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検索結果: 1782件

亡くなった母の供養

昨年末に母が亡くなりました。 私は一人っ子で母親っ子だったので、いつか母が亡くなったら、その時自分はヤバイだろうなぁ。自分を保てるのかな?なんて物心がついてから考えたこともありました。別にマザコンで母がいないと何もできないとかじゃないけど、親父含めて自分を育ててくれた両親に親孝行してやりたいと思い、たまにご飯に連れていったり旅行に連れていったりしてました。自分で言うのは変ですが、回りを見ても親孝行してきた方だと思います。 でも喧嘩もたくさんしました。詳細は省きますが、携帯メールの迷惑メールとか詐欺的なメールを信じて金を取られ、家族に無心するようになり、拒否するとヤミ金に手を出すようにもなってしまいました。目を覚まさせようと何度も対話や説得を試みましたが、元々気や自尊心が強い母は騙されてることを認めるはずもなく、それどころか何故金が必要なのかとか詳細は一切話してくれなかったので、自分の思いが伝わらない母をぶん殴ってやりたいとか、家から出て行って欲しいと思うことも多々あったし、ここに書けないような低俗な言葉とともに何度も母にぶつけたこともありました。 それ以外の時は仲いい親子関係だったと思うのですが、そんな母が急に亡くなったとき、とても悲しかったのに、取り乱すこともなく、物凄く冷静な自分がいたのです。親戚付きないもほとんどなかったこともあり葬儀は葬儀というほどのものでもなく、親父と妻と妻の両親や兄弟だけのものでした。もちろん人前だから気をはってた部分もあったのですが、よくツラいと聞く火葬の最後の場面でも毅然としていました。 何が言いたいかというと、私は私自身がわからないのです。実母に対して思い入れがなかったのか?もしかしたら無意識に母の死でヤミ金の取り立てから解放されると喜ぶ自分がいて自分が冷酷なのかもしれないと思う自分がいるのです。もちろん涙を流したり、泣き崩れたりが個人に対する思いの尺度ではないことは理解しているのですが、母が自分を見たとき悲しまないか不安な自分もいます。 死語の事には懐疑派というより否定的だった自分ですが、父の実家の宗派の僧侶に葬儀、49日、新盆を依頼し、朝と帰宅後には母のお内仏に手を合わせるのが日課で、それは純粋に母に対する感謝、あるとするならあの世でみんなを見守っててねという思いからです。 私って一体なんなのでしょうか?

有り難し有り難し 12
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2023/03/25

実際に死とどう向き合っていますか?

以前より、死の恐怖について相談をさせていただいており、大変お世話になっております。 たくさんの方から頂いたご回答はどれも暖かく、そして勉強になっております。ありがとうございます。 問答の中で、自分の弱い点や、認知や考え方の歪みがわかり、この方法で恐怖を緩和していこうという方向性は見えつつあるのですが、恐怖緩和に対するどの方法を行うにしろ、習得や納得(体でわかるまでやる、なども含め)には多くの時間を要します。死は人生の命題ですので、一年やそこらで恐怖が激減し、納得することはできないと考えます。 私は方向性としては、禅などの「体で納得」を目指したいと考えていますが、これこそ一朝一夕で身につくものではないですし、仕事等による時間の制約もあり、納得に至るには長年の修行が必要だと感じています。 そんな風に時間をかけてゆっくりと学びを深めてはおりますが、もちろんその間にも死への強い恐怖感は消えません。特に、楽しいことがあった日の帰り道や夜には、必ず「この思い出も自分の存在もいつか消える」という思いで気が狂いそうになり、パニック症状が出ます。 それを、娯楽へ走ったり、禅と宗派は異なりますがお念仏に頼ったり、お墓やお寺に行ったりと、一時凌ぎでやり過ごしているのが現状です。このように、最近は「いつか死ぬ」ということがいつも恐怖で気掛かりで、楽しい・嬉しいなどのポジティブな場面が心から楽しめないような感覚になっています。 前置きが長くなりましたが、 お坊さん方の中に、今に至るまでに修行をなされている間に私のように気持ちが揺れたり、恐怖でパニックになったりしたご経験をなされている方がいらっしゃいましたら、「ご自分が一旦、その問題(私で言うところの死の恐怖)への納得感を得られるまで」に、どのような心持ちや行動で過ごされていたのかをお聞きしたいです。 また、現在も私は死の恐怖緩和についての対処を学んでいる最中ですので、もし同じ問題に悩み、納得した方法や考え方があれば、併せて教えて頂けると嬉しいです。 お時間ある時で構いません。様々なご回答を聞きたいです。お手数をおかけ致しますが、ご回答頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 13
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2023/02/05

罪に気づけたことは良いことなのですか?

