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hasunoha 問答検索結果 : 「 般若心経 」
検索結果: 501件

仏教の理解と学び方

初めて、お便りさせて頂きます。 最近、仏教の教えを知り教えを学ぼうと考えています。 現状の仏教の理解や考え方の方向性が正しいのか確認をさせて 下さい。 現在、深刻な悩みはなく本件のご相談は、急ぎではありません ので悩みごとのご相談の皆様を優先させて下さい。 ■現状の理解内容(超要約して記載します) 1)仏教の目的:涅槃(解脱)に至ること。幸せを説くこと。 2)涅槃(解脱)への到達の方法として「四聖諦」があり、日々の  実践として「八正道」がある。 3)最初に苦諦の理解の為に、無常・無我、因縁を理解することが必要  以下は、私の解釈した定義です。  無常:この世の全ては移り変わるもの  無我:全ては繋がりの中で変化している現象である  因縁:原因+条件(環境等)があって結果がある 4)今後の方向性(考え方や実践内容)について ・目的:   日々の生活や仕事で、怒りなく、平穏で周りの役立つ人生を送る ・行動や思考の指針  日常生活では、八正道、慈悲喜捨、五戒などを意識し、正しい判断  基準で行動する。 ・貪瞋痴に支配されない為の手段として、ヴィパッサナー冥想があり  今の瞬間に気付けるようにする。これにより、無常・無我、因縁が  頭でなく、身体で理解(体験・体感)できるようになる。  常に、今の瞬間の自分に気付くようにし、正見・正念・正定の向上  を図ることにより、煩悩が湧いてこないようにする。 以上の認識や方向性で、大きな誤りや重大な認識漏れがないか、 ご指導を頂けましたら幸いです。

有り難し有り難し 28
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清らかになるために死んでしまいたいのですが

今までのまだ短い人生で、沢山の失言、失敗、罪を重ねてきました。見栄を張ったり、調子に乗ったりと。 私は美しいものが好きです。とはいえ、清らかなものが全てだとは思いません。芸術もやるのですが、ドロドロとした気持ちを見つめ直すことの大切さも感じます。人間らしさも必要だと。 しかし、自分の事となると、やはり「清らかな水のようなもの」に憧れてしまう。私は中身も外見も醜いのです。だからこそ、空気のように、灰のようになりたいのです。失言をして人を傷つけ、自分を貶めるならば、物言わぬものになり、溶けるように消えてしまいたいと、ずっと思っています。 それが美しくない私の逃げだと、自覚はしています。しかし、毎日、「あの人ともっと上手く話したかった」「こんな情けない姿を晒したくなかった」「もっとスマートに過ごしたい、恥ずかしい」「嫌われているのではないか」など失敗と反省を繰り返すことに、疲れ、透明なものに憧れます。 質問なのですが、清らかなものになるために死ぬというのは、罪なのでしょうか?この憧憬の気持ち、切ないほどの透明への憧れを、どうしたら良いでしょうか。

有り難し有り難し 42
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生きることも死ぬことも不安で仕方ないです

私は生まれてから今まで、恵まれた環境で何一つ不自由なく過ごさせて貰ってきました。 それなのにもしくはそれ故に、今の生活から何か不自由なことが起こったらどうしようかという心配が止まず、心を落ち着かせて今を満喫できません。 諸行無常の世の中で変化を恐れ、身内や自分の健康や金銭面での安定がいつまでも続いて欲しいと願い続けています。 これは誰もが願うことであり、そして変化は避けられないものだと承知していますが、明日の我が身に何が起こるか知れないと思うと、生きることも死ぬことも不安でなりません。 今お金を使ったが為に将来金銭的に苦労することになったらどうしよう、今余分に食べたが為に肥ってしまったらどうしようなどという些細な心配から、もし仕事で大事故に繋がるような失敗をしてしまったらどうしよう、もし身内が事件に巻き込まれていたらどうしようという不安が、堪えず頭を過っています。 こんな心配ばかりしている人の声はなかなか耳にしませんが、本当は皆同じように不安を抱きながら過ごしているのでしょうか? 周りの人達はもっと明るく前向きに暮らしているように感じられ、自分のこの無意味な心配性をどうにか良い方向に向けられたらと思っています。 失敗から学んだり這い上がることも大切なはずなので、もう少し精神的に強くなりたいです。 いつか必ずくる死や苦しみを受け入れられるようにもなりたいです。 少し変わったところで心配性で、生きることも死ぬことも不安な自分に、前を向けるよう何かお声掛けを頂けたらと思います。 どうぞ宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 22
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教えて下さい。

