初めて質問します。 私はハタチの大学3年生です。 最近、「死とは何か」について深く考えるようなきっかけがいくつかありました。 もとより昔から「死にたい」と気軽に考えてしまう性格で、リストカットをよくしていました。 しかし、最近「死とは何か」を深く考えるようになり、私の中の結論は、「死とは、私が私でなくなること」というところにたどりつきました。 そうすると、どうでしょう。これまで生きてきた私の道のりは、あまりに普通すぎて、生きることの意味が見いだせなくなりました。 つまり、私が私でなくなるその瞬間が来るのなら、大学も、勉強も、恋愛や結婚も、必要ないのではと考えるようになりました。 今私は大学三年生で、半年後にはアメリカ留学も控えています、そのまた1年後には就職活動も控え、そのまた先の40年は働いて働いての毎日が待っています。その先にある死と、今この場で自ら迎える死は、どのように違うのでしょうか。
こんばんは。 昨今様々な悩みから、自殺衝動にかられて、 掲示板や知恵袋などに相談・質問する人が後を経ちませんが、 自殺防止サイトや一般の方からの回答に、 『死ぬことは生きることより辛いですよ。』とか、 『死んだら今より辛いですよことが待ってますよ。』という回答があるんですよね。 この世が辛くてお別れしたいのに、 お別れしたあとにも、もれなく辛いことが待ってるわけですよね? まさに『生きるも地獄、死ぬも地獄』の人が、 この世にいるわけですよ。 そんな八方塞がりの状況の場合、 人はどの道に進めばいいのでしょうか? 救いの道はあるのでしょうか? 回答よろしくお願いします。
乱文失礼します もう、死にたいです 幼い頃から親のいくつかの転勤により、旧知はおりません。私は引っ越しなんかしたくありませんでした。そして思春期、転校先で心無い誹謗中傷を受けました。毎日机に突っ伏して耐えました。毎日毎時が臨戦態勢で、給食も食べられませんでした。それでも将来の自分のために学校に通いました。明日になって欲しくなくて、この頃から不眠症になりました それから高校の進路を決める頃、家庭が経済的に困窮していたため、親の望む公立校に進学できるよう、厳しい家庭教師をつけられました。なんとか進学しました。でも学校は遠くて、それだけでも冬の北海道の通学は辛いのに、授業にさえついていけなくなりました。痴漢や、不審車に追いかけられたこともありました。それでも卒業まで頑張って通いました 少し人より精神の成長が遅かったのか、中高でも友達はできず孤独でした。学生~青年時代、趣味を通じて仲良くなったと思われた友達とも、結局私が一方的に悪者と言う形で一人残らず仲違いしました 大人になっていざ就職と思った矢先、就職氷河期とリーマンショックに当たりました。その頃、難病にもかかりました。難病の兼ね合いで、生命保険に加入するのも困難なため恋愛も結婚も諦めました。ゆえにブラック、グレー企業でも、なるべく経済的自立を目指して頑張って働きました。でも、心も体も壊しました 幸い、現在親元で暮らしています。迷惑がられてはいません。でも、それから10年たってしまいました 病院には通っていますが、うつ病も難病も勿論治らず。もう働くこと自体がトラウマで、求人や履歴書を見るだけで震えてしまいます 心の病を紛らす絵を描く趣味も、謎の指の疾患により絵がかけなくなり。娯楽等も、もう楽しく感じないのです 私、なんのために頑張ってきたのでしょう 結果論ですが、自他の安泰な未来のために頑張ってきたこと、自分のためでも他人のためでもありませんでした 母は私に死んで欲しくないと言いますが、もう引きずられながら生きることにさえ疲れましたもう死にたいです。本当に息をしてるだけで辛いです。でも死ぬ度胸もなくて、情けなくて、更なる自己嫌悪を重ねる毎日です 一言で構いませんのでお言葉をいただけたら幸いです
2回目の相談になります。 母が今年、自死で亡くなり毎日辛いです。 仕事をしていても母が亡くなった日のこと、今母が苦しんでいるんじゃないかと想像したり思い出してしまい、涙が出そうになります。 最近になって やっぱりもう生きて行けないと思います。 仕事のことで褒められたりしてくれたり、仕事の愚痴を聞いて的確なアドバイスくれていた母がいなくなってしまい、誰にも相談できず毎日生きる意味が分からなくなってしまいました。 父親にも他の兄弟も皆辛いので弱音をなかなか吐けずに苦しいです。 母は今どうしているのでしょうか。 また、しっかり寿命を全うすれば母に逢えるのでしょうか。 最近死んでしまうことしか考えられなくなってしまいました、涙が止まりません
妹が2月に亡くなり、4ヶ月がたちました。 時間がたてば、少しは辛さもなくなっていくのかと思っていましたが、辛さは増すばかり。 妹に会いたいです。 どうして妹が死ななければいけなかったのか。 どうして。どうして。 考えればきりがないです。 何をしていても思いだし、なんとも言えない気持ちになります。 なんとも言えない気持ちや会いたくなった時、私の気持ちを押さえるいい言葉はないでしょうか?
