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問答一覧
検索結果: 8555件
2022/01/01

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 63
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夫が自死しました

夫が自死して2か月が経ちました。過労により精神を病んでいたのだと理解しています。 夫の死後、仏教を学び、これまでの苦しさは煩悩であり、夫は自らの煩悩に飲み込まれるように亡くなったのだと思うようになりました。生きることは苦しいことだらけ。執着を無くすことが悟りへの道。 「生きたい」という欲望は、「生かされている」と感謝する気持ちで付き合うことが大切なのかなと思うようになりました。 苦しんでも良い、この身を引き裂かれる苦しみすらもいつか何かを悟る学びになると思っています。ですが、お腹を痛めて産んだ息子、血を分けた兄弟を失った悲しみを抱えた義実家の方々の苦しみの前ではそんな事を申し上げることもできません。冷静な自分が、自分だけ苦しみから逃げているような非情な感覚がします。 なぜ1歳の娘を、大切にしていたお父さん、お母さん、お姉さんをおいていってしまったのかという怒りが昇華できない自分もいます。これはどうしようもない感情なのだと半ば諦めかけてもいますが・・・できれば故人のことは温かい気持ちだけで思い出してあげたいものです。 人を幸せにしたい、自分も幸せでいたい。それ自体も煩悩でしょうか。よりよい未来を望むことに罪悪感を感じます。どのような心がけで生きていけば良いのでしょうか。「悟る」ことと「諦める」ことの境界に悩んでいます。ご教授頂けたら幸いです。

有り難し有り難し 38
回答数回答 3

哲学専攻の友達に論破されてしまいました。

 僕は日々陰鬱に生きていて、変わらなければならい節目を迎えた時、生きる意味について考えるキッカケを授かりました。生きる意味というか、今、生きているということに納得する理由がほしくて。僕はその理由をなんとなく自分の中に見出しました。  それは「人は善を為そうとし、真に為し得ない。優しくあろうとし、真に優しくあれない。愛そうとし、真に愛せない。」その善を為そうと、優しくあろうと、愛そうと努力することこそが生きる悦びだと、僕はそう納得していました。そしてその「生きる意味」を職業(カウンセラー、精神科医、臨床心理士、お坊さんなど)にしようと、大学を入り直すことさえ考えました。  しかし、その友達は、僕の生きる理由を「現実を決済する」こと、僕が信じる「美しいものを美しいものだと感じる心そのもの」を妄想と否定し、浄土、成仏の存在を真っ向から否定しました。  僕は、その友達の考えを否定することはできませんでした。かといって僕の本来持っていた考えを否定する気を起こそうとも思いませんでした。  またある人は「誰かがあなたに、本音や弱音を告白しているときに絶対に言ってはいけないことがある。正論です。」と言いました。  浄土、仏性、成仏は、そして仏教は、自己満足させるためだけの嘘なのでしょうか?美しいものを美しいものだと感じる僕のこの心は妄想でしかないのでしょうか?  それは僕が在る、と考えれば在る、のだと信じておりますが、僕はこの途方もないやるせない気持ちをどうにかしたいのです。  僕は恐らくこの(実存哲学?という)正論を信じると一生不幸だと思い、しかも僕はそれに対してどうしようとすることもできないのです。  僕は、仏様から授かった自分の寿命を全うするために死ぬまで生きようと思っておりましたが、その考えが不安定にならざるを得ないのです。  僕はこの儚い気持ちにどう向き合えば良いのでしょうか?お智慧をお貸しください。  長く稚拙な文章となってしまい申し訳ありません。また仏教思想を自分勝手な解釈で捉えております。それは違うというところ、誤解があれば、感謝と敬意をもってお説教を受け賜わります。 便宜的に、思想的に、僕はその人を友達だと書きましたが、本当はツイッター内において、フォローフォロワーの関係にすらなっていない、赤の他人です。 (´・ω・`)...

