以前読んだ仏教の本に、 お釈迦様は死への恐怖は、生への執着によるものだと悟った と書いてありました。 では、なぜ生きるのが嫌になったとき、自ら命を絶つのが悪いことなのでしょうか? 失恋したり、仕事がうまくいかなかったり、自分のことが嫌いになって、いっそのこと死んでしまいたいと思うことはなぜいけないことなのでしょうか? 生への執着が悪いことであるなら、自ら命を絶つことは許容されるべきなのではないでしょうか? こんなことをずっと考えてしまう自分が大嫌いです。助けていただけないでしょうか。
カテゴリーをなににするか少し悩みました(カテ違いだったらすみません) 悩みが多くて質問がぐちゃぐちゃかもしれないです… 私は高校3年生で大学に行くために色々やってましたが、無理だなと諦めました。今から就職も無理なので今の高校を卒業してからはフリーターになると思います。 大学に行きたい気持ちはあったのですが、ひたすら無気力で心の奥底では生きたくない気持ちすらあります。そんなので受かる訳がないですし入学しても大学生活を続けられないし就職しても多分同じだったと思います。 正直もう死んでしまおうかと思っていて自殺の準備をしました。あとは決行するだけの状態です。 けど家族に申し訳ないのでフリーターになることを親に話して、フリーターでも生きてみようかなとも思ってます。 フリーターが嫌なわけではなくて、フリーターの生活も続かなかったらと思うと怖いです。 フリーターからの就職も厳しいですしこれからの全てに耐えられる気がしません もし生きるなら親にフリーターになることを打ち明け、これからのことを話し合いたいです。 けど親に対する後ろめたさがあり勇気もありません。 臆病で無気力でやる気も出さない甘えた人間性の自分は生きている価値もないと思うのでさっさと死んでしまいたいです。 質問になっていないですがお坊さんの考えやアドバイスを聞きたいと思ってます。よろしくお願いします。
ただ、笑って暮らしたいと思ってやってきました。 でも、私には足りないものだらけだったと気がつきました。 私と暮らす子供に申し訳ない。 頑張っているつもりでも、足りない。頑張り方がまちがっている・・・ 自分から死を選ぶということ、間違っているのは分かっています。 でも、どうやって生きていくのか?間違いを正すにはどうしたらよいのでしょうか?
お世話になります。じゅんちです。 15歳の娘の突然の死から8ヶ月が過ぎました。まだまだ涙が乾く日はありません。 月命日には友達が相変わらず来てくれて賑やかにしてくれます。 寂しい、会いたい、いろんな気持ちにもちろんなります、二女が姉の服を着たり同じような仕草をしたり、行事があるたびに思いだし二女の姿を見ながら同じような事が起きやしないかとたまらなく不安になったりの繰り返しです。 私自身が楽しい時間を過ごすことに罪悪感を覚えます。 友達に会ったり、笑う時間もありますがそれがふとたまらなくなるのです。 長女にも楽しい時間がたくさんあったはずだと。 長女は空から私が笑ってるのを見たいはずだよねと思うのですが、気持ちが頭がバラバラです。 どんな思いでいたらいいのか整理がつかず辛いです。 お言葉をいただきたいです。宜しくお願い致します。
10年ほど前、職場やプライベートの過度なストレスから パニック障害→鬱となり、仕事ができない状況になって職を離れました。 それまでは、フルタイムでバリバリ働き帰りは終電、 帰宅後や週末も時々在宅や出先で別の仕事をかけ持つなど 無茶もしていた時期もありました。 それくらい動けていたのが突然何もできなくり、愕然としました。 投薬治療で少しずつ動けるようになってきたものの、未だに完治とならず 相変わらず波がありゆられながらギリギリで過ごしています。 それまでの様な生き方、暮らし方はもう出来ない状況です。 そんな中、自分の生き方を振り返りながら、 ふと子供の頃から生き辛さを感じ続けていた事に気づかされました。 そこで、色々と勉強(通信制で通学もある大学で)を始め、 数年前に(明治維新以降ではなくそれ以前の仏教の考え方)仏教の 教えに触れる事ができ、そこから色々と(亀の様な歩みではありますが) 物事の捉え方を修正できてきている実感ができるようになってきました。 授業だけでは物足りず、参考文献など少しずつ読みながら独学を進めております。 最近は、どこかのお寺で勉強会などがあるなら行ってみようか? と考えてみたりするようになりましたが、 宗派にとらわれずにお坊さんから学ぶ術はないのだろうか? という疑問が湧いてきております。 今後学んで行くために何か良いアドバイスがいただければ幸いに存じます。
悩みごとって常にありますよね。今も悩んでいたり、うまくいかないことに苛立ちを感じたり、ストレスで胃が痛くなったりすることもあります。 でもよく考えてみると、5年前に自分が悩んでいたことって今思うと大したことないというか、たとえば当時すごい合わない上司がいて、そんな上司を評価する会社が毎日嫌で仕方なかったけど、今思うとそんなの見返してやるか、会社辞めれば済むだけの話で胃が痛くなるほど何か悩むことだっけ?と思ったりします。 結局人の悩みってなんなのでしょうね? それがわかれば今悩んでることも、大したことないように思える気がしますが、わからないから悩んでるのでしょうか?