また、相談します。同じような内容ですみません😢母が突然死してから一年がたとうとしています。自分にも母を死なせた原因がありいつまでも母に申し訳なく毎晩涙がとまりません。そして、何より夫に申し訳ないのです。色々とやるべきこと考えることあるのですが、どうしても身体がついていきません。夫には、普通の精神状態の人が相応しいのに、私はまた人を不幸にしたくないです。だけど、元気に振る舞えません、心配ばかりかけて夫を気遣うこともできません。消えてなくなりたい気持ちで苦しいです。 長い文章でわかりずらくてすみません😣
長文です。大丈夫な方はお目通し下さると嬉しいです。 自分は今以下の条件通りの「幸せなのに死にたい」状態です。 ・「一般的に恵まれている」でなく、「自身が実際幸せを感じられている」状態の幸せである。楽しい事も多い。 ・家族、友人、職場、恋人に恵まれ、適切で信頼出来る関係を相互で築けており、少なくとも自分は満足している。 ・職や他者への不満は特に無く、基本的に感謝して過ごしている。 ・セクシュアリティや趣味趣向、興味分野でマイノリティだが、周りは皆受け入れてくれており、将来への視野もそこそこ拓けている。 ・自身に不満は無く、性格の悪い所と同じくらい良い所が好き。 他者評価はあまり気にならず、過去のトラウマは火葬くらい。自分には幸福が許されないといった考えも無い。 ・金銭面は過去現在共に苦労していない。 ・死ぬのが怖いので死にたくない。また、「幸せなまま死にたい」という気持ちや、有終の美的な考えは一切持っていない。 ・不幸にはなりたくないが、かといって幸せになりたくて生きている訳ではない。 不幸でも幸せでもない中間または無でも、充分足る。 この環境条件下で何故死にたいとなるのか。その理由の検討がつかず、己と異なる知見を持った方々なら一体どう見るのだろうと相談させて頂く事にしました。 「幸せなのに死にたい」と調べると、多くの方の談を拝読する事が出来ます。 しかし、「周りの人(一般)から見て恵まれている」けど不足を覚えており消えたい……といった内容である場合が多く見受けられ、どうにも自分に近いニュアンスの例を見つけられませんでした。 「今の恵まれた環境を失うのが怖い」という可能性も考えたのですが、物事の変遷は特別でもなく、 極論幸せが抑自分にとって良い事なのか悪い事なのか判断を下せない為、理由としてしっくり来ませんでした。 最近変わった事といえば、 幼少期からの墓執着が遂に睡眠障害を引き起こしたので、初有給を使って添い寝用に墓石1つ目を購入した事くらいです。 墓はかなりポジティブなものとして認識していて、皆さんが一生物のぬいぐるみを買うのと恐らく同じ感触ではないかと思っています。僕より重いけど可愛い竿石が届く予定です。 こういう状態で「死にたい」と考えるに至る理由に検討がつく方、いらっしゃいましたら教えて頂きたいです。
死のうと思います。 死んだ人に残されて困るものを教えてください。 全部と言われてしまったらそれまでですが。
初めまして。ご覧いただきありがとうございます。 私は現在29歳ですが、これからの人生を生きるということに迷いがあります。 なぜ迷っているのかをお話しする前に、私の生い立ちを書かせてください。 私は本来あまり喋らない性分ゆえ、小学生時代はいじめっ子の標的でした。 そのため中学に上がる際には、いじめられたくないという思いから、本来の自分よりも明るく振る舞い、他人に嫌われないようにすることを第一に心掛けました。 また、親が厳しかったことからも、親の機嫌を損ねないようにすることを無意識にしていました。すると、気づいたときには、嫌われない・怒られないように他人の顔色ばかりうかがい、自分のやりたいことなど何もない主体性のない人間になっていました。 中学・高校時代は幸いなことに友達にも恵まれ、勉強部活恋愛全てにおいてとても充実していました。大学受験も成功し、就職も無事できましたが、特に入りたかった企業ではありませんでした。 そして働いて数年が経つころに、先述した自らの主体性のなさに気がつきます。 そこから自分のやりたいことは何だろうと考えたのですが、そう簡単に見つかるわけもなく、生きる意欲だけが削がれる堂々巡りが続きます。そこに、愛犬の死が訪れます。 身近な存在の死は幼い時に祖父を亡くして以来で、非常に辛いものでした。