親から虐待され、人を信じられなくて 親類縁者との縁はとっくの昔に切り捨てました。 でも、人がとても恋しくて 誰とでも仲良くしようとしてきましたが、気付けば友達と呼べる人がいなくて とても寂しいです。 なぜいつもひとりになってしまうのでしょうか? 結婚もしましたし、子供も5人授かりました。 でも、それも失敗してます。 今子どもたちは皆バラバラに生きています。 私は、誰からも必要とはされてないようです。 それでも生きている意味はあるのでしょうか? 助けてください。
このたび、仕事で私情がもつれ罪を犯してしまい、会社に多大なる迷惑と損害を与え、また人々を自分の身勝手な行動で傷つけ裏切ってしまいました。 おそらく一番重い処分となりそうです。 悔いても悔いきれませんが、この先どのようにすることが償いとなるのか、どのように生きたら良いのかと思い質問させていただきました。 このような私ですが、お言葉頂ければ幸いです。
今もう全てがぐちゃぐちゃです。元々精神が弱くカウンセリングにずっと通っていたのですが、自分が不安症だと言う事に気づかず自信がついてきた時だったのに、自分の根本を見つめる、自分の不安定は家庭にある、私は不安症、慣れない彼の地元で本当にやってけるのか?と言う事をカウンセリングしてしまい、そこからもっとバランスを崩しました。全てを彼に話しそんなのおかしいとなり、そのカウンセリングは辞めました。カウンセラーではなく俺を頼ってほしいと言われ、まずはこっちに住んでみようとしたのですが、全く嫁ぎ先に慣れず、そんな矢先彼が職場でパワハラにあい、退職。入籍は先延ばしに、今しかできないからと、前からやってみたかった起業を始める為今はバイト生活。実母には心配させたくないと言えず、そんな矢先、私に今度は左膝に腫瘍が見つかり手術、1年は装具をつけての生活。もう散々です。周りは普通に結婚出産をして元気に働いてるのに、なんで私ばっかり?としか思えず、周りの全てが羨ましく思い、周りとも疎遠になっていってます。病気の事はさすがに実母に話し、帰省してますが、元々気が強く性格が合わない母で、籍はいつ?出産も考えたら?と言ってくる事が今の私には辛く。彼が今は仕事が安定してないので籍を入れられないのを知らないのもありますが、プレッシャーにしかならないんだよ!と怒ってしまいました。普段怒らない私に、母も悲しそうにしてしまいその姿に、更に悲しくなってしまう私。なんでこんなになってしまったんだろう。誰も悪くないのに、神様はなんでこんなに私達を苦しめるのだろうと朝起きてからネガティブな事ばかり考え、頭もカチカチに凝り固まって訳がわからなくなってしまっています。ちなみに私は去年本厄で、去年は人生でこんなに辛い事があるかと言うくらいの年でした。将来に絶望しかありません。彼は私が不安症だと言う事、病気の事も受けいれてくれていて、話し合って家庭を築いていける人、人として尊敬できて、何より協力し会える相手です。しかし、彼の地元に慣れない、彼の親がうつ病など私もこんな感じなので、不安だし、不幸が続き、本心ではないなに離れた方が良いのかなとか思ってしまいます。こんな毎日をどう過ごしていけばよいのでしょうか。
般若心経をの訳を読んでもモヤッと書かれていてよくわかりませんでした。 苦しいことは永遠に続かないよ、としたら幸せも永遠に続かないよ、と解釈したのですが幸せを維持するために頑張るのは当たり前だけどそれが壊れるのを恐れちゃいけないよって考えてOKでしょうか? てことはどうしても湧いてくる恐れはどうしたらなくなるの?とかぐるぐる考えてしまいます。 般若心経を分かりやすく教えて頂きたいです。もしくは分かりやすい訳が載っている本を教えて頂きたいです。 よろしくお願いいたします。
みなさんいつもありがとうございます。 人生いろいろな経験をさせていただきましたところ、 おかげさまで、私は2017/2/20に突然、蓮の花の色をした明るく至福で安寧な空間(浄土?)に招かれ、凡夫成仏させていただきました。 自分のすべてを赦していただきましたので この世のすべてを赦して暮らしています。 仏様から今後生きている間は、全ての人々、森羅万象に感謝して暮らすように教えていただきました。 また、この世は生きづらく、ドロドロとしていないといけないことも教わりまして 蓮は泥より出でて泥に染まらず。の意味もやっと理解できました。 どなたか、同じような経験をして、凡夫成仏した方をご存じないでしょうか?
