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検索結果: 202件

自分の進むべき道

長文失礼致します。 ここ1~2ヶ月の間、あることを切っ掛けに特定の宗派のお寺に伺うことが増えました。 その中で、あるお寺のお弟子さんとお話しさせていただいた時に「お坊さんにならないのか」と問われ、その事についてモヤモヤとしています。 何故言われたのかはなんとなく理解できています。 それというのも、縁があり菩提寺とは別の宗派のお坊さんと知り合いになり、そのお坊さんに娘のように可愛がっていただいていました。 そのお坊さんに本当に色々なことを経験させていただき、そのお坊さんがいなければ今の自分は居ないと思うほどです。 亡くなってしまったため今は直接会う事は叶いませんが不思議と淋しいという感情はありません。 このようなことをお弟子さんにお話ししたところ上記のような発言となったのです。 恐らく「経験」の内容が水行等、修行に関することが多かったからなのでしょう。 さらには「そのお坊さんは貴女をお坊さんにしようとしていたのでは」ともお弟子さんに言われました。 しかし上述のとおり、懇意にしていたお坊さんは亡くなってしまったため真相はわかりません。 でもなんとなく私に色々な経験をさせてくれたのは自分で自分を守るためなのではないかと思っています。 いずれにしろ真相は分からないのですが… ここまでであれば私の性格上「こんなこと言われたな」程度で終わるのですが 先に書いたとおり特定の宗派(懇意にしていたお坊さんと同じ宗派)のお寺に伺う機会が増えたと同時に そのそれぞれのお寺でお経が始まる確率がすごく多く 必ずと言って良いほど伺ったお寺でお経を耳にするようになりました。 ちょうど御開帳が始まったり、こんなタイミングあるのか?と不思議に思うほどです。 そして何故かずっと開経偈が頭から離れないのです。 特に今の生活を変えたいとか思ったことはありません。 ただお坊さんになりたくないとも思いません。 行く先にその選択肢があるのなら選ぶ確率はゼロではないと思います。 最後になりましたが ・お坊さんにならないのか聞かれたこと ・お経を耳にすることが急激に増えたこと ・開経偈が頭から離れないこと これらの事は何かを意味しているのでしょうか。 またこれらのことから今私自身がすべき事はなにかありますか。 ご教授いただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。

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師僧について

自分は仕事でもプライベートいつも選ばれない人間だと感じていて、今までそれを周りのせいにしてきました。周りを恨んできました。でも最近「それは違う、それは自分のせいだ」と思うようになり、それもまた苦しく数年間悩み続けてきました。その結果、仏教を学びたいと思いある寺院を訪問しました。 そこの寺院は家からはかなり遠いのですが、住職の日々のブログの文章に感銘を受けて訪れました。仏教の制度についての勉強をあまりしておらず、未だよく分かっていない部分もありますが、一度目の訪問のときに在家得度をして修行をすることになりました。得度式までに2回訪問し、お経や念珠について教えていただき、衣の購入と着用の仕方などを教えていただきました。 しかし、実際に師僧にお会いしてみると文章の印象とはかなり違っていて戸惑いを感じました。他の修行僧の悪口ばかり言い、〇〇さんという人がいるけどあの人は声が小さいんだよね覇気もないしありゃダメだとか、××さんという人がいるけどあの人は覚えが悪いんだよねいつまで経っても覚えないとか、事あるごとにこぼします。 更に、他の修行僧や私の個人的なこと(懺悔でお話するような超個人的な内容)を「この人はこういうことで悩んで僧を目指してる」などと大声でみんなの前で言われたのにも驚きました。一緒に修行をするので、そういいったことは公にして共有するものなのでしょうか。 そしていつも尼僧たちにばかり声を掛け師僧の両脇に座らせ、頂きものの菓子を尼僧たちにだけ分け与えていて、これも驚きました。お坊さんだから清廉だとは思いませんが、イメージしていた姿と全く違い戸惑いを感じています。 自分のような考え方は偏っていて堅苦しいですか?会社でも部下のことを重箱の隅をつつくように悪い部分ばかり見て、一方で女性ばかり可愛がる上司もいますが、その上司がどんなに仕事ができても仕事のやり方は参考にしますが、尊敬はできません。 でも師僧には尊敬を求めたい。尊敬できる師の下で修業したい。こんな考え方は青臭いでしょうか。会社と同じように、修行も仕事も同じで、師僧から技術を教わればよしとするものでしょうか。もう得度式も終わってしまい、実際の修行に入っていますが、もやもやとした迷いが生じてしまい悩んでいます。

