父が、急死して母は毎日泣いてます。 「お父さんは自分が死んだ事に気付いてないと思うから、あっちにいけるか心配」と母は言います。 もちろん、ささやかですが葬儀を済ませ、実家には毎週、曹洞宗のお坊さんがきて下さりお経をあげて下さってます 実家へも車で片道三時間かかりますが、出来る限り私も行って、父に手を合わせ「お父さん大丈夫だからね、私達も頑張るから!」と声をかけに通っています。 父は、一瞬過ぎて、死んだ事にきづいていないのでしょうか? 私達の事は見えているのかな? 49日までに、してあげると良い事、その後出来なくなる事など何か些細な事でも、ありましたら教えて頂けたらありがたいです。 一番近くにいた父がなくなり、49日までのお互いの過ごし方やマナーなど、きっと知らない事もあるのでは、と不安です。 お花、お経、ロウソク、通常のお供え物の他に仏様が、喜んでくれる物や事もあれば、ぜひお教え下さいm(__)m いまだから、父にしてあげられる事、してはいけない事、初歩的な質問かも知れませんが、改めて教えて下さいm(__)mませ。 お忙しいところ、最後までお読み頂き感謝です ありがとうございますm(__)m よろしくお願い致します。
こんばんは。いつもお世話になっております。 ゆーりです。いつもいつも、質問ばかりで、お礼の返信が出来なくて申し訳ありません。時間を作り必ず、お礼申し上げます。 さて、本日は、自分磨きの方向性について質問させて頂きます。 2ヶ月半くらい前でしょうか? 私は、ここで強くなるにはどうしたらよいか?を質問させて頂きました。ぜひご一読ください。 私は、今、○○さんに思いを伝えるために自分磨きをしています。 持論ですが、自分磨き(自己啓発)というと、ネットなどによく書いてありますように、外見をお金を掛けて変える様な内容をよく目にします。 人は見た目が9割とは、よく言いますがそれでは私は○○さんには届かないのでしょうか? 私には、本当のかっこよさ、強さというものは、内面から滲み出てくる人徳ではないかと思われてなりません。 私は内面を磨きは、辛い道を選ぶ。つまり今できる努力、すべき努力を逃げずにするということだと思います。 私は、今、大学院に向けての受験勉強、教員採用試験の勉強、野球、TOEICの勉強、と四足の草鞋を履いております。 これを乗り越えれば、自分は間違いなく一皮むけると思います。 私は、大学では追試だらけ、野球は(大学から始めたということを差し引いても)下手くそです。 ですから、大学院・教採合格、野球でレギュラー奪取出来たとしたら、間違いなく一生自分を誇れると思います。 また、これらのおかげで、今の自分は、色々な勉強をし、読み物を読み、野球といった努力のおかげで色々な人や物と出会い、内面も、ものすごく成長している気がします。 しかし、これは紛れもなく自分の為でありこの気持ちは相手に届くのでしょうか? もちろん、自分の為にしている努力ですから、相手に届かないかもしれません。自分のしている自分磨きをしてから・・・○○さんに告白するという事は物凄く遠回りです。 ですが、自分に今、出来る自分磨きというものは他に見つかりません。 漫才師になった時の為に、弱い奴を笑かしてやれるようなコントのネタを磨く、これくらいでしょうか。というのは、冗談にしても・・・ 私のしている自分磨きというもの自分磨きと呼べるのでしょうか? また自分のこれからしていくべき自分磨きというものは、いかなるべきでありましょうか? お伺いしたいと思います。お手数をおかげしますが、宜しくお願いします。
