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検索結果: 3055件

父の突然死

先月の暮れに父が自宅で突然亡くなりました。 前日までスキーに行っていた父 よくスキーの次の日は仕事を休んでいました。 私はその日夜勤明けで朝家に帰って 家の鍵が開いているので誰か家にいるのかと思いました。 寝ようと思い自分の寝室へ行くと父の部屋に父が寝ていました。 そのとき私はお父さん寝てるんだと思いました。 私が起きたときも少し覗いてお父さんまだ寝てるとしか思いませんでした。 そのまま声もかけず何もせず友達と飲みに出かけました。 したら夜22時ころ母から連絡がきました 早く帰ってきてと。 私は一瞬でなんであのとき声をかけなかったんだろうと思いながら家に帰りました。 そこにはもう冷たくなっていた父の姿がありました。 私は自分のせいじゃないかなと思いました。だけど死亡推定時刻は私が朝帰ってくる前でした。 いつも通りの寝顔で寝姿でまさか死ぬなんて思っていなかったくらいの父の元気な姿を見ていたのでとてもびっくりしました。 とっても泣きました。 いつもある生活が、お父さんがいてこそのものだったこと たくさん気づいたことがありました。 また、これからお父さんにしてあげたかったこと、 お姉ちゃんのようにウェディングドレス姿を見せて、孫の顔を見せてあげたかった。 思えば思うほどいろんなことがあります。 生前父と仲が良かったのかと言われればそこまで仲良かったわけでもなく だから、余計に悔しさや哀しみがあります。 だんだんと日常に戻っていく中で 泣くタイミングというのもわかりません。 本当はものすごく泣きたくなるときもあります。 友達と会ったときにも本当はお父さんの話を聞いて欲しくて、泣きたくて でも我慢してしまいます。 今でも、 なんでお父さんだったんだろうと 思ってしまいました。 父は60歳でした。 早いと思いました。これから定年迎えて第二の人生を楽しもうとしてたところでなぜ。お父さんなの。と 文がまとまらないのですが、 身近な人の死を経験したのが初めだったので、少し話を聞いてもらいたい気持ちもあり投稿させてもらいました。

有り難し有り難し 172
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幸せなはずなのにいつも死にたいです

はじめまして。私は幸せなはずなのに、なにをしていても常に死んでしまいたい気持ちでいます。 私にはたくさん友達がいて、仲の良い家族がいて、かわいい犬もいます。 大学生なのですが、アルバイトやボランティアと両立し、自分で言うのもどうかと思いますが成績も良く、充実しているはずです。 不満は1つもないです。 しかし、いつも死ぬことを考えてしまいます。 朝、目が覚めるとがっかりします。電車のホームで急行列車を見ると飛び込んだらどうなるだろうと思います。どのくらい食事を取らなかったら動けなくなるんだろうと考えながらご飯を食べます。 家族や友達と楽しく過ごしている時に、ふと私が居なくなったらどんなふうだろうと思います。 いつからこんなふうに考えるようになったのか、もう思い出せません。 私は優しくしてくれる人がたくさんいて幸せです。もし死んでしまったら多くの人が悲しむというのもわかっています。 それだというのに、ずっと死にたいのはどうしてでしょうか。 私は周りの人に感謝して生きるべきですが、どうしても死にたいです。 この気持ちを消すことはもうできないのではないかと自分では思っていますが、死にたいと思っていても、その気持ちと一緒に生きていくことはできるでしょうか。