最近、ネットが普及し、自死者に関することで色々と閲覧することができる。こちらのサイトのお坊さんは、自死遺族の気持ちを察して頂き自死者も必ず成仏するとご回答を頂きます。 しかし、他のサイトで真言宗の修行僧と称する者が、自死者は永遠に苦しむと書き込んでいます。同じ仏教徒でこんなに違うのでしょうか?本当に可笑しく思います。あるスピリチュアルでは、自死者は反省の部屋に入り、自分で納得すればガイドに従って成仏できると言っています。テレビで出ていた江原は違いますが 私は、なんとなくこのスピチュアルが主張する自死者の死後のあり様が自然に受け入れることができます。 要は、誰もが死んだ経験がありません。死後の世界なんかわかる訳がないと思います。昔は自死者は、地獄で永遠に苦しむと言われていましたが、ここ最近は自死遺族の苦悩を和らげるためか、成仏できるとお答えを頂きます。僧侶によっては、地縛霊のことは教えられていないと言っている者もいます。 キリスト教なんかは最悪です。よくもここまで豹変できるのかと思います。 こちらの僧侶の方は、本当に心の優しい方だと思います。カルトの様な馬鹿な話は信じません。しかし、本当のところはどうなのでしょうか?自死した者の霊は、安らかに成仏できるのか? 本当は、人間世界で何十年、何百年と苦しむのか?噓を言われて心を和ませたくありません。本当は、自死者が、一人で永遠に苦しむのであれば私が自死をして、妻を救いに行きます。私の魂は、あくまでも妻を救出のため。自身の我儘で自死するのとは違います。 イスラム教で言えば聖戦です。自死者の魂の行先は、僧侶や所謂霊能者と言われる人によっては行き先が二分されていると思います。地獄か極楽浄土へ行くか・・・ 言われていることがおかしいです?お釈迦様は、自死について良いとも悪いとも言っていないと今は言われているというか無理にその様に解釈をしているのでしょうが、本当はどうなんですか? 慰めで極楽浄土へ行くと言われると心が少し和みますが、自死遺族のために止むを得ず真実と違うことを言われるのは、返って罪なことだと思います。実際に真言宗の僧侶が永遠の地獄に行くとネットに平然と書いている。本当のことが私は知りたいのです。永遠の地獄に行くというのであれば私は、自死(救出のため)して地獄から妻を救い出す覚悟です。お答えをお願い致します。
年内に入籍を考えています。 今後のことを相談していく中で、もちろん私がお嫁に行くつもりで考えられていたようで戸惑っています。 彼氏さんは長男で、既に唯一のお姉さんはお嫁に出ています。一方私は2人姉妹の次女で、姉は未婚です。 いつも優しく思いやりのある彼氏さんですが、長男だから嫁を貰うのは当たり前、私は次女なんだからお嫁に来たって問題ないのでは、と言われてしまい、すごく驚いたのと、なんだか悲しい気持ちになりました。 女性が改姓するのが今現在も一般的かもしれませんが、私は家族が好きですし、思い入れのある苗字は変えたくありませんでした。 私の祖母もお婿さんをもらったと聞いています。 彼氏さんのご両親もとても優しく、お嫁に行って不便があるわけではないと思いますが、こんな私が苗字を変えたくないと思うのはただのわがままでしょうか。 長男だろうが次女だろうが、自分の苗字を変えたくない気持ちは同じで、優先度もないとおもいます。お嫁に行くのが当たり前なんて世の中変わって欲しいです。 いずれはどちらかに決めなければならないので、もし万が一私が苗字を変えなければならなくなった時、ちゃんと納得できるか、心にギスギスしたものが残らないか不安です。 たかが苗字に、考えすぎでしょうか。 自分の家族が何だか遠くなってしまうような気がして寂しいです。
こんにちは。 半年前から趣味として座禅を朝晩40分ずつやっています。 最近はお寺さんでも座禅をするのですが、悩みがありご相談させて頂きました。 1.座禅中に時間を気にしてしまう自分がいる事。 半跏趺坐で両足の痺れが出るのが開始後30-35分ほどなのですが、ここ最近は上手く座れてないのか、2個目の質問である足を組み直すのと並行して時間を気にする自分がいます。その時の感情面が、足が限界、まだもうちょっと大丈夫、あと何分やろ?できれば足を組み直さないで一炷終わらせたい、いつになったら慣れるんやろ。 2. 50分間の座禅中に足を組み直さないと両膝、左肩が痛くて仕方ないのですが、我慢してたら慣れるものなのか。共に座禅をしている方達は静かに座れているのに何故自分だけは我慢できないのかと自己嫌悪してしまいます。 3. 趣味として座禅を行っていた時は苦痛だとは思わなかったが、一つの修行だと考え座禅を行うようになってからは苦行、座禅が嫌いとまでは言わないが辛いと思ってしまうようになった。心の持ち様or考え方で変わるのだろうと思うが、何が正しいのか分からない雁字搦めの状態になっています。 座禅というものを真面目に捉えてちゃんとやらないとと思ってるから苦痛と思うのか、もっと気楽に座ればいいのか、考え方やコツなどありましたら教えて頂きたいです。 よろしくお願い致します。
