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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 得度 」
検索結果: 210件

得度はたくさん病気を乗り越えるための修行でしょうか?

高野山のお坊さん悩みを聞いてください。 回答は心の病気もあるので優しくお願いいたします。 私は12年前に宝亀院というお寺で得度をさせてもらいました。 そのとき京都の庵で線維筋痛症という激しいいたみのため知り合ったところで先祖供養をしていて、浄霊をして先祖供養をしているときお大師様から得度をさせてもらえると知り、亡くなった父の祖父が一年に一回高野山参りをしていたので喜んでいるとそのときの先生に教えてもらい得度をしました。 得度して3年は腰の神経がうずき寝たり起きたりの状態でそのときの正月酒に酔った父が「ぶたぶた寝てばっかり、お前の顔みたないから自分の部屋へ行け」と足蹴りに合い死を意識したことも数々の暴言が続いた日々を耐え抜きました。今は嫌味ぐらいになっています。 それからしばらくしてやっと病気も治ったら、卵巣脳腫になりそこで自分で乳がんを発見して検査すると全摘をよぎなくなったものでした。 女性ですから大事な胸がないことは泣き崩れました。 いまでも手術の傷や用事をするとリンパがないので腕がはれたり しています。 手術前に抗がん剤が足にくるのであまりに辛く励ましてくれたり、助けてくれる家族もそばにいても怒るだけで、手術をして2年間抗がん剤を服用したときもものすごくしんどくそのときは栄養に良い物を食べたりアクエリアスや栄養剤も飲んでいて、自分の起こしたことと、 父の遺伝で糖尿病にもなり、震災の年に橋本病、軽いうつやパニック障害、不安障害は15年通院しています。 後緑内障にもなっています。 これは得度をして病気の辛さを知れとお大師様に修行させられているのでしょうか。 それともこの病気を学んだところに人の病気の辛さがわかりそれが役に立つときがくるからと私は信じて前を向いて歩んでいます。 それと96歳の祖母の世話も母と一緒にしています。 足がよわり編み物しか今は出来ませんが、徘徊や暴れることのない穏やかな優しい慈悲のある祖母に 私は教わることがあります。これはきっとこれから役にたつ宝だなと思って 一緒に祖母と話をしております。

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得度を受けてない人という意味と供養

先日、以前は同居していて介護施設に入っていた伯母がコロナで亡くなりました。 伯母は独身で元々は私の両親が面倒を見ていましたが両親の死後私と姉が見ていました。 伯母の遺骨は我が家で引き取りました。 その後は地元福岡の先祖代々の納骨堂に当然納めると思っていましたが、新興宗教にハマっている従姉のA子が勝手に姫路の自分が傾倒しているお寺で永代供養すると決めてしまいました。 生前伯母はその新興宗教と、新興宗教にハマって伯母が先祖を供養するやり方が悪いと文句を言ってくるA子を嫌っていたので私も姉も本当は反対だったのですが、A子と以前宗教のことで泥沼の大喧嘩になったことがあるので承知せざるを得ませんでした。 百ヶ日が過ぎたので姫路のお寺に遺骨を納めに行く話をしていたところ、そのお寺の住職(従姉の嫁ぎ先の遠縁)から 「得度を受けてない人が遺骨を納めに来るなんて仏様に失礼だ。A子さんを寄越しなさい」 と言われ憮然となりました。 A子は僧侶ではありませんしもちろん出家もしていません。 そのお寺の言う「得度を受ける」とは、定期的にお布施を納めて信徒と認められることのようです。 そのような「得度を受ける」ということがあるのでしょうか。 また、得度を受けてない人が遺骨を納めるのは不敬にあたるのでしょうか。 そのお寺は真言宗系の新興宗教です。 (私の家は浄土真宗本願寺派です。) 宗派によってそのようなことがあるのでしょうか。 私はそのように言われたことにも驚きましたが、何より先祖代々の納骨堂ではなく縁もゆかりもない土地に行かされる伯母に申し訳ない気持ちです。 姉と相談して親戚には内緒で分骨したお骨を先祖代々の納骨堂に納めはしたのですが… ご教授よろしくお願いいたします。

