hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
問答一覧
検索結果: 401件

家で死ねたとしても孤独死、もしくは屋外で野垂れ死ぬ運命なのか

人生の折り返し地点を迎えて、心穏やかに過ごすどころか毎日孤独で不安で仕方がありません。 今現在、独身で両親と兄と暮らしています。 恋人はいません。 友達は居ると言っていいのか悩んでしまうような付き合いの人がほんの数人います。 兄とは絶縁状態です。 親戚づきあいもありません。 私は精神疾患を持っていて今は無職なので、世間のコミュニティというものに全く属していません。 両親が亡くなってしまったら私はひとりぼっちです。 そのことを考えると堪らなく寂しくなって夜も眠れません。 外を歩いていても家族連れや友達と連れ立って歩いている人達。 携帯で話しながら歩いている人。 仕事をしている人。 誰を見てもひとりではありません。 自分だけが世の中で一人ぼっちだという思いに苦しめられます。 両親が居なくなった後、収入が無くなり住む家もなくなり路上生活を余儀なくされ最後は一人、野垂れ死ぬ運命なのだと思うと悲しくてたまりません。 そうだとしても、一人で心穏やかに最後を迎える事が出来るでしょうか? どうしたら、どんな環境下にあってもひとりで強く生きていくことが出来ますか? 自分の未来に何の楽しみも見出せません。 死のうとは思いませんが生きているのが辛いです。 アドバイス頂けたら嬉しいです。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 22
回答数回答 2

孤独感を消すにはどうすればいいですか

訳あって自分の両親と連絡を取っていません。何かあっても頼って行くことはできません。 夫がいますが、夫の親族には会ったことがありません。実家の詳しい場所も知りません。夫の実家には義母と元妻が住んでいます。元妻は幼少期に両親をあいついで亡くし、天涯孤独のために義母を親のように慕っています。義父や義祖母の世話をしてくれたこともあり、元妻にはとても感謝しています。それだけに、私が夫の実家へ顔を出すことはこれからもないと思います。 娘が二人、私の別れた夫の元にいます。年に数回遊びに来ます。実の兄が一人いますが交流はありません。兄が就職で実家を出てから、何となく他人のような感覚でした。 普段からも多少孤独は感じますが、盆正月は非常に強く感じます。夫は一人で実家へ帰り、義母と元妻・幼馴染や兄弟夫婦・甥姪と過ごしています。たった一泊ですが私には会える幼馴染や兄弟・甥姪もないんだという事実が強烈に迫ってきます。アルコールと安定剤の増量で何とか耐えていますが、毎回悩まされています。 夫は私を実家へ連れて行くと、私が辛い思いをすると言います。 田舎の本家の長男なので、付き合いや挨拶がうるさいんだそうです。一度行くと毎回必ず顔を出さなければなるそうです。だからコミュニケーション障害の私には耐えられないだろうと言います。 こういう機会のたびに衝動的に希死念慮が出てしまいます。今回もどうにかやり過ごせましたが、これから年を取るにつれどうなってしまうのかが不安です。最悪、もしも夫が先立ったりしたら、実家へはどうしたらいいのか。思考が停止してしまうぐらい不安です。