今回も私のせいで苦しめた挙げ句に死なせてしまった犬ちゃんに関連する質問をさせてください。 いつもありがたいご回答をいただき本当に感謝しています。 未だに気持ちを切り替えられずに申し訳ありません。 頂いた回答は毎日読み返しては感謝と懺悔をしております。 一年ほど前に愛犬(と呼んでいいのかもわかりませんが)を亡くしました。 自分のせいで亡くなりました。 不慮の事故などではなく、私のせいで病気になり、その病気のことで獣医さんから再三言われていたことを勝手な思い込みから真逆のことをし、 苦しめた挙げ句に衰弱させ病気も進行させ死なせてしまいました。 世の中のどの飼い主さんよりも極悪非道な人間です。 そんな最低最悪なことをしておきながら、私は自分の罪に気づいていませんでした。 毎日病院に連れていっただけで、できることをしていたと思いこんでいました。 それどころか、死んでしまった愛犬のことは悲しいけれど、それ以外は毎日幸せだと思い生きていました。本当は自分が殺したのに。 自分が殺した、しかも苦しめた挙げ句に…ということに気づいてからhasunohaに出会いました。 毎日毎日たくさんのありがたいお言葉を見て、知らないことが罪だとも知りました。 そして罪に気付き懺悔や反省をすることが大切だとも知りました。 毎日、朝晩のお線香、 夜は108回の南無阿弥陀仏と我昔所造諸悪業から始まる懺悔文を唱え、 一日の反省と愛犬だけでなく全ての命への懺悔やお釈迦様へのお願いをしています。 (恐らく宗派などバラバラですよね、すみません) 食べ物(命)への感謝、一日の反省、もう罪を繰り返さないようにつとめる…等もお釈迦様にお話しております。 しかし自業自得なのですが、罪に気づいてから自責の念で本当に毎日苦しいです。 こんな言い方はどうかと思いますが、私が今更反省しても悔いても愛犬の命は帰ってきません。 だったら罪に気づかなかったほうが、こんなに苦しまず、幸せだと勘違いしたまま生きられたのではと思ってしまいます。 それでも、気づけたことはよかったのでしょうか? 文章もめちゃくちゃで申し訳ありません。

有り難し有り難し 13
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2021/09/25

俗世間から離れたい

こんにちは。 私は昔から内向的な性格で、人の社会の中でやっていくことが非常に苦手だと感じています。そのため、人との交流を避ける傾向があります。 最近では、その傾向が強くなってきたように思います。世の中との関わりを絶とうとしている自分に気が付き、しかし本当にこれで良いのか迷っているのです。 最近の私は、世の中に溢れている沢山のものから故意に自分を孤立させようとしている気がします。例えば… 私は、流行のものを知ろうとしないどころか、知ることを嫌います。私は、ビデオゲームを一切しません。私は、本や漫画も読みません。私は、好きだったテレビ番組もだんだん観なくなりました。私は、好きだった音楽も全く聴かなくなりました。私は、SNSを見ません。私は、友達が何かを勧めてきても、自分の世界を壊されたくないので、その新しいものを知りたくなく、拒絶します。… 何故なのか、自分なりに考えてみました。そうしたら、こんなことが浮かんできました。 1,世の中に溢れているものは、私には刺激が強すぎる。私は多分感受性の高い人間なので、楽しい事を知ってしまったら激しく舞い上がる。しかし、その後には反動で落ち込んでしまう。→だから、何も無い状態「無」の方が心が安定する。(と思っている。)だから、自分なりに保っている心の平穏を刺激物らによって壊されたくない。よって、拒絶する。… 実は私、近年仏教に興味を持ち始め、色々調べていました。私が心の平穏・無の境地に憧れているのも、世間から離れた所にいたいのも、そういう聞きかじりの知識から来ているのかもしれません。 しかし、私の今のやり方は間違っているようにも思います。 私のように過剰に世間との関わりを絶とうとするのは、病的でしょうか? 「関わりを絶つ」という目標に執着しているのでしょうか? 仏教的には、俗世間からの刺激あれこれを過剰に避けるよりも、俗世間の中にいながら受け流せるようになる方が良いのでしょうか? また、私はまだ「人々は何か世間で楽しいことをやっているぞ、いいな。」と他人が世間に溢れる刺激の中で暮らしていることを羨む気持ちも捨てきれていないのです。 この機会に、本物のお坊さんとして生活していらっしゃる方にぜひご意見を頂きたいと思い、質問させて頂きました。拙い文章でお見苦しいところもあるかと思いますが、ご回答を頂けたら嬉しいです。