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2025/07/07

自分の信じる宗派を決めるということ

初めまして。 自分の信仰する宗派が決められず、悩んでいます。 以前から知恵袋やお坊さんと実際に会って話を聴いたのですが、なかなか納得できません。知恵袋の写しですがご指南頂けたら幸いです。  私は信州住みの高校生で、家の宗派は浄土宗西山派(亡き祖父が山寺の住職だった)で母方は智山派です。家の近くには天台寺がありたまにお参りします。自分は善光寺信徒会に入っており、密教と浄土教両方に興味関心があり、一密成仏、弥陀即大日、秘密念仏等が面白いと感じています。空海様、良忍様、明恵様、覚鑁様、道範様、木食弾誓様、弁栄様などを尊敬、教えを学びたいと思っています。 実は以前大正大学への進学計画がありました。近所の天台寺に弟子入りするか、母方の智山寺へお願いして、お得度、宗門師弟推薦を頂くこともできましたが、この度は見送りました。結局、•興味があるだけでは食べていけない •自坊がない、あてもない •自分の覚悟ができていない この三つで大正行き自体無くしてしまいました。 正直日和ってます。  こんなことで全部振り出しになりました。 興味のあるジャンルはかなり絞れていて、各宗派の教えもザックリと把握してはいるのですが、民間信仰の篤い弘法大師が良いかと思えば、地元に寺が多くあり、雰囲気が良い天台が良さそうと思ったり、教学は東密の方が一枚上らしいし、智山より高野の方が規模が大きくて格式がありそうだし、でも宮坂宥洪先生にお会いした時智山でも南無阿弥陀仏で即身成仏できると断言して頂いたし、なまじ知識があるので目移りしてしまいます。何人ものお坊さんに相談しました。西山義は聖道門も否定しないからまずは自分の宗派でやってみよう、拘ることはない、広く視野を持って色々学ぶといい、教えは向こうから転がってくる。自分から求めることはない等々貴重なお話を頂きましたが、なかなか散心してしまって納得できない、落とし所が見つかりません。 僧侶になるならないを置いておいても、考え方と修行の雰囲気がいい天台か、教学的に一番しっくりくる智山か、いっそ格式が高くてと寺院数、信徒数が多い高野山にするのか、依然決まりません。長文失礼しました。

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自分の進むべき道

長文失礼致します。 ここ1~2ヶ月の間、あることを切っ掛けに特定の宗派のお寺に伺うことが増えました。 その中で、あるお寺のお弟子さんとお話しさせていただいた時に「お坊さんにならないのか」と問われ、その事についてモヤモヤとしています。 何故言われたのかはなんとなく理解できています。 それというのも、縁があり菩提寺とは別の宗派のお坊さんと知り合いになり、そのお坊さんに娘のように可愛がっていただいていました。 そのお坊さんに本当に色々なことを経験させていただき、そのお坊さんがいなければ今の自分は居ないと思うほどです。 亡くなってしまったため今は直接会う事は叶いませんが不思議と淋しいという感情はありません。 このようなことをお弟子さんにお話ししたところ上記のような発言となったのです。 恐らく「経験」の内容が水行等、修行に関することが多かったからなのでしょう。 さらには「そのお坊さんは貴女をお坊さんにしようとしていたのでは」ともお弟子さんに言われました。 しかし上述のとおり、懇意にしていたお坊さんは亡くなってしまったため真相はわかりません。 でもなんとなく私に色々な経験をさせてくれたのは自分で自分を守るためなのではないかと思っています。 いずれにしろ真相は分からないのですが… ここまでであれば私の性格上「こんなこと言われたな」程度で終わるのですが 先に書いたとおり特定の宗派(懇意にしていたお坊さんと同じ宗派)のお寺に伺う機会が増えたと同時に そのそれぞれのお寺でお経が始まる確率がすごく多く 必ずと言って良いほど伺ったお寺でお経を耳にするようになりました。 ちょうど御開帳が始まったり、こんなタイミングあるのか?と不思議に思うほどです。 そして何故かずっと開経偈が頭から離れないのです。 特に今の生活を変えたいとか思ったことはありません。 ただお坊さんになりたくないとも思いません。 行く先にその選択肢があるのなら選ぶ確率はゼロではないと思います。 最後になりましたが ・お坊さんにならないのか聞かれたこと ・お経を耳にすることが急激に増えたこと ・開経偈が頭から離れないこと これらの事は何かを意味しているのでしょうか。 またこれらのことから今私自身がすべき事はなにかありますか。 ご教授いただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。

