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hasunoha 問答検索結果 : 「お経について」
検索結果: 3038件

宗派の違う人の供養の仕方

教えていただきたいです。 大切な彼が自死を選びました。私は救うことも支えることもできませんでした。それなのに、最後に「ありがとう」と言ってくれた、心優しい彼でした。 彼は真言宗です。即身成仏で、現世において密厳浄土を目指す宗派と理解しております。 お父様の月命日には必ずお墓参りをしていた、心のきれいな彼です。 さて、ここからが質問です。 1 自死をした場合 自死を選んでも、心のきれいな彼であれば、密厳浄土に到達し、苦しみから解放されているのでしょうか。 2 逆縁の場合 彼のお母様は存命です。逆縁になってしまっても、密厳浄土に到達し、苦しみから開放されているのでしょうか。 3 供養の仕方 四十九日までは、追善供養が重要と理解しています。 家族でもなく、宗派も違う私の場合、彼を想って光明真言や般若心経を自分で唱えるようなことで、追善供養になるのでしょうか。 何をすることが、彼にとって最善なのでしょうか。 4 宗派の相違 私は真言宗ではありません。その場合、死後に会うことは叶わないのでしょうか。 5 悪人正機 私は様々な罪を犯しているため、こんな私でも彼のためになれるとしたら、高尚な真言宗ではなく、浄土真宗の教えに従い、阿弥陀仏に救いを求めることしかできないのではないかとも考えています。 真言宗の彼のために、南無阿弥陀仏と唱えることは彼のためにはならないのでしょうか。 質問ばかりで申し訳ありませんが、こんな私が彼のためにできることを教えていただきたいです。

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努力をしても報われず、友人に嫉妬する

日々努力すること、そして結果に結び付かないことに疲労と焦り、嫉妬心を抱くようになりました。 最近Twitterから、趣味で小説を投稿しています。できる限り毎日書いて、投稿するよう努力をしています。 投稿するのだから、やはり誰かに認めてもらいたい、誰かに見て欲しいという気持ちがあり……。 けれど結果に結び付かず、自分がまるで空気のような存在に思える時があります。 最近、友人に嫉妬心を抱くようになりました。 相手は小説ではなく絵ですが、誰かに認めてもらえ、そして無邪気にそれを私に話す姿を見ていると、「私の小説なんて、書いても意味がないのでは」と思うようになりました。 それは今も続いており、日に日に強くなり、友人に対して強い嫌悪感を抱くようになりました。 「頑張って書いたところで、毎日書いたところで、誰も見てくれないのでは?」という不安な気持ちでいっぱいになります。 もうこんな嫉妬心に振り回される毎日が嫌で嫌で仕方がありません。 ですが、誰かに認めてもらいたいという気持ちを捨て去ることも出来ません。 全部が苦しいです。 どうしたら良いか分からず、毎日泣いています……。

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小学生女子殺害事件で考えたこと

痛ましい事件が起こってしまいました。 近所の人の話を聞くと、「優しい子だった」ということでした。最近よく聞く、容疑者の人物像です。 容疑者の人物像から、もしかしたら親や学校、同級生から精神的な抑圧がかかっていたのかなと推察しました。仮にそうだとしたら、早い段階で誰かが気づいて、専門的手だてを講じることはできなかったのだろうかと思います。 私は、「人間はもともと善い性質を持っている」と考えています。家庭や学校での学びや経験などを通して、間違った学習をすることによって社会規範から反れていくのだと考えています。色眼鏡をかけていくことにより、間違った見方をしてしまう可能性があります。 人間を含む哺乳類を観察すると、幼児期の母子関係が大事だと感じます。何らかの理由で離れてしまい、その後、周りの人たちからの裏切られる経験が重なると、より良い成長にならないと感じています。 事件が起こったときに、犯罪者本人に反省を促すことが大切だと思います。と同時に、犯罪者に対する治療が必要だと感じます。刑務所の中でも、矯正プログラムはあると思いますが、社会復帰して犯罪者自身が困ったときに相談できる窓口が必要かもしれません。 一方で、社会の方も、これまでの問題点を洗い出す契機になるかと思います。生活習慣の乱れが人間の体の弱いところに現れるように、社会の乱れも弱いところに現れるのだと思います。 環境ストレスや社会ストレス、内的ストレスへの対処法を教え、これらストレスによっておかしくなってしまった人を救うシステムを構築することが、日本国憲法が目指す社会の実現に必要なことだと考えています。 社会で生活していくだけでも精神的な歪みが生じるのに、社会に出る前の教育ですでに歪みを生じさせるが、その歪みを自己矯正する様々な手段を教えない。多くの知見の蓄積があるのに、生かせていないように感じます。 最近のニュースを見ていると、たまにこのような残虐な事件は起きますが、芸能人に関するスキャンダルや一地方の事故が全国ニュースで流れているのを見ると、憲法が求める理想社会に近づいているのかなと思います。 私自身も、「~すべき」という色眼鏡やネガティブに捉える色眼鏡をかけているので、気をつけたいと思います。