仏教について調べていると、葬式とその後の供養が最重要トピックの用に扱われているのが不思議です。 親や先祖の供養ってそこまで大事なのですか? 血縁ってそこまで重要なのかしら? 先祖供養は儒教ではないのかしら? いえ、私も木の股から生まれたわけではないので、縁なり因果なり何かしらあるのだろうとは理解はしていますが。 この世に産み落としてくれたことは有り難いのですが。 血のつながりばかり大事にしなくてもそこかしこに縁はあると思うのです。 個人的に家族の縁が薄いこともあり、 親や先祖のことはよく知らず供養もしていません。 私の死後供養してくれるものもおりません。 しかしそんな私が死んだ時も 仏さまなら何とかお慈悲をくださるのではなかろうか というのが信仰を持ちたいと思った動機なのです。 「私と仏さま」の話ならわかる気もするのですが「私と先祖と仏さま」の話がよくわかりません。 先祖供養が必須なら、親のない人間は仏さまに救っていただけないのでしょうか。 そもそも私の理解が間違ってるのかもしれませんが、 苦しみの多い輪廻の輪から解脱するため修行をしよう、また大乗仏教においてはいろいろな仏さまの力を借りたりおすがりして解脱にいたろう、 というように仏教的な死生観を解釈しています。 修行が足りず仏さまとの縁も結べなければ輪廻の次の段階に進むでしょうし、 宗派によっては生前から成仏しているわけですし 浄土系の宗派では阿弥陀さまのお慈悲によって極楽往生できるでしょうし…。 死後、死者の行く末に関して、生者はどれだけの干渉ができるのだろうか、というのが疑問です。 それは死者本人と仏さまの間の話ではないのかと思います。 そうすると供養とは何のためにするのでしょうか。 お教えをいただければ幸いです。
イラストレーターをやっています。 SNSで自分の描いた絵に何万いいねもついた経験が何度かあります。フォロー数を少なく抑えながらフォロワーも一万人以上いて、他者から羨まれるような場所にいるのかもしれません。 しかし、満足できないんです。いくら「いいね」がついても気持ち良くなるのは一瞬だけ。あの人は自分よりもっと優れている。あの人は自分よりも上手いのに評価されていない、追い抜かれるのが怖い。ウケたのはこの一回だけだ、次は失敗する。抑えようと思っても負の感情が噴き出してくるのです。 元々、ここまでフォロワーを増やす過程でも苦しみの連続でした。現実は思い通りにならないということを何度も痛感しました。承認欲求と戦い続け、未だ制御しきれていません。考え方を転換して自分を騙そうとしても、でもそれって現実は変わってないよね?と囁き掛けられているようです。 フォロワーに嫌われているような気もします。そんなことはないということも頭ではわかっているんです。本気で嫌っているならフォローなんてしませんからね。しかしSkeb(有料でイラストのリクエストをするサービス)の宣伝をしても誰も依頼してくれなかったり、僕の普段のツイートには誰も反応してくれないのです。 心当たりはあります。僕は数年前まで、今よりもファンを思いやっていました。コメントには漏れなく返信し、ファンが望む絵を提供し、ファンが望む自分を演じていました。しかし、それが何の価値もなかったことに気づいたんです。 僕を置いてフォロワー数を爆増して行く相互フォローの絵描きたち。彼らも僕と同じようにファンを思いやる人でした。絵は拡散され、有料リクエストももらえている。じゃあ僕のファンは?何もしてくれません。お金も落としてくれず、ただ僕の絵を見るだけ。拡散してくれないこともあります。僕のファンなら僕を高みに連れて行く努力をすべきです。横暴なのはわかっていますが、それでも裏切られた気分でした。SNSで神絵師と持て囃される人々は一般人のコメントをガン無視するのが常です。僕もそのあり方が正しいと思いました(実際に自分もファンをないがしろにし始めてからフォロワーも倍増しました)。 しかし現実は、増えない絵の仕事と、もらえない有料リクエスト。いくら評価されても、この現実が変わらないような気がするんです。どう自分と向き合ったらいいでしょうか。