有り難し有り難し 16
回答数回答 1
2023/05/20

自分の死を受け入れて生きる事は可能か

お世話になっております。 以前より、強い死の恐怖について質問しており、その度に暖かいご回答を頂き大変感謝しております。 今回は、自分の死を受け入れて生きることが現実的に可能なのか、という質問です。 今まで頂いたご回答や仏道の自習において、「死はみんな怖い、けれどそのまま生きている」「死の恐怖を無理に消そうとしない」「禅は【今を生きる】修行で、未来のことを考えない(未来のことを考えるのは、今を生きていない)」といったお考えを学びました。 このお考えの論理そのものはとてもよく分かります。そもそも怖がってたって人間は死ぬし、時間の無駄だとも思います。それでも湧く本能的な恐怖なのですから、放っておくしか無いのが実状でしょう。 また、心理学の森田療法でも同じように書かれており、宗教の壁を超えた現実的なお考えだと思っています。 ですが、その考え方は、本当に現実的に可能なのでしょうか?このお考えを知って尚、そんなふうに生きれない私がおかしいのでしょうか。 私は恐怖感に襲われ続け、正直もう疲れてしまいました。皆さんに暖かいご回答を頂いているのにも関わらず、恐怖を受け入れられない自分が情けないです。そしてできる限りの実践や自習もしてきたつもりです。自分のできる限り死に向き合って、でも実生活が疎か疎かになるから恐怖を無理やり忘れて、また思い出してはパニックになりの繰り返し。 日常的な禅などで身体で理解するまでにも至らず、3年ほど強く悩まされて「本当は恐怖を受け入れる日なんて来ないんじゃないのか、来ないまま慄き泣き喚き絶望に塗れて死ぬしかないんじゃないのか」と絶望でパニックの日もたくさんあります。 修行が足りないだけなら今後も修行するしかないのでしょうが、会得までの長い間がもう、頑張れないです。弱音吐いてすみません。 死ぬのが怖い、でもその気持ちを抱えたまま生きているのがどうしても苦しい。皆同じだからと言われても、私が納得できないんじゃ、私は救われないままです。 わがままだと思います。自己中だと思います。ただ、辛い現実から救われたいのは、それこそ皆同じなのではないかとも、思っています。 具体的な解決策はありませんでしょうか。 どうか知恵をお貸しください。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1
2024/03/17

母の死に冷静すぎる自分が嫌になる

昨日母が亡くなりました。いわゆる孤独死みたいな状況でした。きっと最後は辛かったと思います。かわいそうです とはいえ、私は仕事の日程とか諸費用とか手続きとかそんなことばかり考えています。あと趣味の大会の日程調整とか。 それなりには悲しいけどそれなりです。母の身になって考えればかわいそう、というだけで、私自身の悲しみとは違う気がします。もともとあまり関係が良好ではなく成人してからは不仲でした。しかし子供の頃には良い思い出もあるというのに。 自分自身にがっかりしてます。何でこんなに冷たいんでしょう。我ながらなんかおかしいんじゃないかと思ってます。 母の生前は苦しかったろうし寂しかったろうと思いますが、死んだらそれまでだなあと思うのが本音です。 浄土真宗の人だったので、仏様がいるとすれば阿弥陀仏が死後のことはなんとかしてくれるでしょ、みたいななげやりな気持ちもあります。母は駄目な人でしたが、そういう人でも、家族にろくに供養されなくても、阿弥陀仏はなんとかしてくれるって聞いてます。生前一度でも南無阿弥陀仏と唱えれば仏様との縁が結ばれて、すべての衆生を救いたい阿弥陀仏の本願によって西方浄土につれてってもらえるんですよね? もう私は供養とか関わり合いになるの嫌だ。 私もきっと一人で苦しい思いをしてのたれ死ぬんだろうなあと思います。

有り難し有り難し 21
回答数回答 1
2024/01/28

死について考えすぎる

昔から死や、明確でない死後の世界に対する恐怖心、不安感に襲われ日常生活でも情緒不安定な生活を度々してきました。 最近昔よりも少し大人になったためもっと複雑に考えてしまい苦しくなっています。 また私は小さな命を3度産む選択が出来なかった時があり 自分自身軽率な行動を取ってしまったために命を産むことが出来なかった。 その命は幸せに過ごして欲しい。 今一緒にいる3人の子ども達も幸せに過ごして欲しい。 死についての恐怖を抱いたまま大人になってほしくない。 でも私は死んだ後も地獄にいって苦しむかもしれない。 でも苦しいのや痛いのは嫌だ。と考えてしまいます。 今とても幸せなんだと感じながら生活しながらそれよりも死に対する恐怖心、不安感の方が強く楽しく日常生活を送ることが難しいです。 来世も人間になりたいと欲がありながら そんなことじゃ生まれ変われないかもしれないと思ってしまったりして 心が苦しいです。 この先死について考えることは無くならないと思いますが 今生きているこの瞬間をどうやったら恐怖心よりも楽しく幸せに過ごせるか、前向きに生きていくためにどうしたらいいか教えていただきたいです。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