有り難し有り難し 7
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2022/07/05

年明けを待たずに死にます

現在、貯金を切り崩して生きています。 このまま稼ぐ手段が見つからなければ死にますが、自分が野垂れ死ぬことには納得がいくというか、客観的な視点で「こんな奴死んだ方がいい」と自分にずっと思いながら生きてきました。 問題のある人格に対して「そんなんじゃ生きていけない」と家族から「厳しくも厳しくもありがたいお言葉」をいただきながら育ちました。結果、その通りになりました。 この世界がうまく回っていて、私だけに問題があるのならばまだ生きる希望がありました。しかし、現実はそうではない。私が生きていてもいなくても、この世界はどんどんと悪くなっていく。そもそも、生きることそのものが欠陥だとしか思えません。 人生は「他人にどう見られるか」が全てです。完全な自給自足ができない以上、何かの手を借りなければなりません。そのためには他人に好ましい印象を与えなければなりません。私はそれができませんでした。 この世界は私が生きようが死のうがどうでもいいものです。生きていられる人間は、「自分を大事にしたい」という動物的本能を疑わないでいられるから生きられるのです。しかし私はその本能こそが全ての苦しみの元凶と憎み、「全ての生命は存在しないほうがいい」という強固な思想に囚われています。これを打ち破る根拠をこの世界に見出せれば良いのですが、その機能が私に備わっている気がしません。何を論じられても、申し訳ないことに、「わざわざ生きる根拠」にはなり得ません。この世界には私よりもずっと有能で賢い人間が沢山いるのに、全生命を安楽に絶滅させる方向に行かないのは、私が決して感じることのできない「それでも生きる意味」があるからなのでしょう。 私の人格や感性が望まれたことなどありませんでした。それとも、関わる人間の誰からも死を望まれながら、殴られながら生きるのが修行でしょうか? 未来を捨て、この世界や他の人間に「生きさせてください」と頭を下げ、心身を削る「労働」を辞めた今が人生で一番安楽です。つまり、私の幸福は死の直前にしかありませんでした。 私の望みは、「物質世界から解放される」「五感、痛覚、あらゆるものを感じる機能を失う」「誰からも観測されない状態になる」こと、つまり、「永遠の死」「存在しないこと」です。そして、これこそがあらゆる生命が目指すべき地点だと思っています。こんなことを考える人間だから生きられないのです。

有り難し有り難し 13
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立て続けに起きてしまった死

 2020年の1月4日(土)に最愛の父が亡くなりました。死因は肺癌の治療での免疫力低下に伴う細菌性肺炎でした。何ヶ月も前から癌の治療はしていて、体調も良い日が続いて一時は退院したのですが、年末前に急に肺炎を起こし、そこからはひたすら悪化の道を辿り、当日は看護師の方も予想できないくらい急に亡くなってしまいました。そのため家族は誰一人として付き添ってあげられませんでした。父は12月28(土)に還暦を迎えたばかりで、そこから丁度一週間後の出来事でした。  そして、丁度今から1時間半ほど前に愛犬が亡くなりました。父の死から1週間が経った1月11日(土)に急に呼吸が苦しそな姿を見せ始め、様子を見て悪化するようだったら病院に連れて行こうと思っていたところ、今日の深夜になって急変してしまい、先ほどそのまま息を引き取りました。愛犬も1月5日に10歳を迎えたばかりでした。  父も愛犬も節目の年齢を迎えてから10日もしないうちに亡くなってしまい、さらにその期間がほぼ1週間ということ。愛犬は腰が悪くて寝たきり生活ではあったものの、1月10日(金)まではいつも通り元気に吠えて食事も排便もしていたのに、丁度父の死から1週間が経った日に体調不良になったこと。この立て続けに起きた不幸はただの偶然なのでしょうか?強い疑いがあるわけではないのですが、あまりにもタイミングが悪すぎたので、もやっとした思いがあります。  そして、先ほど愛犬が亡くなった際に母が「あの段ボールの服捨てなきゃ。あれが届いてから2人も亡くなった。」と言っていたことも引っかかりました。この「段ボールの服」とは、5~6年ほど前に亡くなった父の叔母の旦那さんの所有物であった未使用の洋服のことで、父が年末前の肺炎で2度目の入院をした後すぐの時に叔母から「誰も使わないし捨てるのも勿体無いので是非使ってください」と父宛に送られてきたものです。母はこの「(血の繋がっていない)故人の私物」が不幸の元になっているというのですが、そういうことは起こり得るんでしょうか?    また、元旦に私が父の代わりに仏壇や仏様の掃除をしたのですが、その過程で何か罰当たりなことをして、それが原因になってしまったということはあるでしょうか? 長くなってしまってすみません。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 38
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なぜ死を選ぶ事は悪とされるのでしょうか。

