毎日びくびくしてます。テロに遭遇するのが怖いのです。 良寛のような心境になるには、 修行をしなければいけないのでしょうか? 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。 死ぬる時節には死ぬがよく候。 これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
子供達が産まれる前、初めての妊娠をした時に、産んであげられなかった子供が居ます。 お腹に居た時、本当に嬉しくて幸せで楽しみでした。 しかし、現在の主人の両親に強く反対され、結局殺してしまったのです。 決断をしてしまったのは私ですが、その時『どんなに歳を取り、認知症になったとしても、この子を殺してしまう事は決して忘れない、私もあなた(主人)の家族も私は一生この事については怨んで生きて行く。』と言った事を今でもはっきりと覚えています。 12年過ぎ、子供にも恵まれましたが、どうしてもその時の子供が不憫でなりません。 子供達の姿を見れば見る程、『産んで居たら…』と何処か思ってしまいます。 せめて戒名と小さな仏壇を誂えてあげたいのです。 しかし、私の嫁ぎ先に相談してみたら『そんな事しなくていい。』と一蹴され、主人も心で思っているなら良いじゃん。 と言われました。 私1人だけの判断で、子供の戒名と仏壇を揃えてあげる事は可能でしょうか? 私の最期の望みは、もし、その時の水子が 河辺に居て、あの世に行けないのであれば、私が代わりそこに残ってでも成仏して欲しいのです。 もう一人、確かに居た子を死ぬまで忘れたく無いのです。
去年7月に6年一緒に住んでいた彼氏が自殺しました。亡くなってから、毎日逢いたくて、寂しくて、日々泣いていました。 彼氏は、成仏したのか、まだ側に居てくれてるのかなぁ。とか色々考え、死後の世界の事や魂について知りたくて、何冊も本を読みました。でも、自殺した人の魂について書いてる本は、ほとんどなく、病死や年老いて亡くなった魂についての本が多いんです。何か、自殺した人の魂について書いてる本があれば、教えてもらえないでしょうか?自分でも、何をしたいか分からないんですが、そういう本を読んでると、彼氏を近くに感じれて安心するんです。何か、良い本があれば、教えてください。
私は寺院の長女として生まれ、育てられてきました。今は社会人として実家から離れたところで一人暮らしをしております。 少し離れた弟と妹がおり、弟が生まれてからは弟が寺院の跡取りとして育てられています。しかし、その弟が反抗期で、寺院を継ぎたくないと言っています。 私自身、寺院で育ったからと言って特別いい思いをしたこともなく、むしろマイナスにしか感じてこなかったので弟の気持ちはよく分かります。 そのことについて住職である父は、「弟が継がないのであればこの家を出ていかなければならない」「もう俺の代で終わりか」と悲観的な事も言えば、弟に対して強く当たったりもしているようです。 そして、この前父と二人で話し合った際、「兄弟三人、平等に継ぐ可能性がある」「お前だけが先に結婚して跡継ぎ問題から一抜けするのはずるい」というような事を言われました。 しかし、男兄弟がいるにも関わらずどう言う形であれ女が寺院を継ぐというのはあまり受け入れられない気がします。 また、生まれた頃から跡取りだからと父に優遇されてきた弟を見て、苦しい思いをしてきたこの何年間は何だったのかという気持ちにもなります。 何より、歳の離れた兄弟が進路を決めるまで待っていたら、自分の人生がめちゃくちゃになってしまうと思います。 父の代まで続いてきた寺院を、弟に継いで欲しい気持ちは分かります。私と妹にも継ぐ可能性はあると言いつつも、弟に継いで欲しい気持ちが一番だと思います。 ただ、父の弟に対する当たりが強く、それでは嫌われても当然だと思う事も多々あります。弟の気持ちも痛い位に分かります。 このまま穏便に、誰も嫌な思いをする事なく解決できる方法はないのでしょうか。
