仏教は、悟りや解脱や涅槃に至る為のツールです。 哲学が好きな私は客観的に考えを深める事が好きで、苦しみの原因を抽象的に考えて気づきを得ようと問答でも具体性というより根源的な答えを求めておりました。 しかし私の書き方は、何故か肯定的に捉えられません。 皆さんは私を精神疾患だからとスティグマを貼るのはわかります。また疾患に対してのスティグマがあるように思えます、私は寛解しておりますし、発達障害での通院であり特別大きな"何か"があるわけではありません、また今苦しんでる発達障害は疾患ではなく障害です。必死に真面目に生きております。 私はとても不幸や苦しみに悩まされており、それをきちんと言語化して対処し、アドバイスをこなし哲学的に考え努力し改善し感謝して実践しています。 しかしとんでもなく不幸なのです。捉え方ではもはや気休めにもなりません。何度も書いてますが親を目の前で殺されて全身火傷に塩を塗られて捉え方を変えるなど無意味なのです。 誰からも理解されません。社会や医師や家族や友人、知人、異性、職場、ソーシャルワーカー、そして仏教。。。 運命というか世界は私に拷問をしているようです。遺伝子配列に始まり、私の人生の全ては拷問のようです。 私を唯一理解してくれ救ってくれるのは、私と同じような発達障害や生きづらさで人生苦しんだエジソンやゴッホなどの偉人の生き様や思考だけです。 私には救いはないのでしょうか。 まだ救いが来るのは早いと此方のサイトで言われてもう数年経ちます、結局私は人に感謝をしてその感謝にゲロを吐かれるような人生です。 "ジョーカー"という映画が今、流行っていますが私はあれより酷いかもしれません、他者に施した優しさや感謝が純粋な悪に変わっても何ら違和感がありません。 ニーチェの永劫回帰ってありますよね、まさに私の人生はアレです。人生めちゃくちゃで苦しんでも毎日雨ニモ負ケズの精神で毎日毎日偽の希望を持って折れずに笑って生きて、アホらしくなります。 色んなことを試して毎日毎日苦しい気持ちを押し殺して毎日毎日毎日ずーっと苦しんで、いつ私に救いが来るのでしょうか? もしこのまま私が死んだら何だったのでしょうか? この苦しみなんだったのでしょうか? 救いってやはりないのでしょう? 生まれて毎日毎日虐待されて死んだ人とか救われたのでしょうか?
質問1 思考を挟まず「ただ感じるまま」でいる状態、つまり「その様であるものはその様である」という絶対安心の境地において、六根の「意」に対応する、リアルタイムで湧き流れるこの「法(思考・想像)」すらも「ただその様であるだけ」という認識なのですか? 質問2 禅宗では「自他の区別分別が無くなる」系の悟りエピソードをよく聞きますが、これはあくまで禅定が深まった状態なのではなく、悟りが完成した際に起こる心理的または精神的体験であり、まさにそのような体験・感覚こそが「悟りの本質」であり「悟りそのもの」であり「悟りの境地の証左」でもあるという認識でよろしいでしょうか? 御回答よろしくお願いします。
仏教の初学者です。何卒よろしくお願い致します。 ①ブッダがナイフで刺されたら、どう反応されたでしょうか。 慈悲で相手を許されるかと思いますが、止血しようとしますか? 「生への執着」すら持たないのでしょうか。(想像で構いません) ②より良い生のため、「知足」と「向上心」をどう両立させるか? 以下の4パターンを考えてみました。 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい しかし、諸法無我を考えると混乱します。 異なる線引きが適切でしょうか? また、向上心は往々にして執着/煩悩に変わりそうですね。。 ③人間は「感覚」に「反応」して、喜んだり悲しんだりするかと。 A 感覚「喉が渇いた」etc. B 反応「不快だ」etc. 瞑想や修行で、A⇒Bの繋がりを弱めることは可能だと思います。 悟りとは、A⇒Bの繋がりが無くなる(=涅槃)との認識です。 そこで質問。悟ったら、生きてて楽しいのでしょうか? (批判する意図は全くありません) 一切皆苦を前提とした上で、喜んだり悲しんだり「いま」を味わうのが「生きる」とすると、悟ってどんな「いいこと」があるのでしょうか? (メタに考えると、一切皆苦から逃げたいという煩悩がある?) 或いは、煩悩と悟りの間でどうバランスを取られているのでしょうか? 長文失礼いたしました。 ピントがずれているかもですが、何卒宜しくお願い致します。
知識がないのでもし勘違いがあれば訂正して下さい。また仏教に悪意があるわけでもなく単純な疑問なので教えてください。 仏教の開祖であるブッダはある時妻子を捨てて、真理を探究する旅に出て苦難の末悟りを開いたのだと思いますが、出家して出て行ったブッダには妻や子がいたかと思います。現代的にはある意味妻子を放り出して勝手に出て行った感じだと思うのですが、そう言う方を開祖とする仏教という宗教が、「家族や祖先や人との縁を大事にしなさい」言うのになんとなくもやっとします。簡単に言うとやってることと言ってること違う?みたいな感じです。 仏教の教えを学んだお坊さまはそのようなことを疑問に思ったりしませんでしたか?それとも家族である妻子を放り出しても良いくらいの価値がある教えを見つけた人だからそれくらいは許されるとお思いでしょうか?
