hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「他人 仕事 」
検索結果: 3989件

お坊様について

以前よりお世話になっています。 ニックネームを変更しました。 家族が他界してから毎日お務め、花、茶水、お供えと自分なりに供養してきました。 これまで5人のお坊様とお世話になりました。(実際にお会いした) それぞれ個人的な考えや思い、派の違いにより仕方がないことかも知れません、違うところが言動にあります。1人のお坊様は色々な勉強を幅広くされたのか、お話はとても立派なのですが、そのお言葉を自ら覆す行動をします。 細かい内容は言えませんが、色々と矛盾を感じ、お寺に伺いにくい状態になり、別のお坊様にも法事に来ていただけない状況です。 今年の法事は菩提寺の住職が他県から来ていただき、なんとか両親、先祖の供養ができました。 仏教とは、御坊さんとは、供養とは…何が本当なのか分からなくなり、段々と仏壇のお務め、供養もいい加減になりつつあります。 最近は若い方も気軽にお寺の門をくぐれルように、お寺カフェや座禅、説法、写経や癒しを求めてお寺巡り、朱印本など流行りつつあり、高野山1300年のPRもよく見かけます。お寺や神社巡りが趣味と言う若い方々もいます。 一方、無信仰だから、山や海に散骨する方、墓仕舞いして樹木葬等、普通に家代々のお墓に入る人も減っているとか。と言うことは檀家さんも減ると言うことですね。 大変失礼ですが、葬式坊主なる葬式業者数社と契約?して、葬式ばかりして儲けるお寺もあると聞きました。 5人のお坊様のうち4人にとって私は檀家でなく、業者の紹介やあるお寺の催しで出会っただけで、特に大きな収入源にもならず、どうでも良いのかも知れませんし、中には若いお坊様もいますが、頭でっかちの知識先行型なのかもしれません。 これも私の受け取り方一つなのかもしれません、お坊様に対するイメージが固まっていて、そのイメージと違うから違和感なのかもしれません。 当然、お坊様も人間、修行の身であり完全完璧でないことはわかります。ただ法事で頂いたお経は本当に、亡き家族のためになっているのか、六道の話を伺いましたが、畜生界、地獄に落ちていないか、毎日、お務めすることで両親、先祖のためになっているのか疑問が沸きます。 それまでは完全に仏教を信じ、お務め、供養が仏となった家族のためと信じきっていました。 今は半信半疑、これから供養を続けていく自信が無くなりました。

有り難し有り難し 60
回答数回答 3

呪われるってあるんですか

わたしは不倫で生まれた子どもであることを二十歳のときに知らされました。 それまで、自分の父親がいないことを母に聞いたことはなく、そして母が語ることもありませんでした。 本当の父親だと語るおじさんとたまにご飯にいくくらいでした。その父親だと語るおじさんからあるひ「お前のお母さんを本当に愛していてお前ができたんだよ。妻子がいたけど」という話を、二十歳の、これからいろんな未来が待っているという時に聞かされました。 正直、わたしはそのとき生まれてきてごめんなさいと思いました。わたしができなければ、母はもっと違う道を歩んでいたかも。不倫という間違いに気づいて正せたかもしれない。 父親の奥さんにはただただ申し訳ない。わたしがその立場なら、正直憎いはずです。夫を愛していればいるほど。 わたしだったら呪うと思います。それくらい許されないことだと思うのです。 その因果というのがあるのかわかりませんが、男運に恵まれません。毎回ひどく傷ついて、なんとかもがきながら立ち直るというのを繰り返しました。 でも今回どうしても立ち直れない失恋をし、きっとわたしはそもそも生まれてはいけなかったんだろうし、母以外には生まれたことを祝福されていなかったはず…恨まれているのかなと。 業というものなのかなと思うくらい、辛いです、 許されないこと、あるまじきことだとは思いますが私が生まれた意味はないにしろそれでも生きていくのが辛いです。 わたしはこれから、何を糧に何を心に抱いて生きていけばいいのでしょう。 わたしは、ただ普通に、生きたかった。ただ、祝福されたかった。ただ、ふつうの幸せを知りたかった 良くないことまで最近考えます。度胸がないだけで。 こんなわたしにも生きる意味や権利はあるのですか。辛いです。

