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hasunoha 問答検索結果 : 「悟り」
検索結果: 2156件

仏教徒に対する疑問パート3

お坊様 仏教についてもうすこし深く知りたくて色々調べたのですが やはりわからないことがあってモヤモヤします なのでお答えください 仏教のテーマは苦しみから逃れて悟りの境地に行くことですよね でも釈迦様は菩薩に悟りとは何かを聞かれても何も答えなかったんですよね  それをバックボーンに諸行無常とかそういう言葉が出てきてもなんか怪しいです  それに四諦、八正道、中道など苦しみから逃れて悟りの道を歩もうとすることを意識すること自体が結局は五蘊無我になれないと思いますし  釈迦様が五蘊無我になって悟ったならそれは感覚器管すべて感じなくなって死んでるんじゃないですか? 生きてるんだとしたらその生きてる我はなんですか? 自分の我じゃなくて動物、人間、植物、全宇宙の我ですか?だとしたら我々みんなも悟らないと釈迦様も悟れないんじゃないですか  釈迦様だけが自分ひとりで悟って救われてるならそれはまだ自我から出られてないと思いますし  出ているならなんで菩薩に悟りとはなにかを聞かれても教えないのか  それを答えないのは我があるからじゃないですか我がなかったらペラペラ喋ると思うんです  それとも真理は言葉で表現しちゃダメなものなんですか?だとしたら言葉にした瞬間それは真理で無いなら諸行無常とか言う言葉も真理じゃないんじゃないかと思ってしまいます それとも言葉にしたものは完全には間違ってないけど半分真理なんですかね 色すなわち空のように 言葉にしない次元が完全に真理で言葉にする次元は半分シャバで半分真理 でもそうだとしても言葉にしない次元と言葉にする次元は既存の世界としてありますよね まるで色すなわち空のように そうしたら結局この世界なんて半分真理で半分シャバで  究極の悟りなんかないのかと思って もうこうなるといくら悟ったって究極の悟りを得られないなら この世の全てを作った全能なる神にひざまづいた方がいいんじゃないかと思いまして

有り難し有り難し 73
回答数回答 6

結局救いはないのでしょう?

仏教は、悟りや解脱や涅槃に至る為のツールです。 哲学が好きな私は客観的に考えを深める事が好きで、苦しみの原因を抽象的に考えて気づきを得ようと問答でも具体性というより根源的な答えを求めておりました。 しかし私の書き方は、何故か肯定的に捉えられません。 皆さんは私を精神疾患だからとスティグマを貼るのはわかります。また疾患に対してのスティグマがあるように思えます、私は寛解しておりますし、発達障害での通院であり特別大きな"何か"があるわけではありません、また今苦しんでる発達障害は疾患ではなく障害です。必死に真面目に生きております。 私はとても不幸や苦しみに悩まされており、それをきちんと言語化して対処し、アドバイスをこなし哲学的に考え努力し改善し感謝して実践しています。 しかしとんでもなく不幸なのです。捉え方ではもはや気休めにもなりません。何度も書いてますが親を目の前で殺されて全身火傷に塩を塗られて捉え方を変えるなど無意味なのです。 誰からも理解されません。社会や医師や家族や友人、知人、異性、職場、ソーシャルワーカー、そして仏教。。。 運命というか世界は私に拷問をしているようです。遺伝子配列に始まり、私の人生の全ては拷問のようです。 私を唯一理解してくれ救ってくれるのは、私と同じような発達障害や生きづらさで人生苦しんだエジソンやゴッホなどの偉人の生き様や思考だけです。 私には救いはないのでしょうか。 まだ救いが来るのは早いと此方のサイトで言われてもう数年経ちます、結局私は人に感謝をしてその感謝にゲロを吐かれるような人生です。 "ジョーカー"という映画が今、流行っていますが私はあれより酷いかもしれません、他者に施した優しさや感謝が純粋な悪に変わっても何ら違和感がありません。 ニーチェの永劫回帰ってありますよね、まさに私の人生はアレです。人生めちゃくちゃで苦しんでも毎日雨ニモ負ケズの精神で毎日毎日偽の希望を持って折れずに笑って生きて、アホらしくなります。 色んなことを試して毎日毎日苦しい気持ちを押し殺して毎日毎日毎日ずーっと苦しんで、いつ私に救いが来るのでしょうか? もしこのまま私が死んだら何だったのでしょうか? この苦しみなんだったのでしょうか? 救いってやはりないのでしょう? 生まれて毎日毎日虐待されて死んだ人とか救われたのでしょうか?