初めて相談いたします。よろしくおねがいします。誰に聞いてよいかわからず、悩んでおります。 私の母のことなのですが、心の持ち方についてご教授願いたいと思っております。 両親は私が15歳の時に離婚し、それから母親だけで育てられてきました。ちなみに私は一人っ子です。 大学、大学院はバイトと奨学金でなるべく母には迷惑をかけずに勉強し、就職後は毎月母の収入以上の仕送りをしています。 母は私が就職をしたころから、依存するような発言をしており、それが不快です。 また私の生活に色々とアドバイスをくれるのですが、その発言が耳障りでつい辛く当たってしまいます。 母の面倒は生涯に渡って見るつもりでいますが、何か納得してないような気がしています。 心のどこかで、両親のせいで貧しい思いや嫌な事があった上に、就職してからも仕送りをし続けている私は何のためにこんなことしているんだろう?と考えています。 見返りが欲しい訳ではないのですが、私が苦労する(労力を使う)意義が母親のためだけなのか?と思うとやりきれないです。 自活してちゃんと働いて生活しているのに、どうして色々言われないといけないのか。と思ってしまいます。 最近私が結婚して、母がより一層私に依存してきます。 今は別々に暮らしていますが、いずれ一緒に住むと思うと不安です。 どのような心の持ち方をすれば、母に優しく接することができるようになるか教えて欲しいと思います。 よろしくお願いします。
初めまして。私は最近、某仏教のテレビ番組にハマっています。 「輪廻転生」のことを知りましたが、疑問に思っていることがあるので、教えてください。 「輪廻転生」には六道があり、魂は6つの世界を旅しているとのこと。 人は死んだら、天界や極楽に行くと聞きました。 でも、生まれた時に今まで魂が旅してきた六道(地獄も含む)の記憶は一切ありません。また、よく「人は死んだら“無(生まれる前の状態)”になる」と聞きます。 地獄や天国というのは、本当に存在するんですか?誰も見たことがないからわからないんじゃないの?と思うんです。 本当にあるなら生まれる時に何らかの地獄の記憶(熱い・痛いなど)があるはずだし、お浄土に行くにも三途の川を渡る際の感覚や閻魔様に出会った時の恐怖、彼岸に渡った記憶や皮膚の感覚というものがあるのかなって。魂になっても、痛みや恐怖を感じるんでしょうか。 私は、できればそういうのがなくて、「死んだら本当にただ無になるだけだよ」って言ってもらう方が安心するんです。 だって、死んでから「生前悪い事をしたから地獄で苦しむ」って思ったら死ぬのが怖いじゃないですか。 天国と地獄の教えというのは、「悪いことをしたら地獄に行くよ。だから、生きている時に悪いことをするなよ。」という解釈と思うのは、どうなんでしょう?