そしてこれ以降、人生において特にやりたいこともないのに、これから先には家族や友人の死、自分自身の老いなど、向き合いたくないことが沢山待ちかまえているとなると、もう生きなくても良いのではと思うようになりました。 既に書いたように、非常に充実した学生時代を過ごしました。十分楽しんだと胸を張って言えます。しかし、私が死ぬと悲しむ人がいるため、簡単に自ら死ぬことはできません。 生きる意味がわからないながらも日々頑張って生活している人が多数いることはわかっていますが、多数がそうしているのだからそれにならって頑張りなさいというのは腑に落ちないのです。常に多数派が正しいとは限らないからです。 自分自身が納得する結論は出ないと思います。主体性がないので、やりたいことが見つかることはきっとありません。 しかし、生きるべきか死ぬべきか、生きるならどうするべきか、途方もない難題に苦しむ日々が嫌になりました。少しでも楽になる方法はありますでしょうか。長文失礼しました。
入院中、薬品のアナフィラキシーショックで「死ぬかもしれない」と思う体験をしてから、近く自分が死ぬのではないかとものすごい恐怖に襲われパニックになります。 あの闇に呑まれるのではないかという感覚、ある程度年齢を重ねれば違うのかも知れないけど、わたしはまだ若く、もし万が一そのようなことになったらまだまだやり残したこと(やりたいこと)、叶えたい夢、思いがたくさんありとても強く、不安や恐怖も人一倍強いため、死ぬのは物凄く恐く苦しいだろうと想像してしまい、どうしようもなく辛いです。気になって過去、今のわたしと同じくらいで闘病して亡くなった方のドキュメントなどを見てしまい、余計ものすごく恐ろしく感じました。 入院中の体験から3ヶ月ほど経ち、体験そのものの記憶は薄れつつありますが、どうしてこんなにも恐怖が根強く残っているのか、自分の体のことが気になってしまってもし万が一○○(怖い病名)だったらどうしようといても立ってもいられないほど怖くなります。わたしは死にたくないです、怖い病気には絶対なりたくないし、手遅れの状態はもっと嫌です。 毎晩目が覚めてしまい、不安が押し寄せてきてとても恐くなります。不安が収まりません、 どうぞ宜しくお願いいたします。
このサイトに出会い、死のことを考える(死の恐怖を考える)のを少しずつですがやめることができた者です。 お坊さんのありがたいお言葉をいただき、今を全力で生きることに集中しています。 ただ、一つもやもやしたものがあります。 子供を産むことです。(男なので産むは適当ではないかもしれませんが便宜上) 近い将来、結婚する予定であり、これまでは漠然と子供も欲しいなあなんて思っていました。 ただ、改めて死のことなどを考えた時、自分の子供にその恐怖や苦しみを与えることになるのだと気づき、子供を産むことは酷いことではないかと思い始めました。 仮に子供が死というものを考えず、前向きに人生を過ごしてくれたとしても、最後は辛く悲しい死という結末を迎えます。 いつか死ぬ存在を自らが産み出すのは、恐ろしいことではないか、そう感じて仕方がありません。 極論、人類繁栄の放棄につながるので危険な考えだとは思うのですが、やはり個人という存在に目を向けた時、上記の考えが捨てられません。何かよい発想の転換はないでしょうか。
以前、死が怖いと相談させて頂いた者です。ご回答を頂いて以来、それを胸に、心の持ち様や認識を変えたりして、素人ながら試行錯誤しつつ、死をどうにか受け入れる練習をしています。 しかし、死について考えると、私の今ある命や意識は、そもそも最初はどこからきたのだろう?と考えてしまうのです。肉体は勿論母から生まれましたが、生まれる前、私の意識(精神)はどこにあったのでしょうか?生まれる前、というのは、死んだあとと同じなのでしょうか? これを考えだすと、生きていること(意識があること)それ自体が気持ち悪いように思えてしまうのです。なぜ今、私に意識があるのか?と考えてしまいます。なんというか、常に、ゲームの世界の住人のような気分?なのです。私は、誰かによって作られた世界の中に放り込まれ、意識が芽生え、それ故に死の恐怖に苦しみ、そして必ず死ななくてはならない。宇宙規模で考えれば些末な出来事であるけれど、私という個人にとっては、その事実がとても怖く、苦しいのです。