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宗派の違い

何度も質問させていただいております。 毎回丁寧な回答をいただいて感謝しております。 さて、私は今までキリスト教の学校を卒業し、イスラム教の国に住み、特に宗教は持たずに全ての宗教は知識として学んできた程度でした。 元々追求すること、考えること、科学的にものを見る質なので現実的にに世の中を見てきました。 そして最近行き着いた答えは、科学と神秘、宇宙と人間は皆同じなのだということです。 バレエに人生のほとんどを費やしていますが、これはほぼ稽古、修行、メディテーションです。これを通していろいろなことを学んでいます。 そこでたまたま仏教について読んだところ、正に宗教という概念もなく実践してきたことそのものだったのです。 どんな贈り物よりも嬉しい発見でした。 それから毎日、宗派や教えを調べましたが、困ったことに『そう言われればそうかもしれない』という教えの違いばかりなのです。結局のところ、一つの目的をもって正しく生きることを遂行すれば宗派など問題ないのでは?と思うのですが、現実問題いかがなものでしょうか。 今後真剣に仏教を学びたいと思ったときに、どのようにして適切な宗派を選ぶべきなのでしょうか。

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看護学校に通うかの迷い

今色々な事で悩んでいます。 その中に進路のことで悩みがあります。 私はいま経理の仕事をしています。転職をして半年程です。 経理の仕事は正直やりがいがありません。毎日同じ繰り返しであまり人と接する事がなく、辛いときがあります。 今のご時世仕事があるだけとても恵まれていると思います。正社員で雇っていただきとても安定しているのですが、このままでよいのか迷いが出てきました。 私は高校時代に進路でとても迷い、看護師か保育士か文系の大学でとても悩んだ時期がありました。 気持ちとしては保育や看護に興味があったものの、私には無理だと思い、また親に言うのも恥ずかしく、文系の大学に進学しました。 その後、経理職に就職したものの、人間関係にはとても恵まれていたものの、このままでいいのかという思いがでてきました。 その時も看護に興味があったものの私には無理という思いがあり、もう一つ興味のある保育士の資格を働きながら独学で試験で取得しました。 その後せっかく資格を取得したのだからと保育園にしかも正社員で採用していただいたのですが、仕事が全く自分に合わずたった一年で退職。 再度経理に就職し、現在に至ります。 未だに看護への想いがある中、最近親友と食事をしました。 そこで親友が看護学校の受験のタメ勉強してると知らされました。 それを聞いてなぜか心がざわざわし、何とも言えない気分になりました。 私が悩んでいることは まず、現在転職して半年。周りの方にはとてもよくしてもらってるため、心苦しいこと。 そして、保育士に受かった時両親はとても喜んでくれたのにそれをまた裏切ること(両親には看護の事は話してないです) そして現在30歳のため看護学校卒業は34歳くらいになること。 私は子どもが好きで早く結婚して子どもが欲しい気持ちがあります。現在独身ですが、結婚願望があり、子どもが欲しいです。34歳からの妊娠、正直妊娠出来るかも不安です… そうなると結婚して子どもを育てて落ち着いてから看護学校を受験した方がいいのかとても悩みます。 色々と悩みすぎて疲れてしまいました。 私が看護師になりたい理由は人の役に立ちたいからです。 ただ保育士がだめだったことで自信をなくしてしまい、もし看護師もだめだったらという思いもあります… どの道がよいのでしょうか。 読んでいただいてありがとうございました。

有り難し有り難し 40
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これは同罪ですか?