お坊様へ 私は今、転職活動の最中にあります。 年齢的にも苦戦しております。 その中、たまたま講演会で 講師で食肉処理センターの社長の話を聞くことがありました。 興味があれば見学に来ませんか? というお話もございましたが諸事情でまだ連絡をしておりません。 パンフレットから企業研究をしておりますが「と畜」を行っているようです。 書いてある作業工程をインターネットで調べますと、一般的技術として行われる工程が殺生ですから私にとってはショックに感ずる可能性があります。 消費者として普段肉は食べております。 食卓に届くまでに欠かせない業種であると思います。 この会社に応募するかまだ分かりませんが、 お坊様から見て職務上避けられない殺生という事についてどのように考えたらよいかいくつか伺いたいと思います。 ・地元のお寺の行事ではお坊様が 「私の後に続いて唱えてください、では『不殺生』…」という形でお唱えしますが、これが守れないようになりますがどうしたらよいですか? ・この業種では100kg位の動物のと畜を専門にしており、 最初の工程では生きている状態の動物にかなり接近して処理を行うようですが、その動物にどのような態度で臨めばよいですか? (「感謝」はするべきだと思いますが、動物にとっては自分の生き死にですので、どこまで許してくれるかわかりません。 また、一日の処理頭数はかなりあるのが一般的なようなので、 「特別なお祈り動作」をしていると作業上事故の元になる恐れが考えられます。) ・ある程度頻繁にお祓いに行く、或いは毎日・毎週・毎月の単位で慰霊碑や近隣寺院にお参りに行くなどという事をするべきですか? (何らかのたたりなどへの心配) ・工場の衛生基準で持ち込めるか不明ですが、何かお守りを所持した方がよろしいですか? ・この仕事に従事することで、 将来例えば「お坊さんになることができなくなる」とか 「一定のお寺に参拝できなくなる」とか 何か仏教上のペナルティのような何かが発生することはありますか? とんでもない事を質問しているかもしれません。 ただ「TPPで日本の畜産がどうなるか」は他で調べられても、 こういうことはお坊様でないとお伺いできそうにありません。 大変恐れ入りますが、お坊様どうか何卒ご教示お願い申し上げます。
大好きな父を病気で亡くしました。 若いうちに私を産んだのに、きちんと育ててくれて成人させてもらえました。 私はパパが大好きで、ファザコンと言われる程仲良しです。父に限らず家族が大好きでしたが、父が1番の味方でした。私はインドアで1人が好きで、友達ですらも人と過ごすのが苦手で。 なので休みの日はいつも父と一緒でした。いつも私のワガママに付き合ってくれました。 急性と名のつく病気だったためありがとうもごめんねも言えず、どのくらい痛いのかどのくらい苦しいのか、何か伝えたいことがあったのかどうか、父の言葉も何も聞けず。 私はいつか絶対に父に会いたいのです。父と母からもらったこの身体と命を自分の手で無駄にしない為には、死後の世界に縋るしか生きる希望がないのです。 本題ですが、 自死をした場合は、天寿を全うした人達と同じ世界には行けない、即地獄行き、自死は罪なのでカルマがどうのこうの、沢山調べました。 これらは本当なのか、少しでも自死をする人を躊躇させるため減らすために適当に作られたものなのか。 そもそも死因によって魂の行先は変わるのか。 仮に私が自死をしたら、病死した父には会えないのか会えるのか。 知りたいです。 もちろん死後の世界のことは誰にも分かりませんから、私が見漁ったWebサイトよりも信用出来るお坊さんの考え方が知りたいだけです。 別に死ぬつもりも度胸もないので私を止めるための綺麗事は必要ありません。死について調べてる間に見飽きました。 自死でもお父さんに会えるよ!という返答が来たからと言ってじゃあ自死します!ともなりませんので、変に気遣わずそのまま元々のお考えを教えていただければ嬉しいです。 お忙しいところ恐れ入りますが、よろしくお願いいたします。
お世話になります。 いつも励まされております。亡くなって4ヶ月、来月には16歳の誕生日を迎えます。 朝5時半、お手洗いで倒れていた姿は何度もフラッシュバックします。 4時には声を交わしていた娘、一週間前前は二女と買い物、プリクラの元気な姿、翌日は卒業式、誰が悪性腫瘍がらあったなんて思うでしょうか、今でも信じられません。 そのお手洗いの意識のないのがわかる、普通じゃないと感じたあのショックもあり、引っ越しを考えています。 ただ、やはり引っ越しもありじゃない?てかたもたくさんいますが 中にはお姉ちゃんとのここでの思い出がなくなるんだよ!て言われるかたもいて気持ちは引っ越しに向かっていますが、もしかして長女はここに居たいんじゃないかとか考えてしまいます。 前向きに考えたいのに、いつもいいのかなて悩んでしまいます。