こんにちわ突然すみません。 私が相談したいことは人生についてです。幼少期には色々と満たされない人生を送ってきました。大人になり自分の人生はある程度の自由を得られて子供の頃に叶えたかったことできずに思い悩んでいたことも簡単にできるようになりました。 最初のうちは心の奥底から喜びを得られて人生が充実しているような満足感が得られれていました。楽しいと思える仕事や趣味があれば一生を生きていけるように考えていました。 けれども最近はそれらをやっても楽しいよりも虚しい感覚が徐々に増えていっているような気がします。 うまく言葉にできませんが本心から楽しんでいたものがただの暇つぶしになってるような感覚です。それらを解消するために新しいことに取り組んでみたりもしますがそれも結局はだんだんとつまらないものに変わっていきます。 欲求を叶えていっても次の欲求がと出てくるような感じです。 抽象的な相談になってしまい申し訳ありませんがどうすれば人は満足できるのでしょうか?軽いヒントのようなものでも構いませんが答えていただからと助かります。
初めまして。 初回から非常に重苦しい質問をしてしまい、申し訳ございません。 私は、現在就職活動をしています。 その中でどのような職に就こうかと考えた際、これからやりたいことや、 生きる意味について考えてしまい、やりたい事も目的もないのに、 これからも生きるということに嫌気がさしてしまいました。 生きる上で苦しいことや、嫌なこともあるのは分かります。 それに耐えねばならないことも理解しています。しかし、 それに耐えてまで何故生きるのかということが、今は本気でわかりません。 大きな話では地震や災害、就職難、高齢化、経済危機など、 小さな話では人間関係や恋愛、就職、介護など、 不安なことやつらそうなことが多すぎて、将来生きてゆくことが不安です。 「生きる意味なんてない」あるいは、 「その内生きる意味がきっと見つかる」 と自分を励ましてきましたが、 そのごまかしにもそろそろ限界がきています。 生きていて良かったと思える為には、どうすれば良いのでしょうか。 途方もない質問でありますが、お答えを賜われれば幸いです。
こんにちわ。 以前個人的な質問をさせていただき、2度目の質問になります。 以前は大変貴重な回答を頂き非常に感謝しています。 さて、表題の質問になりますが、 小学生の頃「死」について考えたことがあり、その時は・・・ 死んだら考えることすらできなくなってしまう。 死んだらこうやって「死」について考えることもできない。 自分という存在はどこへ行くのか。 と、怖くなって夜寝られなくなってしまった思い出があります。 葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉の意味を調べたり、 100歳を越えてもなお現役の医師を続けていらっしゃる日野原重明さんのコラムなどを読んでから、私は「死」という概念は、 抗うものではなく受け入れるもの。 そしていずれ来る死をどのように受け入れるか。 が大事なのではと思うようになりました。 私は仏教には詳しくありませんが、仏教にも輪廻転生や極楽浄土など死後の魂の行方や考えがあると思います。 よろしければ、仏教的観点でも宗派的観点でもご回答くださる方の個人的な観点でもよいので、「死」についての考えをお聞かせ願えないでしょうか。 宜しくお願いいたします。
うつ病(持続性気分障害)の治療を10年近く受けていいる者です。 先だっては、お坊様方からのメッセージをいただきありがとうございました。世の中には良い人もいると分かり嬉しかったです。 前回の質問よりも「命」について突っ込んでお尋ねします。 生きているのが苦しくて苦しくて楽になりたいです。 死にたいと思うことがあります。 【 自分の命であっても、なぜ命を絶ってはいけないのでしょうか? 】 「生きたくても生きれない人がいる」「生まれてこれなかった命がある」「困る人がいる」「悲しむ人がいる」「ひとつしかないから」「死ぬのは怖いから」「ご先祖様からの預かりものだから」「命のリレーだから」「なかなか人間に生まれるチャンスはないから」などの答えに頭では理解出来ます。 しかし、死について考えているときは負のスパイラルの真っただ中にいるので、自殺のストッパーに全くならないのです。 本で読んだのですが、「お釈迦様も生老病死を苦しみとおっしゃった」そうですよね?つまり生きることも苦しみ。 だから修行して解脱し、二度とどこの世界にも生まれないようにするのですか? もしそうなら個人的にはしっくりきます。(でも結局は生きていてもつまらないですよね。) こんな質問をしていますが、本当は死にたくないという自分もいると思います。死にたがりの生きたがりなのでしょう。 お答えをいただけるとありがたいです。よろしくお願いいたします。
