仕事がうまくいきません。 ありがたいことに、みなさん期待して任せていただいていたのですが、ある先様では力が足りず、ある先様ではタイミングが合わず、しまいには信用を無くしていく始末です。 自分はこんなに仕事ができなかったのかと、気力をなくし嘆いているばかりの毎日です。 声をかけていただいたお客さんや周りの人にも顔向けできず、時間ばかりが過ぎていきます。 どうすればよいのか、なんでも結構ですのでアドバイスいただければありがたいです。 よろしくお願いいたします。
今は私自身が1人暮らしのため少し離れていますが、20年以上ずっと一緒に同居していた祖母が間もなくこの世を去るときが近づいています。 癌の末期ですが、本人は知らずあと2、3日と医者から言われましたがもぅその日にちは過ぎています。大好きだったおじいちゃんが、そろそろ呼びに来たと思っていますが、分かっていても落ち着かず仕事にも集中できません。 何もしてやることが出来ず待つだけです。その毎日の気持ちの持って行き方に悩んでいます。
私は母と二人暮らしなのですが、とても苦しいです。少し冷たい態度をすると、ろくでもない人間だ、そんな風に育てた覚えはない、口論になればすぐに出て行け縁を切ると言われます。普段はなんの変哲もない仲のいい親子だとは思うのですが、それは仮面なのではないかと感じます。 大学を卒業し、仮面部分な仲良しな面はもうなく、いままで以上に関係は険悪になってしまっています。そんななか、自分を変えて成長したく、初めて自分から家を出ると話をしました。ですが金銭的な問題があり、今お付き合いしている彼の部屋へ同棲する形になってしまうことも伝えました。母はやりたいならやってみなさい、でも縁は切る。そう言って聞きません。離れて暮らす父にも、いままでの恩返しの気持ちがないのか、親不孝だ、家を出るな、今まで通り家のことをやって母を支えろと言います。 自分でも、人として間違っていることをしていることはわかっています。今まで育ててくれていた両親を裏切る行為だと、親不孝だと。でもこうでもしないと家から出ることは今後できないのではないかと感じてしまい、素直に家に戻ると言えませんでした。 家庭環境の問題なので、言葉でうまく説明できませんが私は今のこの状況から抜け出して、離れて暮らすことによって今まで見えてこなかったものを自分の体で経験したいと思っています。事あるごとにでていけと言われるのはとても疲れてしまいました。 私はこれからも我慢をし、父の助言を聞き入れ家を出ることを辞めるべきでしょうか。
私は高校2年です。 5で神童、15で才子、16過ぎれば只の人 と言った具合に、高校受験の失敗を皮切りに 落ちぶれていく人生を歩んでいます。(神童なんておこがましいですが、) 中学までの怠惰な生活をしていると、 当然、第一志望の高校には落ち、滑り止めの高校でも、成績は下がる一方、順位は下から数えた方が早くなるまでになりました。 なんとかしなければならないのは、分かってるけども、モチベーションは下がり、無気力。 さらに、成績が下がり…と悪循環の日々です。 そんな中、テレビ番組で僧侶の方々を拝見し、その道徳観、柔和な笑顔に惹かれました。 これまでの、偏差値や年収の見栄が第一の数字を求めてきた私にとって、とても異質で別世界で生きているように思えて仕方がなかったのです。 魅力的に感じ、僧侶に憧れ、志すようになりました。 しかし、仏教系の大学の偏差値というのは、お世辞にも高いとは言えず、家族や担任からは、受験から現実逃避しているのではないかと思われています。確かに、私は学校の課題から逃げ、担任からは、見放されています。しかし、表面上だけ良い子である私の内面がどうしても許せなく、また、現実との乖離に悩むのをどうにかしたいのです。 私自身、なりたい思いはあるものの、本当に僧侶でいいのか、受験から逃げたいがために、僧侶という芝が、青く見えているだけなのではないか。修行すらも投げ出してしまうのではないか。と不安に思ってしまいます。 私の僧侶に対する気持ちは本当なのか自分自身で確かめる方法、そして、周囲を説得する方法、そして何よりこの文章を読んで、逃げていると思うのならば率直に言っていただきたいです。 長文失礼しました。よろしくお願いします。