私は幼い頃から両親に愛情をもらえませんでした。優しい顔をする反面、親同士は毎晩毎晩、口を開けば私の養育費や世話をどちらがするか揉めていました。 鍵っ子だったので一人でいる時が逃げ場でした。 学校でもうまく馴染めず生きづらさを感じ、中学高校では軽く虐められたりキモいブス死ねなど頻繁に言われてきました。 後に生きづらさはADHDから来ていたものだとわかりました。 逃げ道としてバンドの夢を追いかけましたがメンバーからもずっと役立たずや死ねなど罵詈雑言の嵐。それでも夢の為に頑張りましたが裏切られ解散。 首を吊ろうとしましたがあと一歩踏み出せませんでした。お前はどうせ勇気がないから死ねないと言われた事をとても覚えています。 当時結婚を考えていた人にも浮気され何も持たない日々を今送っています。 どうせ死にたいのだからメメントモリよろしく、いつ死んでもいいようにと夢に向かって生きました。 夢は潰えましたがやりたい事をやり切った気持ちもあります。 今は朝日を浴びても美味しい物を食べても異性の温もりに抱かれても何も喜びを感じません。なぜ生きているのかわからず何も生産性の無い自分に生きてる意味も価値も見出せません。早くお迎えがきて欲しいと、苦しんでは息を吸い、絶望しては息を吐きます。 皆一様に、人は好きに生きる権利があると謳うのになぜ人は好きに死ぬ権利はないのでしょうか。 安楽死制度のようなもので死にたい時に幸せに死ねるほうがいいと思います。 死にたい事が苦しいのではないのです。 死にたい日々に終わりが見えない事が苦しいのです。 誰かの為に生きる事が喜びと言う人もいますが、それは強者の為に弱者の命が薪のように焚べられているだけで それを使命と呼べる人はいいでしょうが私には思えません。 私より優れた人はたくさんいて私より必要とされる人もたくさんいる。 友と呼べる人もなく、心許せる人もいない私には人生全うしたと心から思える歌に安らかに死ぬ事こそが幸せです。 もがき苦しみ泣きながら死ぬ必要などあるのでしょうか? 心の底から自ら死んでいった人達を悼みます。 一刻も早く安楽死制度を作るべきだと思います。生きたい人が笑顔で生き、死にたい人が安心して死ねる社会を望む事はおかしいでしょうか?