有り難し有り難し 60
回答数回答 3

悟りが得られないです

執着も捨てましたし、友人も恋人も物も殆ど捨てました。 生きていて色んなことを学んでもこちらで質問しても納得する回答は得られず日々悶々としています。 まず命への執着を手放す以外に残るものは今ありません。 しかし苦しみは消えません。 嫌な毎日です、それすら執着を手放しても苦しいままです。 1秒を我慢し続ければ耐えられると此方のサイトで言われましたが耐え続ける人生に何の安寧があるのでしょうか。 嫌な事も受け入れて、執着を捨て、全てを捨てて、あとは自分で死ぬだけです。 その死なない間にも嫌な事が沢山あります。 こんなに受け入れて、何も動じず、ただあるがままの苦しみを受け入れてるのにまだ苦しいです。もはや悟りなんてないのでは??? 例えるなら親を目の前で殺されて、まっいっかというレベルで執着を捨てていても苦しいままです。 誰か助けてほしいです。 悟りなんてないんじゃない? 私は科学ガチ勢だけど、死んだら解脱とかも無理じゃない? ただただ生まれつき運が悪いか、良いかの違いなんじゃない。 知的な障がいが脳にあればそもそも解脱する事は不可能です、それと同じで生まれつきの知能が低ければ高度な思考すらできません。 世の中運が良ければこの世界に満足して死ぬわけです。 つまり解脱も悟りもなくて、この世界で運が悪かった人が負け惜しみでそういう概念を思いついただけじゃね? ああ人生って意味不明すぎる。 このまま色んな人に説教されるか、曖昧な表現で反論されてこのまま人生続いていくんだろうな。。そしてその曖昧な表現の人たちもそのまま何の答えも得られず死んでいくんだろうな。

有り難し有り難し 93
回答数回答 4

自分自身、身内の人生がおかしくなるのは、因果なのでしょうか?

お坊様方の親身な解答を見て、私も質問させて頂くことにしました。 まず、私個人は幼い頃から、育児放棄、虐待、などを受け、今となって考えれば躾らしい躾を受けずに、成人しました。 成人してからは色々ありましたが、結婚もし、毎日食事もでき、子どもはできませんでしたが、小さいながらも、それなりの幸せを手に入れました。 そこには、友人知人などの助け、そして自分自身の努力も多少あったと思います。 昨年、老後に備えて、借金をして教育支援業で起業いたしました。 教育支援業を選んだ理由は、幼い頃自分は辛い思いをしてきた。 だから、少しでも同じような思いをしている子どもがいたら、助けてあげたいという気持ちからです。 しかし業績は一向に伸びず、生活をする資金も無い、借金も返せない状況になってきました。 もう、すぐにでも畳まなければならない状態です。 そうなった原因は、起業に対する私の勉強不足が一番だと思いますが、それ以外にも、不思議な出来事が多々あります。 例えば、「死」をイメージさせるような、不可解な現象が起きたり。 知人のアドバイスを素直に実行しても、周りが不思議に思うほど反応が無かったり。 アルバイトをして、なんとか凌ごうと思っても、全て面接で落ちたり。 何をやっても、良くなる気配がありません。 私の父も、事業で失敗し、親戚一同夜逃げするような事態を起こしました。 その後も2回ほど起業しましたが、いずれも失敗し、最近では金銭トラブルで離婚するとかの騒ぎになっております。 弟も、数年前…数百万の借金を作り、当時私が弁護士費用とか工面しましたが、結果がわからぬまま、行方不明になりました。 話は少しずれますが、父は私達が成人してから、籍を婿養子という形に直しております。 私も子どもがいません。 弟も、結婚はしておりませんので、やはり子どもはいません。 従兄弟も結婚していなかったり、子どもができなかったりで、 結果的には、次の世代に「血」を残すことすらできなくなっております。 こうなってくると、因果とかしか思えなくなり、正直…生きていく意味さえ無いように感じてきます。 ぜひ、解決の糸口になるような助言を頂ければ、幸いです。 長文失礼いたしました。