前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?
最近仏教を知り、勉強している者です 疑問がありますので、お教えください 1諸行無常や一切皆苦など、真理のことばであって絶対に変わらない正し ことであるとみたのですが、それとは裏腹に正しいと思ったことは正し くないという真理があると思いますが、でしたら真理は正しいのでしょうか 2涅槃静寂、悟りの境地は安らかである、とのこですが その状態で認知症や記憶喪失にあえば、悟りは消えますかね? もし消える可能性がある以上、涅槃静寂だとは思えないのですが... それと悟りを得ていない者は、認知症や記憶喪失を恐れ、健康でいる ことや記憶をなくさないことに執着してしまうのではないでしょうか 支離滅裂な質問で申し訳ないです 理解できた部分だけでもいいのでご回答待ってます
密教の在家信者でも悟りに至ることができるのか、質問したものです。出家者にお布施をして悟りに至るとのことですが、即身成仏の問題があります。 在家信者でもご真言を唱えれば即身成仏できるんですか?(出家者にお布施なしで)
では回答率99.9パーセントのお坊様に質問です 前回の質問の答えに大慈様が言われた内容ですが 仏教では世界の始まりは「わからない」、「無始」、「無記」であると これって原因である始まりを無視して結果であるこの世界だけを見てる 因を無視した果の法則ですよね そして「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」 「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)」 この対策こそが瞑想で悟りを開くことですよね お釈迦様は生まれた時から瞑想すれば悟りを開けるなんて知らないですよね ではお釈迦様に瞑想を教えた人は誰ですか?そしてその人にも教えたのは?そしてその人にも教えたのは? 仏教→バラモン→ヒンドゥー→ゾロアスターと土着信仰の融合→メソポタミア こうやってどんどんどん突き止めると悟りを開く瞑想を教えたのは因を無視した果の法則ですよ 因を無視した果の法則が悟りの瞑想法を作り因果関係のシルクロードを渡って我々に瞑想を教えたというのに 瞑想で悟りを開けばこの因果関係や因を無視した果の法則からも解脱できるってぶっ飛びすぎてないですか 悟りの境地の空間ですら先に因を無視した果の法則が始まる前から終わった状態での結果として作られたと思うんです そうすると煩悩と悟りは最初から二つの性質が同時に存在する量子力学みたいに共存してると思うんですが? あと諸行無常の教えで全てのものは変化するなら 善業も悟りも幸せも形を変えただけの煩悩ではないんですか? 涅槃の境地で夜に眠り煩悩で朝に起きて 涅槃の境地で瞑想してて煩悩で仕事行かなきゃいけなくて 涅槃の境地のお釈迦様は煩悩の梵天に娑婆の世界行かされた様に 悟りと煩悩は共存してると思うんです もしくは形を変えただけか 良文様が言われたヴィトゲンシュタイン様の形而上学的な疑問は言葉で説明できないという話 最初から量子力学としてある言葉に出来る世界と言葉に出来ない世界 その言葉に出来ない世界のような概念のないような形而上学の世界に神ならまだしも人間がいけると思いますか? たった6年の修行で・・・この6と言う数字・・・666 お釈迦様が実はフリーメーソンのメンバーで仏教をある理由で作ったとか思ったことないですか? 物事を理屈で考えさせない政治的プロパガンダのためとか
心が強くなれそうと言う単純な理由で、座禅を始めました。 始めて見たら、座禅より、仏教の教えを勉強する方が、心のささえになるのではと思うようになり、座禅の意味が良く判らなくなりました。 座禅は、仏教の教えのひとつなのか? 仏教の教えと、座禅は、同列でどちらも仏教の修行なのか? 座禅で悟りを開いたものが、仏教の教えも理解出来るようになるのか? 仏教の教えを理解したものが、座禅で悟りを開けるのか? 初歩的な質問で凝縮ですが、教えて頂けますでしょうか?