ご質問させて頂きます、ハルソラと申します。 タイトル通り、仏教を学んでも人格者たり得ず、浅はかな自分に嫌気すらさしてしまいます。 私のしている仏教の学びとは、巡礼(四国や各観音霊場巡り)、市販の仏教書、座禅、説法会や座禅会の参加など4〜5年ほどです。 仏教では「慈悲の心(思いやり)」を大切にしますが、その慈悲を他者に向けることが、私にとって難題となっており、些細な事から人間関係のトラブル、軋轢が生じることがあります。 どうして慈悲の心を持つ事が出来ないのだろうと自分なりに考えてみますと、まず自分の人生に感じる圧倒的な不幸感です。 私の親は冷淡で、愛情深い親ではありませんでした。その事で何十年と悩みましたし(自身の存在意義も含めて)社会に出てもうつ病、非正規雇用を転々、一生懸命やったスポーツもうまくいかない等ありました。 しかし衣食住に不自由はないので贅沢な悩みかもしれません。 さらに一般社会においては会社でも、路上でもマナーやモラルのない人を目にする事が多く、そのような人達に差別意識を持ってしまっているのです。 そのため人に何かをしてやりたい精神があまり養われないようです。 説法会や座禅会で、お坊さんと触れ合う機会も増え(しかしいつも気軽に話せる訳ではない)そのような方々の話しや態度をみて見習いたいと思いつつ、すぐに忘れてしまいます。 私が「慈悲の心」を身に付けたいのは、自他の救いのためです(どちらかと言うと自分。←これがダメなんですかね?) どうしたら心から他者をいたわり、慈しむ事が出来るのでしょう? ご教授よろしくお願い致します。
只管打坐についてお尋ねします。 私は本をテキストに家で坐り、週一お寺様の坐禅会に参加させて頂いて8が月経ちます。 それで、このごろ疑問に思うのは、私の坐禅は習禅(トレーニング)で坐禅(安楽の法門)ではないのでは?という事です。 この問いをベースに以下三点をお尋ねいたします。 1.習禅と坐禅の違いは? 2.お寺と家の環境を近づける工夫を教えてください。 家では早朝に坐るとか線香を焚くなど、僧堂のマネをするのですが坐禅の深まりが違いすぎます。毎日坐る家でのクオリティーを上げたいのです(ちなみに片道一時間以内で参加出来るお寺はここだけです) 3.妄想や眠気が出てきてそれに気づく、その後の戻り所はどうでしょうか? 本に「思いの手放しは骨組と筋肉でねらう」とあったので、坐相を整えていますが... 只管打坐は手応えが無いと言うか、達成感が無いと言うか「本当にこれでいいのだろうか」と悩みながら続けていますが、道元さんが「あまねく勧める」坐禅をコムズカシク考えすぎかな、とも思います。 以上、ご指導宜しくお願いいたします。
私はインター生(歳は18)で、約一年半で学校を卒業します。ですが、成人になる前にちゃんとした生活を送れるようにしていきたいです。 私は今、やっても終わりが無い難しい課題や、自分の体重、性に敏感な事、プレッシャーから逃げてしまう(夜更かしをしてしまう)などと言った問題に困っています。私は成人になる前に、この問題を解決したいと思っています。いくつか自分なりにやってみましたが、長続きしなかったり諦めてしまう事が多かったです(特に性に関することはもうほとんど諦めて、自分の本能のままにしようかと思っています)。坐禅や瞑想もやってみましたがあまりうまくいきませんでした。 最近ではまともに風呂に入ったり、歯を磨いたりしていません。このままでは自分に良くないと思い、このような決断に至りました。わたしはこの先どうしたらいいのでしょうか?もう一度坐禅や瞑想などに力を入れ方がいいのでしょうか?アドバイスお待ちしています。
夜寝る時、いつも嫌なことを思い出したり妄想したりして雑念のせいで目が何度も開いてしまいます。 こういうことには瞑想が良いと聞いて、色々やり方を調べてやってみても効果がありません。 嫌なことを受け止める、受け流す、抑えてみる、マインドフルネス、ヨガ、呼吸法…どれも効果がありません。 考えすぎるのがいけないのでしょうか… お坊さんは修行中はどうやって瞑想してますか?