有り難し有り難し 15
回答数回答 1

僧衣は何故、あんなに暑そうなのか

お坊様方、お盆のお勤めお疲れ様です。 それにしてもお坊さんの僧衣、ただでさえ暑い中、何枚も重ね着してらっしゃるのは、見ているこちらが辛くなります。色だって(宗派にもよりますが)黒とか紫とか濃い色ばかりだし。どんなに暑くても袖まくりすらできずに法務を行うお坊様には心から尊敬いたします。 余計なお世話ですかね?修行を積んだお坊さんなら大丈夫? クールビズの僧衣バージョンみたいな、略式の冷感服って無いんでしょうかね。もちろん僧衣の色や形式にはそれぞれ大切な意味がある事は知っているのですが、さすがに近年の暑さは酷すぎます。 色々意見はあるでしょうが、個人的には、服装は形式よりも快適なものを着て欲しいと思います。率直な話、ジンベイや作務衣に近い服装でも良いんじゃないかと思ってます。何も僕等は服に拝んでもらってる訳じゃないんだし。 総本山にメールででも申し入れしようかなと思うのですが、余計なお世話でしょうかね。あるいは無駄な事でしょうか。伝統もあるものだし、急には変えられないとは解るのですが・・・ それとも、近年の僧衣には涼しくなるような工夫が色々されてるんでしょうか? ともあれ、お坊様方大変お疲れさまでした。 しばらくは涼しい所でお過ごしください。 (伝統を軽視するような言い方で、かえって不快にさせてしまったらすみません。またこのサイトに相応しくない質問であれば、放置して下さい。2、3日回答が無ければ削除します。)

有り難し有り難し 67
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先祖供養について教えてください。

こちらで、質問及び皆様の回答など 拝読させていただきまして心のモヤモヤが 少しづつ晴れてきます。 この度もよろしくお願いします。 今回は先祖供養について、質問させてください。 私は母が未婚の母のため、実家とは疎遠になり、母の実家ももちろん実の父の先祖の墓参りをした事がありません。 私自身、結婚は出来ましたが、夫とは 一度離婚をして再び同居をしています。 その夫は現在、癌で闘病中です。 最近は病状が、さらに悪化している為 色々 先の事を考える毎日です。 近所のお寺の住職にお伺いという占いで度重なる不幸について、占っていただいた所、両家の〇日と〇日の先祖の供養がされていないとの事で、祈祷済みの御札をいただき神棚に入れ、毎日お参りしています。 離婚の際も姑との折り合いも元々悪い事もあり、夫の実家のお墓参りなど当然今後も出来ません。 宗派なども分かりませんが、許される事なら 夫と、私は現在の住まいから通いやすい場所にお墓を、立てたいと思います。 姑は現在も健在なので、もし夫のが先に亡くなった場合は骨を分けてもらうなどの話はしてもいいものでしょうか? 話し方としては、子供が通いやすいという理由で言ってもいいものでしょうか? 先祖供養とは、9月のお彼岸の時期に、お寺で合同供養祭などで、両家の名前を読み上げてもらうだけで、少しは気持ちが届いているのてしょうか? 聞きたい事がたくさんあって、話にまとまりがなく申し訳ありません。 私は自分の母の墓の用意と夫と自分の墓の用意を、して子供達の未来が 少しでもよくなるように、命の限りつくしたいと常々思っています。 子供の幸せを願うのは、親の使命だと思っているので、 出来る限り、私達が、被ってきた不幸を 絶ち、子供達には 世間並みの、幸せを歩んでもらいたいと思います。 思いが、強いばかりで何から手をつけていいか分からず、今回もこちらを頼りにさせていただきます。 長文で大変失礼しました。 どうかよろしくお願いします。

