こんばんは。 どうしよう。涙が出そうです。 病気の事に関しては以前通院していたないかの先生は「もっと前からなってたんじゃないの?」と言われました。 病気でもたいしたことないんですが、今テレビでも話題になっている「バセド病」です。よーく考えてみると先生の言うとおり小学生の頃からだったと思います。よく「目が大きいね」といわれてました。 学生の時は、なんでも興味津々でした。夢もありました。でも今は、やりたいこともないです。前向きになれません。 どうせ死んだって、亡くなった友人に逢えるわけでもないし、将来の旦那様と同じ墓は入りたくないし。 やっぱり一人がいいです。 何故そんなに無縁仏がいけないんですか?
はじめまして。冷静になるために、ご相談させていただきます。1年ほど前から、ある禅宗の修行僧の方とお付き合いをしています。 ただ先日、私から将来の話を切り出したところ、師匠(老師)の跡を継ぐため妻帯はできないと言われました。 1年前は将来を考えて告白をしてくれたそうですが、そんな無責任なことがあるのでしょうか。 彼の人生ですから、私がとやかく言えることではないと思います。ただ、残された私の心はぼろぼろです。 日々の修行をしていくなかで、そういう選択肢が頭をよぎったとしても、1年前の気持ちを貫いて欲しかったのです。1人の人間を傷つけてまで、決心することでしょうか。 私には修行や仏教の世界はわかりません。その道で生きてこられた方々に、冷静なご意見がいただきたく、相談させていただきました。よろしくお願いいたします。
私の宗派は浄土真宗なのですがもっと自分の考えに近い宗派があるのではないかと考えております。宗派を変えることはできるのでしょうか? また、宗派を変えるにはどうしたらいいのでしょうか?
なぜ皆様方はお坊さんになろうと思ったのですか? 後を継ぐにしても、色々あるのではないかなと。 いきさつや、思いたったことなどぜひ教えて下さい。
正法眼蔵第59の「家常」に、「困来は、困中又困なるべし、困の頂ねい(スマホの辞書に漢字がなかったため、平仮名で書かせていただきます。)上より全跳しきたれり。」とありますが、ここにいう「困中又困」とはどのような意義を持つもので、この一文を通してどのようなことが言われているのでしょうか。
半僧半俗な生活をしている日本の僧侶。 本山が本社で末寺はフランチャイズ店のような仕組みも 理解できません。 日本の仏教って名ばかりだな。と思うことが多々あります。 お寺の息子や娘に生まれ落ちて各宗派の大学を出て ちょっと修行して資格を持ち、家を継ぐ。そしてそれだけで人々から拝まれ、敬われるのって・・・ 何か違う気がします。 たいして苦労もしていないお坊ちゃま僧侶に偉そうな事を言われても何も説得力もありません。 お坊さん自信はこういった日本の僧侶の状況を どう思っているのでしょうか?
人々はブラック国家のブラック企業で阿鼻叫喚の地獄なわけですけど、お寺はある意味極楽ですよね?