過去に同じような質問がありましたら申し訳ありません。 (その場合は、過去の質問タイトルを教えていただけるとありがたいです) 私(一般人)ですが、仏教が好きで、お経を唱える事に関心があります。 誰が(1)、何に(2) お経を唱える(あげる)のかによって、なぜ、どうなるのか知りたいです。 (1)お坊さん か 一般の人 かで次の2ア~カの対象にお経をあげて違いはありますか? (2)ア.お寺で貰ったお札、イ.家で特に祀っている仏画や仏像、ウ.仏壇の仏画や仏像、エ.仏壇の位牌、オ.お墓、カ.お寺の本堂の仏画や仏像 「日蓮宗の南無妙法蓮華経は、誰があげても同じだよ」と聞いたことがありますが、それならお坊さんの意味が無いような? そうかと思えば、真言宗のお寺で聞いたのは「お坊さんは仏様との橋渡しだよ」とも。では、一般の人が唱えても意味がないのでは? 「仏画や仏像にお唱えすると、誰がお唱えしても仏様は喜ぶので、それが功徳になる」とも、聞いたことがあります。 誰が 何に お経を唱えると、なぜ、どのような効果があり、どうなるのかを知りたいです。 出来れば、密教(真言宗か天台宗)の方のお話と、日蓮宗の方のお話が聞けると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
悩みが多かった時、お釈迦さまは静かに座り自分の心の隅々まで不安を追い掛けて徹底的に潰していったと聞きました。 具体的には、どのようなことをしたのでしょうか。 同じようなことをしようとは思ってはいませんが、知識として気になったので、投稿しました。
無分別智をわかりやすく教えて頂けませんでしょうか? 特に蹴落とし社会における無分別智の実践をお坊様はどのようにお考えなのでしょうか? お忙しい中、恐れ入りますが、ご回答を宜しくお願い申し上げます。
初めてメール書きます。 人間て何の目的があって生きるのでしょうか?。 私は、会社が経営がまずい事を知って、転職したの ですがそこで、「人間てなんの為に生きてる」とつく づく感じたのですが一体何の為でしょうね。 後お聞きしたい事が1つあります。今、50歳になり ますがこの歳でお山に入るのは、遅すぎるでしょうか?。 僧侶が遅すぎるなら他の道はないでしょうか?。お寺に 住み込みで働くとかありませんでしょうか、またできたとして そこで人の為に働くことは可能でしょうか。 ご教授お願いします。ちなみに私は、独身です。
どんな宗教やアドバイスでも、相手がそれを理解し考える力を持っていること前提になっていますよね。 仏教も例外ではありません。 しかし世の中には先天的または後天的理由によりその力を持ち合わせていない人もいます。 理解し考える力を持っていない者がもし道を誤った場合、仏教はどの様にアプローチするのですか? そういった人たちに救いはあるのでしょうか?
少し前までは天国や極楽浄土があるのが死後だと思ってましたが身内の死以降そう思えなくなりました。死ねば骨になり土に帰りそれでおわり。 天国や極楽浄土の世界はどの宗教にも共通してあり古代エジプトでは来世で甦るための肉体が必要だからミイラにし復活をするという概念がありました。でもそれはすべて現世の人が作ったもので実際みたわけではありません、臨死体験などの話もありますが夢なのか区別がつきづらく天国や極楽浄土が垣間見れていい死後世界だったという話はきいたことがありません。 霊柩車内部にも極楽浄土の絵が描かれ死者が三途の川を渡れるように六文銭をもたせたりする風習があります。ただそれもすべて現世の人が作ったもので実際そうかは誰もわかりません。 身内がなくなり何年もたち、やはり死んだらこの世から存在がきえ手元に骨が残され、墓という形あるものに集約され彼岸に墓参りするという残された現世の人のためで、墓も遺骨をいれる場所としか思えなくなりました。 位牌は魂いれをしますが私にはただの板にしか思えず遺骨だけか故人そのものでその先の死後世界は今まではあるように思えたけどそれは無いのだなとしか思えません。身内を亡くすと死がどういうものかよくわかります、人がいなくなるというのがどいうことかが。なので現世にいる時がすべてて誰もみたことない死後世界は存在するとはもう思えません。 広い世の中、少なからずにたような考えもった人はいるでしょうが誰にでもできる話じゃないので周りに同じ考えの人がいるかきける時があればきいてみたいです。