今年2月に父が急死しました。父と言っても母の再婚相手で養子縁組などしておらず、戸籍上では他人です。 父は高校卒業後、進学・就職の為家を離れて現在の場所を終の棲家とし、生家よりお仏壇を移動しておりましたが、母には仏事全般に関わらせてなく(再婚した時はお互い50代でご先祖さまは何年も前にお亡くなりになっており、母の性格上自分が関わりたくないことを強く拒絶する傾向にある為) 生前、「お前には迷惑や面倒をかけないから」と良く母に言ってたそうです。 きっと聡明な父は、1人で抱えてやってきたんだと思います。 今までもお仏壇にはお水を供えてお花や果物を供えてはいたようですが、 私が「ご飯やお茶は?」と尋ねると、「今までお水だけでいい!って言われてたから、しなくていい」と言います。 この度、母と一緒に暮すようになった為、今後は出来る限りきちんとしていきたいので、足らない仏具は買い足し、毎朝ご飯とお茶をお供えするようにしました。 私の育った環境が宗教とはほぼ無縁だった為知らないことばかりで、今ネットで調べたりしながら勉強中です。 ご先祖様のお墓も遠方で(車で3時間程の隣県)私は数回お参りに行った程度です。菩提寺には行ったことはありません。母も無いと思います。 父の葬儀も同じ宗派の近くのお寺を探してお願いしました。 今後、父のお墓はどうするか?ご先祖さまのことはどうするか?いろいろありますのでその都度相談させて頂きたいのですが とりあえず、毎日のお供えやお勤めはどうすればよいのでしょか? 調べてみますと、ご飯とお茶とお水の両方という意見もありますし、お茶かお水のどちらかとの意見もあります。 お経本はお寺さんより頂きましたが、今まで触れる機会がなかったので どこをどう唱えればよいかもわかりません。お寺さんに尋ねることを母が嫌がります。(きっと、年齢的にも何も知らないと思われることが嫌なんだと思います) 父を亡くして日も浅いので、母に意見するつもりはありません。母の自尊心を傷付けないようにしながら、私が出来ることからやっていきたいのです。 父方の親戚付き合いもあまり無いので尋ねる事も出来ません。 宗派は真言宗です。 お世話になった父の為これからいろいろ勉強していきたいので、よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 17
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主人が他人から命を奪われた苦しみ