有り難し有り難し 78
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宗派にとらわれない仏教思想の学び方について

10年ほど前、職場やプライベートの過度なストレスから パニック障害→鬱となり、仕事ができない状況になって職を離れました。 それまでは、フルタイムでバリバリ働き帰りは終電、 帰宅後や週末も時々在宅や出先で別の仕事をかけ持つなど 無茶もしていた時期もありました。 それくらい動けていたのが突然何もできなくり、愕然としました。 投薬治療で少しずつ動けるようになってきたものの、未だに完治とならず 相変わらず波がありゆられながらギリギリで過ごしています。 それまでの様な生き方、暮らし方はもう出来ない状況です。 そんな中、自分の生き方を振り返りながら、 ふと子供の頃から生き辛さを感じ続けていた事に気づかされました。 そこで、色々と勉強(通信制で通学もある大学で)を始め、 数年前に(明治維新以降ではなくそれ以前の仏教の考え方)仏教の 教えに触れる事ができ、そこから色々と(亀の様な歩みではありますが) 物事の捉え方を修正できてきている実感ができるようになってきました。 授業だけでは物足りず、参考文献など少しずつ読みながら独学を進めております。 最近は、どこかのお寺で勉強会などがあるなら行ってみようか? と考えてみたりするようになりましたが、 宗派にとらわれずにお坊さんから学ぶ術はないのだろうか? という疑問が湧いてきております。 今後学んで行くために何か良いアドバイスがいただければ幸いに存じます。

有り難し有り難し 219
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一生治らない病。まだ苦しむなら今すぐ死にたい

現在、心身の不調により幾つかの病院に通い続けておりますが、どの病院でどんな治療をしても、全く良くなっておりません。 むしろ悪化しております。 幼少期より、あらゆる箇所に不調が現れ、その頃から手探りで病院に行っておりました。 高校生の頃から、幾つかの病院へ本格的に通うようになりました。 それでも どんどん悪化し、今は20代前半ですが、ほとんど動けず、寝たきりに近い状態です。 安静にしていても、いじめ等、過去の辛い記憶が頭を支配して非常に辛いです。 かなり前より希死念慮はありましたが、年々強くなっております。 検査で明らかな異常が出るわけでもないためか、お医者さんは未だに病名を断定しにくいようです。 心と体の両面を、行政にも相談しましたが(電話や対面で医療相談が出来るもの)、とても面倒くさそうで、適当な返答をされるだけでした。 検査で明らかな異常も出ないため、周囲にも理解されず、ただ怠けていると思われているようです。 (動きたいときに動ける方から見れば、そう思えても当然かと思いますが、やはりショックです…) 何をしても改善されないため、この病気が治るのか以前から疑問に思い、何度か医師に聞きましたが、あまり相手にされませんでした。 しかし先日改めて聞くと、 「こちらも困ってるんですよ」「あなたはもう治らない」「一生病院に通って薬を飲むしかない」 とのことでした。 覚悟はしていましたが、この状態が自然死するまで続くとわかると、今すぐ終わりを選びたいと、更に強く思います。 仕事も出来ず、話し相手もおらず、1日中 家の中で孤独に横になる生活が何十年も続くのならば、今すぐ死を選びたいです。 誰かに殺されるのでも構いません。 日本にも安楽死の制度があれば良かった。

有り難し有り難し 53
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仏教徒に対する疑問パート7

前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?

有り難し有り難し 111
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仕事も不妊治療も逃げ出してしまいたい。

虐待して殺しちゃう人がいるのに、欲しいと思っている人は授からないってなんて不公平なんでしょう。何人もの同期は育休終わって仕事復帰してます。先輩方も保育園入りやすいように○月生まれで下の子は○歳違いにした。など思い通りな人も結構います。フェイスブック開くと地元の同級生の2人目ラッシュ、七五三やランドセルうんぬん。Lineのアイコンも赤ちゃんが増えました。 仕事しながら不妊治療行くのも疲れました。時間のやりくりも体力も。老人病棟の看護師なので、介護度が高く認知症患者からの暴言暴力も日常飯事です。辛いです。 異動希望出すにも、楽な病棟にいけるとも限らず、不妊治療中で産休取るかもしれない人を引き取ってくれる可能性も低く、どうにもならないです。上司も面倒ごとには関わりない人なのね無関心です。不妊治療は自分の意思に関係なく突然予定が決まってしまうため、休をみ希望すると嫌味。事情を話しても初めて知りました〜って顔されます。具体的な不妊治療法はともかく、看護師なら生理と妊娠の仕組みは知ってて当然のはずなのに・・・。そうゆう人なんです。患者の異変に気付いていても早く帰りたいから気付かないふりするようなサイテーな人です。 生理が始まった1、2日目に受診して薬を飲み、卵胞のチェックのために連日受診、注射を打ち、更にその3日後に効き具合を見るために受診、更に注射と薬を追加と、、副作用も辛いです。1つでも逃すど台無しになってしまいます。 逃げ出してしまいたいです。

有り難し有り難し 72
回答数回答 3

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