こんな理不尽耐えられない、と思って、どうしてもこの世界の仕組みを恨んでしまいます。 私の意識とは一体なんなのでしょうか。そして、生まれる前はどこにいて、どこに死んでいくのでしょうか。私の意識はどうなるのでしょうか。 そして、そんな恨んでしまうようなこの世界を、どうしたら愛せるのでしょうか。大切な人と出逢っても、必ず最期に離れ離れになってしまう。私が愛した「私」も、必ず消えてしまう。日々の小さな幸せを感じるほど、死というこの世界との別れが辛くなり、恐怖で押しつぶされそうです。 それでも折角いただいた命を生きぬかなくてはならない、と思うのです。生きぬくために、どうかご助言をよろしくお願い致します。まとまりがなく、分かりにくい文章で申し訳ありません。
初投稿になります。 私はそれなりに多趣味なのですが、人と比べれば割と充実してる方なのですが、 40歳目前になり、将来親の介護が待ってたり、疎遠で精神疾患を持つ兄の世話もいつか自分がしなくてはならないのかと思い、仕事でも楽しみがなく、独身で孤独死することになるため、未来のことを考えるともう生きてても仕方がないと思っています。最近、なるべく早く死にたいと思うようになりました。私はなんでこんなに毎日苦しみながら生きているのか疑問で仕方がないのです。救急隊として人の死に目に会う機会が多いのも理由の一つかもしれません。仕事をしなければもちろん生きて行けず、その仕事の苦痛に耐えるために休みの日はストレスを発散できるようなことをし、でも発散しきれず、仕事の前日は必ず憂鬱になり、健康を維持するため運動を日課にしているのが義務としか思えず、仕事のために生きているとしか思えないのです。私の人生は無駄に思えます。死にたいけど、自殺は怖くて生きているようなものです。矛盾していると思います。せっかく入った職場では男職場に馴染めず、バカにされ、それでもコツコツ10年働いてきました。早くこんな人生終わらせたいです。このような考え方は変でしょうか。
死にたいという気持ちは、誰もが抱えられていると思います。それでも平気なフリして、みんな頑張って生きているんですよね。いまにも首を絞めたい、そんな思いで歯を食いしばってやりたくないことを頑張っているんですよね。自分もそうです。 ちょうど4年半ぐらい前、俳優で自死をされた方がいました。その時自分は、長生きしたな、よく頑張ったなと思いました。その時から、その俳優が亡くなった年齢まではせめて生きようという目標ができました。半分ぐらいは布団の中で過ごしたので、その俳優の功績とは比べものにはならないが、抗うつ剤や睡眠薬を飲んで、なんとか目標を達成しました。 人生は長いです。長すぎます。人生100年時代なんて言いますけど、それならまだ自分は1/3も終わっていない...こんな地獄があと70年近くあるのかと考えると気が遠くなる。狂ってしまいそう。正直、もう狂ってるかもしれない。 小さい頃から、漠然と、楽しいことより辛いことの方が多く、死にたいという気持ちが少なからずあった。それが大人になるにつれてどんどん大きくなって、寝込むようになった。いまはその暗闇からなんとか抜け出したけど、死にたいという気持ちがなくなったわけじゃない。いつまで経っても消えてくれない。 毎晩目を瞑る時、これで全部終わればいいのにと思う。朝目が覚めると、絶望する。でもみんなそうですよね。自分だけじゃないですよね。だったらもうみんなで一緒に死んでしまうのはどうですか。よくここまで頑張ったと思います。ほぼ定年まで生きた親には頭が上がらないですが...こんな地獄をどうやって切り抜けたのだろう。想像するのも辛い。僕には到底無理だろう... 楽に消えてしまう方法が知りたい。
死にたいと思う気持ちが毎日消えません。 早くいなくなりたいです…