有り難し有り難し 87
回答数回答 4
2023/05/25

心を病んだら人生は終わってしまうのか

はじめまして。 思い悩んでしまっていることがあり、相談させていただきます。 私の現在の状況は、プロフィールに記載しておりますので読んでいただけますと幸いです。 退職する前から転職しようと、求人に応募したり面接を受けたりしていましたが、ある日面接に行くときに体調が悪くなりなり行けず、病院の先生とカウンセラーさんから今は治療に専念するべきだということをいわれました。私自身もこの状態で働いたら、また同じようになってしまうと感じたので今は元気になることを優先することにしました。 それから数ヶ月経ちましたが、まだ先の見えない状況が続いています。私自身も焦りがあり、元気になるために楽しいこと(趣味など)をしようとしても、「働いてないくせにやっていいの?まずは働くのが先では?」と思ってしまいます。やってみたいこともありますが、それがお金になる保証もありません。考えすぎてしまい、何もできず、そして体調が悪くなる…の繰り返しです。 周りの人達は、焦らない方がいいと言ってくれています。ですが、私は今まで頑張ることや一生懸命やることが好きだったのに、今の状況を抜け殻のように感じて虚しくなってしまうんです。なのに体と心がついていかず、悲しいです。 また、元々は人と関わるのが好きで、人を喜ばせることが大好きでした。人間関係で悩み、心を病んでから、人が怖いと感じてしまいます。心を病んだ時に「あなたは人間関係に入り込みすぎる」「純粋すぎる」と言われたので、そんな私が悪かったのかなと思います。人を喜ばせるなんて馬鹿なことなのかなと感じてしまいます。自分が虚しいです。 もし心を病まなければ、こんなことにならなかったのに。先も見えないし、頑張れる気がしなくて、心を病んだら人生って終わってしまうのかなと思います。 でも、どうにか元気になりたいんです。 散文で申し訳ありません。 なにかご助言をいただけると幸いです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 50
回答数回答 3

人の命の重さは平等なのですか?

現在看護師として透析患者さんを治療するスタッフとして働いています。 2年ほど前まで産婦人科で助産師として働いていました。 前の職場では産科で助産師としてお産に関わることもあれば婦人科で看護師として婦人科系のガン患者さんを看る日もありました。 新たにこの世に誕生する命を取り上げ感動する日や、この世に生まれてくることができなかった死産の子を取り上げる悲しい場面に直面する日もあれば、若くしてガンで亡くなられ、看取りをする日など人の生と死に身近で関わることができ命の尊さを学ぶ日々でした。 しかし、今の透析の施設では自身の不摂生が原因での糖尿病、きっと透析になるまで色んな人から生活を見直すよう助言をもらっていたにもかかわらず、透析まで辿り着き、『俺のやり方が正しい、お前らは口出しをするな』というような患者さんがたくさんいます。 看護師に暴言を吐く患者やクレーマーもいます。 生活保護の方も半数ほどいます。私たちが一生懸命働いて納めている税金が、働こうとする努力もせずパチンコやタバコ、ゲームに費やし、今受けている医療や薬をもらえることが当たり前だというような態度です。 もちろん、糖尿病以外で元々腎臓が悪く透析になられた方や、とても大変な透析をしながらも一生懸命働いていて、尊敬する患者さんもいらっしゃいます。 最近は、生活保護で恵まれていることが当たり前だと思っている患者、透析をしながらも頑張って働いて生きている患者、新たに産まれてくる命、若くしてこの世を去る命、これらの命の重さは平等なんかじゃ無いと思うようになりました。 正直税金で生きるのが当たり前、自分で身銭を切らないから欲しい薬や治療を受けてもらって当たり前、看護師や医者は自分の言うことを聞いて当たり前というような患者に『税金の無駄だ。はやく死ねばいいのに』と思ってしまう私がいます。その度にこんなこと思ったら医療従事者として失格だ、人としてダメだと思うのです。 まとまりのない長い文章になってしまって申し訳ありません。

有り難し有り難し 100
回答数回答 4

病気を治したくない人の気持ちがわかりません

私の大事な人が心(脳)の病気です。そしてその人は病気のままでいたいと私に言います。 私はこれを受け入れるのがとても難しいです。 その病気のせいで私に対してだけ人格が変わり、言葉と物理的な暴力をします。私はそれがとても嫌です。 何度も病院に行き、このままでは取り返しがつかなくなると診断されましたが、本人は医師の誤診であると言い、通院を拒否します。 暴力はやめてほしいと言っているのですが、自分で止められないしそれが悲しいとその人は言います。悲しいけど病気は治したくないそうです。 周りに病気のことを相談しても、ほぼみんないつかよくなるといいね、と言うだけです。中にはもちろんできる限りのことをしてくれた人もいますし、感謝しています。仕方ないような気がしますが、私なら相談されたらそんなことを言わないし、助ける努力をしようと思うから、変わった人達がたくさんいるんだな、と思いました。 話が逸れました。戻します。 病気のままでいたい人の気持ちはどう受け止めてあげればいいのでしょうか? 本当は助かりたい、ただ病気と認めることに怯えてるだけでは?と思っていましたが、あまりにも長い間なので本当に病気でいたいのでは?と思うようになりました。

有り難し有り難し 50
回答数回答 4

お坊さんは、どこまで自分のために贅沢やお金を使っていいの?