主人は他人から命を奪われました 身体も半分なくなりました 即死でした、ほんとにこれからの 人生を夫婦で楽しみにいたので どれ程の無念だったか…残った私も いつでも私を一番に思って愛情をくれてた唯一の主人が殺される形で突然逝ってしまったのです、結婚30年目でした、あの事故から2年が経ちますが、私自身は未だに何も受け入れられないし、人との関わりも何を話したらいいのか、病気ならそのままを伝える事は出来ると思うけど、こんな経験はあまり話せる物ではありません 上手くできないし、でもわかって欲しいと思ってしまって、でも無理だと知っての繰り返しで色々悲しいけど思い知りました、その度孤独感に襲われます、ゆっくり進めばいいよと言われて、それしか出来ないと それでもなんとかありったけのエネルギー使って頑張れーと奮い立たせて来ても経験してない人との距離は縮まりませんでした、それでも くよくよしてると主人が成仏出来ないよ、なんて言われて 経験してみなよ、好きでそうしてる訳じゃないんだ、心がもう無理なんだよ❗と怒りにも似た感情が出てきてまたそれが私を苦しめます 生きる事じたいを頑張らないといけない…殺されてなければほんとは 今も元気で普通にしてられたのに… と憎しみも増幅します ほんとに毎日何かと葛藤して それでも感情をコントロールしながらなんとか生きてます 何年こんな思いが続くのか 何も悪くない私達がどうして… でも主人にはちゃんと成仏して穏やかでいて欲しい、ちゃんと供養もしてますし、お花、ご飯、お水を供えて祈ってます、愛する人の命を他人から突然奪われる、この世でこれ以上の苦しみってあるのでしょうか? 私はちゃんと主人に届くようにいきて行けるのでしょうか? 正直疲れて何もかも捨てたくなります、経験して初めて知る苦悩と葛藤でこの先に光は見えません あるのでしょうか? ただただ真面目に生きてきたのに なぜ?どうして?、わからず 救って欲しいです

有り難し有り難し 81
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2023/01/31

真言宗の僧侶になるには

僧侶になる人の心構えを教えてください。 自身を修行の場に身を置き、一切言い訳や弱音を吐けない場所で仏教を学びながら、自分や周りの人生を仏教を学んだうえで豊かにしていけるのでは?と考えてます。 高野山の宿坊では宿業務の傍ら、僧侶になれます。と求人が出ております。 このような場所に身を置いて学ぶ事の想像が出来ませんが、どんな人間でもそれなりの精神的成長は見込めるものでしょうか? 今は都会で暮らしており、少し人生に疲れているところはあります。何事にも中途半端になってしまうところもあります。 ですが、高野山の宿坊を調べてるうちに、ピンキリとあり、結局のところお金が神様と考える資本主義の世の中から断ち切れるか?修行の場にも俗世の欲望や煩悩から切っても切れない場であるのか? 全ては自分次第だとは思いますが、何かアドバイス頂けたらと思います。 真言宗にしたのは高野山含めて昔から馴染みがあります。 あと人との関係性を築くのがあまり得意ではなく、大体独り行動が多くここまで来ました。医療系の仕事で業務の会話のみで成り立つ、女性に囲まれた環境が長かったです。 男性社会の人間関係はどのようなものかも実情を教えて頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 28
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「死」を考えると気持ちが落ち着きます。

母の自殺から数ヶ月が経ちました。 四十九日を終え緊張の糸が切れたのか、うつ病が悪化してしまいました。 自責・不安・焦り・虚しさに毎日襲われます。気晴らしに…と好きなことをしても、楽しくありません。 また、母の自殺をフラッシュバックしてしまうため、"母が自殺した日"を何度も何度も追体験してしまいます。つらいです。 服薬治療も含め、できることは全てやっています。 でも、3年経った今も改善しません。それどころか悪化したので、「元気になりたい」という気持ちが湧いてこなくなりました。 以前は「元気になる」という目標がありましたが、今はそんなことを思えるほどの気力がありません。ただただ、生きるのに疲れました。自殺未遂をするほどには。 ただ、窓の外をぼんやり眺めながら遺書の内容や死ぬことを考えていると、心が落ち着くのです。 虚しさや不安を忘れ、「死んだら母のところに行けるかもしれない」と希望も湧いてきます。 以前こちらで相談したとき、【先に往かれた親しい方々やご先祖様がお母様をあたたかく優しくお迎えなさって下さいます。】と回答をいただいきました。 ふとそれを思い出し、「わたしが死んだら母が迎えてくれる、死んだら母に会えるんだ」と嬉しくなりました。 嬉しいなんて気持ち、久々に湧きました。だから、ホッとしたのかもしれません。 「死」を考えることで心が穏やかになるなんて、おかしいでしょうか。 また、心身共に疲れ果て気力がなくても、自分に鞭打って生きなければいけないのでしょうか。 わかりません。教えてください。

有り難し有り難し 42
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