はじめまして。お忙しい中、この質問を見てくださってありがとうございます。 表題の通り、「なぜ死ぬことが悪いのか」ということを教えて頂きたいです。 決して、今から死ぬということではありません。ただ、「いつ死のうかな。早く死にたいな」と思って生きています。思い上がりかもしれませんが、私が死んで悲しんでくれる婚約者や姉兄がいるのは知っています。それでもどうしても死ぬことを考えてしまいます。考えないように「命は尊い」と思い込もうとするのですが、イマイチぴんときません。 私が初めて死のうと思ったのは5歳の時でした。物心ついた時から両親の怒鳴り声の絶えない家庭でした。親のことはあまり思い出せませんが(理由はプロフィールに簡単に記載しております)、父親は私が言うことをきかないと決まって「じゃあお父さん今から死ぬわ。お前が言うこと聞かないから死ぬ。お前のせいで死ぬ」と目の前で自分の首を絞める振りをしたりしていました。幼稚園に入るか入らないかくらいの年齢だった私は、本能的に「死ぬ」ということがとても怖いことだと思って泣きながら謝っていました。 そのせいなのか、気付いたら私の中の「命の価値」は相手に言うことをきかせるためのトレード品程度になってしまいました。 5歳の時に死のうと思ったのは確か、家族の誰かと喧嘩をしたので自分の言うことをきかせるためだったと思います。そして少しばかり「お前のせいで私が死ぬんだぞ、責任を感じろよ」と思っていました。 大人になった今でも、どうしてもわかりません。「神から授かった命」とか「地球より重い」とか言われても全く頷けないのです。自分の命は交渉材料でしかありません。私が今死んでいないのは今まで自殺に失敗してしまった経験から二の足を踏んでいるためです。「生きたい」と思えません。死にたいとこぼすとそんなこと言うな!と頭ごなしに叱られますが、結局どうして死ぬことは悪いのでしょうか? 自分なりに考えても答えが出なかったので、皆様のお考えをご教授いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
父が先日孤独死して喪失感と後悔です。 私の家は小さい頃に母が亡くなり父子家庭で幼い頃は祖母に家事をやってもらっていた環境でした。 思春期になると父と距離感が出てきて、同じ家にいても話を頻繁にするような家族ではなかったです。 独立して家を出ると年に1回会うか会わないか、lineをするかしないかになっていました。 あまり父に会わなくても平気で自分の生活を優先させていました。 また母が死んだ時にあまり声をかけてくれなかった父に対して不満を持ってもいました。 あまり母の死んだ時の話など深い話もしたことがなく、いつかその時の私の思いを言いたいと思いながら先延ばしにしてました。 最初、弟が父と住んでいたのですが、ここ最近で一人暮らしになり、また体調も悪くなっているようでしたが、弟が頻繁に家まで行ってくれていました。 以前急に父の携帯に電話が通じず弟が見に行ってくれたら、体調が悪くて電話に出なかったことがあり、先日も同じケースかなと思っていたら、亡くなって1ヶ月ぐらい経って腐敗も始まった状態で見つかりました。 後から分かりましたが持病のある父が病院に行くことも辞めていたようでした。 こんな状態で1人で亡くなった父への申し訳なさと、もっと何かできたんではないかないう後悔で押しつぶされそうです。 父との写真やlineを見返してもう会えないんだと思うと喪失感でいっぱいです。 今更ですがもっと話したかった親孝行すれば良かったという思いと もしかしたら私が電話したり、家に行って話したりしたら、父は生きていたのかもしれないと自分を責めてしまいます。 体調が悪くもしかしたら鬱っぽいと聞いていたのに何もできませんでした。 また母も亡くし、次は父も亡くなり、こんな辛い思いもして人間はなぜ生きていくのだろうとも考えてしまいます。 つらつらと書いてしまいましたが、どうやって受け止めていけばいいか、アドバイス頂けると幸いです。
私は死ぬのがとても怖いです 死んだら天国や地獄があるのか、生まれ変わりはあるのかなど気になってしまいます これまで良くない事もいろいろしてきました 地獄が存在したら行くかもしれないです 無記や毒矢の例えなどで仏様は死後の事は考えなくて良いと仏様は説いていたらしいと少し聞いた事があるのですが、とてもじゃないが悟りなど開けそうにない私には死後、人間がどうなるのか考えてしまい恐れています 毒矢の例えの一方で仏教では天国や地獄の存在や生まれ変わりをも説いたりしていますが実際には、仏教ではそれらはあると考えているのですか? 仏教における死後の世界の事を教えて頂けませんか? 誰も死んだ事がないので本当には死後の世界があるのか、生まれ変わりがあるのかは分かりかねるのかともと思いますが、僧侶の皆様はどうやって死の恐怖から解放されていますか?
