数年前に犯した罪について、どのような気持ちをもって向き合っていけばよいか悩み続けています。 私の犯した罪はともすれば刑事事件となってもおかしくなかったような事で、私はたまたま法的な裁きを受けることなく済みました。しかし、自分の罪責から逃れるために、卑怯な立ち回りをしたことも事実です。 私のしたことで、人に怪我を負わせたり、金品を奪ったというようなことはありません。しかし、相手方に大きな精神的苦痛を与えたことは間違いありません。 この数年間、私は、自分のせいで人を大いに傷つけたこと、その責から逃れるために卑怯な立ち回りをしたこと、自分がなんの代償も払っていないこと、苦痛を与えた相手に対してもはや具体的な償いができないこと、自分がまだ相手から恨まれ続けているのではないかということ、に悩み、苦しみ続けています。 先日読んだある本の中に、「許すか許さないかは、自分ではなく相手の責任である」と書かれているのを見つけました。当初は救われたような気持ちがしましたが、しかし、自分は自分のしたことについて責任を負っていない、だから罪は厳として自分の側にあり、そもそも許すか許さないかを相手に委ねる段階にさえ達していない、という思いが募るようになりました。 あれから、自分は脛に傷持つ人間なのだから、そのことを自覚して、謙虚に、親切に生きなければならない、と決心して生きてきましたが、罪の意識は消えません。また矛盾しているようですが、すっかり罪悪感が消え去ってしまうのも、自分が性根の悪い自己中心的な人間であることを突きつけられるようで、恐ろしく、逃げ場のない気持ちになります。そうなれば反省したことも忘れて、また同じようなことをするのではないかという怖れもあります。 そもそも、このような場で質問させていただくのですから、当時の私がしたことの具体的な経緯や状況を明らかにすべきなのですが、私にはどうしても書くことができませんでした。そのこともまた、自分の卑怯さを思い知らされるようで、耐え難い気持ちになります。 大変曖昧な文章になってしまいまして失礼なのですが、これから私は自分の罪についてどう向き合っていけばよいのか、どのような心持ちで生きていけばよいのか、ご助言をいただければと思います。
先が見えると、現実が安定してると、前向きになり、停滞していると過去の悩みを引きずり出し悩みまくりずっと先のよくない妄想をしては動けなくなって寝込んでしまいます。 いつも過去の悩みを引きずり出しています。 どうしたら前向きにずっとなれるのでしょうか?
最近◯にたくて仕方ありません。 せっかく決まった仕事にも不安障害から精神的に無理になり行く事ができませんでした。 また自信をなくしてひきこもり状態です。 持病の免疫の病気も不安障害も身体と心を不安にするだけ、痛みでツライだけです。 母親が亡くなり兄弟もいない私にはもう誰もいません。 天涯孤独です。 だから私が◯んでも悲しまないし困らない。 優しく言葉をかけてくれる母親もいないし甘えさせてくれる事もない。 弱音を吐けないこの生活は苦痛でしかありません。 遠いトコロに行って誰にも知らずにいなくなりたい。 今月は母親の命日があります、◯ぬにはいい時期なのかな?と思ってしまいます。 前向きにもなれないし頑張れない、精神科の薬も効かないし心が痛いだけです。 やっぱり疲れました、生きてる事が。 もう何をしていいのかもわかりません。
またまた質問よろしくお願いします。 死について漠然とした不安があります。 最初は小学生のころでした。特に何かあったわけではありません。 ただふっとした時に「死にたくない~」と思い泣いていたのを記憶しています。 ヲタクなので、漫画やらアニメやらドラマやらメディアでは死について想像したり見たりします。 ですが、身近な親戚や、友人知人の死に直面したことはありません。 同級生がひとり自殺されたという話は聞いたのですが、同級生との関わりが縁遠くなってしまっているので、実感がありません。 両親の祖父母は健在ですし、自分の家で生活できています。 東北在住なのですが、近くにいる親しい人が震災で被害にあったということもありませんでした。 自身もですが、親戚、家族、友人知人が大病を患い入院しているということもありませんでした。それ自体はとても幸運なことだとは理解しています。 外にいて空の高さや雲の重なりなんかを見て地球や宇宙を感じるとき。 妊婦さんを見かけたりした時。自分が生きてたり生命があるという事を感じます。 