私は両親をすでに亡くしています。 父は病死でしたが、母は認知症になり自死を遂げてしまいました。 父は私が26、母は36の時に亡くなりました。 最近になり、夢に母が出てくるようになりました。 夢の中での母は私に意地悪をしたり困らせるような態度をとっています。 私は母によく迷惑をかけて親不孝ばかりしてきました。 母はそのストレスからか小規模な脳梗塞が重なり認知症になり、ついには自死してしまいました。 自死は仏教では成仏出来ないと言われてますから、母は私の周りをさまよっているのではないかと思ってしまいます。 母が亡くなって6年ほど経ちましたが、私をまだ恨んでいるのではと... 今でも私が母を死に追いやったという罪悪感を持ち続けています。 どうかアドバイスお願いします、乱文失礼致しました。
以前の2回の相談では大変お世話になりました。あれから絵については難しいことはせず、3分間スケッチを続け、仕事も復帰して数ヶ月になります。お答えくださった お坊様方、ありがとうございました。 さて今回は厄年について質問があります。 付き合っている彼が今年大厄を迎えるので心配になり、神社かお寺に厄祓いに行こうと提案したところ、生来面倒くさがりで宗教を信じない彼は、迷信のためにわざわざお詣りに行くのは嫌だと拒否され、その日はケンカになってしまいました。私が本気で心配したのには、母から大厄の歳には必ず悪いことが起きる、特に身内に不幸があるという言い伝えのようなものをずっと聞かされてきたからです。実際父も大厄には遠方に転勤になり、祖父が亡くなりましたし、私も大厄には最愛のペットを亡くし、その後の厄年には(歳がバレますね(笑) 体調を崩し休職しました。 彼が厄祓いを拒否していることを当の母にポロリと話したところ、母は今度は家によって慣習が違うかもと言い出しました。 遠縁のおばさんの一家では、厄年の歳には神社に寄進し、友人親類には贈り物をし、周りの人にはとにかく親切にする、つまり施しをして厄を祓う習慣があるそうです。 少し調べた限りでは厄年に対する考えや行いは地域によって様々あるようです。厄というものはどちらかというと神道の分野ですが、仏教では厄というものをどのように見做しているのでしょうか?そして私は厄年にどう恐れずに向き合っていけば良いのでしょうか?仏教からの見解をどうかお聞かせください。
正法眼蔵第59の「家常」に、「困来は、困中又困なるべし、困の頂ねい(スマホの辞書に漢字がなかったため、平仮名で書かせていただきます。)上より全跳しきたれり。」とありますが、ここにいう「困中又困」とはどのような意義を持つもので、この一文を通してどのようなことが言われているのでしょうか。
先日祖父の十三回忌がありました。お坊さんにお経をあげていただいている時に奇妙な景色が頭の中に流れてきました。 どこか分からない場所を、お遍路さんが持つような長杖を支えにして祖父が歩いていました。祖父の顔は遺影よりも若く、少し苦しそうでした。 死後の世界とは苦しいものなのでしょうか。それとも供養が足りないから祖父は苦しんでいるのでしょうか。ただの幻覚ならいいのですが状況が状況なので気になります。
何やっても上手くいきません。 顔も可愛くないし、性格悪いし、勉強も運動もできません。友達もいません。それに、貧乏です。 何やってもダメで、死にたくても怖くて自殺できません。 楽な死に方はないと思いますが、ついついネットで探してしまいます… 本当にこの先、幸せになれるのでしょうか? 若いからいくらでもやり直せる! っていう言葉がありますが、私はそんなの無いです。あったとしても、私にはもう自信が無いです。もう、無理です。諦めてます。 十数年間生きてて、何一つ楽しいとか面白いとか幸せとか感じた事はありません。 生きてて、辛い事とか苦しい事しか経験しかないから何の意味があるのでしょうか…? 私には、明るい将来などありません。
