素人の私ですが、仏教を学んでみたいと思っております。 何か参考になる書籍やサイト等がごさいましたらご教授いただけませんか? 因みに私の家は浄土真宗です。 日常生活の中に仏教の考えって沢山あるように思えるのです。 よろしくお願い致します。
先日初めて質問させていただきました。 そこで、お坊さんも色々な戒律や教えに従って日々修行されているのだなと感じました。 そして新たに疑問に思った事があります。 ①お坊さんがパチンコなどのギャンブルをする事はどのような教えなのか? ②お坊さんが風俗に行く事はどのような教えなのか? ③上記の様な事がよろしくない事だった場合、その事をしているお坊さんは少数派かもしれませんが、そういうお坊さんを他のお坊さんは野放しにしているのはどのような教えにのっとっているのか?徹底するべきではないのか? ④お坊さんは高級車に乗っているイメージがありますが、乗る車について何か決まりでもあるのか?また、決まりがないとしたら、高級車に乗っている事はお坊さんとして恥ずかしくないのか? 他にも色々ありますが、とりあえず以上の4つについて出来るだけ簡潔に教えていただきたいです。 日本は無宗派が進んできているなどと言われていますが、お坊さんに対するイメージの変化も影響があるのではないかと思います。 あのお布施はパチンコに使われるのかな...とか、例えそうでなくても心のどこかで思ってしまうのはつらいです。どうしてもやりたいならお坊さんやめてやって欲しい訳です。 「悟りを得る為に良いことも悪いことも経験しよう」という人なら良いのかもしれませんが、悪い事を継続的にやる必要はないでしょうし、第一そういう心構えの人はそういう事をやってなさそうです。欲が絡むのは良くないと思うわけです。 無宗派が進む日本を変えようとするなら 人々を変えようとするのではなく まず、お坊さん自信が徹底して変わっていくのが一番の近道なのではないでしょうか。 最後に ここまで読んでいただきありがとうございました。私の無知さと出しゃばった発言、お許しください。決して、陥れようと思い書いたわけではございません。 ただただ、これからお世話になっていくであろうお坊さんの真実が知りたいだけです。
こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。
アラサー主婦。3ヶ月の息子がいます。 自分の心の弱さに嫌気がさします。 元々オタク気質で、ゲームが好きです。 ここ数年ソーシャルゲームにどっぷり嵌まり、課金額が相当いきました。 結婚式の費用で200万貯めていましたが、途中からソシャゲの課金に給料のほぼ全額の月20万近く使うようになり、今は貯金が100万ちょっとになってしまいました。 過去に、流石にヤバイと思いアプリをアンインストールした時もありました。ただ、気になるキャラが出たりすると、またインストールして課金をする。課金するのが嫌でアンインストールする...そういうループが止まりません。 最近は、この課金の金額で別の何が買えるだろうか、と思うようになったし、旦那にも貯金額がバレて、何に使っているんだと呆れられてしまったので、またアンインストールしました。 息子はかわいいです。息子の為にももう絶対にインストールと課金をしたくありません。 ゲーム内の彼らはただのデータだとわかっています。わかっているのに、いい歳してゲームにつぎ込むのをやめられない自分が嫌です。 自分の心を強く持ち、脱課金をするにはどうすればいいでしょうか。 宜しくお願いします。
こん○○わ。初めまして。よろしくお願いします。 さいきんとある方から聴いたのですが、阿弥陀仏の48願というものがあるとききました。 今流行りのアイドルのような数字なので、気になり調べましたが、 センターの願いとでもいうべきでしょうか。 第18願を浄土宗の法然氏は一番大切と言ったそうですが、インド語の原文にはない部分で書き足された部分だという話をききました。 私も聞いた話なので、詳しいことは知りませんが、 このことが本当なら、これはどのように捉えれば良いのでしょうか?? お坊さんの皆様お願いいたします。
戦国時代の大河ドラマをみていました。 織田信長が比叡山を焼き討ちにした後、信長の奥さんがお坊さんをたくさん殺すなんてとんでもないと信長を激しく非難します。 しかし、信長は「比叡山の僧は酒をくらい女を抱き、夜盗のような暮らしをしている。あんなものは僧ではない」といいます。 だからと言って殺していいわけではないと思うのですが、確かにお坊さんなのに武器を持って武士を殺し、仏を敬わず酒色におぼれる。 お寺に住んでいるけれど、戒律を守らずに略奪ばかりしている。 とてもお坊さんと呼べるような人たちではありません。 もちろん時代劇ですので、面白いように脚色しているのはわかります。 しかし、現代でもお坊さんなのに悪いことをする人もいるし、権力闘争で世間を賑わす人たちもいます。 一度仏門に入ってしまえば、悪いことをした後でもお坊さんとしていられるのでしょうか。 お坊さんも僕らと同じ人間なので、誘惑に負けたり間違った判断をすることがあると思います。お坊さんが悪いことをするとどうなるのですか?悪いことをして死後地獄におちた場合、お坊さんだと仏様に近い生活をした分だけ罪が軽くなるのでしょうか?