有り難し有り難し 30
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2023/03/21

発起心について

私は34歳で会社員として働いているものです。 出家する事についての質問です。 私は今まで人より良くありたい、という虚栄心で人に対する劣等感で生きてきました。そのため親しい人やパートナーなどはおらず、なぜ生きているのかよくわからない空虚な状態が続いています。 一時的な慰みとして飲酒、暴食などをして気を紛らわしますが虚しさを感じうつうつとして気持ちになっています。 仕事も順調とは言えず、自分の居場所が無いと感じ、この職場を去りたいと常に考えています。でもそれは逃げているのではないか?という葛藤があります 職場の方は良い人ばかりなのですが、私自身の問題で態度に出てしまうため自分に対して罪悪感があり、それが元気が出ない原因にもなっていると思います。 (いい歳してお恥ずかしい限りなのですが・・・) 気力がわかない状態が辛く、自分なりに考えたのが出家です。環境を変えて厳しい環境に飛び込めば自分を変えられるのではないかと一縷の希望をいだいています。 20代前半のころから生きづらさを感じ、強い興味を持ち仏教書などをよく読んでいました。(ブッダ、道元禅師、親鸞上人の著書)出家願望はあり、親などにも話しましたが反対にあい今まで生活をしてきました。しかし年齢を重ねて自分が人生をかけて学びたいものは仏教だという確信めいたものを感じていて、生き方として僧侶の姿勢を学びたいという気持ちがあります。 老いた時、病気の時、死ぬ時苦しみが襲ってきたときに苦しみを和らげてくれるのは仏教ではないかと考えています。また自分が辛さを感じて生きてきたため克服、寛解できたときに苦しむ誰かの力になれるのではとも感じています。 もちろん出家したからといって完全に救われるわけではないと思いますし、修行の厳しさや職業としての僧侶を成り立たせることの難しさも考えないわけではありません。このまま社会人として生活し、仏教を学びながら日常を修行として生活していく道もあることは頭ではわかっています。 しかし自分の中では、一度きりの人生、年を重ねて後悔して死ぬよりも、昔からやりたいと思っていたことをやるべきなのではないかと考えています。 皆様にとって、私が出家をしようとしているきっかけについてどう思われますでしょうか。 これは逃げでしょうか。発起心でしょうか。 ご回答いただけますとありがたく存じます。

有り難し有り難し 8
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2021/09/09

ワンオペ育児女医〜仕事セーブするのが辛い

私は3歳と1歳の子持ちの女医(外科医)です。夫は単身赴任で、ワンオペ育児中なので私は子供のために仕事をセーブせざる負えません。 育児をするだけで日々が過ぎ去り、仕事をバリバリ出来ないことがとても辛いです。 最近身近な人を亡くしたことをきっかけに仏教を勉強し始めました。日本の各宗派の成り立ちや教え、仏教の伝来と他国の仏教の教えを勉強し、今は主に初期経典のダンマパダやスッタニパータ、アビダルマなどを読んでいます。 お釈迦様の教えで自分の苦悩が楽にならないかずっと考えています。 お釈迦様は人間は五蘊で構成され、どこにも自我は無いとおっしゃいました。 私は他の男性医師や独身女医のように仕事に邁進してキャリアを積みたいと思うのですが、自分が!自分が!という自我に執着した欲にまみれた状態なのかもしれません。 過剰な欲は持つべきではないとお釈迦様は言ってます。 私は仕事のキャリアアップを諦め、子供のために仕事をセーブし続けるのが人間として正しい行動なのでしょうか。 フルタイムで働けば私の方が夫より収入が多く、修めた学歴も私の方が10年長く、男というだけで思う存分働ける夫に嫉妬しそうになります。しかし嫉妬の心は人間としての成長を妨げる、持つべきではない不善心所らしいので、頑張って嫉妬の心を持たないように心がけています。それに仏教的には金銭や学歴に価値はないということも理解は出来ます。 仏教を勉強し、人が幸せになるためには、自我をなくし、慈悲の心を持ち、自分以外の存在のために生きるしかないのだと理解しました。 しかしそうなると私が医師としてのキャリアアップを諦め、育児に専念するしかないのでしょうか。 育児は手がかかります。どうあっても誰かが仕事をセーブしなければ育てることは出来ません。 一生懸命医師として努力してきましたが、女性は子供を産んだら医師の仕事に全力で邁進するのを諦めるのが人間的に正しい行動なのでしょうか? お釈迦様は男女は平等だと説いています。育児も医療と同じように尊い行いだということも理解できます。 しかし子供を産んだというだけで、第一線を離れ続けるのがとても苦しいです。 そんな私に何か心が軽くなるアドバイス、解決法を教えてください。

