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問答一覧

これからの人生の生き方

私の父親は学生時代位まで怒鳴ったり虐待?する人でした。 親の事嫌いと言っても、親を大事にしない人はだめって人が多く周りも助けてくれず泣いて我慢する日が多かったです。 そのストレスのせいなのか強迫観念になってしまい、学生時代、見たくないのに人を何度も繰り返し見たりして気持ち悪がられたり、人前で話すのが怖くて話せない時期がありました。 母親はあまり見方になってくれず今は心から信用していません。 一番好きだった母親に見方になってくれず死にたいと良く思う様になりました。 その後、嫌いだから迷惑かけていいと思って実家でお金も入れず暮らしてましたが、数年前にやっと独り暮らしを始め自分でお金を稼ぎ生活するようになりました。 友達も私の事なんてどうでもいいんだろうと思ってあまり会わなくなりました。 今はアルバイトして生活していますが、毎日生きていても楽しくないし、過去の過ちの後悔を繰り返し思い出し死にたくなります。 過去の過ちはいじめられた子を見てみぬふりした事やペットを人形の様に触ったりして嫌がってるのに大切に育てられなくて世話をしたくないと思いながら飼っていたり、人に冷たい事などです。 あとバイセクシャル?なのかなと思うところもあり、私は変人で頭がおかしいし生きている価値がないと思ってしまいます。 でも死ぬ勇気はないと思います。 これからどうやって生きていったらいいと思いますか? 普通の家庭で変わり者じゃなく普通の性格に産まれたかったです。 心が弱っているのですみませんがキツい言い方じゃないと有難いです。 長い文を読んで下さりありがとうございました。

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娘に虐待しそうな自分が怖いです(その1)

※長文のため2回に分けて投稿します。 長文申し訳ありません 私は暴力的・支配的な母親に育てられました。 幼少時は母の気に障ることをしたら殴られていました。覚えている限りでは、 ・習い事をしている態度が悪い(私は自覚なし) ・病気の時、粉薬が喉に引っかかり吐いてしまった→熱があるのに殴られ、散乱した粉薬の上に倒れた ・運動会の徒競走中、吐いてしまい最後まで走れなかったことに怒られた ・なぜ殴られたのかは覚えていないが、殴られて鼻血を出して意識朦朧としている私にヒステリックに叫んでいる ・幼少時は「お母さん、今怒ってるん?」と常に母親の顔色をうかがっていた といった記憶が蘇ります。 また、中学生以上になると「あんたは神戸大学に行って保健師になるんやで」と言われ続け、他の道を歩みたいと伝えると「そんなこと言うなら高校・大学の授業料は出さん」と言われ、保健師以外の道は許されませんでした。 結局、高校生では成績が思うように伸びず神戸大学には入れませんでしたが、一浪して別の公立大学のに進みました。 浪人中、優しかった父が病気で亡くなりました。 大学生になり一人暮らしを始めると「やっと母から解放される」と思ったのに、相変わらず「看護師にはなるな、保健師になれ。もし看護師になるなら公立病院に就職して私とずっと一緒に暮らすんやで」と母は言い続け、勝手にマンションを買っていました。 私は「二度と母とは暮らさん」と心に決め、大学卒業と同時に結婚し、民間病院の看護師として就職しました。 母は「小さい時から習い事いっぱいさせたのに一つもモノにできんかった。何で結婚するんや!アンタと暮らそうと思ってマンション買ったのに!!」と暴言を吐きながらも結婚を許してくれました。 ※その2へ続きます

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娘に虐待しそうな自分が怖いです(その2)

※その1からの続きです。 長文申し訳ありません 結婚は許してくれましたが、私が母の望む神戸大学に入れなかったため「あんなレベルの低い大学しか行かれへんかったもんな」と未だに言ってきます。 現在、娘を授かり私の仕事も順調にできていることに幸せを感じていますが、最近ふとした時に幼少時に暴力を振るわれていたことを思い出してしまいます。 そして、今度は私が娘に同じことをしてしまわないか心配で溜まりません。 夫には母にされてきたことを話し、「いつか私も虐待してしまうかも知れん」と伝えています。 夫は「虐待はせん。大丈夫や。俺も俺のお母さんもいるから大丈夫や」と言ってくれています。 私も母の全てが嫌いではなく、相談に乗ってくれる時はありがたいと感じています。 しかし、私が自然分娩ではなく緊急帝王切開で出産すると「最後まで頑張れんかったから切ってもらったんやろ」と言ってきました。(娘が大きすぎて私の骨盤を通れなかったためであり、医者の判断で帝王切開に切り替えました)。 また母乳だけでは足りずミルクを足していると「ミルクは悪い物が入ってるから足すな」 予防接種に行っていると話すと「予防接種は危険やからアンタにはほとんど受けさせてないんやで」 さらには会う度に「頑張って痩せや」 …と色々プレッシャーをかけてきます。 私が自分の過去を清算することが大事だとは思いますが、なかなか受け止めきれません。 娘に虐待しないためにはどうしたら良いでしょうか。