なにからお話してよいのか、わかりにくかったらすみません。 娘は高校2年の17歳でした。 先週、いつも通りに「今日は6時半に帰る」と学校に行った娘が 白い棺に入って家に戻りました。 駅のホームから線路に降りて急行電車にひかれたそうです。 駅のホームのカメラには自分でホームにおりて、線路に横たわる映像が映っていたそうです。 警察での身元確認も、本来なら親がするはずなのに、遺体はいっさい見せてもらえませんでした。 かかりつけの歯医者さんが確認してくださいました。 娘の体をさすってあげたくて、せめて手だけでも、足だけでもとお願いしましたが、お見せできませんと言われました。 なので、棺のなかに本当に娘がいるなんて信じられなかったです。 娘はとてもいい子で、人にめいわくをかける子ではありませんでした。 順番待ちでも「どうぞどうぞ」ってゆずるような子で、動物が好きで、家のペットもすごく可愛がっていました。 命は大事と言いながら、家に虫が入ってきたら外に逃がしてやったり、 体に蚊が止まっても吸わせてやるような子だったんです。 なによりも命を大切にしていたあの子が、自分で命を絶つなんて本当に 信じられないのです。 携帯に遺書らしきメモが残されていましたが、ペットの世話をお願いとか、 ○○さんと約束してたから代わりに本を渡して、とか、まるで短い旅行にいくかのような文面でした。 ただ、学校に迷惑をかけないようにと思ったのか、「学校は全く関係ありません。」とありました。 告別式のあと家に帰ったら、来週見るつもりだったのか、大好きなアニメも録画予約したままでした。 自分の部屋もなにひとつ片づけることもなく、そのままの状態でした。 よく自殺したら成仏できないと言いますが、娘が苦しまないように、なにか私にできることはありますか。 息子がいなければ、すぐに一緒にいってやりたいけれど、これ以上家族を苦しめる事はできないですよね。
先月母が亡くなりました。 父から葬儀の事に関して、丸投げされていたので、私が葬儀屋さんに電話し、喪主を勤めました。 葬儀屋さんと打ち合わせ中に、お寺のお坊さんがいつ葬儀に来てくれるか電話するように言われました。 お坊さんに電話したら、“枕行に行きたい“と言われました。 今朝母が亡くなった事で気持ちが動転していて、葬儀屋さんとプランの話し中だったことで、また後で電話すると言って電話を切りましたが、私は電話をするのをすっかり忘れていました。 それから2〜3時間後にお坊さんから連絡があり、お坊さんを怒らせてしまいました。 母の戒名を考えるために明日、寺に来るのかと言われましたが、私は逆ギレしてしまい、上から目線だとお坊さんに言ってしまいました。 うちにはお金も無いと伝えました。 私のほうからお坊さんに用事があって電話したのに、逆ギレしてしまうほど、まともでは無く、冷静ではありませんした。 葬儀の日に待合室で、“待てど暮らせど電話がなかった。自分から連絡してきて、あの態度は何だ。枕行をやらなかったのは初めてだ。“ともっともな事を言っていました。 今日は母の49日でした。 お経を詠んでもらい、お話しを聞いていましたが、お坊さんは私とは目を合わせませんでした。 お話が終わると、お坊さんさんは烈火の如く怒り始めました。 “何故遺骨を持ってこない?こんな事は初めてだ。“ “何故49日の打ち合わせに来ない?今日は来ないかと思っていた“ “枕行をやらなかったのは初めてだ“ “お父さんは萎縮してしまって、あなたに何も言えない“ “自分のやりたい事だけをやって、周りに迷惑をかけている“ “枕行しに行きましょうかと言った日は、もっと若い女性が悩んでいるのかと思ったら、36歳だったなんて!“ “あなたがした事で、お父さんは謝っているのを知っているか?“ “葬儀の時にお布施5万、御膳料5千円、御車代5千円の6万だったけど、0が一個足りねぇよ“ と親族の目の前で言われました。 お坊さんの大きな声で何故何故といわれて私は何も言い返すことができませんでした。 私の実家はこの先墓じまいになります。 母の遺骨はそこには入れたくありません。 お骨は私の家にあります。 来年の一周忌、3回忌、七回忌…毎回このお坊さんに会うと考えると気が重くなります。