私は過去に妻子ある人と、お付き合いをしていました。不倫です。 そして私も彼氏がいました。彼氏には隠して、お付き合いをしていました。 また、その妻子ある男性は覚醒剤常習、刺青があるような方で、収入は闇金融で法外な利息収入、車は確か盗難車だったような気がします。 写経をしながら過去を振り返り、いろいろ気付きが見えてきました。不倫に関してはお相手の奥様にバレてしまい、私は奥様を泣かせてしまいました。思い出して反省して、ものすごく苦しくなりました。涙ながら反省する事もあります。 また、深く深く振り返り、闇金融の法外な利息で得た収入で私達は遊んでいた事、そして盗難車に乗り遊んでいた事に気付き、これは罪である事に今更ながら気付きました。確かに私が得た収入ではない、盗難車も私の所有ではありません。 が、写経していくうちに、これはもしかして私は同罪にあたるのではないかと思うようになりました。 私からすれば当時は闇金融、盗難車という話を聞いても「ふーん、そうなんだ。」くらいの認識でしたが、よくよく背景を考えると収入源や車は、私は知らない人が働いて得た収入で遊び、私は不倫相手が所有していた知らない人から盗んだ車に乗り、というような状態でした。 普通の方であれば信じられない話でしょう。親であれば闇金融?盗難車?その人、大丈夫?となるでしょう。 しかし思考が曲がってしまったあの頃の自分には気付きません。 これは私は同罪にあたりますか? また私は地獄に値する罪だと思い、気付いたら、ひたすら謝罪しながら写経をしている自分がいました。 こうして書いているだけで苦しくなります。私は、とんでもない事をしたと思います。ごめんなさい。

有り難し有り難し 21
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「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 65
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阿弥陀如来とイエス?阿弥陀仏の信じ方。

仏教、特に最近では浄土真宗に関心がある者なのですが、「阿弥陀如来とは何か」「(阿弥陀仏を)信じるとはどういうことか」という疑問が拭えず、調べていくと、こういう文章に出逢いました。 〈親鸞聖人のおすすめ下さる信心は、「思い込み疑わないこと」という意味ではなく、「疑いがなくなって帰依する」という意味であります。「疑いがなくなる」とは「明らかになる」ということです。 では、何が明らかになるのかと言いますと、縁にふれたら、どちらへ転んで行くか解からないような危なっかしい自分の相が明らかになると共に、「あなたがどちらに転んで行こうがほっておく事はありません」と、私をしっかり抱きしめて下さる確かな阿弥陀如来のお心が、明らかになるのです。〉 阿弥陀仏が他の宗教でいう絶対神(創造神)ではないことは聞いたことがありますが、こういった文章を読むと、多分にそういった要素があると感じてしまいます。上記引用の阿弥陀如来をイエスに置き換えればそのままキリスト教ではないでしょうか? 仏教は、釈迦が無記を説いたように、形而上のことは判断しないとする極めて理知的な宗教だと思うのですが、浄土真宗のお坊様方はは、いつも傍らにいて下さるイエス様を信じるように、阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。そうでないならば、どのような形で阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。 不躾な質問の仕方になってしまい大変恐縮ですが、御回答いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 51
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LGBT差別に腹を立てることも煩悩なのか?

私はゲイです。 最近、LGBTの存在が広く知られるようになったおかげで、楽しいことも増えましたが、同時に酷い差別も目だってきました。 もとい、差別は昔からありましたが、ネットの発達によって、いわゆるヘイトスピーチを目にする機会が増えてしまいました。 私もパートナー制度の実現を喜んだりしただけで、虹色のイベントへの参加報告をブログに書いただけで、見も知らぬ人から心ない言葉をぶつけられます。 またゲイとの交流が深まるにつれて、差別で辛い思いをしている人々の話しを沢山聞き、自分と同じ性指向だけに他人事のように考えることは出来なくなりました。 「差別」は他人様がされているのを見るだけでも非常に不愉快ですが、自分が差別されると、その不愉快さは何百倍もします。 だから少なくとも自分は、他の少数派や弱者の方々を差別しないように気をつけていますし、「ヘイトにヘイトで返してはいけない」と自重しています。 でもやはり内心では、はらわたが煮えくりかえります。 いわゆるヘイトをする人には、これを娯楽半分で面白がっている人が少なからずいます。こちらは切実な問題なのに・・・ でも「怒り」は煩悩ですよね。 私は自分を差別してくる人間に対し、菩薩のように接するのは無理です。 私がお不動さんに惹かれるのは、これも理由かもしれません(お不動さんの慈悲の怒りとはほど遠いですが)。 そこで質問なのですが、 仏教でも差別に対しては、「右の頬を打たれたなら、左の頬を向けてやる」べきなのでしょうか? それとも、非暴力、例えば言論等での抵抗はゆるされるのでしょうか? 差別に対する怒りも煩悩であり、消さなければならないのでしょうか? よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 84
回答数回答 4