母の死

母が1年前に自死しました。 まだ冷静にこのことを話す自信がなくて誰にもきもちを話せていません。 でもこのままじゃ前に進めないと思い、相談することに決めました。まとまっていないのですが、読んでいただけるとうれしいです。 私は親元を離れて独り暮らししていて、実家に帰るまえに父から電話があり、お母さんがつらそうだとも聞いていたし、妹からも帰ってきたときびっくりしないでねとも連絡がありました。 帰ると母はひどく落ち込んでいました。仕事でミスが重なったのが先か、病んだのが先かわかりませんが、仕事で失敗した、自分はダメだと言うようになり、動けない状態でした。 いつもと違う母に動揺してしまい、どうしたらいいかわかりませんでした。 母は父と相談し、精神科に行き、仕事もやめました。 しかしそんな矢先母は自死しました。 後悔していることがあります。 死ぬ前の日の夜、母と車に乗っていたとき、母が、もう、お母さん、死ぬと言いました。 けど私はちゃんと聞き取れなかったのもあって、えっ?と強めに言い返してしまいました。 母はなんでもないと言い、会話はおわってしまいました。 あと、振り袖を買いに行ったときも母に強めあたってしまいました。母が辛いのはわかっていたのに、ひどいことをしてしまいました。 母は私が辛いときにそばにいて支えてくれたのに、私はなにもできず、ましてや母の死を助長してしまうことをしたり、母の気持ちによりそえなかったりしました。 朝方、母は自死したのですが、一緒に寝ていたのはわたしでした。 なんで気づいてあげられなかったんだろうと、本当に申し訳ないきもちでいっぱいです。 死ぬことを考えてるんじゃないかと思ったのに、そのときの自分でいっぱいで、思いやりがたりなくて、防ぐことができませんでした。 ごめんなさいの気持ちでいっぱいです。 こんなことを考えると涙がとまらなくなります。普段は普通に過ごしているのですが、急に悲しくなります。 ほんとはもっとありがとうを言いたいです。母なしではここまでこれませんでした。母みたいな母親になりたいと思うほど母が大好きでした。 でも、わたしのせいで亡くなってしまいました。自分のことしか考えられなかった自分が嫌になります。 母からもらった命だから精一杯生きなきゃと思いますが、この悲しみとどう付き合っていったらいいかわかりません。

有り難し有り難し 56
回答数回答 2
2021/09/06

天涯孤独な老後が心配、死後両親と会える?

天涯孤独な老後が心配です。 心を許せる友人も恋人もいません。そしてなにより、両親が大好きです。 結婚はおろか付き合いたいと思ったことすらありませんが、いずれ結婚して子供を産んで、と漠然と思っていました。 しかし出会いもなくネットやアプリは怖い、となれば今更結婚できる気も、体調的に子供を産める気もしません。 また、大好きな両親がいなくなってしまった時のことを考えると昼は何も手につかず夜も眠れないほど辛いです。 辛い時に支えてくれる人もなく誰にも頼ることのできない、天涯孤独の老後が心配で仕方ありません。 両親は私の心の支えです。 特に母は面白く明るい性格のため、母がいるとその場が明るくなります。太陽のような存在です。同じゲームもしています。 母がいない部屋がどれだけ静かになってしまうのか、想像しただけで寂しいです。 また両親に結婚相手を紹介したり孫に会うという世間一般での普通の経験をさせてあげられないことが申し訳ないです。 今のところ老後の支えは、死後両親に会って今のように楽しく過ごしたい、ということだけです。 死後なので過ごす、という表現は違うかもしれませんが、両親にお迎えされ同じ場所へ行き一緒にいたいのです。 そこでお尋ねしたいことは、 1、死後両親と再会し共にいられますか? 恐らく私は孤独死してしまうと思うのですが、それでも両親に会って一緒にいられるでしょうか? 2、色々調べている中で未練があると成仏できないとありましたが、もし両親か私がお互いが心配で成仏できていなかった場合、私の死後両親と会って共に成仏?再会し一緒にいられるでしょうか? 3、もし両親や私が認知症になってしまって生前お互いを認知できなくなってしまっていた場合、死後お互いを認知できますか?両親と再会し一緒にいられますか? 私はとにかく死後も大好きな両親と一緒にいたい、それだけです。 会える、一緒にいられるのなら天涯孤独で寂しくてもそれを楽しみに生きていけるような気がします。 若いうちから今後や老後の心配して今を楽しめていない自分も辛く、勝手にうつになりそうです。 どうか今の私を救ってください。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 27
回答数回答 2