はじめまして。 私は30歳で結婚しましたが、なかなか授かれず。悩んだ末、受診しましたら婦人科系の疾患が見つかり、即手術となりました。そのため妊娠しづらい身体になりました。 その後、不妊治療も受けましたが、授かれず。精神的にも、経済的にも限界を感じ。3年で治療を諦めました。 もう40歳になり、子供を産む可能性もほとんどなくなりました。 ですが、いまだに納得がいかないというか、諦めきれません。 子供を産めた人と、私はどう違うんだろう?子供を持ってはいけない人間なんだろうか、と思います。 ネットなどを見ると、子供を産めない女性には価値がない、生きている資格がないと書いてあることが多々あります。 若いうちに産まなかった自己責任だとも。 ですが、高齢出産と言われる前に結婚したにも関わらず、私は授かれませんでした。 いろんな事情があるのに、なぜ、そんなことを言われるんでしょう。 悲しいです。 最近、自分の人生になんの意味も見出だせず、自殺も考えるようになりました。
私は恐がりの癖に暇な時間怪談話などの朗読動画をよく聞いていました。 ある日聴いた内容が目が見えない霊なのでその霊知ってる人間だけを探し殺しにくると言った内容でした。 その朗読を載せた人は次は自分のばんだと思い少しでも生存率をあげるためにのせたと言っていていつその霊が私の前に来るのかと思うと怖くて怖くてたまらないのです。 成人までに髪伸ばしたら?と親に言われたのですが、その霊は後ろ髪をのばしてると掴まれるといったことで女なので剃ることはできないのでショートカットです。 聴かなければよかったと後悔しても遅いしどうすればよいのでしょうか。 本当に、霊が殺しにくるなどのことはあるのでしょうか? ここ毎日そのことが怖くて怖くてずっと考えてしまいます。
ここで一度お世話になり、仏門に興味が湧き 元々、下手なりにも書道を趣味としていたのもあって 写経を始めてみようかと思っていました そうした話を友人、知人に話していたら タイトル名のようなことを言われました 知人によると、お経と言うものは修行を積み 徳を重ねた人が唱えることに意味があるのであって 素人がむやみやたらと、お坊さんの真似をするのはやめた方がいい まして写経なんて、なにかおかしなことがあってもおかしく無い程の やってはいけない行為だと言われました 書店では、初めての写経と書かれた本もたくさん見かけます 宗派によって考え方が違うのでしょうか 私の家は曹洞宗のようですが 自分自身、仏教徒ではあると思います。 と言うより、それしか知りません キリスト様より、お地蔵さんの方が気軽に挨拶できます 写経って、やはり辞めておいたほうが良いことでしょうか
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
私は、約12年前からうつ病や不安障害などのために治療を受けております。 約1年8ヵ月前に父がガンのために他界いたしました。 私は元々寂しがりな性格であることもあり、また、私の発病後は友人との接点が全くなくなり、とても寂しい気持ちで毎日を過ごしておりましたので、父が他界してからは、物凄い悲しみや寂しさが続いております。 悲しみや寂しさの強さや、落涙する頻度は、時期によって多少の強弱があります。 主治医にこのようなことを相談したこと もあるのですが、「普通の人は、家族とか仕事などがあるから、そんなことばかり考えていられないんだ。」というようなことを言われてしまいました。 (私は無職で独身なので、このようなことを言われたのだと思います。) 前述のとおり、友人と呼べる人もいなく、誰とも話をしないことが日常ですので、悲しくて、寂しくて、困り果てております。 いい年をした中年男が涙を流す日が続いております。 こんな私に何かアドバイスをいただけませんでしょうか。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
なぜ今生きているのか。 誰もが希望に満ちあふれ、夢や目標をもって生きているわけではないと思います。 しっかりと答えられる人は多くはないのかなと。私は、 「親より先に死ぬわけにはいかない」とか「私を大切に思ってくれている人を悲しませたくはない」などの理由かなと思います。 もちろんちいさな夢や目標はありますが、生きているから生きているみたいな漠然としたものだったりするかもしれません。 仏教的な観点で、人が今生きている理由はなんでしょうか。お坊さん自身の今生きている理由でもよいのでお教えください。
変な質問ですが(;゜O゜) お坊さんが『これは仏教的な歌だな』って曲を教えて頂け無いでしょうか? それを聞いてみたいと思ってます。 個人的は、THE ブルーハーツの 「情熱の薔薇」‥‥諸行無常的な 「リンダリンダ」‥‥衆生の命の尊さ ミスチルでは「HANABI」‥‥煩悩の執着心 です(笑)あくまでも個人的な解釈なんで‥‥ 仏教に仕える方々の音楽観を知る事が出来れば、ますます仏教が面白くなると思い質問させて頂いております<(_ _)>