最近、坐禅に興味を持ったものです。 恥ずかしながら十年間引きこもりで、障害年金で暮らしています。 井上貫道師の著作を読み、坐禅に興味を持ち、その弟子筋にあたる方に電話面談を予約しようとしたのですが、自閉症ゆえ、極度の人見知りが発生して、キャンセルしてしまいました 只管打坐と言っても、ただ坐るのが難しく、参禅は必須と聞いております けれど、田舎住みなので近くに寺もなく、本当にハッキリした方につくのは難しそうです。 坐禅をしたい理由は、お釈迦さまの見た光景をこの目で見たいというものです。 けれども坐禅は諦めるしかないのでしょうか? この本があれば大丈夫、というのもないと思いますし、電話で気軽に坐禅を訂正してもらうというのも、忙しいお坊さんには無理ですよね… 長文失礼しました
菩提寺ではないのですが、いつも坐禅に行かせていただいているお寺があります。 先日の坐禅中にふと心に 「このお寺のために何かお手伝いできないだろうか」 と浮かんで来ました。 金銭的に何かできれば良いのですが、そこまでの余裕がありません。 また、あまり出しゃばるのは良くないのでは...という思いもあります。 住職にお声を掛けて伺うつもりではおりますが、少し助言を頂けませんでしょうか。
実家が浄土真宗という事もあり、瞑想に縁が無く、なんとなく勉強もしてこなかったのですが、最近になって仏教の瞑想に興味を持ち、インターネットでざっくり調べてみました。 ですが、まだ分からない部分があり疑問がいくつか解けないままです。 そこでhasunohaのお坊様方に瞑想について詳しく教えていただきたいと思い質問させていただきました。 まず前提として仏教の瞑想には止(サマタもしくはシャマタ)と観(ヴィパッサナーもしくはヴィバシャナ)の二種類があるということ、法相宗の瑜伽や天台宗の止観は止と観を包括することまでは分かりました。 ただ分からないのは禅宗の坐禅と密教の阿字観です 禅は禅定という言葉からして止なのかな?と思ったのですが、臨済宗の公案によって自己を見つめる、というスタイルは観と言えなくも無い様な気がします。 阿字観や月輪観も一見止に思えますが、ウィキペディアの古式の阿字観瞑想の項には、奢摩他(シャマタ)と毘鉢舎那(ビバシャナ)と書いてありましたし、真言宗のお寺のサイトには「阿字観は観を止より重視する」と書かれていました。 真言宗や禅宗のお坊様、或いは仏教の瞑想に詳しい方がいらっしゃれば、お聞きしたいのですが座禅や阿字観は止ですか?観ですか?それとも瑜伽や止観の様に両方を包括するのでしょうか? もし知識としてご存じないなら、実際に瞑想をした体感からくる答えでも構わないので教えてください。 よろしくお願いします。
最近、坐禅をできる時にやるよう心がけ「雲無心にして岫を出ず」という言葉を胸に自然と湧き上がる喜怒哀楽の感情をなんとかしようとせず浮かぶにまかせ消えるにまかせると心がけていました。 そのおかげで以前に比べれば気持ちが穏やかであったり怒りに支配されることもだいぶ無くなりました。 しかしながら先日自分でもよくわからずイライラしていることがありました。 坐禅や呼吸法などを駆使してもどうにもならず旦那に当たってしまいました。 結局、話しを聞いてもらうことで十分に落ち着きました。 イライラの原因は自分の病気のことで、それの治る目処が立たないことやそのことで生活に支障が出たり辛い事が生じることでした。 けどこれはどうしようもないことですし、いつものように坐禅や考え方でどうにかなるかと思ったのですが今の私には難しかったです。 正直、全て坐禅や考え方でどうにかなるかと思ったのですがやはりいくら修行をしていてもたまには話を聞いてもらうことも大切なのでしょうか。
私は、統合失調症という病気です。 夏頃に私の病気の説明会に行ったのですが、その時お医者さんが、「統合失調症は脳の病気です。」とおっしゃっていました。 そして、疑問に思ったのが統合失調症の人が坐禅や瞑想をしてもいいのか?ということです。 心の病気の方は坐禅や瞑想で良くなったという話がありますが、脳の病気の場合はどうなのでしょうか? また、仏教書を読む時の注意点などがあれば教えて欲しいです。