私が仏教に興味を持ったのは、ある落語家兼尼さんの著書で仏教と法華経の解説を読んだからです。 私はそれまで大乗非仏説を支持していたのですが、この方の著書を読んで考えが180度変わりました。 ところが、私は不思議とお題目を唱える気にはなりませんでした。天台宗で法華経が顕教だけではなく、密教の経典としても扱われていることを知り、すぐにご真言に興味を持ちました。 ある時、法華経に「一称南無仏 皆已成仏道」と書いてあるのを知り、私はこれをお念仏の教えと解釈し、今度はお念仏に興味を持ちました。 大無量寿経を読むと、お釈迦様が「私が死んでも阿弥陀如来に関する教えがなくなることはない」というようなことをおっしゃっていて、お釈迦様の最後の教えである法華経とも矛盾しておらず、何だか嬉しくなりました。 しかも私は統合失調症という精神病を、軽くですが患っておりまして、「厳しい修行やなんやかんやは無理やけど、阿弥陀さまを信じてお念仏を唱えるだけでいいなんて、なんと大きなお慈悲なんだろう!」ととても感激いたしました。 更に、法華経で「法華経の説く清浄な意根を持っていれば、他の宗教や信条を信じていてもお釈迦様の教えに通じている」と説かれていることから、大乗仏教の裾野の広さ、寛容さを実感し、「みんなで幸せになれる!」とまたまた嬉しくなりました。 長くなりましたが、これって「阿弥陀さまに仏縁をいただいた」と認識しても問題ないですかね? 法華経の解釈とかあくまで自分の解釈なので、勝手な思いあがりかと思い少し心配になりました。
海外で死んだらその魂は何処へ行くのでしょうか 仏教徒であれば海外で死んでも極楽へ行くのでしょうか
極楽浄土は単に死後の世界なのか、生きていても到達できる心の境地のようなものなのか、どちらでしょうか? 概論的に言うと浄土宗鎮西派では死後の世界であると説き、西山派、浄土真宗、時宗、天台真盛宗では死というプロセスを経なくても到達できる心の境地であるように説いているように思えます。 鎮西派はおおらかさが売りで細部の解釈は個々人に任すようなところがあると言われますが、極楽浄土は心の境地であるという受け取り方をする人が鎮西派にもいるのか。 また、浄土宗と時宗の狭間にいる一向派などはこの辺りをどう説いているのか知りたいところです。
出産は拷問なのに。 子供はいらないのに。 男は身勝手過ぎる! 夫は押し倒したあと、俺も子育て手伝うから一人ぐらい生んでよー、と言ったのです。 ふざけるな、手伝うってなんだ、子育ては男女両方やること。 手伝うということは子育てのメインは私ということになる。 女は子育てマシーンじゃないし、子供を生む機械でもない。 私の仕事のキャリアと命を奪う行為を平気でする夫。 本当に信じられない。 今週末に警察へ相談する予定です。 以前ここで質問したら、子作りを拒否するのは男にとって無い物ねだりだと言われました。 黙って犯されないといけないんですか?
会社で自我を発揮する癖があり、二箇所連続で首になりました。 そのためだけに生きてきた昇進試験にも不合格続き、次の職場も見つからず。 結婚の予定もありません。 両親には、お前の生き方が全て悪いのだから反省しろと言われました。 今手掛けている事の区切りがついたら自殺を考えています。 ですが自殺する勇気がありません。 これまで懸命に生きてきたので、自殺は許されますか?迷惑がかからない自殺の方法はありますか? つかれてしまいました。
私は長年、極楽浄土に往生したら仏となることが定まるだけで、往生したその時から仏となるための修行が始まるものだとばかり思っていましたが、最近知り合いの浄土真宗のお坊様から「往生した瞬間から仏」ような内容のお話を聞かせて頂いて混乱しています。 釈尊の次に仏になるのは弥勒菩薩であってそれは56億年後の話だから、少なくとも極楽往生してから56億年は待たないといけないのかと思っていました。 宗派による解釈の違いなどを取り違えていたんでしょうか?浄土真宗として正しい認識をどのように持てば良いのでしょうか?ご教授下さい。
こんにちは。初めて質問させていただきます。 じぶんは花屋に勤めているのですが、最近どうも、これは因果な商売だという気がしてなりません。 というのは、われわれは花を切ったり折ったり、娯楽として楽しんでおり、それはこのうえなく命を粗末にしていると思うのです。生きていくために仕方なくならまだしも……です。 故人にお花を供える文化もそうですが、花にしてみれば土から身を引き抜かれて、あとは枯れるのを待つばかり……などと考えてしまいます。 仏教の精進料理や、いま流行りのヴィーガンなどは、動物の命はちょうだいしません、かわりに植物を食べますと認識していますが、科学が発展し、植物も命のひとつであることを疑う人はいなくなりました。そうすると、「殺生はしない」という主義主張が植物のせいでおかしくなってくると思うのです。 道徳や倫理は人間本意で作られていて、それを動物や虫にまで広げたのが仏教の教えにあるという印象です。とても心の優しい 宗教だと思います。そこへ、植物が入り込んできたら、いったいどうなるのだろう……という疑問があります。 植物には神経が通っていない、よって痛みは感じないと聞きます。ですから正直あまり可哀想とは思いませんが、それでも自分が同じ立場になったら……ちょっと恐ろしいです。 いま現在、仏教に身を置く方々は、植物の命についてはどのようにお考えなのでしょうか。責めているのではなくて、単純に思想に興味があります。私自身は肉も食べれば、フラワーアレンジメントもします。ふと気になって、お尋ねさせていただく運びになりました。