私は浄土真宗では無いのですが、今回母方の祖母が亡くなりました。お西さんでした。考え方と葬式での話になるのですがご了承ください。 浄土真宗では亡くなった後すぐに仏になるとありました。 そうすると、棺に手紙などを入れても結局遺族の自己満足で終わると言う事なのでしょうか。(冷たく考えればどの宗派でもそうなってしまうのかもしれませんが) 49日や各七日の考えも、故人の為ではないと言う事なのでしょうか? 私は父方が曹洞宗で子供の頃に習った話だと、こう言った法要は故人のためだったはずなのです。子供の頃の記憶なので完全に間違ってるかもしれませんが。 祖母にはとても愛されて居ましたし、私も大好きな祖母です。 祖母の為には何をしてあげれるのかと思うとちょっとわからなくなってきました。 今年は新盆ですが、お供えを故人の事を思って選んだ方が良いのか、適当で良いのか・・・ 私としては故人の事を思って選びたく思うのです。 また、納棺の際に他の遺族の連れ合いが壁に寄りかかりながら腕を組んで参加していたりしたのですが、お坊さん的にはこれってありなのでしょうか。 その連れ合いはまだ若いです。最近結婚したばかりなので、祖母ともそこまで面識がありません。 私からすると参加するのであればちゃんとした態度で参加した方が良いですし、そこまで人から見える場所に居る立場ではないとはいえそう言う事はやらない方が良いと思います。 これが母や叔母が憔悴しきって居てならまだ分かりますが、当日来たばかりで憔悴するような立場ではない人間なのです。 こうあるべきと言う考えが強いのかもしれませんが、ちょっと腑に落ちないのです。
人間が絶滅したら図書館の本もインターネットの情報も残らないらしいです。文明作るのになんで人類は必死に頑張ってバカじゃね?と思うのです。 1生物学でわかるように子孫を残す意味はないようです。遺伝子の乗り物だ!というドーキンス。子孫繁栄に目的もなくゴールのない遺伝子競争が行われていて。そして死ぬ。肉体すら骨すらも最終的に残らない。まさに俺たちは死刑囚と同じ。明日死ぬかもしれない。けどなんの意味もない。 物理、数学でも真理はなくノイマンもアインシュタインも世界の答えはわからなかった。結局クソ天才でさえ意味不明なこの世界で答えもわからず死んだ。ips細胞より凄い細胞ができても人類は滅ぶし太陽系は無くなり、星間ガスがなくなれば宇宙自体が存在しなくなるらしいです。つまり生物が永続することは100%ないです。苦しみながら老いて孤独にゴミのように死んでいきます。 2また今みんなが必死に頑張ってるこの文明や人間社会も茶番で必死にみんな頑張ってるのに貴方のお寺も誰かの会社や学校も無くなるし100年後にはみんなが努力して頑張った物もなんの意味も無くなる、社会は必死にバカ真面目に理不尽な思いをしながら勉強して仕事して搾取されて資本主義を実践しても未来には何も残らない。バカらしくなりますよね。現代に残るのは格差と理不尽だけ。 3私が必死に優秀な人になるために頑張ってもなんの意味もなく、すごい天才がいて、その天才の上に天才がいてその天才の生きる意味すらなくてその人が何かを生み出してもどうせ死にます。 ニーチェ的に相対論で人は死ぬけど人生は自己満足だ!楽しめ!と思いこむとします。 でもそれらは満足できる人の為のものでしょ?やはり何にでも序列がつけられてるし、その序列のトップになれない人が大半です。それで面白くないなあと思う人がいて、またそのトップもどうせ死ぬのです。好きな仕事もできる人、できない人がいるし。元スポーツ選手で下半身不随の人は自己満足できるのでしょうか? 意味がなくても生きてるよ!とか言う人がいますが、そんな人も大半が真面目に社会参加してます。私のように大学を休学したりしてない。みんな社会に価値があると思ってる。人に会おうとするし何かやろうとする。毎日壁を見つめるなんてことはしない。 生きる意味は放棄して自己満足できらばいいんだよ!という思考にどうやったらなるのですか?
最近相撲業界で起きた暴行事件のニュースを見るたび、いったいこれのどこが神事かと思います。 過去に表彰の為土俵に上がろうとした女性知事を「女が土俵に上がると穢れる」という理由で断りました。 しかし彼らは八百長、暴行、派閥争いなど等、神聖とは言い難い行為を繰り返しています。 そもそも女に生理があるのは子供を生むための準備であって好きでなっているわけではないですし、出産だって男が女で性欲を発散するから起こることでしょう。 自分たちだって母親に命がけで生んでもらっておいて、女を穢れとみなすことのどこが差別ではないのでしょうか? 子孫繁栄を掲げながら女を穢れとするのは勝手過ぎます。 神を理由に差別を正当化するというのなら、神を理由に異教徒等を迫害する某宗教の過激派と同じではありませんか。 なんでこんなおかしなことが日本で正当化されているのか、本当に悔しくてテレビで相撲(球場が女人禁制の甲子園も)が出るたび涙があふれます。 これらを喜んで見ている人々もいい加減目を覚ましてほしいです。 お坊様は仏教徒ですが、こういった差別を正当化する宗教をどのようにお考えですか?