今でもふとした時にとてつもなく死に恐怖を感じます。 これからさきどうなるんだろう?まだ20代なのですが、30代に差し掛かるし、求職中で独身です。 死より将来に漠然とした不安を感じているのかもしれません。 これから先も地球や日本は続いていくけど、私は死んだらどうなるんだろう?死んだら終わりだし真っ暗で何も感じられないんだろうと考えると怖くて怖くて堪りません。自分の人生がいつか終わるのが不安で恐怖に感じています。 別の質問で書きましたが、危ない運転をしてしまったことがあります。 それでも生きているけど、いつ死ぬかわからないよね。 と感じたことがあります。そして身近な人の死に耐えられるかわかりません。 自分でも身近な人でも死が怖くて堪りません。 死の恐怖とはどのように向き合っていったらいいのでしょうか? 20代後半でこんなことを考えているのは可笑しいでしょうか?ご教授よろしくお願いします。
私の周囲には「死ぬなら死ね」という考えの人が多くて、、親も親戚も兄弟も、そんな考えです。 だから周囲には辛さは相談出来ません。 いじめの相談をして、死にたいと話したときに、「お前が悪い、死にたいなら死ね」と言われて以来、周囲には相談出来なくなりました。 今でも、死にたい、消えたい気持ちが消えないけど、、誰にも話せません。 自分のこと、、なんで消えたくなるのか、、それも上手く言葉にできず苦しいです…
良く苦しみは、幸せのプロセス と聞きます 自分自身、今いろいろな事で 悩み苦しみ、死にそうな思いをして もがき苦しんでいます よく自分の心を軽くしようと YouTubeなんかで、仏教や教えの 動画を見たりします そこで、良く言われるのは 苦しみがあるから幸せを感じれる と言う内容です そこで思うのが人間ってめんどくさい 生き物だな と言う事です 楽しい事や幸せな事を長く感じていると 飽きて苦しみたいと思う様になる それを乗り越えた先の幸せが 凄く楽しい、、、 ですが、単純にずっと幸せでも、 ずっと幸せと 思える状態なら、苦しむ必要も無いですよね? ではなぜ反対がある世の中なんでしょうか? あの世は永遠の幸せだと 聞いた事があります 生まれ落ちて修行するのは あの世で、永遠に生きていく 知識をこの世に降りて勉強すると 聞きました 不幸を体験するから人に優しくなれる 強くなると言いますが ずっと皆が幸せなら、そんな事 経験する必要も無いですよね? この考え方は、幸せだけの世界観で 狭く虚しいですか? でも皆が皆しあわせです ですが今僕はとても苦しいです これを乗り越えた先に幸せは あるとは思います 法則を信じているので ただこの法則自体に何かとてつもない 虚しさを感じます 何か教えを考えを頂けたら幸いです よろしくお願いします
私は死ぬのが怖くてたまらないのです。病気にも神経質で、ちょっと具合が悪いところがあると、がんとか恐ろしい病気ではないかと、すぐ病院に行ってしまいます。始終死のことを心配していて不安になり、こんなに苦しいなら死んだほうがまし、と矛盾した考えに陥ってしまいます。死んだほうがまし、と考えるのなら、死ぬことは本当は怖くないのかなと、自分の気持ちがわからなくなります。精神的な病気を持っているので、そのせいかもしれませんが、こんな私に、心が平穏になるような、アドバイスを頂けたらと思います。どうしたら、死が怖くなくなるでしょうか?主人は死があまり怖くないといいます。50歳にもなると、死の恐怖は落ち着くと聞きます。それともみんな死が怖いのでしょうか?どうぞよろしくお願いいたします。
やってしまったものはしょうがないと割り切ることもできず、思い出すきっかけになってしまうものはそこらじゅうに存在していて。 過去、おそらく世間一般で見れば自分の価値を下げるようことをしてしまったことがあります。 大切な人には打ち明けてしまいましたが、大層悲しませました。 そのことで一気に自分が許せなくなり、そのことをしてしまったことに大きな後悔を抱くようになりました。 家族に知られたらきっともっと悲しみますし、友人にバレてしまったら、きっと軽蔑されるでしょう。 きっと一生ついてまわる後ろめたさなんだと思います。いまはどうしてそんなことをしてしまったのか、他に方法があったのに楽をして、と自分を責めることでいっぱいです。 この後ろめたさ、後悔、やるせなさ、過去への恐怖といったぐちゃぐちゃの感情と、一体どう向き合えば良いのでしょうか?