アップいただいた動画を、拝見致しました。ありがとうございます。 前回のご回答と動画で、坐禅ということを説明や言葉で理解すると、ダメなのはわかりました。自分で勝手にねつ造した”悟りの境地”や“坐禅の方法論”や“坐禅の手段”は、ことごとく通用しないということも分かりました。 しかし、そうなると、とても不安になります。どうしても、何らかの方法論や手段に頼ろうとしてしまうし、その結果、自分を観察して、分析して、改善しようとしてしまいます。「私は、○○だ」「うまくいった」「ダメだ」とかコメントを入れてしまいます。自分が見たもの、聞いたもの、したことを観察して、その観察した自分をさらに観察して、二重にも三重にも生活してしまいます。 そういうコメントを入れてしまうのは、それを止めるとかえって物足りない気がするからだと思います。観察しないと、「こんなのでいいのかな?」と非常に不安になってしまいます…。 それでも、理想を求めて自分を観察してはならないのでしょうか?
ホッタラケの功徳(https://hasunoha.jp/questions/10395)を実践して2年近くたちます。坐禅会にも参加しています。 実践してみた結果、疑問が出てきました。質問しようか、自分で解決しようか、数か月間ずっとためらっていましたが、自分では解決できないので、思い切って質問させていただきます。 社会的な成功(富・人気・名誉・大量生産で社会貢献・親孝行・楽しい家庭など)を、捨ててかからないと、「ホッタラケの功徳」は完成できないと思います。悟れないと思います。 生計を立てて生きていくために社会的な活動はせざるを得ないし、その結果として、お金が貯まったり、周りから褒められたりすることはあるかもしれません。 しかし、精神的な苦しみから完全には解放されることを目指すなら、あくまでも「生きながらに成仏すること」を第一目標に、何をやっていてもそれ一筋で生活しないと、とてもじゃないけれど、ムリなのではないかと思います。 私自身の経験から、坐禅を実践してみて、「もっと人から良く思われたい」とか「お金持ちになりたい」とか言ったことに価値を置いてしまうと、思考が活発化して、湧いてくる考えを放っておけなくなるのです。自分のなかで目指していることの矛盾を感じて、混乱しています。坐禅も進まないし、やらねばならないことも停滞してしまっています。いったい自分は何を生きる目標にしているのか、と自問自答しています。 「ホッタラケの功徳」を継続して実践していくには、「世間的に成功するかどうかはどうでもいいけど、人類全体には貢献する」というような覚悟(あるいは割切り)が必要なのではないでしょうか。 ご教授頂ければ幸いです。
私は私が思うに頑張ってしまうのです。日々の家の家事や趣味の座禅、何かを成し遂げないと一日が終わりません。皆掃除なんて一週間に一回ででいいじゃないとか座禅する暇があったら出かけたらとか言います。 しかし朝から満たされない時は掃除をしたり座禅をしたりします。何かをしていないと落ち着かないのです。常に達成に捉われていると申しましょうか。 勿論家事をしてくれる母に比べたら私の家事なんて可愛いものですが。そんなに達成感が欲しかったら働けばと言われそうですが統合失調症の私は労働力になりません。 例えば朝からどっさりお通じがないとかそれだけで満たされません。そこで勢い掃除を始めたり座禅をしたりそうでもなければテレビを見たり。 テレビを見ることは悪くないのですが最後まで見ないと落ち着きません。人生って何かを達成するためにあるのでしょうか。それともただ在ることに意味があるのでしょうか。 お釈迦さまは人生の意味についてどのように仰っているのでしょうか。それが知りたいです。
独坐しています。そのため、修行に確信が持てません。 現在住んでいる場所は、土地がら坐禅会などの機会があまりなく、 正師を得るには県外の坐禅会などに参加するしかありません。 道を得るためですから、その機会を作ろうと思っています。 ただ、経済的な事情もあり、そうそう師を尋ね歩くこともままなりません。 何よりも、大した境涯でもない自分が、師の力量をはかれるとも到底思えません。 そのような私が正師を得るにはどうしたらいいでしょうか。
タイトルにあるようにお坊さん達は精神的に苦しい時はどうやって対処してますか? 私はいま精神的にかなり苦しいです。 自殺という考えもチラつきます… 何をやっても上手くいかない、、何をやっても楽しくない、、心療内科で貰う薬は増える一方、、仕事は辛い、、 生きてても辛い事がありすぎます、、 こんな時お坊さん達はどうしますか??