はじめまして。 この夏に父が永眠しました。 実家に仏壇はあるものの、自分の家でも父を供養したいと思い、写真と蝋燭、お線香、お花、おりんをおいて毎日拝んでいます。 ただ、これは自己満足であり父の供養になっているのかと考えるようになりました。自分の中で、父にもっと親孝行したかったという気持ちがあり、その気持ちを整理するためだけではないかと。 供養とは誰の為のものなのか、なぜ供養が必要なのか、正しい供養の方法はどうすることなのか、教えていただけると幸いです。 よろしくお願いいたします。
質問させていただきます。 回答しづらければ、スルーでお願いします。 母の四十九日法要の和尚さんの法話でのことです。 「亡くなった人はどこへ行くか?」と和尚さんは私の甥に尋ねました。 小学生の甥は、「心の中」と答えました。 それは、亡くなった母が教えたことです。 母は「自分が死んでも、いつも見守ってるから」という意味で、生前、そのように話したのだと思います。 が、その和尚さんは、それを完全否定しました。 人は死んだら「無」になる、と。 何もなくなる、心の中ということはない、と。 実際に仏教でどのように考えられているかは知りません。 和尚さんが仰ることが正しいのかもしれません。 ですが、そこはあえて否定する必要があるのでしょうか? マチガイハ タダスベキということですか? 甥だって大人になるにつれ、母の言葉の意味は理解するだろうし、何より母の法要で母を否定されたような気がして、何とも言えない気持ちになりました。(「黙れクソ坊主がっ!」と思ったことは内緒です) また、その話の流れで、ホームレスは人間のクズだから地獄に堕ちるという話をされました。 いや、ちょっと待て! 人は死んだら無になるんじゃなかったのか? 無になったら、地獄も何もないのではないか? それとも、ソレとコレとは違うとでも言うのだろうか? それより、ホームレスが人間のクズとはどういうことなのか!? それが仏教なのか? 和尚さんの偏見ではないのか? 和尚さんに対しての怒りの感情と、母に対して申し訳ない思いと… お前が地獄に堕ちろ!とマジ思いました… ホームレスの方達に炊き出しをするボランティアをしていたので、色々と思うところがありました。 もう数年前のことですし、そのことを引きずって悩んでいる訳ではありません。 過去のことに上書きすることはできませんし、それはソレで、そういう事実があった、でよいです。 ただ、その本当のところが知りたいです。 数年前のことを、なぜ今、このタイミングで?と思われるかもしれませんが、今まで聞く人がいなかったからです。 hasunohaのサイトを最近知りました。(遅っ!) よろしくお願いいたします。
4回目の質問になります。 原因不明の病で入退院を繰り返していましたが、確定診断がつきました。症例の少ない難病で治る事はないそうです。 頼れる身内はいません。市役所では生活保護を強く勧められました。 働く事も出来ず、生活保護を受け、社会参加も困難。 薬を飲んで、ただ息をしているだけ。 まだ40代です。 先は長いでしょう。 治らないけれど死ぬ事もない。 この生活を続ける事に何の意味があるのでしょう。 食事して寝て過ごす生活。 外出も困難。 生きる意味は何ですか? 「頑張って生きて下さい」と言われますが、生きていて何の意味があるのか分かりません。
カトリックの家ですが、神父さんからも回答が無い問題で、5年間苦しんでいます。死を考える事もあるので、お知恵をお貸し頂きたく、質問します。 ヒルティの幸福論を数年前に読み、非常に感銘を受けました。只、その中に迷信も含まれており、書物や、人との出会いも時によっては導き、だと繰り返し書かれていました。そんなに熱心でもない信者でしたが、そんな事もあるのかと、自分の知らない宗教の神秘を聞いた気がして、信じてしまいました。当時出会った方と結婚までしましたが、彼女は面食いの私のタイプではなく、、すぐに苦しくなり、一年で離婚。彼女は嘆き悲しみました。 別れてからも、自分が神の導きに反した様に感じられて、自分を責めたり、神からも責められている気がして辛いです。