お世話になっています 皆様の質問と回答を参考にさせてもらっています 自分について考えてみたのですが私は子供の頃から死恐怖症なのかもしれません 子供の頃から死を連想させる物が苦手で避けてきました お葬式や法事だけでなく歴史の授業や空や海も死を感じさせるせいか嫌いでした 知り合いに赤ちゃんが産まれたと言われた時ですら嫌な気持ちになりました 子供の頃から色々な物が怖かったです 時間が経つ事そのものが怖いです 若い頃は嫌な気持ちになっても音楽や映画など好きな事して何とか若さで誤魔化せていたのですが、最近は今まで好きだった趣味などにも興味が無くなってきて誤魔化せなくなってきました 何を見聞きしても頭の中が嫌な気持ちや恐怖心でいっぱいになってしまい生活しているだけで疲れます 孤独感も感じます こんな自分を変えて死恐怖症を克服したいです 穏やかに歳を取って死にたいです どうすれば良いと思いますか よろしくお願いいたします
人の名前を赤字で書くと良くないと言われていますが、本当なのでしょうか? 私は文字をきれいに書くためにペン字に通っているのですが、先生が書いたサンプルの文字を見ていたら、文章は黒色だったのですが、私の名前だけ赤字で書かれていました。 特に悪気があって書いたわけではないと思うのですが、何だか気持ちがよくないです。気にしなくても良いのでしょうか?
密教の在家信者でも悟りに至ることができるのか、質問したものです。出家者にお布施をして悟りに至るとのことですが、即身成仏の問題があります。 在家信者でもご真言を唱えれば即身成仏できるんですか?(出家者にお布施なしで)
人間って本当に生きているのでしょうか?
40代男性、身内とは疎遠で友人知人は皆無の一人暮らしです。 多々の病歴及び現在も複数の病気や後遺症があり、体調は芳しくない日々。 持病が発端で不安障害を煩い、安定剤と睡眠剤も服用しています。 30代までは身体も無理が利き、仕事を掛け持ちして仕事もこなせました。 40代に入り、一気にガタが来て心身共に持たず、その後は在宅でPC等を使い、なんとか生活費を稼いで生きています。 若い頃は身内の借金を返す為に働き、その後は癌を患った母の面倒を見て、数年前までは多忙な兄夫婦の子供達の面倒を見たり、忙しく苦しくも充実した日々でした。 今となっては唯一の味方だった母は5年以上頑張り、安らかに逝きました。 精神が不調になると空気が悪くなるのか、それなりに上手くいっていた兄夫婦からも退去をお願いされ、一人暮らしとなりました。 幸か不幸か、学がない馬鹿だった為、今まで何も考えず、考える暇も無かった為、日々苦しくも、今考えれば楽しく生きてこられました。 いきなり誰の心配も何の役割も無い状況、独り気ままに過ごせと言われても、持病ゆえ出来る事は限られ、心身共に凹む日々。 ここ一年程、強い希死念慮と戦っています。 身内に迷惑をかけない様、葬儀関係をすべて先方で済ませてくれる業者と契約したし、自死の為の道具も揃えました。 色々ありましたが、身体が動き充実した時期もあり、目一杯仕事をしたり、苦楽満載も、現在の状況に至るまでに、自分なりに満足いく人生でした。 気分が凹んでる時はただ死にたい、と思うし、たまに安定している時は、十分頑張ったし、やりたい事もやるべき事も概ね済ませてもう満足、笑って逝ける、と、結局、行き着く先は自死という結論になります。 自死に関する和尚様のお答えを沢山読ませて頂きました。 私をを苦しめる私を労わり、阿弥陀様に南無阿弥陀仏を唱え、禅の真似事で、心を無にして精神を落ち着けたり... やる事もやれる事もやり、先が見えた状況で、今なら笑って満足して逝けます。 こんな状況でも生き続けなければいけないのでしょうか? もう休んでいいのでは? 今は、励ましてくれる者も、叱咤、激励してくれる者も居ません。 会いたい人々の多くはあちらに逝ってしまいました。 彼等に会いたいです。 何かほんの欠片でも道筋を示してくれるお言葉、自死を肯定して下さるお言葉、頂けたら幸いです。
小学生の頃から難病の事でイジメられていました。その頃から自殺願望が有り10年前、5年前、振り返っても自殺願望が有ります。もう48才になるのに、産まれてきて良かった!生きていて良かった!って感じた事有りません。自殺未遂も繰り返しなかなか死ねません。自殺も寿命なら寿命が来れば死ねますか
