつかえして来世でまた巡り合いたいと考えております。 今、自分に出来る事は、親友の墓参りをしてあげる事しか出来ませんが、もし、何か他にもやってあげたら良いという事があるなら、是非ともご助言を宜しくお願い申し上げます。
お世話になります。 娘を亡くしてからいろんなことを聞き、自分でもどうすれば前をむいて生きられるのかと考えました。 →私が悲しむと娘も悲しい→いくら悲しんでも娘は帰ってこない→娘や残された今そばにいる家族のために前を向いて生きよう→乗り越えよう→強くなろう→生きがいを見つけよう→でもなんのために?→私が強くなっても誰も救えない、意味がない→私の生き方を見せる娘はもういない→「泣いて過ごすのも笑って過ごすのも同じ一生、それなら笑って過ごそう」こんな言葉、笑ったからってなんかあるの?意味がない→「神様は乗り越えられる試練しか与えない」ってなにこれ? 私が乗り越えられるかの挑戦ですか? そんなことに大事な娘をつかわないでください。乗り越える? 娘を踏み台にして私が成長してなにになりますか?→ああ、だめだ、こんなにひねくれた私を見たら娘がつらくなる→ごめんなさい。→私がつらいと娘もつらい→ このぐるぐる回る思いからぬけだせません。 どうぞ、少しはなれた場所から、ここから抜け出せる矢印と方向を教えてください。 よろしくお願いいたします。
こんにちは。 昔、芥川龍之介の書いた『蜘蛛の糸』という小説を読みました。 お釈迦様がガンダダが救おうとして結局救われないという話だったと思います。 しかし今思い返すとあの話は少し変だと思いました。 あの話ではお釈迦様は極楽浄土にいて、そこから糸を垂らしてガンダダを救おうとします。 しかし仏教では解脱したら輪廻が終わり、無に還るだけだと説いているので、浄土にお釈迦様がいるのは場違いです。 そして調べてみると極楽浄土というのは阿弥陀仏の浄土なのでお釈迦様がいるのはやはりおかしいそうです。 またお釈迦様が人を物理的に助けるというのもおかしな話です。 お釈迦様は神様ではありません。(仏教的には神さまよりも上の存在(?)) あくまで現世で弟子たちに教えを残しただけです。 この作品は日本人に誤った仏教感を植え付けていると思いませんか? もちろん作品の演出だと言えばそれまでですが、日本で古くから信仰されている宗教だからこそ日本人は仏教を正しく認識する必要があると思います。