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hasunoha 問答検索結果 : 「 いない 怒り」
検索結果: 7346件

子供が泣くとパニックになる。

「私なんかがお母さんでごめんね」という気持ちが拭いきれません。 2歳と4ヶ月の2人の男の子の子育て中です。 主人は医師をしており、単身赴任中です。 2人目の出産を機に、持病に加えてひどい産後うつになり、子供にきつく当たることが多々あったので、子供たちがもっとのびのび育つようにと、街中から私の実家のある郊外に引越してきました。とは言え、日中は一人で子育てをしています。 子供を抱えながら早食いして、いつも時間に追われながら、ダッシュで日用品買って、カーナビはいつも子供が好きなアニメを流して、お風呂と言っても顔しか洗わず、湿疹が出来た手で沐浴やオムツ交換、可愛い服を見つけてもやっぱり買いきれずに、周りに迷惑をかけないように泣かせないように頑張って、、、それでもうまくいかない。子供達が泣いたり喚いたりすると、責められた気になってパニックになります。私の要領が悪いせいなんでしょうか。 そばにいる母達にも頼ればいいのでしょうが、申し訳なくて、私がしっかりできないから頼ることになるんだという思いから、平気なふりをしてしまいます。でも本当は、子供達と3人になると情緒不安定で、、、キツイ物言いをしてしまう、ダメな母親です。 怖くなって「もう静かにして!!」と耳を塞いでしまいます。それでも泣き止まず、手が出てしまったり、声を荒げる自分が醜く、こんな醜く怖い私は子供達のそばに居てはいけないんじゃないかと思ってしまいます。 可愛くて可愛くて、子供達が宝物で仕方ないのに、毎日「今日でこの子たちのママをやめよう」「今日まででおしまいだ」と言い聞かせている自分がいます。苦しいです。 子供の泣き声にパニックになる私はおかしいのでしょうか。

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三世の因果について

あるところで、「因果応報はありますか?」と聞かれたので、 「ある」と答えたら、「生まれたばかりの子供が虐待されて殺されました。 その子に責任はあるのでしょうか?」と聞かれ、「ない」と答えたら 矛盾だと攻撃されました。 確かに因果応報は善因善果悪因悪果ですから、あると思うのです。 しかし、三世の因果については、私は否定されるべきと思っていて、それは それが差別などを肯定してきた歴史があるからです。 しかし、その人が言うにはあるえらいお坊さんに聞いたら、「虐待されて 殺されるのは(過去世の行いの結果だから)当然だ。」と答えたというのです。 それに憤りを覚えたのですが、確かに過去に「親の因果が子に報う」 みたいなことは盛んに説かれたとおもうのですが、それが差別を温存 することになったと思うのです。だから、私はそれは否定されなければ ならないと思うのですが、現世の行いで来世の行く末が決まるという 輪廻転生がある以上過去世の行いで現世が決まっているともいえるわけです。 私の信仰は浄土宗ですが、それがベースにあり阿弥陀様の誓願により西方極楽 浄土を願生し、念仏するわけです。なので三世の因果を否定すべきか肯定 すべきか迷っています。どう考えたらいいのでしょうか?

有り難し有り難し 64
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病苦と今後の進退

私が小学校2年生のころ、目の病気にかかってしまいました。 それから今まで10年間の間、手術を繰り返し、キツイ薬を打ち、なんとか病気が悪化しないように生きてきました。 しかし、つい2ヶ月ほど前に右目が失明してしまいました。残った左目も状況は芳しくありません。 それまでは私が楽観的な性格だったこともあり、必要以上には気にしないようにしてきましたが、失明したことにより、やっと私の病気の深刻さに気づき、それからというもの、これからのことを悪く悪く考えてしまいます。 それから私は、高校に通うのをやめてしまいました。 それは高校を卒業し、大学を出て、就職したとしても、ひとたび目が悪化してしまえば、すべて水の泡になってしまうのではないか? と考えるようになってしまったからです。 しかし、もしこのまま学校に通うのを辞めたとしても、先に進めないのはわかってはいるのです。 先のこと考えすぎても仕方のないことだというのもわかってはいます。 しかし、わかってはいても、どうしようもない不安感が勝ってしまうのです。 家族は、辛いのなら辞めてもいい、これからのことは病気を少しでも良くしてから考えればいいとは言ってくれます。 けれど、その言葉に甘えても良いのか?もしこのままこの言葉に甘えたら自分はどうなってしまうのか。 もし高校を中退したことが知り合いにばれたのなら、みんなは僕を軽蔑するのではないかと思ってしまいます。 家族は僕のことをわかってくれても、祖母やいとこや親戚は、僕をどう思うのか? そう考えると私は一歩先に進むことも、一歩後退することも、立ち止まることも出来ず、宙ぶらりんの状態が続いています。 こんなことは自分自身で決めるのが一番良いことはわかっています。しかし、どうにも足を地につける勇気がないのです。 私はどうすれば良いのでしょうか? 読みづらい文章ですみません。