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2025/07/22

自分の寺と他の寺の後継者問題について

私は現在、40代独身で、地方の田舎寺で住職をしております。 親の跡を継ぎ、20代で仕事をやめ、本山での修行を終え、僧籍を取得後、何もわからない状態でお寺の世界に入りました。 元々父方の祖父母が寺をやってまして、その後は父が継承し一人でやってましたが、その父も途中病気にかかり、頼むからそろそろ継いでほしいと頼まれたのがきっかけでした。 母は檀家の紹介の見合いで寺に嫁いできて、私と姉が産まれ、結婚後は祖父母と同居しながら檀家の対応までやってましたが、慣れない子育て、田舎暮らしや檀家の突然の訪問などが重なりうつ病にかかってしまい、見かねた父が寺からかなり離れた場所に家を建ててそこで暮らしてました。 私も姉もそちらの一般住宅育ちで寺とは全くの無縁な生活をしてました。 そちらで就職してしばらく働いたのち、寺を継ぐことになったため、姉も仕事をやめ、現在一緒に寺を手伝ってもらってます。 実をいうと、私も寺を継いだものの、人付き合いが元々好きではなく、葬式での檀家との付き合いなどが毎回大変で、精神的に参ってます。 私も姉も独身で、今後結婚は難しく、60ぐらいで還俗し、他人への継承を考えてます。 幸いなことに檀家数は400件前後(近所の住職無住寺を複数兼務でやってます)いて、経済面での苦労は全くありません。 実は、ほかに懸念していることがありまして、私がほうるいになっている近所の住職のお寺の跡継ぎがいません。結婚してても子供がいない寺と独身の高齢住職の寺があり、両者檀家数は150件前後なのですが、そのあとを私にやってほしいみたいなことを言われてます。 書類上、私がその寺のほうるいになってるのですが、私自身の寺の檀家の対応だけでもう精一杯で精神的に参っており、これ以上はとてもじゃないができません。 近所の独身の高齢住職がそろそろあぶなく、一番若い私がその寺の檀家の対応をまた兼務で押し付けられるような感じになってしまうのではないかと心配でなりません。 本来ならその住職が跡継ぎをなんとかしておきべきなのですが、もう高齢化で仕事もできなくなりつつあります。 私の寺は、あと10年くらいしたら本山か宗務所に声をかけて次の跡継ぎ候補を探してもらい、60前には住職を辞めて、姉と寺を出ていこうと思ってます。 高齢住職の寺とはもう関わりたくないのですが、どうしたらいいのでしょうか?

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師僧について

自分は仕事でもプライベートいつも選ばれない人間だと感じていて、今までそれを周りのせいにしてきました。周りを恨んできました。でも最近「それは違う、それは自分のせいだ」と思うようになり、それもまた苦しく数年間悩み続けてきました。その結果、仏教を学びたいと思いある寺院を訪問しました。 そこの寺院は家からはかなり遠いのですが、住職の日々のブログの文章に感銘を受けて訪れました。仏教の制度についての勉強をあまりしておらず、未だよく分かっていない部分もありますが、一度目の訪問のときに在家得度をして修行をすることになりました。得度式までに2回訪問し、お経や念珠について教えていただき、衣の購入と着用の仕方などを教えていただきました。 しかし、実際に師僧にお会いしてみると文章の印象とはかなり違っていて戸惑いを感じました。他の修行僧の悪口ばかり言い、〇〇さんという人がいるけどあの人は声が小さいんだよね覇気もないしありゃダメだとか、××さんという人がいるけどあの人は覚えが悪いんだよねいつまで経っても覚えないとか、事あるごとにこぼします。 更に、他の修行僧や私の個人的なこと(懺悔でお話するような超個人的な内容)を「この人はこういうことで悩んで僧を目指してる」などと大声でみんなの前で言われたのにも驚きました。一緒に修行をするので、そういいったことは公にして共有するものなのでしょうか。 そしていつも尼僧たちにばかり声を掛け師僧の両脇に座らせ、頂きものの菓子を尼僧たちにだけ分け与えていて、これも驚きました。お坊さんだから清廉だとは思いませんが、イメージしていた姿と全く違い戸惑いを感じています。 自分のような考え方は偏っていて堅苦しいですか?会社でも部下のことを重箱の隅をつつくように悪い部分ばかり見て、一方で女性ばかり可愛がる上司もいますが、その上司がどんなに仕事ができても仕事のやり方は参考にしますが、尊敬はできません。 でも師僧には尊敬を求めたい。尊敬できる師の下で修業したい。こんな考え方は青臭いでしょうか。会社と同じように、修行も仕事も同じで、師僧から技術を教わればよしとするものでしょうか。もう得度式も終わってしまい、実際の修行に入っていますが、もやもやとした迷いが生じてしまい悩んでいます。