洗脳されてるのだと思います。医師にも通っています。神様を信じる事も出来なくなり地獄です。私は論理的思考の持ち主なので、神様が元々の元凶じゃないか、と考えてしまいます。彼女をあれだけ悲しませたのを許せなかったりもします。何の為に彼女と結婚、離婚させたのだろうか、と考えています。彼女の嘆きを代償に、私は何も欲しく無かったのに。 又ヒルティが迷信を書いてたとしたら、何故それを神が野放しにしているかも納得出来ない。仏教でも、仏様を信じ過ぎて、変なことを言ったり書いたりする方はいると思います。その様な場合、どの様にそこから脱出すれば良いのでしょうか?助けて下さい、何卒よろしくお願いします。 もう5年苦しんでいます。自殺を考える位辛いです、、
幼い頃に母親を亡くした私を母親代わりに育ててくれた祖母が昨年の年末に亡くなりました 亡くなる約2ヶ月前に末期の癌と診断され、口から食事が取れないので、中心静脈栄養という直接体内に栄養を入れる管を作る為に一度入院しましたが、コロナ禍での入院は最後の時でないと面会出来ない事や、もう治療として出来ることは痛みが強くなった時に痛み止めを使用するしか無い状況でした 祖母の長年住んだ家で家族と過ごしたいとの希望や、私も24時間付き添う事は出来ないけれど出来る限り祖母の願いを叶えたいという思いもあり、退院して在宅で過ごす事を選択し家で過ごしていました 家にいる間は特別な事をする事は出来ませんでしたが約十日間くらい穏やかに家族で一緒の時間を過ごす事ができました 亡くなる3日前になると身体が栄養を吸収出来なくなり、浮腫んだり痰が多くなって逆に身体の負担となっていたので栄養を中止し、また呼吸も徐々に弱く途中で無呼吸も見られるようになり、言葉を発する事、自分で起き上がる事も出来なく、訪問看護の看護師さんから今日明日でもおかしくないと説明を受けました 看護師さんが帰り、祖母と二人きりになり、祖母を抱き締めながら今迄育ててもらった事など沢山の話やお礼を言い、祖母と二人で泣きました そして次の日には意識がなくなり寝たままとなり、その三日後に息を引き取り、私が看取る事ができました 葬儀も無事終わり、もうすぐ四十九日ですが喪失感や悲しみで毎日祖母の祭壇の前だけでなく、買い物をしている時など様々な場所で祖母との思い出が巡ってきて涙が溢れてきます とても優しく家族思いな祖母で、自分が癌で食事が食べれなくても家族の食事を作ろうとしたり、私が傍にいると口癖のように、ご飯を食べたか心配してくれる優しい祖母でした 祖母が亡くなった後もっと祖母に出来る事があったのでは無いか、こうしていれば良かったのではないかと考える日々です 知り合いから、私がいつまでも泣いていては祖母は成仏出来ない、世の中には死に目に会えない人だっていると言われました 家族の最後に立ち会えない人も居るのは分かります、でも看取りが出来ても亡くなった事への悲しみや喪失感、後悔の感情は皆簡単には割り切れないのでは無いかと思います 私は祖母を思い出したり泣く事は許されないのでしょうか
こんばんは。 私の家庭環境は荒れています。 今も現在進行形で母が怒鳴り声をあげています。 両親の中が非常に悪く、毎日喧嘩していて怖いです。 頭がおかしくなりそうです。 ことの始まりはこうでした。 私の母は、私が生まれる前から不倫していたそうです。 そんなこともあってか、私の両親の仲は険悪なのが当たり前でした。 最近は諸事情あって険悪な仲が余計にひどくなっています。 両親は毎日大声で口論する様になりました。 私は部屋のドアを閉めても聞こえて、夜寝れないこともあります。 両親は私と姉にも当たるようになりました。 父は一日中不機嫌で、母は少しのことで怒鳴ってくるようになりました。 私の家族には日常会話などありません。 全員がお互いのことを嫌い、口を開く機会は怒鳴る時だけです。 毎日家に帰るのが辛いです。 愚痴を書いてしまって申し訳ございません。 今このような状況なのは私に罰が当たっているのだと思います。 私は今までたくさん罪を犯してきましたので。 それでもこの試練を乗り越えられるようなお言葉をいただきたいと思ってしまいます。 贅沢を申してしまってごめんなさい。 どうかご返信お待ちしています。