悟りをひらくと輪廻転生しなくなると言われていますが、どうなるのでしょうか。私は俗世に未練があるようです。
普段お唱えしているお経の一節についてお教えください。 般若心経や阿弥陀経には「阿耨多羅三藐三菩提」という言葉が出てきますが、結局これはどういう意味で、何を指すのでしょうか? 本などで調べても、 ・最高の理想的な悟りのこと ・無上正等覚とも言う ・一切の真理をあまねく知った最上の智慧。真理を悟った境地。 としか出てきません。 いったい御釈迦様はどういう真理について何をお悟りになったのでしょうか。
禅定とはどういう状態でしょうか。 悟りとは違うものですか。 どうすれば禅定になれますか。
お坊さんの皆さまは、仏教への執着、悟りへの執着がものすごいのではないでしょうか?そうでなければ、お坊さんになりますか? その部分への対策や、他にこんなものにも執着しているというのがあれば教えて頂けませんでしょうか? よろしくお願い致します。
前にウィトゲンシュタインの形而上学の話をしたお坊様がいて その人が形而上学の世界を考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってるといってましたが そのウィトゲンシュタインの形而上学の話でさえ形而上学から来た考えじゃないですよね? だからその考えが必ずしも正しいとは思わないんですがもしもそれが正しいなら 悟りは考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってる・・・ それなら菩提樹で瞑想して悟りへ行けるのも間違ってるんじゃないですか お釈迦様が怪しくないですか? 自殺大国日本を救うような奇跡を見せたりすればなんとなく信じれるんですが 都合よく無記って言葉で片付けて良いなら どんなカルト宗教も成立しますよね わざわざアビダンマや大乗や密教やらが一貫性のない色んな経典使って 色んな山の麓からアプローチして悟り目指す必要もない 最終的には無記なんですもん わかんないですもん ウィトゲンシュタインの話しが正しいなら 形而上学の世界は考えるのも言葉にするのも探すのも色んな経典で計るのも悟りが存在することも間違ってませんか?そもそもそんなもの無いのでは・・・ 有るんだったら誰が作ったんですか?人間から神様になったお釈迦様ですか?それともこの世の最初から有った原因のわからない結果ですか?それとも過去仏ですか?やはり無記ですか・・・ 本当に悟りを開いてる人がいたら今のこの戦争や犯罪や自殺が蔓延する ナイトメアストリートダンジョンな世界を救ってると思うんですけどね
悟りをひらいたブッダのような心は、何を美しいと感じるのでしょうか?美しいと感じるのでしょうか? 朝日や夕焼けなどの自然を美しいと感じるのは何故なのでしょうか?
真言宗は密教なので、核心は出家者しか教えてもらえないと思うんですが、在家信者は核心を知らずして悟りに至ることができるのでしょうか? 最近真言宗に興味を持っており、ここらへんが凄く気になります。
こんにちは。いつもご丁寧な回答ありがとうございます。 さて、本題なのですが、欲とはどうすれば制御できるのでしょうか。私の場合は、 性欲が強く、自分の性欲を満たすためならなんでもするというほど性欲が強く、たびたび悩まされています。 これは友達に指摘され気付いたのですが それまでは自分の性欲の強さを理解しておらず、指摘され意識するようになりました。 また、性欲に限らず欲や煩悩が多い性格でもし無くせるなら無くしたいと思っています。 お坊さんは悟りを開かれているとお聞きしました。煩悩の塊のような私にも悟りを開き欲を制御する事はできるのでしょうか。
昔、道を求めて様々な人と話をしました。 とある尼僧は『お坊さんでも悟っていない人もいる。一般人でも悟っている人がいる。しかしそれは2-3年程度。2-3年したら元の人間に戻る』とおっしゃっていました。これは本当ですか?一般人でも悟れるのですか? とある行者は『あらゆる修行をしまくったが最も自己を成長させてくれたのは利他(ボランティア活動)だった。利他こそが修行である』『滝に打たれるのも激しい修行をするのも自分の為にするなら自己満足に過ぎなかった』と言っていました。 お坊さんとしての修行をしなくても利他をし続ければ悟りへ近づけるのでしょうか? 私事ですが、事情があって出家は出来ませんし、家でもできる坐禅や瞑想はとても苦手なんです。何度かチャレンジしましたが向いていないと感じています。 しかし、そうであっても(坐禅・瞑想が出来なくても)利他行だけで悟りに至れるのか気になって質問させていただきました。色々なお坊様の御意見をお伺いしたいです。よろしくお願い致します。
私は浄土真宗の教えに触れて前よりも煩悶せず心静かに過ごせているように思います。 そんな中で気になったのですが、浄土門の各宗派において、浄土で阿弥陀様のお導きで悟りを得させていただくのはこの先の何度も何度も続く輪廻転生の先のいつか、という理解になるのでしょうか? 今生だけでも長く苦しむこともある遠い道のりとはいえそれでもいつかは悟りを得させていただく身と考えて子供の頃の悩みや恐怖、不安が大人になってからはそんなこと気にしなくてよかったと思えるようになったみたいに今のこの身に起こる煩悶も少し離れて見られるような気がします。 何度も生まれ変わるとして、その時にも仏縁に導かれたいものです。
お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?