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2024/09/24

瞑想して病気を治すように言われた

難病の再発で、真言宗のお寺で得度するつもりでしたが、やめておこうと考えました。 理由は住職様に、難病を理由に得度を延期したい旨を伝えたら「治療で飲むステロイドをやめて、瞑想した方が良い」と言われ、びっくりしたからです。 いやいや、私の難病はステロイドを飲まないと、他臓器不全を起こして死んでしまうのですが! という趣旨の話をしたら、笑われました。 持病の双極性障害は落ち着き、今まで関わってくれた人達のお陰で50年いきてこれたので、今は冷静に残りの人生を誰かの役に立てるように生きたいと思えるようになり、得度したいと思いました。 でも、よく考えたら得度しなくても、そういう生き方はできます。 正直、話を聞かず医療も否定する住職様に幻滅してしまいました。 これからも、自分で好きな観音経や他のお経の勉強も、書籍で出来ます。 ご先祖供養の仏前勤行も、音源を手に入れたので、自分で練習して出来ます。 お坊様も人ですから、色々な方がいます。 僧侶としての経験は立派で尊敬していますが、なんとも複雑です。 仏壇やお位牌の開眼供養を、大したお布施も出来ないのに快く受けてくれる僧侶の友人の紹介の住職様なので、これから住職様と、どう関われば良いかなと考えています。

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2023/05/07

子どものお祭り・法要について思う事

 いつもお世話になっております。日本には、各地の寺社で、 「泣き相撲」や「得度式」などの法要や祭りがあります。  私は、思う事があります。ある日ニュースを読んでいると、 得度式について取り上げられていて、 「小学生の息子を得度させました。本人は、初めこそ嫌がっていた ものの、周りの子たちもみんな丸刈りなので、慣れたようです」 と母親が記者さんに答えていました。  これ、カルト宗教とやってる事変わらないんじゃ? 子どもは、自分で意思表示をすることができません。 たとえ「いやだ」と言えても、大人から圧力をかけられれば、 恐怖のあまり隷従してしまいます。  じゃあおっかさん、あんたは得度したのかえ?完全に、 自分の子をアクセサリーにしているように感じました。  まして、今の日本では宗教なんて慢心のためのアクセサリー みたいな考えの人が多いのに。  さらに、成長期の子が断食をし、それを褒めたたえたタレント がいました。医療界からは、 「なんて事を!成長期の子どもが栄養を断つなんて、危険極まり ないことなのに。イスラム教だって、子ども、妊婦、生理中の 女性の断食行は免除されている」 と驚きの声が上がっています。  泣き相撲もそうです。赤ちゃんが泣くのは、不快だから。これは、 育児や発達心理学の基本です。わざと泣かせて、楽しむ? それこそ、心理的虐待でしょう。  さらに、未就学児の小さな体に、2kgもの餅を背負わせて歩かせる 儀式もあります。あまりの重さに、泣いて倒れこんでしまう子ども もいます。それを見て、大人は喜びます。骨折でもして一生後遺症、 なんて事にもなりかねません。  これらの子ども系の祭りや法要は、すべて、子供の意思は無視。 得度式など、人生がかかっているのに。結果を出そうとしない 怠惰な大人が、「うちの子すごいでしょ!」と驕るために、 子どもに思想を押し付けるのでしょうか。  意思のない人への信仰の押し付け…カルト宗教そのものだと 思います。私は、一人の宗教者(俗人ですが、あえてこの言い方 を使っています)として、憤慨しています。  何度も言うように、今の日本では、宗教は心の原動力(エンジン) ではなく、怠惰の免罪符、驕りのアクセサリーになっています。  本当に、嘆かわしい限りです。

有り難し有り難し 9
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