有り難し有り難し 19
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亡き母が夢に出てきました

以前お墓のご相談にのっていただきましたものです。 その節はありがとうございました。 結局、以前よりお世話になっているお寺様の合祀墓に両親共入れさせて頂きました。 きっと両親も喜んでいると思いたいです。 そんなある日、初めて母が夢に出てきました。私は嬉しくて お母さん!と走り寄りました。 母はちょっと困った顔をしてため息をつきながら お母さんね、今はもうどこも痛くないし辛くないんだ。もう辛いことは思い出したくないんだ、わかるよね? というようなニュアンスの話をしました。私は そうだよね、ごめんね と母の元を離れました。 (私の顔を見ると現世で辛かっだことを思い出すから嫌だ と捉えました。) それから何度も母がいる設定の町や家(夢の中でいつも同じ)に行き、街中を探し、家の中を覗くのですが母は居なくて。 その夢を見てからどうしても仏壇に手を合わせる気が無くなってしまいました。 生前、母はなぜか私のことを全く信用せず、いつも頭から叱りつけるような人でした。自分で言うのもなんですが真面目でいい付けは守る学級委員タイプの子でした。 好かれたい一心で、母のところに行き、生活の手配をしたり、お金を渡したりしてきました。入院した時は片道一時間かけて見舞い、死後の片付けも一人でやりぬきました。 で、こんな夢を見てしまい、母の本質を見た気がしてならないのです。 生きていても、私がいかにダメか語ることしかしなかったとは思いますが、死んでもなお 母は私が嫌いなんだろうか?だとしたら 私の家に仏壇があるのは嫌なのか?とか色々考えてしまいます。 母が好きなお菓子や花を見つけると、つい仏壇にと持ってきて、はと気がつくのです。嫌なのかなと。 たかが夢、されど夢で辛いです。 母と娘という関係性に自信がなく怖くて、自分の娘が今反抗期ということもあり 親として全く自信がなくなっている状態です。

有り難し有り難し 15
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「感情を感じること」と「物事を評価しないこと」

以前にも質問にお答え頂き、その節はありがとうございました。 hasunohaで日々仏教の教えを学ぶ中で、どう考えて良いものかわからない点がありますので、質問させてください。 私は今、うつ症状等ため精神科に通院しています。 その治療の一環として、カウンセリングも受けています。 その中で、臨床心理士より「感情を抑制していることが無気力や不安感に繋がっている」とのことを言われました。 感情を感じて表に現すことが、治療方法のひとつであると言われました。 私は確かに、自己犠牲的な考えや自分に自信がない部分があり、素直に自分の感情を出せるようになれたらいいなと思いました。 と同時に、仏教では、物事を評価しないでありのままを見ることが大事だと学び、それも確かにそうだなと思いました。 私にはどちらの考え方もとても納得のいくものなのですが、 自分の感情を感じることと、物事を評価しないことは両立し得るのでしょうか。 例えば、私が今寂しいと感じることは、評価していることになるのでしょうか。 仏教の教えでは、寂しいと感じてはいけないのでしょうか。 どのように考え、どう自分の心を扱えば良いのか、お教え頂ければ有難く存じます。

有り難し有り難し 49
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滅するべき煩悩とはなんでしょうか

よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。

有り難し有り難し 53
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他人を気にしすぎてしまいます

よろしくお願いいたします。 私は、常に他人からの評価を気にしてしまいます。 いろいろなことにそれは反映されますが、たとえば趣味で描いているイラストです。 自分ではとてもうまくできたと思っているし、実際以前に描いたものよりもずっと出来がいい、というものでも、思うような評価を貰えずに苦しむことが多々あります。自分と同等、もしくはそれ以下(であるように思ってしまいます)の作品が自分のものより評価されている、ということがさらに自分を苦しめます。 自己評価と他者評価とのギャップに苦しんでいる、と言えばいいのでしょうか。 しかし、絵を描くのは楽しく、やめたいとは思いません。 自分は自分、他人は他人、と思えればいいのでしょうが、そう理屈ではわかっていてもできません。 たとえば、自分というものを否定され続けてきたならば、生きていくために、肯定されるために「他者」を取り入れるほかどうしたらよかったと言うのでしょうか。 というのも、私は不美人ですが、小中の頃から勉強も運動も芸術も、そこそこにできたのです。しかし、勉強も運動もできて部活も強く、顔が可愛くて男女問わず人気者の女の子が幼馴染みとして長年隣にいた、という過去が私のこの人格形成に影響しているのではないか、と最近になって思うようにもなりました。 まとまらなくてすみません。 毎日苦しいです。助けてください。