有り難し有り難し 25
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2023/09/09

いつか死んだ子に会いたい

我が子を自死で亡くしました。死後、いくつも心の闇を抱えていたことを知りました。その内容は裏切りでもあり、哀しみでもありました。 以来、想像を絶する悲嘆と悲しみに苦しむ日々です。 私自身、寺に生まれ寺で育ちました。懐疑的な性格であったので、熱心な仏教徒ではありません。 我が子の死と向かい合わなくてはならなくなった今、仏教やキリスト教で何かが救われるかと言うと、やはりまだそこに至っていません。 辛くてメンタルクリニックにも行きましたが、薬が欲しかったのではなく、あの子に会いたい、この苦しい気持ちをどうすればよいのか?という問いに医師は薬を勧めるだけでした。(当然ですよね…。) あの子に会いたい。話したい。抱きしめたい。あの子はどこにいるのか、自分が死んだら会えるのか、と日々問い続けています。 あの子が自分の周囲を彷徨っているのなら、声が聞きたいとイタコにすがろうかと思った時期もありました。霊感を説く宗教にはまってしまう人の気持ちがわかるようにもなりました。イタコや変な宗教には何もコンタクトは取っていませんが、辛い気持ちは何も癒されません。 最近、知人の医療従事者が、私に「自死した人はあの世に行けないんだよ」と言ってきたのは、さらに私を打ちのめしました。 私はいつか会いたい、その気持ちだけのためになんとか生きています。 あの世があるのか?そこで会えるのか? 誰もがわからないその問いでしょうが、 これからこの悲しみにどう気持ちをもっていけばよいのでしょうか。 愛別離苦の辛さだけでも、心が悲しみで爆発しそうです。 倶絵一処というのは、自死した子とは願ってはいけないのでしょうか。あの世があるのであれば、死に方次第でそんなに区別されるものなのでしょうか。 会いたい、会いたい。こう願う気持ちはおさまることを知りません。 体調のことがあって止められていた飲酒をするようになりました。長生きしたくないからです。それでも日々、仕事やボランティア等できることは無理してやっています。時々涙が出てきます。 自死したあの子と会いたいと、ひたすら願いながら。 けれどもだんだん疲れてきました。 自死した子と浄土で会えないならば、何に縋って生きていけばよいのでしょうか。

有り難し有り難し 63
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親族の死に対する気持ち

お世話になります。 身近な親族の死に対する私の気持ちはいったい何なのか、ヒントを頂ければと思い投稿いたします。 3年ほど前に父を亡くし、さらに先日祖母が亡くなりました。 父を亡くした際もこちらでご相談に乗っていただいたのですが、その時には「悲しい」という感情ではなく「申し訳ない」などの感情ばかりでした。 今回の祖母の死でも、「悲しい」ではなく「お疲れ様、頑張ったね」という気持ちがほとんどなのです。 もちろんまったく悲しくないというわけではないのですが、一般的な「悲しい、つらい、会いたい、死なないで」などといった感情にはならないのです。 これは身内に限ったことのようで、たとえば好きな芸能人の訃報にはとても悲しくて「もう会えない、もう声が聞けない」と泣いてしまいます。 一方、親族に対してはやはりそこまでは悲しくなく、心で生きているような、そんなに遠くに行っていないようなそんな気がして大して悲しくはないのです。 顔を見れば「もう会いたいと思った時に気軽に会えないし話せないのだな」と思って少し寂しくは感じるのですが、何度も言うようですがやはりそんなに悲しくはありません。 この感情?気持ちはいったいなんなのでしょう。 時々私は薄情なのか、親族がそれほど嫌いなのかと考えてしまいます。 ヒントとなるようなご意見を頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 8
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捕獲した玉虫の死

3日前に炎天下の路上をゆっくりと歩いている玉虫を見つけました。3年前に逝去した母が、どこかで見つけた玉虫の死骸を大事に箪笥の中に仕舞っていたこともあって、偶然見つけたこの玉虫も何かの縁だと思い、自宅に持って帰って最期まで育てようと思いました。 虫篭の中での様子を見ているともう体力も無くなってきているのか、動作も緩慢で、何の餌を与えればよいのかもわからず、やはり外に逃がすのが自然だと思い、裏庭に逃がしました。 しかし、二日ほど経ってもまだ裏庭から消えず、紫陽花の葉の裏に逆さにくっついている姿を見つけ、居ても立っても居られなくなりまた虫かごに戻した次第です。屋外で雨に打たれたりして、地面に叩きつけられて死を迎えるよりましだと思ったからです。今朝方様子をみると、微かに足を動かしていたようですが、午後には死んでいました。  私の気持ちの中で、珍しい美しい虫をずっと持っていたいという利己心への嫌悪と、母への思いが重なって涙が止まりませんでした。我々が畳の上で死にたいと願う気持ちと同様、動物にとっても彼らにとって一番自然な環境のもとで死なせるのが最善でしたでしょうか。 よろしくご教示のほどお願いいたします。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

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