明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。 * 「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。 ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。? 少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。
突然、シビアな質問をお許しください。 即身仏になられた尊いお坊様が過去にはおられたと、承ったことがございますが、現在は法律で禁止されていますので、詳しいことは解りがたいとは存じます。 しかし、そのような厳しい修行をされた方のご心境を拝聴したく質問させていただくのをお許しください。 この世の一切の無常を憂いてなさるのか、ご自身の身を捧げてこの世の幸せを願われたのか、はたまた修行の果ての純粋なご心境であって我々凡人では到達しえない境地からなさるのか、どなたか教えて頂けませんでしょうか。よろしくお願いいたします。
先程の質問ではたくさんのご回答ありがとうございます。ひとつひとつ読ませていただきました。 私が経験したのが「悟り」であったかはさておき、お釈迦様への敬意は揺るぎないものとなり、さらなる修行を積む決意はできました。そこでお聞きしたいのが、「完全な悟りを得るためには具体的に何をすればよいのか」ということです。 無教養なので瞑想以外に修行方法を知らず、経典もさっぱりわかりません。 ご教授願います。
元々はそんな考えたことなかったですが、ここ数年は毎日のように、朝起きたら死にたい、消えたい、また目が覚めてしまったと思います。 夜仕事から帰ってきても同様です。 死にたい、消えたい。 だから考えないようにするために、睡眠薬を無理矢理飲んで寝ます。 死にたい、消えたい なんで自殺してはいけないのでしょうか 死にたい、消えたいと思うことにもとても疲れました。
うちからは遠いお寺の長男と結婚しようと思っていますが、跡を継ぐ人がいません。 物心がついたときから、私が跡を継ぐものだと思って、お見合いや婚活をしてきましたがご縁がなくて30代になりました。 今付き合ってる人は、出会ったときからお互いに結婚を意識する人で、私はこのご縁を大切にしたいです。 ただ、跡取りもいないのに、親とお寺の今後を考えると、自分の思いだけで進んでいいものか悩んでいます。 ご意見よろしくお願いいたします。
今から10年位前、夫の両親同居中、義父が室内犬を飼い始めました。その時2歳の娘がいて、お腹に赤ちゃん。環境的に室内では動物を飼いたくはないけれど、主人は単身赴任で留守、私も嫌だと言えず、我慢しました。けれどストレスをすべて犬に向けてしまい、殺してしまいました。今更後悔しても遅いのですか、苦しくて仕方有りません。 現在は家族だけで賃貸を借りて生活していますが、安定剤を飲みながらなんとか生活しています。 私のした事ですから、苦しむのは当然ですが、やはり苦しく助けて欲しいと思いメールしております。
先日祖母が亡くなってから「仏様」という言葉をよく聞きます。 よく聞きすぎて仏様の意味が分からなくなってしまいました。 お寺では「阿弥陀如来様が仏様にしてくれる」と言われましたが、 それでは阿弥陀如来様は仏様ではないのでしょうか? 家の仏壇の真ん中には阿弥陀如来様の絵がかかっていて、祖母はこの絵を「仏様」と言っていました。 でも、前述のお寺で言われた通りなら、祖母が毎日手を合わせていたのは、阿弥陀如来様ではなく、先に亡くなった祖父ではないでしょうか? また、祖母が亡くなってから二・七日、六・七日に、夢で祖母に会いました。 そのことを叔父に話したら「あなたに仏様がついてしまっている」と言われました。 仏様がつくと夢に出てくるのでしょうか?(そもそも「つく」ってなんでしょう?) 毎日正信偈を読むように言われたのでやっているのですが、何も理解していないのに続けることに意味があるのでしょうか。。。 あまりに初歩的なことで申し訳ありませんが、ご回答よろしくお願い致します。