有り難し有り難し 65
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高野山真言宗の結縁灌頂のご縁とは?

こんにちは! 以前は高野山真言宗の参与会の半袈裟を着用して他の宗派のお寺に参拝しても良いですか?の質問に回答頂きありがとうございました。 その後の2020年は良いことも悪いこともありつつ概ね楽しく過ごし、高野山への参拝をエンジョイしています。 半袈裟を着用する事によって良い変化があり、それまでも自分は高野山が大好きだと思っていましたが、より身近に感じたり「私はここに帰ってくる」という気持ちが少し強くなりました。 気持ちの面で帰れる場所ができたというか…これは新しい発見でした。 「行く場所」ではなく「帰る場所」に変化して不思議な気持ちです。 今日は高野山真言宗で大切な行事である結縁灌頂について質問です。 参与会に参加しましたし、せっかくなので2020年に初めての結縁灌頂を経験したいなぁ!と思っていましたが、今年は状況が状況のため断念しました。 そこで、現時点で2021年の5月に予定されている春の結縁灌頂に参加して是非ご縁を結びたいと考えています。 …しかし疑問が生まれました。 春と秋の結縁灌頂では金剛界と胎蔵界と違いがあり、それぞれに参加してご縁を結んでも良いし、何度も参加する方がいるとも知りました。 (気持ちを新たにご縁を結ぶぞ!というのは悪い事ではないと知ったので、回数については疑問はありません) 私が疑問に思ったのは、例えば私が春に初めて結縁灌頂でご縁を結び、同じ年の秋に参加してご縁が2つできたとします。 そして次の年の春と秋に再度参加したら4つのご縁になる可能性があります。 適切な言葉がわからないのですが、ご縁の有効期限があるのでしょうか? 有効期限という言葉は全然違うと思うのですが、結縁灌頂でご縁を結ぶぞ!と思い立ち結んだ後に次に結ぶまでがご縁なのか、それとも毎年ご縁は変わるもの(増えて行くもの?)なのか?と疑問になりました。 わかりにくい説明でごめんなさい…。 つまり「今年はこのご縁」なのか、または「気持ちの区切りがご縁」なのか自分なりに調べてみましたがよくわかりませんでした。 前回の質問に引き続きとても初心者な疑問のお導きを頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 21
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2022/09/08

浄土真宗に対するカルチャーショック

先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。

有り難し有り難し 63
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遺骨を預かってもらうお寺

子どもの遺骨を預かってもらうお寺について悩んでいます。ここで詳しく書くとお寺と人物が特定されてしまうので控えさせてください。 私の両親はまだ元気ですが亡くなった時に、両親の遺骨と子どもと一緒に先祖も納骨しているお寺へ永代供養と考えています。 まだまだ子どもの遺骨と離れ難いのですが、前に進む方法が見つからず、遺骨を信頼できる近くのお寺に預けたいと考えるようになりました。 子どもが亡くなってから何度かお寺のご夫婦にお会いしました。失礼かもしれませんが、修行をされたとは思えない、人の話を聞く姿勢ではなく自分の家族の話ばかり、お寺を商売と言うことから不信感があります。修行をされてないと感じるのは、百箇日を過ぎた頃、私が四国のお遍路に行き、先達さんから沢山の為になるお話を聞いたからかもしれません。 3時間の滞在のうち2時間半は上記のようなお話、子どもの遺骨のこと、一周忌のことに話をやっと戻すことができ、帰ることができました。 どんなお寺でもおそらく朝晩読経してくださるでしょうし、たとえ門がいつも閉まっている街のお寺でも、私が日中不在の家より子どもにとって良いのではと思い相談に行きました。 小学生のお子さんもいて、お金がかかるという話、高級車2台。妬みかもしれません、所得の少ない私ですが決められた金額を提示されればお布施するつもりです。 もし預かってもらえるとして、本当にこのお寺でいいのでしょうか。子どもにとって、自宅から近くて安心できるのではと思います。このお寺でいいのか、教えてください。