お世話になっております。 普段からhasunohaで様々な問答を拝読しておりますが、私がその問答検索でよく用いるワードは「怒り・いらだち・イライラ」です。 人間関係で苦労されている方がほとんどですが、今回は「モノ」相手のお話ということで、お知恵を拝借できれば幸いです。 何かが引っかかる、倒れる、落ちるといった、不本意かつ都合の悪い、想定外の現象が昔から大嫌いです。 器に水を注ぎ入れる →きちんと器が受け止めてくれることを期待する →ところが気がつけば卓は水浸し →どうやら器のどこかにひびが入っているようだ ここまでが事実であり、これ以上自分で余計な感情の修飾をしない、「妄想」しないことが最善だと学びました。 そう頭では理解したつもりでも、怒りに火が付いてしまいます。 その火の付き方は、 「○たばれよ」「ぶっ○すぞ」「お願いだから○んでくれ」 これらの言葉を、心の内で自動的に吐き捨てます。 こういった毒を含んだ言葉で脳を瞬間的に麻痺させないといけないくらい、毎度毎度日常のことでショックを受ける臆病な心です(せめて口には出さないよう留意しています)。 先述の言葉を意訳すると、 なんで俺の邪魔をする! 余計な仕事増やしやがって、この役立たず! 水すら保てないなんて、ただのゴミだ! 無生物の分際でイライラさせやがって! 何事も思い通りにならないのが常。 思い通りにさせようというのが、人の、私の煩悩です。 それでも、他人が思い通りにならない現実と折り合いをつけるのに日々精一杯で、「モノ」相手にまで余裕が持てていません。 こういった時は呼吸を数えるなど、身体感覚に意識をすり替えるのがいいのですよね。 ただ日々の仕事の流れであったり、台所で何かやりながらだとなかなか手を止めることが難しく、実践できていません。 これでも昔に比すれば八つ当たりしなくなっただけ、成長した方なのです。 それでもまだ、無駄に反応するばかりの心を持て余しています。 いい年齢の大人のはずが、心はいつもささくれだち、不安定に波打ち、せめてもとそれを周囲に悟られぬよう努める日々の中、他ならぬ自分自身が苦しい思いを抱えています。 誰も幸せにならない悪癖は卒業し、ゆったりリラックスして生きていきたいです。
子供の習い事で一緒のお母さん達とたまたま出ていた不満を、あるお母さんが指導者へ「こんなやり取りをしている」と打ち明け、事件に発展しました。 指導者は激怒で私達を叱責。 メールでのやり取り等を見せていたようで…。 関係の無い保護者の前でそのメールの内容を明らかにし出しました。 勿論、不平不満を抱き、話した私達がいけなかったかもしれませんが、関係の無い外へはそれは漏らしたわけでない為、それくらいはと思っていたのですが、その行為をよく思わなかったのでしょう、一人が指導者と言う強い立場の人間へ話しました。 誰がどんな事をするのかもう分からなくなり、信用が出来ません。 不平不満は絶対に人間は言ってはいけないのでしょうか。不満に思ったことはどうしたら良いのでしょう。教えて下さい。
おはようございます。 今日は文化の日で、イジメが原因で中退させて貰いましたが母校では文化祭を催しています。実の妹も母校の出身なので必ず来ているので私は行きません。私がイジメに遭っている時はまだ妹も小さかったので話しませんでしたが二親は無視でした。有名校なので卒業して欲しかったんです。でも出来なくてもう、この時点で不名誉な子になったんだと思います。おまけに高卒止まり。妹は有名な大学2つ出ましたし。笑えます。 座間市の事件はその猟奇さが際立っていますが大抵の人は信じられない、遺体の一部と生活なんてetcと言っている人は沢山います。私もそう思いますが容疑者は想像し得ない闇を抱えているのでは?と思っています。私もイジメに遭って家族の中でも孤立してから闇を抱えていると思っています。誰かしらあるのでしょうが深ければ深いと厄介なものです。闇に潰されない様に私はお坊さま方や周りの人に助けられながら四苦八苦していますが、私はこの容疑者を非難する人達よりは、闇を持つ容疑者に近いと思っています。自分を律しないといけないなと思いました。どうかお坊様方お祈り下さい。お願いします。