誤字等あれば、ご容赦ください。 今回は、先日感じたことについて、色々なお坊さんの意見を聞いてみたいと思い、投稿しました。 聞きにくい事ですが、勇気をもって質問させて頂きます。 お付き合い頂けるお坊さんがいてくれたら幸いです。 自分は先日、菩提寺に行った時に、住職の車が外車なのを知りました。 よく回答して頂いているお坊さんなどはご存知だと思いますが、その時精神的に沈んでて、「外車かよ…」と悪く思ってしまいました。 というのも車整備のバイトをしたこともあり、日本の車道にはやはり日本車があっていること知っていて、実用面よりブランドで選んだ、執着しまくりじゃんと思ってしまいました。 今振り返ると、大人気ないです(-_-;) ただし、お坊さん達は、お坊さん達が上等なものを持つという事に対して、どういう考えをお持ちなのかは、ふと気になることがあります。 「お坊さんだって好きなもの欲しい」「お金があるならいいだろう」というお坊さんもいると思いますし、自分もある程度はいいと思います。 ですが仮に、全うに稼いだお金が潤沢にある一僧侶や一寺院が、ロールス・ロイスやリムジンを持ったとしても、同じことが言えますか?と考えてしまいます。 例えば、超貧乏な檀家さんを前にして。 テレビに良く出演されているある方は、ある宗派の本山の金文字入ったキャデラックに、追い越される際、全身土埃浴びせられ、追いついた際「あなた達の開祖は貧乏な人々に寄り添い、信仰を集め広めていったのに、弟子であるあなた達はなんなんですか、そのヤクザみたいな金文字入った高級車は必要なんですか」と問い詰めたそうです。 清貧であるべき、節度があれば、自身の金なら無問題など、それぞれに仏教的回答があると思いますし、正解があるのかもわかりません。 多分お坊さんによっても考えが違うのではと思います。 ただ、だからこそ現在に生きるお坊さん一人一人の考えを聞いてみたいと思いました。 そもそも、あなた人を金だけで見ないようにでも結構です。 可能な範囲で結構ですので、回答頂けると嬉しいです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 201
回答数回答 5

夫を突然失いました

約1か月前、ひき逃げに遭い、夫は突然帰らぬ人となりました。「いってきます」「いってらっしゃい」「バイバーイ」これが、主人と私、そして1歳の娘との最後の会話となりました。 夜11時過ぎ、警察の方から「ご主人が道に倒れていて怪我をしており、意識もないので救急車で運ばれました。今から病院に行っていただけますか?」と言われ、私は、飲みすぎて転んじゃったのかな?という程度にしか思っておらず、「ご迷惑をおかけしてすみません。すぐ行きます。」 と答えて、娘を連れて病院に行きました。 すると、何やら慌ただしい雰囲気…聞くと、「事故に遭ったようだ」と。 それからバタバタと手術室に運ばれ、私と娘は待合室で待っていました。 事態の深刻さに気付いたのは、手術室から戻った主人にICUで面会した時。たくさんのチューブで繋がれ、血だらけでした。 そして、主人の意識は二度と戻ることなく、次の日の朝息を引き取りました。まだ30歳でした。 それから、通夜や葬儀など気持ちの整理もつかないまま過ぎて行きました。なぜこんなことになっているのか全く理解できず、心と体がバラバラになっている感覚で、頭がぼーっとしてただただ涙が溢れ、最後まで主人にすがりついて泣きました。 まだよくわかっていない娘は、「おとうさん、ねんね〜」と言いながら無邪気に笑っていました。それを見てまた、涙が止まらなくなりました。 その後、主人をひき逃げした犯人は逮捕されましたが、それで主人が帰ってくるわけではない…心にはポッカリ穴が空いたまま、何もする気になれません。 たくさんの方からお悔やみの言葉をいただき、「娘さんのためにもしっかりね、頑張ってね。」 と言っていただきました。ありがたいです。 でも、「娘がいるからこそ、父親である夫にはいてほしいんです。娘の笑顔が支えにもなるけれど、それを見てさらに苦しくなるんです…」 という気持ちになってしまいます。 これから先、どうやって生きていけばいいのか…娘は心の支えであり、主人が残してくれた宝ですが、それでもやっぱり辛いのです。苦しいのです。消えてなくなりたくなります。自殺しようとは思いませんが、主人のところに行きたいと思ってしまいます。 この苦しみとどう向き合っていけばいいのでしょうか?

有り難し有り難し 161
回答数回答 4

死後の世界観

 初めまして。  私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。  私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。  ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。  仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。  私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。  先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。  もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。  人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。  こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。

有り難し有り難し 78
回答数回答 5