母親の死と罪悪感

以前にもこのサイトに投稿させてもらった者です。 母親の死から一ヶ月少々経ちました。 ですが、強烈な罪悪感が毎日毎日、自分の胸をえぐり切りきざみます。 数分違いで看取れなかったこと 死を察して、寂しく孤独を感じていた母親に付き添わなかったこと どちらも僕がその気になればいくらでも出来たことなのに、自分のことを優先するばかりに、それをしなかった。 その結果、母親を孤独と寂しさの中で誰にも看取られず、逝かせてしまいました。 今更それを嘆いても、後悔しても、どうしようもない。 でもどうしても、頭の中が一日中、そればかりなんです。 勇気はないですが、常に勢いに任せて、自分で命を絶つ考えを持ちながら生活しています。 というか、その日をやり過ごすのが精一杯で・・・ 僕もいつか逝く時は、独りで孤独に死ぬことになるんだろう?とか、食事をするにしても、あんな親不孝なことをしておいて、ご飯なんか食べる資格が俺にあるのか?とか、すべてが悲観的にしか考えられないんです。 日が経つにつれて・・・とかよく言われますが、僕の場合は日に日に罪悪感が大きくなっていくようで、そのうちどうにかなってしまいそうです。 もちろん、まだ母親が逝った事実も受け入れられてない状況で・・・ もう二度と逢えないと思うと、寂しくてたまらなく・・ 母親の 『寂しい』 『何でまだ死ねないの?』 『家に帰りたい』 この言葉が一日中ループしていて、恐ろしく辛いです。 僕は生に値する人間なんでしょうか? こんな親不孝な自分が、のうのうと生きていていいんでしょうか? こんなこれ以上ない親不孝物の息子に、この先の未来はあるのでしょうか? また、未来があっていいのでしょうか? これほど辛い毎日で、生きる意味は?

有り難し有り難し 202
回答数回答 3
2022/11/03

死を前にして

当然ですが、死は誰の目の前にもあって、それを余命という形で知らされた時は感謝すら覚えました。言葉どおり、死ぬ気で生きて来ました。 宣告された期間を超えた今、すでに余生な生活の感覚で、 すでに亡くなっている数人の友達を思うと、自分の死んだ後の周囲の人間は、こんな感覚なんだな、という経験もさせて貰い、恐怖より安堵でした。 ところが最近、夫に、ここ10年の間、(私から)愛されていると思えない、と言われました。 がっかりして、身体中の力が抜けました。 私なりに愛してきたつもりでしたが、彼の求める形では無かった事、ずっと彼はその想いを持っていること。私には同じ10年という時間は残されてない。その上、体力が明らかに落ちてきて出来ないことが増えてきているのが分かります。彼は、病気の事は知っていますが病状は知りません。 でも、そんな言い訳よりも私の気持ちが落ち込み過ぎて、家にいるのが辛いです。 何をする気も起きず、生きる素晴らしさを毎日見せてくれていた植物たちの世話すら出来ないのです。 ましてや生きている大切な娘の前で元気に振る舞えず、『大丈夫?』と言わせてしまっています。 娘が情緒不安定になるかもしれない、と心配です。  私が元気に明るく居ることが1番良いとは思うのですが、どうしてもできず、かと言って家を出ることもできません。 心を落ち着けて暮らす(少なくとも娘の前で)には、なにか試す方法はありますか? 教えて頂きたいです。  いつ死んでもおかしくない状態で生きる気がなくなった今、早く死んだほうが周りの人にも良いのだろう。 彼は私が居なくなった後の事を思い、今は耐えているのなら、早く死んであげたい。 いつ死ねるかな。 と、だいぶネガティブです。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