有り難し有り難し 41
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不思議な夢を見ました

質問させて頂きます。  不思議な夢を見ました。最近、近親の者が亡くなり、悲しみに沈んでおりました。 しばらくしたある夜、夢の中に三叉仏と名乗る仏様がいらっしゃいましたが、何も仰せにならずにそのまま去って往かれました。仏教に詳しくないので、一体どういった仏様であろうかと、いろいろな仏教の本を読みましたが該当する仏様を探し当てることはできませんでした。 それからしばらくしますと、また、夢の中に仏様がいらっしゃいました。そして、『現在、過去、未来、すべての生命の幸福を祈りなさい、そうすれば、貴方に幸せが訪れますよ』と仰いました。1~2カ月くらい前の話です。 夢での話があってから、仕事の合間など、時間を見つけ、そういった祈りを行うようになりました。 昨日の夜も、そうやってお祈りしながら就寝致しておりますと、夢の中の空中庭園の様なところに仏様がいらっしゃいまして、『貴方の誓願は確かに聞き届けましたよ』と仰いました。 仏様に願いを聞いて貰いましたら、私の体は地面の上に立っておりました。しばらくすると、自分の体は、地面の上を飛ぶように走りだしました。地面の上には村の様な町の様な景色が広がっており、その間を、時速20km、40km、100 km、200kmと段々加速して飛んで行きました。 およそ200 kmになってもさらに加速し、音ぐらいの速さにまで加速しました。これ以上加速できないくらいになりますと空中に大きな白い光が現れまして、自分の体の中にこれまで味わったことがないような言葉では言い表せないような多幸感が全身を駆け巡りました。白い光は空半面を覆うぐらいの光になり、そこで目が覚めました。 この夢はいったい何なのでしょうか?これからどうすればいいのでしょうか?初めてこういった不思議な体験をして非常にびっくりしております。三叉仏とは一体どんな仏様なのか、実在の仏様なのか?教えて頂けませんでしょうか?宜しくお願い致します。私の家の宗派は真言宗です。

有り難し有り難し 72
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母は見てくれていますか?

お世話になります。 宜しくお願い致します。 先日、母の一周忌を終えました。 母が最後にメッセージとして残した言葉…自分の様に苦労苦労ばかりでなく幸せになって欲しい。と。頑張れば幸せになれる。と。私の心に重く残っている一言です。楽しかった、幸せでした。と言う言葉は書かれてませんでした。 父は優しい人ではありますが、今で言うとギャンブル依存症&アスペルガー的な感じですので、かなり苦労していました。私はケンカばかりする親を見たくなく、長い間実家を離れていました。数年前に実家に戻りましたが、私も母に甘えていた部分があり、弟もまた同じで、母に家族全員で甘えていたような気がします。いつも、自分の事より私達家族の事を考えてくれた母。強くて優しくて、尊敬していましたがありがとう。や、ごめんなさい。を言ったらお別れの言葉のような気がして最後まで言えませんでした。 最後の最後まで苦労や迷惑をかけ、自分が今生きてる事を申し訳なく思います。 ただ、もし私が毎日泣いて生きても、仕事もせず引きこもったとしても、私が自死をしても、母と会える事はできない。ならば、苦労して育ててくれたのだから頑張って生きようと少しづつ思えるようになり、心の中で母に話しかけております。 ただ、ふとした時に、本当は亡くなってしまったら無で生まれる前と同じで、母は傍にいない、見守ってくれてるなんてない…と思う自分がいます。 そう思うと虚しくなります。そしてまた自分が生きている後ろめたさを感じます。毎日がそのループです。 自分勝手な思いなのですが、 母は見てくれてると思いたい。 許してくれていると思いたい。 私は、実家を離れております。同居している彼とは宗派が違うので、何かを置く事は出来ないのですが少しでも何か出来ることはありますか? 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 17
回答数回答 1