私には好きな人がいます。その人は所謂漫画やアニメの架空のキャラクターです。おかしな話と思われるかもしれませんが、もし結婚するならその人とでないと嫌だと感じています。 その人を好きなまま生きていきたいと感じていますが、不安があります。 私は自分のこの気持ちを両親に隠しています。両親は私に結婚と子供を望んでいます。そしてどちらかというと古風なので話しても私の気持ちは受け入れられないのではないかと不安です。 もうひとつの不安は、社会的には結婚せず女ひとりで生きていけるのかということです。結婚で全てが解決できるとは思っていませんが、近くに誰かがいるのといないのとでは違ってくるのではとも思います。 以前に本当にこのままでいいのかと考えて、現実の男性とデートをしてみましたが(自分が心を開けなかったせいもありますが)あまり楽しいとは感じられず、お金を払って女性とデートするサービスを利用してみたりもしましたが恋愛感情は感じられませんでした。マッチングアプリをやってみたりもしましたが、好きな人がいるのに…と自分の中で違和感と罪悪感が大きくなり数日でやめてしまいました。 頭と心がちぐはぐで今とても苦しいです。何か助言をいただけたら有難いです。
私は、高校を卒業した今でも就職ができていません。 私は、長時間外にいるのが苦しく、人との付き合いが苦手で特に同世代や若い方が苦手でなかなか就職ができません。面接に行く日があると毎日苦しく、私は親に迷惑ばかりかけていて最近は何で私を産んだのだろう。何で殺してくれなかったんだろう。と、考えてしまっています。 私は、時に消えてしまいたい。と思います。 私が消えたら、両親は幸せになれますか? そして、今後どうしたらいいですか?
何気なく立ち読った本屋で帯に<お金は空>と衝撃的?!なタイトルに思わず手に取り拝読しました。昔から金の切れ目は縁の切れ目と離婚や相続などでお金は人を狂わせるのかなぁ、でも生きてくためのツールだし今は分相応?身の丈にあった生活をしてると思っていました。だけれど ふ と親の医療費、子どもの学費と、お金があればもっと余裕を持って(セカンドオピニオンや奨学金に頼らなく)してあげられる事もあるし悩み事も減るんじゃないかと思ってみたり。お金もまた煩悩の一つなのかなと。宝くじは楽しみに購入してます。年末、師走は何かとお金に振り回され生活しています お金は空とは…腑に落ちなく質問となりました。 hasunohaでお金のことを問うのは失礼になるかと思いますが…
在宅ヘルパーです。 独居か、それに近い高齢の利用者さんでよく、「こんなに生きて、早く死にたい。」「何もすることない、寝るしかない。」とおっしゃる方が居られます。 体は衰えて動くのも大変な方も、麻痺があって頑張って居られる方もおっしゃいます。 確かに、楽しそうではなく、1日1日をやり過ごして居られるだけとも言えます。 でも、気持ちの持ち方で、そんな思いでなくとも生きがいを感じられるのではと思います。 ヘルパーですし、仮に自分の親であっても、できることや一緒にいられることには限りがあり、何か言葉かけやそれに近いもので、少しでも楽しく若しくは生きがいを持っていただけるために、私にできることはないでしょうか。
不謹慎な質問をお許し下さい。 私は子どもには恵まれませんでしたが夫、家族と仲良く過ごしております。 このまま年をとれば親を看取り、夫を看取り、一人になるでしょう。 その場合、寂しさに耐えられないと思います。 なので何十年後かの日本では死ぬタイミングを自分で選択できればいいのにと思います。 いつ死ぬかわかっておけば、例えば自分の遺品の始末をする時間を持てますし、孤独でもその日までのがまんと思えば耐えられると思います。 周りに誰もいなくなった時。とても恐ろしいです。 こんな考え、自分でもずいぶんネガティブだなと思いますがおかしいでしょうか。 ※現時点で自殺願望があるわけではありません。 将来の孤独がこわくて思いついた上記のような死ぬシステムについてどうお考えになりますか。
初めまして、クラウディアと申します。 私の悩みは、果たして神という存在はいるのかどうかと言うことです。 実は別の宗教にも勉学的関心があるのですが、仏教とも共通することはやはり神の存在です。 私は信じたいのです。しかし同時に信じることができないのです。 目に見えるものしか信じられないという非常に残念な性格が影響しているのかもしれませんが、とにかく神の存在を疑ってしまうのです。 例えば仏壇にお線香をあげる際、それは亡き人に向かってです。亡き人というのはもうこの世にはいません。灰になってしまったのですから。魂はあると言われていますが、どうも私には信じられません、 そうだとすると、お線香をあげる意味はあるのでしょうか? そこで、神はいるのか、またいるのだとしたら何を根拠にいると仰るのかをお尋ねさせていただきたいと思いました。