言ってることがめちゃくちゃで まとまりがなかったらごめんなさい。 5年前に愛猫を亡くしてから 死の恐怖と病気の恐怖に襲われました。 最近は、逆に恐怖に疲れて 自ら死にたくなる時があります。 涙も自然に出てきて自分が無意識に どうなるか分からなくて 遺書まで書きました。 腕を切ったらどうなるんだろう、 この川に身を投げたらどうなるんだろうと 考えることが最近は増えました。 人前で字を書くのにも手が震えたり テンパってしまい意味のわからない 発言をしてしまったり。 周りから悪口を 言われてるような感覚にもなります。 体の不調も出てきました。 胃痛や胸焼け、体の痛み 何か大病だと思い込みが止まりません。 家族には軽く自分の悩みを相談してますが 「そんな生き方してて人生損しない?」 「あんたは大丈夫」 「この約立たず」 もう、余計に死にたくなります。 それでも頑張って生きると言うと 姉に否定されます。 「頑張って生きる必要ないでしょ」と.. じゃあ、どうしたらいいのか... 幼少期から布団に入るとすぐに 体が動かなくなっているはずのない 友人が現れたり、誰かが後ろで 話していたり...意識はちゃんとあるのに 幻覚幻聴のようなものにも悩んでいます。 精神科のほうに予約の電話をしても 自分が悩んでいる症状を話すと 面倒なのか断られてしまい、母には 「くだらない恥ずかしい」と言われ 誰に相談したらいいかも分からず 相談させていただきました。
お久しぶりです。以前ご相談させていただいた者です。 有り難いお言葉に大変救われました。…が、この度今一度ご相談させていただいたのは、文頭にあります通り死ぬという選択肢しか考えられなくなったからです。 学校では将来のことを考えさせられる時期になり、職場では理不尽な嫌がらせを受け、家庭内では避けようのないストレスに押し潰されます。 自身の人嫌いは重々認知しております。それは時折激しい殺戮衝動に駆られたり、人間である自分に嫌悪感を抱き殺してしまいたくなるほどの酷く深いもので、他人はおろか、家族にすら理解されないものだと断言できます。 そのため周りは私がどれだけ人嫌いかを知らず、期待や責任、悪意を向けてきます。 人と接すると、日々心が死んでいきます。相手の顔色を伺い、相手の求める言葉をかける。そこに私の意思はなく、相手を満足させるためだけの笑顔を振り撒く。そうしてやり過ごしているうちに、殺戮衝動が芽生えるまでに心が死んでしまいました。 私にとって「人と接する」ということは、自分を殺していることなのだと気付いてしまいました。自分を犠牲にしなければ人と接することができないのです。 この苦しみから逃れるには、相手を殺すか自分が死ぬかしかない。いや、自分が死ぬしかないのです。 本当は逃げたいんです。学校や職場、家族や自分からでさえも。全部全部放り出して自由になりたいのです。 でも私が私である限り、私は私から逃れることができない。自分を苦しめるだけの自分から逃れることができない。それが私だから。 もう死ぬしかないのです。死後の世界でも自分は自分なので、本当の意味では解放されることなんてないのだろうけど、この世に存在していることが辛いです。もう頑張れない。もう何もかも疲れてしまいました。