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葬式のお経

何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。

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父親を亡くした子どもへの寄り添いかた

以前から拝見していましたが、ご助言をいただければと思う出来事があり、、初めて質問させていただきます。 娘の保育園の関係で親しくなった一家の旦那さんが、少し前に若くして病気で亡くなりました。 その家には2人の子どもがいますが、お母さんは気丈にがんばっています。 私もなるべく力になれればと思い、一緒にご飯を食べたり、話を聞いたり(とはいえあまり自分の辛いことを話さない人なので、世間話や仕事の話、子どもたちの話題ばかりですが)、大変なときは子どもたちを預かったり、、というようなことをできる範囲でしています。 子どもたちも小さいなりに(小学1年生と4歳)父親の死を理解しているのですが、特に上の子(男の子)は小学校という新しい環境に入ったばかりということもあるのか、穏やかだった以前とは違って最近はいつもイラだっているか、自分の欲求をまわりにぶつけて、意に添わないと一緒に遊んでいる妹やうちの子をいじめたり暴言を吐いたりしています。 この年頃の男の子は多かれ少なかれそんなものだとも思いますが、やはり寂しさや、どこにもぶつけられないモヤモヤが、怒りやイライラとなっているのではと思うと、かわいそうになります。 お坊様がたにお聞きしたいのは、 このような場合、周囲の大人は小さい子どもたちにどのように接すれば、少しでも安心感をあげられるか、そしてお父さんの死を、どのように扱えば良いのか、ということです。 子どもたちには特に、今までどおり何も変わらない接し方を心がけていますが、もし伝えてあげたら子どもが少しでも楽になれるような言葉があるのなら、伝えてあげたいです。 こうして書いていると、お坊さんではなくて児童カウンセラーに質問すべきことかしら…と思えてきましたが(汗)、色んなお立場からのご助言をいただけたらと思い、質問させていただきます。

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やる、とやらない、ということ。 個性と自我について

こんにちは。 いつもHasunoha問答を読ませていただき、勉強になります。 やる、とやらない ことと、個性は邪魔になるのか、の問題にはまっています...。上手く説明できないかもしれませんが、よろしくお願いいたします。 私は自我が強いです。 そして悟りの境地までは至れずとも、煩悩や自分の、物事を苦しくしてしまう思いを改善したいと切に願っています。 これまで、自分の性格特質や内的向上として、心理的アプローチからの療法を受けていますが、やはり前にはだかるのは“手放す”ことの難しさです。 これは、やらない ことなんだとわかります。何とかしようとしない。私にとっても、ここはとても肝心な部分だと思います。(この質問書いていること自体、もうおかしいでしょうか...。)でも、やらないと、前進もない気もします。 相手も自分もない、真ん中の部分。これは、瞑想などで一体感が得られるので、何となくわかるんです。ですが、ずっとこれでいるということは、自分を捨てて(なくして)生きるということでしょうか。 自分の個性や特徴を見出し、広げ、自己肯定できるようになり、自分の人生を生きていく、ということそのものは、むしろ真ん中でいようとすることには邪魔なものなのでしょうか。相反しますか? できれば私は、どちらでもありたいのですが、これでは欲が強すぎますか? よろしくお願いします。