永平寺での参禅で非常に感慨を受け、また、日々躓いていたことに関しても少しではありますが良い方向を目指せるきっかけを頂きました。 仏教や曹洞宗についてもっと知りたく思い、帰ってから地元で坐禅を始めると共に、道元の著書や関連文献を読み始めました。 「正法眼蔵」と共に「正法眼蔵随聞記」も合わせて読んでいるのですが、その「随聞記」の八「無常迅速なり、生死事大なり」という文についてお訊きします。 たしか永平寺の山門の木版にもこの言葉が掲げられていたように思いますが、読んでいる水野弥穂子氏(ちくま学芸文庫)の現代語訳では「死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である」となっています。 前半は理解できるのですが、後半の「生死を明らめる」の意味がいまひとつよくわかりません。 ご教示いただけましたら幸いです。
坐禅会をやっているところをしりませんか?インターネットで検索するとかなりあるんですが、毎週土曜日 2時~4時ぐらいに始まるところが無いか?探してます。朝 晩は 親の面倒があり 家事があり平日は仕事してまして・・・なかなか通い続けられる場所がないんですよね。お金はあるので 参加費は気にしてないのですが(すごい高額なら話は別です)読経とかあったらもっとありがたいです。
我が家は臨済宗の妙心寺派です。 臨済宗のお経の本の中には50以上のお経が書いてあります。 お盆やお彼岸にお坊さんに家に来て頂いて仏壇にお経をあげて頂いてるのですが、お盆やお彼岸に読むお経は般若心経、坐禅和讚、舎利らい文、大悲呪などその時によって違うと思います。 ① お坊さんは仏壇の前で 1)お盆の時、2)お彼岸の時にはそれぞれ何を 読んでいるのか? ② 1)お盆の時、2)お彼岸の時に、家族が墓参りに行った時には何を読め ば良いのか? ③ 普段の日に仏壇の前でお経を読むとしたら何を読めば良いのか? 教えて下さい。 父が亡くなってから母は 舎利らい文、般若心経、延命十句観音経、坐禅和讚 を②③の時に 読んでました。 今では私も同じ事をしています。
浄土宗を信仰していますが、禅宗へのコンプレックスがあります。 道元禅師は「曹洞宗なんて言わないでくれ。釈尊の仏教そのものだから」という姿勢だったそうですが、なるほど釈尊が菩提樹下で坐禅(のようなもの?)をして悟りを開いた以上、禅宗が仏教のメインストリームであることは自然だと思えます。 我が浄土宗も「禅宗のような自力行に耐えない人は念仏しましょう」だったらまだ問題無いんですが、法然上人の主張では称名念仏だけが正道だと説くわけで、行者の機根の問題だけでなく行としての坐禅をも退けてしまっている。これはやり過ぎなんじゃない?と思うわけです。 浄土系のお坊さま方はこんな思いになることはありませんか? また、禅宗のお坊さまからのご意見も聞きたいし、もちろんその他の宗派のお坊さまからも広くご意見聞かせていただきたいです。