僧侶の皆様に御尋ね致します。仏教の教えでは「親を大切にしたければいけません」「育ててもらったご恩に報いることが大切」といわれて いますが、昨今多発しています「児童虐待」「養育放棄」にあっている子供も、その親を大切にし、恩に報いなければならないのでしょう か?僕は幼少の頃から感情の起伏の激しい母親 に振り回され、悪化している夫婦関係のストレス解消に精神的暴力肉体的暴力にさらされ、逃げ場なく、過ごして来ました。19歳で家を飛び 出し、やっと呪縛から解放され32年が過ぎました。数年前から仏縁を頂き、仏教に帰依致しましたが、その中に冒頭の教えがありましたこれ については、僕は素直に受け止めることが出 来ないのです。どうぞ僧侶の先生方のご指導ご回答の程、よろしくお願いいたします。
4回目の質問になります。 原因不明の病で入退院を繰り返していましたが、確定診断がつきました。症例の少ない難病で治る事はないそうです。 頼れる身内はいません。市役所では生活保護を強く勧められました。 働く事も出来ず、生活保護を受け、社会参加も困難。 薬を飲んで、ただ息をしているだけ。 まだ40代です。 先は長いでしょう。 治らないけれど死ぬ事もない。 この生活を続ける事に何の意味があるのでしょう。 食事して寝て過ごす生活。 外出も困難。 生きる意味は何ですか? 「頑張って生きて下さい」と言われますが、生きていて何の意味があるのか分かりません。
以前も質問させていただきました。 娘を亡くしましてから、もうすぐ四十九日を迎えます。 まだまだ深い悲しみと会いたいと言う気持ちといろいろな事を思い出すと胸が張り裂けそうで、夜はなかなか眠れません。 私に今出来ることはお花とお経と朝昼晩の食事を作ること。 娘は食べることが大好きだったので、一緒に3食、遺影に話かけながら、食べています。 2年近くの闘病でしたので、いつも一緒に過ごしていました。思い出す事がいっぱいで、家のどこに行っても娘の姿を思い出し泣けて泣けて会いたくて会いたくて仕方がありません。 後悔している事もいっぱいあります。 娘は最後あまり意識のない中、アイスクリームを欲しがったのですが、夜中ということもあり、ひどい下痢もしていましたので、朝まで待つように言ってしまったのです。 朝になり、アイス食べてもいいよと言うと、やったー!って。 私は自分の眠たさも理由にしていたのだと今になってものすごく可愛そうな思いをさせた事が毎日毎日考えてしまいます。 そして、最後の顎から呼吸するようになって3日ほど経った時、もう天国へ逝かせてやりたいと思ってしまいました 看護師さんの話しでは顎呼吸になると間もなくなのに、娘さん頑張って見えますと言われたのに、楽にしてやってほしいと。 尿の量を毎日計ってノートにつけて、あれだけ気にしてなんとか尿が出ますようにと必死になっていたのに、尿が出なくなってももう諦めた私がいました。 こんなに最後まで頑張ったのに、こんな私を娘は許してくれるでしょうか? いつも目が閉じられなく空いたままの状態は何か言いたかったのでしょうか? 亡くなるほんの5秒くらいは目を閉じれましたが、亡くなってから次の日のお化粧をしてもらうまでは亡くなっても目を空いていました。 これは何を意味するのでしょうか? そして、私は娘の思い出を処分することも見ることも辛いのですが、どうしたら良いでしょうか? とにかく元気で明るい娘で弱音も吐かず頑張りました。 最後の2週間は主人と3人で一緒に24時間過ごす事ができました。 娘は幸せだったと思ってくれているでしょうか? 他にもっと出来ることがあったのではと、悔やまれてなりません。
姉弟で差がある家庭で、姉だ・女だと事ある毎に理不尽で我慢し、甘えられず頼れず、羨んで憎んでヤケクソな強がりでその場を強く切り抜けましたが、更に憎たらしく思われた日々。 時は過ぎ結婚・出産し、相変わらず差別や罵倒はあったものの初孫はとても可愛がり愛情を見せ、子育てで助けてもらう内に、親に対するマイナスな気持ちも薄らぎ感謝し、私も親の苦労が理解出来る立場になった事でお互い穏やかになりつつあったのですが…親は突然倒れました、救命措置で命は助かったが脳挫傷で意識不明・寝たきり、気管切開で喋れず・食べられずです。そこからは少しは意識はあったけれど病院の診立ては違いリハビリは出来ず、本人も私達も辛い入院が続き、何とか復活を願ったのですが自分たち素人に出来る事は少なく、お見舞いで明るく振る舞ってマッサージや手を握り励ますくらいしかできないのが歯痒くて、とても辛く悲しくてショックで心が変になりました。そして寝たきりのままどんどん悪くなり一年後に亡くなりました。 辛い。残酷だ。