私は、目的もないまま25年間も生きてきてしまいした。最近世間では、夢や希望をもつことが当たり前で正しいこと素晴らしいこととされ、目的もなく生きている私はとても恥ずかしいです。 仕事にも目的ややりがいを見いだせす、しょっちゅう仕事を休んでまわりに迷惑をかけています。かといってやりたい仕事があるわけでなく。ただ、食べて、寝て、すごしてます。 このように無気力で面白みのない人間なので恋人もいません。はやく死にたいと思いますが、それも怖いです。 しかし、ただ無気力なだけでなく、ここ10年間はやりたい仕事を真剣に考えてきましたが、結局形になりませんでした。2か月前に仏の道に歩むことも考えましたが、よくよく考えると、こんな迷いの多い自分に人を救えるはずもなく、仏を心から信じることもできないと心のどこかで気づいてます。 目的もなく、何にも情熱を持てない私は、どこへすすめばいいのでしょうか。
昨晩、布団に入り輪廻転生について考え出したら、なんだかとても恐ろしくなって眠れませんでした。そんな夜明けにふと思ったのですが、仏教では「お盆にご先祖様が帰ってくる」と一般的に言われてますが、この考えと輪廻転生の仕組みは矛盾しませんか? 魂が分裂したり並行宇宙が存在するのか、それともこの質問は仏教におけるタブーなのでしょうか?
友人や家族、恋人など周りの全ての人に対して「自分が与えてばかりじゃないか」と感じてしまいます。 実際はそんなことないと思います。 私も色々な方に迷惑をかけています。 でもどうしても「与えている」方にばかり目がいってしまい、モヤモヤします。 例えば相手から期待した反応がなかった時、私は○○してあげたのに、とひとりでモヤモヤしています。 昔はこんなこと考えたこともなかったのに大人になるにつれて年々この感覚が増しています。 心が卑しくなっているのでしょうか。 また自分自身もこの考え方により大変ストレスを感じています。 こんなとき、心が楽になる考え方があればご教授いただきたいです。 お忙しい中とは存じますが、よろしくお願いします。
自死を選ぶ人の気持ちがわかりません。 誰も身寄りもいない人とかなら分かります。でも、愛する我が子がいて愛する家族がいるのに… 何故自死を選ぶのか… 未だ、自死した夫の気持ちが分からず、最後、何を思いながら亡くなっていったのか… 亡くなったら、魂は、残された家族の近くにいれるものですか?
どんな宗教やアドバイスでも、相手がそれを理解し考える力を持っていること前提になっていますよね。 仏教も例外ではありません。 しかし世の中には先天的または後天的理由によりその力を持ち合わせていない人もいます。 理解し考える力を持っていない者がもし道を誤った場合、仏教はどの様にアプローチするのですか? そういった人たちに救いはあるのでしょうか?
少し前までは天国や極楽浄土があるのが死後だと思ってましたが身内の死以降そう思えなくなりました。死ねば骨になり土に帰りそれでおわり。 天国や極楽浄土の世界はどの宗教にも共通してあり古代エジプトでは来世で甦るための肉体が必要だからミイラにし復活をするという概念がありました。でもそれはすべて現世の人が作ったもので実際みたわけではありません、臨死体験などの話もありますが夢なのか区別がつきづらく天国や極楽浄土が垣間見れていい死後世界だったという話はきいたことがありません。 霊柩車内部にも極楽浄土の絵が描かれ死者が三途の川を渡れるように六文銭をもたせたりする風習があります。ただそれもすべて現世の人が作ったもので実際そうかは誰もわかりません。 身内がなくなり何年もたち、やはり死んだらこの世から存在がきえ手元に骨が残され、墓という形あるものに集約され彼岸に墓参りするという残された現世の人のためで、墓も遺骨をいれる場所としか思えなくなりました。 位牌は魂いれをしますが私にはただの板にしか思えず遺骨だけか故人そのものでその先の死後世界は今まではあるように思えたけどそれは無いのだなとしか思えません。身内を亡くすと死がどういうものかよくわかります、人がいなくなるというのがどいうことかが。なので現世にいる時がすべてて誰もみたことない死後世界は存在するとはもう思えません。 広い世の中、少なからずにたような考えもった人はいるでしょうが誰にでもできる話じゃないので周りに同じ考えの人がいるかきける時があればきいてみたいです。