うつ病を患って2年半、あまりの苦しさに自殺を考えたことは何度もあります。心療内科に通っていますが、投薬だけでは症状の改善がなく、食生活の改善や運動、整体などのアプローチも試し始め、気分の良い日も増えました。ただ身体的な改善は出来ても心的な改善は出来ていません。うつの原因は会社でほぼ社内失業常態で、将来への絶望、不安感などです。耐え難い状況を受け入れ、心安らかに過ごす仏教的なアプローチがございましたら、ご教授くださいませ。どうぞ、よろしくお願い致します。
こんばんは。 同じような質問を他でも見かけるのですが、改めて質問させてください。話をまとめるのが苦手ですので長くなりますがご容赦ください。 一週間ほど前に出会った海外の僧侶の方に、 「なぜ、日本の僧侶は結婚するのか」 という質問をされました。 私の生半可な知識では到底答えられなかったのでhasunohaで見かけた意見などを紹介してみたのですが、いまいち質問の意図にそぐわない気がしました。 彼が訊ねていたのは妻帯を許されるようになった歴史とか、結婚したらしたなりの別の修行があるから、というようなことではなく、なんと言えばいいのか…もっと根本的なことのように思います。(と、いっても私の拙い英会話力での印象ですが) 会話の中では"不必要な結婚"(わざわざ戒律を破る不可解な行為)とも表現していました。 彼はインドで修行を開始し、その後"世捨て人"(なんと訳せば良いのかわかりませんが、英語ではrenunciantと呼んでいました。彼は家も(自認する)国籍も持たず、各地を放浪しながら乞食修行を行なっているようです)になったようです。不学なので詳しくはわからないのですが、インドでの仏教のあり方に最も共感しているようです。それ故、日本でのこの特殊な仏教のあり方に心底疑問を抱くようで、お寺が世襲制であることにも違和感を感じているようです。また、人によってそれぞれ適した修行方法があるし、だからこそ妻帯者には妻帯者なりの仏道修行があるのは認めた上で、それでも、最終的には乞食修行に行き着くのではないか、とも語っていました。 日本という国や仏教に関心を寄せる身として、「今後空海のような人が日本から出てくることはないだろう」とか、「日本のお坊さんは会社員と同じ(誰でも望めばなることができるし、ビジネスとしてやっている)」などと言われてしまうとなんだか悲しくなってしまいしたし、うまく答えられないことがとても悔しく感じました…。勿論、彼に日本を貶めようとかいう気が全くないことは重々承知の上ですが…。 長くなりましたが、hasunohaに集うお坊さま方は彼の質問"日本の僧侶はなぜ妻帯するのか"にどのようにお答えになりますか?是非皆様の智慧をお貸しください。 彼はまだしばらく近くに滞在しているので、会う機会があれば伝えたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。
各宗派の違いはあれど 仏教は釈迦の教えから発していると思いますが 端的にいってその教えの心髄、核心、エッセンスとは何でしょうか? 多くの宗派のお坊さんからご回答を頂けるとありがたく存じます。 なお恐れ入りますが、 仏教学的な、学べば分かるようなものは期待しません。
私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?