有り難し有り難し 69
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生き霊について

私は、兄弟差別され育った為に兄が嫌いでした。16才の時に数回イタズラされそうになり、両親に打ち明けましたが「知らない!」と言われ家に寄り付かなくなりました。 兄は、ニートで母の年金で生活して来ました。(父が亡くなってから) 母が認知症になり、同居を望んだ為に「兄の面倒をみる為の同居はしない!」と言った所、「兄の事は関係ない。自分が不安になり、○○ちゃんと一緒に生活したい。」と言われ同居する為に引っ越しをしている最中に転倒し亡くなってしまいました。 言い残した事がないか、霊能者に相談に伺うと、母は謝っている。死んだ事も理解している。と言われ、兄に凄い霊が憑いていて、一人にすると自殺する。と言われ、兄を連れて行くと憑いているのは、私の生き霊と蛇との話しでした。 兄と同居していると、昔の事が蘇り入浴、就寝もゆっくり出来ず、仕事を決めた事で別居する事にしました。 霊能者に、兄を追い出した後、「あなたに沢山の厄がある。人を許す事も必要だけど、あなたは無理だから、もうどうでもよい!母親が泣いている。」と言われました。 兄と別居し、今現在は、歩み寄る為に週末は兄が新居に来る生活です。離れて暮らす事で穏やかに話したり、心配する事もあります。 生き霊を憑かないようにするには、どうしたら良いでしょうか? 両親が安心し天国へ行ける為には、どうしたら良いでしょうか?

有り難し有り難し 140
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大人ってなんなのでしょうか?

私はもうすぐ20歳になります。 しかし、それを受け入れることができません。20歳になるのがこわいのです。 実感は0歳が1歳になるのとなんら変わらないのかもしれません。毎年のように、家族や友人から「おめでとう」と言われ、ケーキを食べて、また1日が過ぎるのかもしれません。 しかし、私にとって20歳の区切りはとても意味のあるように思えてならないのです。 このことが頭を巡り始めた頃は、おそらく「責任や就職などの大人になったら乗り越えなければならない壁から“逃げたい”」という気持ちがあったのだと思います。 しかし、今はその気持ちよりも「大人になったら見えなくなるものに対する“恐怖”」が強いです。 私にとって大人は汚いもののシンボルであり、自分はこうなりたくないもののシンボルです。大人になったら見えなくなる何か大切なものがあるはずなのです。 なので私は「大人とは何か」という疑問に答えを出そうと考え始めました。 その答えが分かれば、大人を受け入れられる何かが手に入るかもしれない。そう思います。 しかし、一口に大人といっても様々です。未成年の子供を指して「あいつももう大人だなぁ」という親もあれば、いい年した部下に「子供じゃないんだから!」と怒鳴りつける上司もいます。 多分「大人」と「子供」の境界はとても曖昧なのかもしれません。 なので大人のお坊さんたちに何か「大人とは何か、どう定義するか」のヒントをいただきたいのです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 165
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生きることは正しいですか?

先だって、「風俗経営者の息子として」というタイトルで質問させて頂きました。真摯な回答をありがとうございました。 あまり間をおかずに恥ずかしい限りですが、もう一つだけ質問がございます。 生きることは、そもそも正しいことでしょうか? 私は小学生の頃、宮沢賢治が好きでよく読んでおりました。その中でも好きな童話に「よだかの星」があります。よだかという醜い鳥が、迫害と、なによりも生きるために他の命を犠牲にすることを悲しみ、自らを燃やして美しい星になる話です。そんなこともあって、幼い頃からぼんやりと「他人のために迷わず自分を犠牲にできる人間になりたいな」と思っていました。 それから十数年が経ち、私はすっかり凡俗な人間になってしまいました。他人より優れたいと願い、魅力的な異性と交わりたいと欲し、美味しいものを腹いっぱい食べたいといつも思っています。 幸せになりたくて、たまらない。惨めなまま死にたくない。一般の人よりは何倍も死にやすい難病であることも手伝って、そう思うことをやめられません。 しかし、こうも思います。私が幸せになることは、他の人が掴めるかもしれなかった幸せを奪うことではないか?と。 私が何かを食べなければ、それを他の誰かが食べられたかもしれない。私があるところに就職しなければ、他の誰かががそこで働けたかもしれない。私がある女性と結ばれなければ、彼女に恋していた他の男が結ばれたかもしれない。私が公的な扶助を受けなければ、税金は他の人を助けたかもしれない。 私が生きていなければ、私がこの世界から奪い取る全ての幸せは、他の誰かのものだったかもしれない。 そう考えると、私が生きていることはあまりに非道徳的なことのように思えるのです。 私が死ぬことは、立派で、道徳的なことじゃないのか?むしろ周りの人たちに甘えて、生にしがみつくことこそが煩悩であり、振り払うべきものなのではないか?私は度々そう考えるようになりました。 自分でも、過激な考え方である自覚はあるつもりです。しかし、「自分はあまりにもみっともなく生に執着している」という感覚がどうしても拭えません。 自分が今すぐ死ねば大勢の人が助かるとしても、自分の幸せを求めて生きることは正しく、道徳的なことでしょうか? 取り止めもなく幼稚な悩みではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 55
回答数回答 3