恩返しも感謝もこれからだったのに、1人親なのに、孫ともお互い唯一の存在でとても仲良くて子供の心の支えでもあったのに、どうしてこんな酷さで持っていない所から奪っていくの?と受け入れられないで居ましたが 主人は、それは神様が決める事、そして皆んなに訪れる事だから天命だから受け入れよう、と言います。受け入れることは諦めることとどう違うのかわかりません。教えてください。 そして将来がとても不安になりました、親の死の後にもお金が動き手続きで忙しくて、親戚やきょうだいが居る事で助けになったのに、一人っ子で親戚の無い我が子の将来が心配でたまりません。不安と心配と後悔と悲しみで気が狂いそうになる時があります。救いの言葉をください。 それど死んだ後は各宗派によっても違うし、浄土やら魂やら輪廻やら何が本当ですか?ずっと見守っているのですか?生まれ変わるのですか?死後のことはわからないはナシでお言葉をください。よろしくお願いいたします。長文失礼しました。
こんにちは。初めて相談させていただきます。 カテゴリの上の方にも来ているので皆さん同じことを考えていると思うのですが、 タイトルの通り、生きる意味をずっとずっと考え続けています。 良い家族にも恵まれ、友人にも恵まれ、職場の同僚も良い人ばかりで今までの人生、 対人関係で悩んだこともほとんどなく、酒は飲みますが、ギャンブルもタバコもやらず 貯金もしてお金に困ることなく生きています。 しかし、高校生あたりから人生を諦めたような気分が続いています。 理由はおそらく無駄なことを考えすぎているのだと思います。 「何故人間は生きているのだろう?何故私は生きているのだろう? どうせ約70年もしたら汗水流して築いた財産もなんの役にもたたず死ぬのに。 後世に何かを残す?この広い宇宙の小さな地球の、人間が人間として生きている短い歴史の、 小さな日本という国に私の数十年の働きで何を残すと言うんだろう? 歴史に於いては私の生きていた一瞬なんて蝶の羽ばたきくらいの短さなのに。」 と言った感じです。 こう考えているせいで労働をして貯金をしても虚しく、 仕事で必要な資格も「たかだか小さな国の日本の狭い業界でしか認められない資格を取得したところで何の意味もない。 そもそも歴史によって考え方や制度が変わるのにこの資格に普遍的な価値があるのか。」と考えてしまいまい、全くやる気が起きません。 当然、将来の目標や夢というものも持つだけ無駄と思ってしまいます。 余計なことを考えすぎると気分が悪くなるため、最近は休日にこのようなことを考えないように 変な酒の飲み方をして逃避をするようにもなってきました。 専門的ではないですが、哲学者の考えを学んでみたりもしました。 しかし、余計に無駄な事を考えるようになってきてしまい、 周りの人間からも少し変人扱いされることもあります。 (陰口などではなく、面白いことを考えている人くらいの感じですので害はありません) 長々と書いてしまいました。 全てが無駄と考えてしまっている私ですが、前向きに目標を立て それに向かって頑張るという行為を行えるようにはなりたいと思っております。 私は如何にして生きるべきでしょうか。よろしくお願い致します。
皆様ご多忙の中とは思いますが、目に留まりましたら、お話を聞かせていただけたら幸いです。 タイトルの言葉を、仏陀の最期の言葉として知ったのは、数年前に納棺師日記という本を読んだ時です。びっくりして一瞬時間が止まりました。最近ふとその言葉を思い出しまして、いい言葉だよなあ、と感動しています。 御釈迦様の時代にもきっと今以上にたくさんな悲惨な事や恐ろしい事があったと思うのですが、最期にそういう言葉を言われた、というのが、 この世の中、どんなに嫌で悲しい事があったり、様々な人間がいて争いごとが尽きず酷い現実があっても、「世界は美しく、人生は甘美である」という事は、 世の中に悪なんて存在しないんじゃないかな、性善説みたいなことだろかと受け止めてしまうのは、飛躍しすぎでしょうか。 あいにく私はこの言葉の背景や前後の言葉を知りませんが、その道のプロの方々が、どのように受け止めたり、とらえられているのかお話を伺ってみたいと思いまして、質問させていただきました。 沢山の方が質問されている中で、緊急性の低い内容でお手間とらせてしまって申し訳無いのですが、、よろしくお願いいたします。
お世話になります。 月命日はなんのためにあるのでしょう? 命日は命日。一年にその日だけのはず。 故人を忘れないため? 大切な人を、忘れるわけがありません。 忘れるくらいのおつきあいなら、 それも必要ない気もします。 毎月、住職さんが来てくださるので 夫も私も、住職さんによいお話を 聞かせて頂いて、癒される日に なっています。 彼方の娘にとって、月命日は どういう日になるのですか?