こんにちは。 さっそくですが、本題です。 わたしは自分に自信がありません。 自信がないからこそ常に周りの人間と自分を比べて、 Aさんには〇〇で私のほうが秀でている Bさんには△△で私のほうが勝っている と無意識のうちに考えてしまっています。 自分が優っている点が無い相手に対しては 近づきたくない、と思ってしまいます。 (本当に何においても優ってないかどうかではなく、自らが自分の方が優っている点を認められるかどうかが問題です。) 自分に自信が無いことで気持ちが沈んでしまったり、 交友関係が狭まってしまっていると感じたり、ということに悩んでいます。 常に自信があるフリ、堂々としていて怖いものなど何もないフリをするのに疲れてしまう時があります。 自分にも弱さがあると認めること、それを他人にさらけ出すことが恐いのです。 「強いわたし」という仮面が剥がれたらみんなが離れていってしまうような、 離れていった何人かは自分の「敵」にさえなってしまうのではないか、 というような強迫観念、自信の無さから 自分は強い、自分は他人より優っている、と強く思わないとやっていけません。 (この辺は小学生の頃にイジメにあい、4~6年生の間に転入先の小学校でクラス替えがない学級の中、たった独りで耐えなければならなかったことの影響かと思います) もっと肩の力を抜いて人を信用し、 自分を認め、本当の意味での自信をつけるにはどうしたらよいのでしょうか?
12月5日付の新聞報道にアインシュタインの手紙が競売に付され高額で落札されたとの記事がありました。 その手紙に宗教の神に対する否定的な見解が示されていました。 仏教は神がいないことで、宗教ではないと言えます。 仏教の基本は真理と論理による宇宙の真実が語られています。 真実とは、宗教の信仰の有無や宗教の種別に関係なく、すべての人に等しく適用されるものです。 真実の中身は、宇宙のすべてが空で構成され(色即是空、諸法空相)、現実の世界は空が物質に変化したものである(空即是色、諸行無常)と説明しています。 そして論理(縁起の理法)により、身体はその構造が複雑で故障しやすく死に到りますが、構造の簡単な心は死ぬ要因ががなく、通常の心境ではいつまでも生き続けます(輪廻転生)。 涅槃(心を空に戻す)に依る以外に四苦から逃れることが出来ないと言う、瞑想から得た真実の悟りをすべての人に知ってもらう為に、仏教として広めたのです。 心境のレベルによって、涅槃を求める方法が多岐にわたるため、宗派が分かれたと思います。 アインシュタインも、深い洞察でその見解をえたのではないでしょうか?
混沌とした世の中で暮らしていくのが辛く苦しい、この閉塞感の中で平和でもない中オリンピックなど開催しウイグル地区の人達への人権侵害で政府関係者のボイコットなどしても何の意味もなく国の威信をかけての見せかけの平和の祭典に連日お祭りのように報道するマスコミにもコロナ禍とし場当たり的な対応する政府にも嘘が見え隠れし心を保って生活するのが難しく感じています。 ミャンマーのロヒンギャ難民の人達の悲惨さも軍事政権の横暴さにも胸が痛くなります。ミャンマーの人達の解放のためにNPO法人などで助けになろうとされている知人もいます。私も自分の出来ることはと寄付や募金などしていますが、出来ることは少なく苦しい思いです。自分が今あるところで自分の出来ることをして日々生活していくしかないと思いますが、理不尽なことがいつまでまかり通るのかと心が壊れそうです。 都市部は情報が多く心が惑わされることが多いのかもしれません、都市部で働いて都市部で生活するのに疲れました。都市部から離れて自然と共に生活して自給自足までは難しいとしても自然の営みの中での生活をしたいと思います。報道番組はなるべく見ないようにしていますが、連日のコロナ騒動の話題が辛いです。自分の与えられている環境に家族もいて仕事もあることに感謝はしていますが、心のざわめきが抑えられません。どうしたら心を整えて生活していくことが出来るでしょうか、このままでは心が壊れてしまいそうです。