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自分の生き方・社会について

よろしくお願いいたします。 最近、私の周りでご不幸が会った方や離婚をなさった方、難病が見つかった方そのほかにもいろいろな方がいらっしゃいました。また、そのとき私自身も濡れ衣を着せられたため、親友だと思っていた人に裏切られるなどの悲しい体験を立て続けに経験しました。 それまで私は親の庇護の元にぬくぬくとなに不自由なく過ごしており、また今もそうですが、世間の厳しさや醜さをまじまじと見る機会がありませんでした。 そのため上の経験をして、世の中というのがどんなに危険な場所なのか。 世界は平和で、夢と希望にあふれていて、救いに満ちていて、 人と人は愛し合うために生まれてきて、仲良くするべきで、子供は幸せになる義務があるなんていう甘いことを言うと簡単に足元をすくわれてしまうかを学びました。 二つ質問をさせて頂きます。 一つ目 なぜ世の中は負のもののほうが強いのでしょうか。 喜びや楽しみは後々まで続かず、悲しみや苦しみや恨みは続き、 美しいものを作る力と保つ力は壊す力にいとも簡単に押し負け、 善意は悪意に利用され、悪貨は良貨を駆逐して止まず、 真実と真相は必ずしも同じではないというのはなぜなのでしょうか。 二つ目 上のことを思いながらも自分自身が怒りや恨み嫉みが心の中で渦巻くことがあります。そんな自分が上のことと同じであると考えるだけで吐き気がします。 私自身は笑顔を人に振りまける、自分の周囲が幸せに笑ってくれるような人になりたいです。どうしたらよいでしょうか。 二つも質問をしたうえに長々と書かせていただきました。 もしお目に留まったのならば、よろしければ未熟者である私が歩く道をご教授ください。 失礼いたしました。

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戒名の意味

こちらで戒名を載せていいものか悩みましたが、どなたかアドバイス頂けますでしょうか。 先日、最愛の実母が亡くなりました。長い長い闘病生活、長くはない命と分かっていながらも素直になれず困らせたり、もっと何かをしてあげればよかった、の後悔ばかりの日々を送っています。 私達(姉がいます)に父親はいません。母の葬儀が人生初の葬儀(幼少期に祖母がなくなりましたが記憶に薄いです)となり、姉が喪主となり2人で右も左も分からないまま、ただ母の旅立ちをしっかりととの思いで通夜告別式を執り行いました。 準備段階での事です。母に戒名を頂くために、母の両親を連れ、ご先祖様のお墓のあるお寺の住職さんに戒名のお願いしました。しかし、住職さんはお年を召してるのか全くこちらの話を聞いて下さらず、ただただ同じ事を繰り返し言うのみ。遠方だったので、一度戒名をつけて頂きたいと電話で伝えた際に姉がうまく伝わっていないと思う、と言うので心配になりいざ出向いてみるとすでに戒名が決まっていました。電話で伝えたのは名前と歳のみです。 私達はお恥ずかしながらあまり知識がなくネットなどで調べるのが精一杯です。戒名とは、俗名から一字、人柄から一字、というのは間違った情報でしょうか? 母の戒名は、瑞雲蓮花妙○○大姉霊位、です。○○の部分には母の俗名がそのまま入っています。意味を伺っても、読み方しか教えてくれず、母の両親に訴えても、もう決まったみたいだから、と。 もちろん、頂いた戒名に不満があるわけではありません。ただ、人柄なくして戒名がつくのか、どういった意味合いなのかが知りたくて投稿させて頂きました。 よろしくお願いします。

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身体的弱者と仏教

キリスト教では体が不自由でも障害をもっていても、また病気などによる身体的な理由で体力がなく例えば車いすが必要なひとでも、精神的に思考する能力がある場合、信仰を持ち研鑽を積み牧師になることができます。 仏教の場合、出家をした後の修行が厳しいようですが、仏教僧になるという道はそういった修行ができない身体的弱者には開かれていないということなのでしょうか。 1.例えば麻痺で体の一部がゆっくりしか動かせないひとや、生まれ持って歩けないひとや腕がないひと、声帯に問題があり機械でしか話せないひと、聴覚に問題があるひとなどは、どんなに頭が正常で思考する能力があっても掃除や行ができないため仏教の僧になることはできないのでしょうか? またはがんなどの病気をしたため体力的に限界があり一般にその行をしなければ僧としてみとめられないとされるもの(例えば天台宗なら比叡山での修行など)が体力的な理由でできない場合、それでも出家したいと願う場合、そのひとにはまるで仏教僧になる道は開かれていないのでしょうか。 2.その場合その理由というのは単純に物理的にできないということだけで判断されてしまうのでしょうか?もしもそうならば、それはどう正当化されているのでしょうか?そして、それをかえる動きはあるのでしょうか? よろしくお願いいたします。

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