遺骨を持ち帰って供養したい

前回質問させていただいた後、お寺さんや親戚と話し合いをしました。 その際、私たちの気持ちの整理がつくまで父の遺骨を自分たちの元へ持ち帰ってもいいか相談しました。私たちが住んでいる場所から父の実家、納骨場所は遠く、なるべく自分たちのそばに置きたいと思ったからです。しかし持って行く先に仏壇も仏像も無いのならダメと言われました。仏壇や墓なんてまだまだ考えていません。とりあえず納骨はまだ考えておらず、実家に遺骨を置きっぱなしにするぐらいなら持って行きたいのですが…新盆もその後の法事も自分たち主体でやっていきたいんですが、ダメなんでしょうか。 宗派は浄土真宗です。仏壇と過去帳が父の実家にあり、仏となった父はその仏壇にいると。(祖父もいます。)だから法事は実家で。どうしてもというなら喉仏を分骨して持って行きなさいということでした。私たちの生活圏内に知り合いの寺があるからなんなら紹介するとまで言われました。 将来的にも父実家方面へ赴くのは大変で、できれば近くに遺骨を持ってきてゆっくり今後のことを考えたいんですが、それはわがままなんですか。住職の言う通り仏壇が無いといけないんでしょうか。過去帳は自分で買い求めて自由い記入することができると、本で見ました。自宅にて遺骨と写真と線香、お花、自分で用意した過去帳で供養じゃだめですか? 距離の問題もあるし、そもそも気持ちの面で整理がつかず相談をしているのに、そこには一切寄り添ってもらえず、許可を得ないといけないような感じなので心がもやもやしています。 そんなものなんでしょうか?住職がなんと言おうと自分たちの気持ち、やりたいことを貫いたらわだかまりが残ってしまうでしょうか。実家には祖母や親戚がいるので、しばらくは喉仏を持ち帰りお骨はこちら(実家で祖母にということです)で供養してもらえばいいんじゃないですか、と言われてしまいました。 はっきりこうしたいと住職さんにお伝えしていいものでしょうか。

有り難し有り難し 20
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信ずるものの矛盾について

前置きとして、私は仏教に深く関心し、このサイトでも別の質問をさせて頂き有難い回答も頂いております。 お気持ちを害するかもしれませんが純粋な質問として受け止めて頂ければ幸いです。 私の現状はご指摘もしてもらいましたが煩悩により、自らを囚え振り回されている状況です。 まず、仏への道として宗派は道程であり、すべからく目的は苦からの脱却、解脱であると勝手に認識しています。事実、それぞれの教えから自己満足の範囲でいろいろ学ばせてもらいました。 煩悩を拭いひたすらに。 しかし、人を救いたい、苦から解放されたいと願うことこそ人智を超えた最大の煩悩の気がしてきてしまいました。だからこその仏様でしょうか。 これが一つ目の問いになります。 心の有り様。全てはここに集約されているのかも知れませんし、因果や縁、前世、今世、来世の繋がりも頭では理解していますが、私個人として、苦がなければ生ではないと強く根底にあります。 苦しみこそが人を最大限に無意識のうちにでも足掻かせ、思考を巡らし、結果が悪かったとしてもその後も全力を尽くした経験値として忘れることがないものと思うのです。好きなことより回避したいことの方が望む望まないに関わらず人は本気を出せると思うのです。出さざるを得ないという方が多いですかね。 往々にして心が弱いですから。 それが成長の種になると。 纏めますと、私は己の弱さ故につまらない選択肢と隣り合わせな苦しい日々が続いていますが、この苦しみから解放され 楽しい、安楽なことだけになることも怖いのです。 弱い心が解放も囚われも恐れるのです。 一つだけ身を投げ打ってでも生きる意味として手に入れたいものがあります。 これは教えに反していますよね。 また、その対価としてというわけではないですが苦難を望んでいる自分がいるのはおかしいですかね。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 18
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