真言宗の聖天様の勤行を毎日しております。お寺の勤行に入っていなくて、私が勝手ながらネットで拾った勤行の以下の真言はお唱えしてもいいのでしょうか? 勿論勝手にいれたのだから駄目なのでしょうが気になっております。 特に悦與と調和の真言の意味が知りたいのですが。 1 召請真言 オン ハキュラシュダ デイバタ ヤジャク ソワカ 2 供養真言 オン アボキャ ホジャマニ ハンドマ バジレイ タタギャタ ビロキテイ サンマンダ ハラサラ ウン 3 悦與 オン ハラウンマニエイソワカ 4 調和 オン シャトロ ハラマタニエイ ソワカ 以上です。 何卒ご教授頂ければ幸いです。
よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。
はじめまして!いつもハスノハでの相談をありがたく拝見しております。 私は現在大学4年で、葬祭業者として内定を1ついただいております。 しかし、転職のしにくさや、忌みに触れる仕事であることから、親や学校のキャリアセンターから葬祭業での就職に反対され、不安になる気持ちを抱えております。 もともと苦しんでいる人不安を抱えている人を助けたいと言う思いで就職活動をしており、葬祭業は私が大好きな祖父をなくしたときにきちんとお見送りできてよかったなぁと思ったことから志しました。ただ、親の期待に応えたい、もう少しお給料を良くしたいなどの思いもあり、同じ志を生かせる職業として病院での事務などを目指して就職活動を続けておりますが今回のコロナ禍の情勢もあり、なかなか他の内定が出ない状況にあります。 ハスノハのお坊様たちは実際に葬祭に深く関わるお仕事をなさっていると思います。その際周りに反対などされなかったか、不安はなかったか、葬祭に関するお仕事を日々どんなお気持ちでなさっているのか、また、必死に努力をしてもなかなか結果に結びつかない状況にどのように対処されているかなど伺いたいと思っています。 色々と質問して申し訳ありません。ぜひお答えをいただければありがたいと思います。
まだ住職成り立てホヤホヤで、誰にも相談出来ず、恥ずかしながら、こちらにて、諸先輩方からの御指導頂きたく思います。 実は今日、檀家さんが相談事があるとのことで来寺されました。 その方曰く、『生前葬』をお願いしたい。 もう80で長くないし、どんな葬儀になるのか、また、自分の今までのご縁があった方が来るのか見たいとのことでした。 他にも様々な思いがある様子で、既に葬儀会館は押さえているようです。 私はその場では即答出来ず、教義的に可能かどうか、宗派の事務機関が、年末年始休みで問い合わせ出来ないと、その場しのぎの返答をしました。 個人的には、要は今回の件は、僧侶が、生前葬という名のエゴイズム丸出しの、パーティーのBGMに徹する事であろうと感じます。 お布施の誘惑と、宗教者としての確固たる立脚地との狭間で悩んでおります。 皆様はどう思われますでしょうか? 宗派を超えて、仏教者の忌憚ないご意見をお聴かせ願います。 追記 依頼者は裕福なお方です笑 あと、出来ればこの愚問の御解答は非公開だと嬉しいですが、如何でしょうか?
今高校生なのですが、天台宗のお坊さんになりたいです。 どのようにしてお坊さんになることができるのですか? 仏教系の大学に行くべきなのでしょうか?
2012年に結婚し、女の子二人を育てています。 副住職の嫁というのもあり、男の子を産めなかったのが気がかりです しかし、当方もともと子供が好きでないので 今後出産の予定はありません。 やはり 跡継ぎは男の子でないと いけませんか? 女の子に頭を丸めろとは 言えません・・わがままは承知ですが 何かお言葉をいただけたらと思います。 ちなみに 周りは少子高齢化のため よそのお寺さんから養子をもらうなどは不可です
キリスト教であれば、プロテスタント、カトリック、どの宗派にしても教会に行くと毎週、聖書講座はあり、また信者、洗礼を受けていない私には分かりにくいですが、ミサや礼拝に参加し、教えて貰うことはできます。 仏教を学びたい場合は、どのように門戸を開いたらいいのでしょうか。
インターネットで色々調べてみて、僧侶・和尚・住職の違いくらいは理解できたのですが、どのサイトを見ても和尚は「一人前の僧侶」といった記述しか見当たりませんでした。 何をもって一人前なのか、そう言った資格があり取得できると和尚と呼ばれるのか…教えていただけると嬉しいです。