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2023/05/07

子どものお祭り・法要について思う事

 いつもお世話になっております。日本には、各地の寺社で、 「泣き相撲」や「得度式」などの法要や祭りがあります。  私は、思う事があります。ある日ニュースを読んでいると、 得度式について取り上げられていて、 「小学生の息子を得度させました。本人は、初めこそ嫌がっていた ものの、周りの子たちもみんな丸刈りなので、慣れたようです」 と母親が記者さんに答えていました。  これ、カルト宗教とやってる事変わらないんじゃ? 子どもは、自分で意思表示をすることができません。 たとえ「いやだ」と言えても、大人から圧力をかけられれば、 恐怖のあまり隷従してしまいます。  じゃあおっかさん、あんたは得度したのかえ?完全に、 自分の子をアクセサリーにしているように感じました。  まして、今の日本では宗教なんて慢心のためのアクセサリー みたいな考えの人が多いのに。  さらに、成長期の子が断食をし、それを褒めたたえたタレント がいました。医療界からは、 「なんて事を!成長期の子どもが栄養を断つなんて、危険極まり ないことなのに。イスラム教だって、子ども、妊婦、生理中の 女性の断食行は免除されている」 と驚きの声が上がっています。  泣き相撲もそうです。赤ちゃんが泣くのは、不快だから。これは、 育児や発達心理学の基本です。わざと泣かせて、楽しむ? それこそ、心理的虐待でしょう。  さらに、未就学児の小さな体に、2kgもの餅を背負わせて歩かせる 儀式もあります。あまりの重さに、泣いて倒れこんでしまう子ども もいます。それを見て、大人は喜びます。骨折でもして一生後遺症、 なんて事にもなりかねません。  これらの子ども系の祭りや法要は、すべて、子供の意思は無視。 得度式など、人生がかかっているのに。結果を出そうとしない 怠惰な大人が、「うちの子すごいでしょ!」と驕るために、 子どもに思想を押し付けるのでしょうか。  意思のない人への信仰の押し付け…カルト宗教そのものだと 思います。私は、一人の宗教者(俗人ですが、あえてこの言い方 を使っています)として、憤慨しています。  何度も言うように、今の日本では、宗教は心の原動力(エンジン) ではなく、怠惰の免罪符、驕りのアクセサリーになっています。  本当に、嘆かわしい限りです。

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再び迷っています

以前に得度について質問したものです。 あれから、自分でも色々調べてみました。まず、わたしのような者の師僧になって下さる僧侶の方に深く感謝します。 費用についても、ほぼ工面できます。 僧侶になった後、入りたいお寺も、あります。(実家のある田舎のお寺の僧侶が事件を起こし、懲役刑となり 解任となったあと五年も住職不在です。このままつぁは廃寺になりそうなので、これは大変と、墓は都会にうつしましたが、いまは早まったかなと後悔しています。子供の頃から親しんできたお寺なので、もし、お許しがあればそこに入りたいです)自分一人の生活費は、なんとかなります。過疎の限界集落で若い人はほとんどいませんが、それでも残って生活している知り合いのおじちゃん、おばちゃんの力になりたいのです。(平均年齢は90近いです) で、今日の相談なのですが、いろんなお坊さんのお話を聞いているうちに、お坊さんの世界にも権力闘争とか、色と欲にまみれている方とかが、いるようです。高名な僧侶の方の耳を疑うようなスキャンダルも耳にしました。 そんな深い闇があるとは!わたしに、つとまるのか!ここに来て少しびびってしまいました。 もう、師僧(お墓を移した都会のお寺の住職さん)に法名をつけてもらっているのですが、自分のこころを整えるために、修行を進めるのを少し待ってもらっても良いものでしょうか。 つけ加えると、中学生の頃から仏道や出家への憧れがありました。菩提寺の住職さんといろいろと話しているうちに「得度してみるかね」「はい」とお答えしました。いろんな条件も整っているので、周りからの異論はありませんが、以前した質問のように仏教界には、ほとんど無知なのです。実情を見聞きして、少し気持ちが萎えてきました。

有り難し有り難し 11
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