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

もしブッダがナイフで刺されたら【他2点】

仏教の初学者です。何卒よろしくお願い致します。   ①ブッダがナイフで刺されたら、どう反応されたでしょうか。  慈悲で相手を許されるかと思いますが、止血しようとしますか?  「生への執着」すら持たないのでしょうか。(想像で構いません)   ②より良い生のため、「知足」と「向上心」をどう両立させるか? 以下の4パターンを考えてみました。   【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分   【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   しかし、諸法無我を考えると混乱します。 異なる線引きが適切でしょうか?     また、向上心は往々にして執着/煩悩に変わりそうですね。。   ③人間は「感覚」に「反応」して、喜んだり悲しんだりするかと。   A 感覚「喉が渇いた」etc. B 反応「不快だ」etc.   瞑想や修行で、A⇒Bの繋がりを弱めることは可能だと思います。 悟りとは、A⇒Bの繋がりが無くなる(=涅槃)との認識です。 そこで質問。悟ったら、生きてて楽しいのでしょうか? (批判する意図は全くありません)   一切皆苦を前提とした上で、喜んだり悲しんだり「いま」を味わうのが「生きる」とすると、悟ってどんな「いいこと」があるのでしょうか? (メタに考えると、一切皆苦から逃げたいという煩悩がある?)   或いは、煩悩と悟りの間でどうバランスを取られているのでしょうか?   長文失礼いたしました。 ピントがずれているかもですが、何卒宜しくお願い致します。  

有り難し有り難し 64
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仏教徒に対する疑問パート7

前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?

有り難し有り難し 112
回答数回答 7

仏教徒に対する疑問パート6

では回答率99.9パーセントのお坊様に質問です 前回の質問の答えに大慈様が言われた内容ですが 仏教では世界の始まりは「わからない」、「無始」、「無記」であると これって原因である始まりを無視して結果であるこの世界だけを見てる 因を無視した果の法則ですよね そして「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」 「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)」 この対策こそが瞑想で悟りを開くことですよね お釈迦様は生まれた時から瞑想すれば悟りを開けるなんて知らないですよね ではお釈迦様に瞑想を教えた人は誰ですか?そしてその人にも教えたのは?そしてその人にも教えたのは? 仏教→バラモン→ヒンドゥー→ゾロアスターと土着信仰の融合→メソポタミア こうやってどんどんどん突き止めると悟りを開く瞑想を教えたのは因を無視した果の法則ですよ 因を無視した果の法則が悟りの瞑想法を作り因果関係のシルクロードを渡って我々に瞑想を教えたというのに 瞑想で悟りを開けばこの因果関係や因を無視した果の法則からも解脱できるってぶっ飛びすぎてないですか 悟りの境地の空間ですら先に因を無視した果の法則が始まる前から終わった状態での結果として作られたと思うんです そうすると煩悩と悟りは最初から二つの性質が同時に存在する量子力学みたいに共存してると思うんですが? あと諸行無常の教えで全てのものは変化するなら 善業も悟りも幸せも形を変えただけの煩悩ではないんですか? 涅槃の境地で夜に眠り煩悩で朝に起きて  涅槃の境地で瞑想してて煩悩で仕事行かなきゃいけなくて 涅槃の境地のお釈迦様は煩悩の梵天に娑婆の世界行かされた様に 悟りと煩悩は共存してると思うんです もしくは形を変えただけか 良文様が言われたヴィトゲンシュタイン様の形而上学的な疑問は言葉で説明できないという話 最初から量子力学としてある言葉に出来る世界と言葉に出来ない世界 その言葉に出来ない世界のような概念のないような形而上学の世界に神ならまだしも人間がいけると思いますか? たった6年の修行で・・・この6と言う数字・・・666 お釈迦様が実はフリーメーソンのメンバーで仏教をある理由で作ったとか思ったことないですか? 物事を理屈で考えさせない政治的プロパガンダのためとか

有り難し有り難し 160
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仏教徒に対する疑問パート8

前にウィトゲンシュタインの形而上学の話をしたお坊様がいて その人が形而上学の世界を考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってるといってましたが そのウィトゲンシュタインの形而上学の話でさえ形而上学から来た考えじゃないですよね? だからその考えが必ずしも正しいとは思わないんですがもしもそれが正しいなら 悟りは考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってる・・・ それなら菩提樹で瞑想して悟りへ行けるのも間違ってるんじゃないですか お釈迦様が怪しくないですか? 自殺大国日本を救うような奇跡を見せたりすればなんとなく信じれるんですが 都合よく無記って言葉で片付けて良いなら どんなカルト宗教も成立しますよね わざわざアビダンマや大乗や密教やらが一貫性のない色んな経典使って 色んな山の麓からアプローチして悟り目指す必要もない 最終的には無記なんですもん わかんないですもん  ウィトゲンシュタインの話しが正しいなら 形而上学の世界は考えるのも言葉にするのも探すのも色んな経典で計るのも悟りが存在することも間違ってませんか?そもそもそんなもの無いのでは・・・ 有るんだったら誰が作ったんですか?人間から神様になったお釈迦様ですか?それともこの世の最初から有った原因のわからない結果ですか?それとも過去仏ですか?やはり無記ですか・・・ 本当に悟りを開いてる人がいたら今のこの戦争や犯罪や自殺が蔓延する ナイトメアストリートダンジョンな世界を救ってると思うんですけどね

有り難し有り難し 74
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