10年ほど前、職場やプライベートの過度なストレスから パニック障害→鬱となり、仕事ができない状況になって職を離れました。 それまでは、フルタイムでバリバリ働き帰りは終電、 帰宅後や週末も時々在宅や出先で別の仕事をかけ持つなど 無茶もしていた時期もありました。 それくらい動けていたのが突然何もできなくり、愕然としました。 投薬治療で少しずつ動けるようになってきたものの、未だに完治とならず 相変わらず波がありゆられながらギリギリで過ごしています。 それまでの様な生き方、暮らし方はもう出来ない状況です。 そんな中、自分の生き方を振り返りながら、 ふと子供の頃から生き辛さを感じ続けていた事に気づかされました。 そこで、色々と勉強(通信制で通学もある大学で)を始め、 数年前に(明治維新以降ではなくそれ以前の仏教の考え方)仏教の 教えに触れる事ができ、そこから色々と(亀の様な歩みではありますが) 物事の捉え方を修正できてきている実感ができるようになってきました。 授業だけでは物足りず、参考文献など少しずつ読みながら独学を進めております。 最近は、どこかのお寺で勉強会などがあるなら行ってみようか? と考えてみたりするようになりましたが、 宗派にとらわれずにお坊さんから学ぶ術はないのだろうか? という疑問が湧いてきております。 今後学んで行くために何か良いアドバイスがいただければ幸いに存じます。
ずっと心に気になっていることがあり、お伺いします。よろしくお願いします。28年前に結婚し、マンションに野良猫がよく来ていたので、餌を与えていました。離れているぶんには逃げないのですが、手を出すと逃げていくような関係でした。でもある日、とても雨がひどい日のことでしたが、その猫が具合が悪いのか濡れそぼってやって来て、部屋に入りたがりました。今まではいくらこちらから近寄っていってもさっと逃げて行っていたのに、猫のほうから部屋に入れてと言うように鳴きながらやって来ました。私は長女を妊娠中で、お腹の子への影響を気にして(猫が持っている菌による奇形)可哀想と思いながらも入れてあげませんでした。猫はしばらく鳴いていましたが、どこかへ行ってしまいました。いくらお腹の子への影響が心配とはいえ、ひどいことをしてしまったと、この時のことが心から離れません。思い出すと、心が痛く、自責の念から逃れられません。長女はトラブルメーカーで何かと心配事を次から次へと起こし、実家を離れて一人暮らしをしている妹も姉の愚痴を聞くの嫌だから帰って来たくないと言います。長女がこのようなのは、あの時助けを求めていた猫を見捨てた報いなのでしょうか?
私はきっと周りから普通に見えると思います。 でも精神がおかしいのです。 生きたい、けど死にたい。 その感情が尋常じゃなく波のように押し寄せる。 死にたいのか、逃げたいだけなのか、ただ弱い人間だからこういう思考になるのか。 お坊様方の色々な体験談を聞きたいです。 人生の参考に。 私は今、煩悩を勉強しています。 出家も調べました。 でもまだまだ私には覚悟が足りません。 うまく説明できません。苦しいです。助けてください
はじめまして、 高校生の息子についてのご相談です。 将来の夢は僧侶になることで 私はあまり詳しくは無いのですが お経の勉強や仏教関連のことを 詳しく調べたり、毎日自作の仏壇?に お勤めしたりしています。 そこまでは いいのですが、高校の勉強は 将来役に立たない、 今の学校(理系)には合っていない、 この学校に行く意味ない とか言い始めて困っています。 私が、 大人になってから 自分で好きにするのは自由だよ、 今は目の前にある勉学に 勤しむべきだと伝えても 教義を持ち出し 私からすると屁理屈を言い出します。 当人は屁理屈とは思っていなくて 私が間違えてるそうなのです。 私は僧侶になることに 反対しているわけではなく、 今は 仏教に関係ないことも 学んでおくことは大切だと 考えております。 入学してから理系が向いて いなかったと感じているのも そのことに 拍車をかけているように 感じます。 まだ高校生活が 始まったばかりで 3年間続けられるのか不安です。 対応のヒントを お願いしたく 質問させていただきました。 よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。 私の通う病院の近くに、日蓮宗の寺院が あります。気になっていたのですが、 思い切って行ってみました。 寺庭さんも住職さんも、皆さん気さくで、 お堂も綺麗に整備されていました。 置いてあった勤行経典を読ませて 頂いたのですが、「提婆達多品」の 龍女成仏のクダリが気になりました。 女には、5つの穢れ、障りがあるとか…。 梵天、魔王、などと言われても、いまいち 理解できません。 女は菩提を得るのが困難、というのは、 何かの例えなのでしょうか? まあ確かに、男性より感情的になりやすい といわれていますが… だとしたら、化粧もせず、スカートも 履かずズボンスタイルでいると、 頻繁に男性と間違われる私は非常に 理想的と言えるかも… ご意見お待ちしております。