母親の死

ちょうど一ヶ月前に母を癌で亡くしました。 僕の場合は特に罪悪感が強く、母の元気な時は結婚もせず、孫の顔も見せれず、病床で寂しがっていた時も 付き添ってやらなかった(付き添おうと思えば出来た) そして、最後も看取れず・・ 怖さと孤独と寂しさの中で逝かせてしまった・・という罪悪感に毎日毎日かられて、それを思うと、母が可哀想で可哀想でたまりません。 一人っ子なので、今は母のいなくなった家で 一人寂しく暮らしてます。 特に一人で晩ご飯なんか食べていると、寂しくてたまりません。 あぁ・・ 母もきっと 最後はこんな孤独の中で逝ったのかな・・って思ったりもして。 もうどうしようもないことはわかってます。 でも なんで一人で逝かせた? 付き添おうと思えば、いくらでも付き添えたのに・・ 叫ぶほどに寂しがっていたのに・・・ 寂しさは時間が癒してくれるかもしれませんが、この罪悪感だけは 一生もので、僕が死ぬまで背負っていかなければいけないような気がしてます。 母の性格なら『終わったことはもういい これから頑張れ』と言ってくれてるように思います。 ただそれは僕の勝手な気持ちであって、未だに寂しい気持ちの中で彷徨っているかもしれない・・・ でも、それも今となっては教えてもらえず・・・ 『寂しい・・』 『家に帰りたい・・』 逝く前の母親のこの叫びが、僕の胸をえぐります とても苦しいです。 とにかく 寂しさの前に、今は罪悪感が非常に強くて 毎日、胸を痛めて、なかなか前を歩く一歩が踏み出せない現状です。 母親がまだ元気な頃は、あ~だこ~だ言ってお世辞にも大切にはしていなかったのに、いなくなって初めて、寂しい・・可哀想・・もう一度だけで良いから逢いたい・・ 今に思えば、僕の結婚、孫の顔ももうとっくに諦めていたはずだし、横になりながらTVを見ているような毎日で、母親はいったい何が楽しみで生きていたんだろうな・・と考えたり。 こんなことを、母親がいなくなってから想っている自分勝手な息子です。 僕のおふくろが死んだなんて、まだ信じられないです。 やはりこの罪悪感は親不孝物の代償でしょうか? 一生背負って生きていかないといけないものでしょうか? 是非、意見を聞かせてください。 辛さのあまり自分の命も絶つことも考えました。 でも、結局は生きていくしかなく・・・

有り難し有り難し 13
回答数回答 1

生と死について

母が亡くなって3年目です。父は朝晩仏壇に向かい般若心経を唱え、花やお菓子をお供えしています。 母が生きている時は母の誕生日も忘れ、子どもの私が困っていても見て見ぬふり、家事の全てを母にやらせ、休みの日は何もしなく、事なかれ主義で母が父方の親戚と折り合いが悪いのも母のせいにしてきました。 なのに、亡くなったらまるで神をあがめるようにお参りをする姿を見て、なんかおかしいと思うようになりました。 誕生日は忘れられるのに命日は思い出す。みんな集まる。生きてる時は無関心だったのに亡くなったらみんなお参りにくる。 それならば生きている時に共に喜び、泣き、喧嘩をし、仲直りをして、それが人間味のある生き方や人との繋がりなんじゃないかと思ったんです。 私は抑うつ状態で全般性不安障害を併発し、いじめ後遺症になり、対人恐怖症人間不信になってしまい、社会復帰は絶望的です。私は今、幽霊みたいなもんだなと思って生きています。私は精一杯、病院、行政、親戚等助けを求めてきましたが、支援されるまでにはいたりませんでした。友だちもいないし、親戚たちからはいじめられてきたのでとても孤独です。 孤独感とはなんだろうとずっと考えてきたのですが、誰の日常にも私の姿がない事だなと思いました。人に対する無関心さなんだなと思いました。 でも、死んだらこんなにたくさん集まってくれて、命日には思い出してもらえて、お盆もお彼岸も。 どうしてみんな生きているうちに人間臭く生きようとしないのでしょうか?目の前に起こっている現実から目を逸らして、真実を知ろうとせず、人を知ろうとせず、分かり合おうとする努力をしないのでしょうか?どうして人に優しくできないのでしょうか?死んでから優しくしても意味がないように感じるのです。 死んでから花をいけても本当に母は喜んでいるのでしょうか?生きていたらその花の鮮やかさを見たり感じたりできるのに。 だから私は母の命日より母の誕生日を思い出そうと思うのです。 この文章を読んで住職さんという立場からみてどう思いますか?

有り難し有り難し 30
回答数回答 1

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る

お坊さん33秒法話ピックアップ