生きている時、悪い事をすると地獄に行くのですか? 地獄とは本当にあるのでしょうか?
この掲示板に2度目の質問をしに来た者です 本日もよろしくお願いします 最近仏教について色々調べたんですが 仏教にも原始仏教と大乗仏教があるそうですね そしてそれぞれの宗派ではお釈迦様に対する供述が違うようで・・・? どちらを信じればいいかわからないのですが なんとなく原始仏教のお釈迦様について考えることにしました そしてある疑問にぶつかりました お釈迦様は全ての煩悩を絶って涅槃入滅されたんですよね? そして輪廻の輪から出て2度と生まれてくる必要もなくなった それなのになぜ人々を救おうとするのですか? 人々を救おうとする考え自体も煩悩なのではないのですか? 五陰盛苦?を超越して全く煩悩がない白紙の状態になると一切の考えはもはや沸き起こらなくなり 人々を救おうなどとも考えなくなるんじゃないんですかね? たとえ当初のお釈迦様は人々を救いたいために修行してても 涅槃入滅した状態になるともう昔のことなんてどうでもいいやってなるんじゃないですかね? それなのにお釈迦様はまた人間界に戻って人々を救おうとしてるのはなぜですか? お答え出来る方がいらっしゃったらお答えください
いつもお世話になっています。以前、本や聞いた事があるのですがお釈迦様は弟子に死後の世界を説かなかったと聞きましたが本当でしょうか?死後の世界かあるのかという弟子の質問に対して、矢か刺さればまず抜く事だ!だから死後の事など考えず、今ある生を精一杯生きなさいと言ったような気がします。本当にお釈迦様は死後の世界は説かなかったのでしょうか?ある人の本によると仏教は哲学に近く、また無神論に近く、中世ヨーロッパでは無を広める宗教だと恐れられたそうですがその事についてはどう思いますでしょうか?お考えを聞かせてください。
今から10年位前、夫の両親同居中、義父が室内犬を飼い始めました。その時2歳の娘がいて、お腹に赤ちゃん。環境的に室内では動物を飼いたくはないけれど、主人は単身赴任で留守、私も嫌だと言えず、我慢しました。けれどストレスをすべて犬に向けてしまい、殺してしまいました。今更後悔しても遅いのですか、苦しくて仕方有りません。 現在は家族だけで賃貸を借りて生活していますが、安定剤を飲みながらなんとか生活しています。 私のした事ですから、苦しむのは当然ですが、やはり苦しく助けて欲しいと思いメールしております。
以前、流産と不妊について相談させていただいた者です。その節は心のこもった回答をありがとうございました。 ご回答やそれ以前の問答を拝見したりして、少しずつ落ち着きを取り戻していますが、なかなかすぐに元気にというわけにはいかず、まだやっぱりもがいています。 ところで、以前TVでストーカーのニュースを見ていたとき、「ストーカーの人が幸せになれるとしたら、それは執着を手放して、他の道を進んだときだよね」と、家族に話しかけて自分でもはっとしたことがありました。私もそうだ、と思ったからです。 たぶん私は子供がほしいと思うあまりそのことに執着しているのではないだろうかと気がつきました。繰り返し流産して、いったん手にしたと思ったものを何度も失ったことで、余計にそれが強くなってしまったのかもしれません。 なんとかこの執着を手放したいと思ってきましたが、なかなか難しいようです。もともとこんな気持ちが背景にあったので、こちらの仏教に関連したサイトにご相談させていただいたのかもしれません。 説明が長くなってしまいましたが、このような執着を手放すための心の持ちようはあるのでしょうか?ご助言をいただければ幸いです。