うつ病(持続性気分障害)の治療を10年近く受けていいる者です。 先だっては、お坊様方からのメッセージをいただきありがとうございました。世の中には良い人もいると分かり嬉しかったです。 前回の質問よりも「命」について突っ込んでお尋ねします。 生きているのが苦しくて苦しくて楽になりたいです。 死にたいと思うことがあります。 【 自分の命であっても、なぜ命を絶ってはいけないのでしょうか? 】 「生きたくても生きれない人がいる」「生まれてこれなかった命がある」「困る人がいる」「悲しむ人がいる」「ひとつしかないから」「死ぬのは怖いから」「ご先祖様からの預かりものだから」「命のリレーだから」「なかなか人間に生まれるチャンスはないから」などの答えに頭では理解出来ます。 しかし、死について考えているときは負のスパイラルの真っただ中にいるので、自殺のストッパーに全くならないのです。 本で読んだのですが、「お釈迦様も生老病死を苦しみとおっしゃった」そうですよね?つまり生きることも苦しみ。 だから修行して解脱し、二度とどこの世界にも生まれないようにするのですか? もしそうなら個人的にはしっくりきます。(でも結局は生きていてもつまらないですよね。) こんな質問をしていますが、本当は死にたくないという自分もいると思います。死にたがりの生きたがりなのでしょう。 お答えをいただけるとありがたいです。よろしくお願いいたします。
過去に同じような質問がありましたら申し訳ありません。 (その場合は、過去の質問タイトルを教えていただけるとありがたいです) 私(一般人)ですが、仏教が好きで、お経を唱える事に関心があります。 誰が(1)、何に(2) お経を唱える(あげる)のかによって、なぜ、どうなるのか知りたいです。 (1)お坊さん か 一般の人 かで次の2ア~カの対象にお経をあげて違いはありますか? (2)ア.お寺で貰ったお札、イ.家で特に祀っている仏画や仏像、ウ.仏壇の仏画や仏像、エ.仏壇の位牌、オ.お墓、カ.お寺の本堂の仏画や仏像 「日蓮宗の南無妙法蓮華経は、誰があげても同じだよ」と聞いたことがありますが、それならお坊さんの意味が無いような? そうかと思えば、真言宗のお寺で聞いたのは「お坊さんは仏様との橋渡しだよ」とも。では、一般の人が唱えても意味がないのでは? 「仏画や仏像にお唱えすると、誰がお唱えしても仏様は喜ぶので、それが功徳になる」とも、聞いたことがあります。 誰が 何に お経を唱えると、なぜ、どのような効果があり、どうなるのかを知りたいです。 出来れば、密教(真言宗か天台宗)の方のお話と、日蓮宗の方のお話が聞けると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
初めて悩みを書きます。 わたくしは、中学生の時から死恐怖症(タナトフォビア)に悩まされています。 簡単に説明しますと、自分の意志とは無関係に「自分が無になる」という恐怖が脳に入ってきます。医療用語で強迫性障害に分類されます。 一年くらいしっかり働けても、季節や体調の変化でタナトフォビアが重症化し、奇声をあげる、怖くて動機がする、それを落ち着かせるために自傷行為をして生きてる事を確かめる事が続き、それに合併して鬱になり、外に出る事も誰かと話すこともできない日々が続きます。 この繰り返しを何年もしてきたため、会社に就くこともできず、終いには今、無職です。 ただ、死が怖い=生きてればいつか死ぬという恐怖も同時に兼ね揃えています。 つまり、生きてることも怖いんです。 そして今、私は薬で症状を抑えています。 薬で抑えることが出来ると、死ぬことが、酷い時よりは怖くなくなります。 そこで、私は「今なら死ねる」と思ってしまうんです。 生きてる意味も分かりませんし、 死ぬ意味も分かりません、 この世は修行だとか、死んだあとは天国だとか、そんな人間が作り出したエゴや、綺麗事は私には意味がないんです。 「死んだら生まれる前に戻る」という考えがどうしても抜けません。 私は約一ヶ月後、死のうと考えてます でも本当は生きていたいんです 生きてる素晴らしさや奇跡は痛いほど知ってます。 心の矛盾に日々悩まされてます。 どうか助けてください。
悩みが多かった時、お釈迦さまは静かに座り自分の心の隅々まで不安を追い掛けて徹底的に潰していったと聞きました。 具体的には、どのようなことをしたのでしょうか。 同じようなことをしようとは思ってはいませんが、知識として気になったので、投稿しました。
無分別智をわかりやすく教えて頂けませんでしょうか? 特に蹴落とし社会における無分別智の実践をお坊様はどのようにお考えなのでしょうか? お忙しい中、恐れ入りますが、ご回答を宜しくお願い申し上げます。
浄土真宗で追善供養をしないのは何故ですか? 「追善供養は自力だから」「亡くなった人はみんな極楽に往生して供養する必要がないから」などなど色んな意見があるみたいですが、どれが本当ですか?
初めてメール書きます。 人間て何の目的があって生きるのでしょうか?。 私は、会社が経営がまずい事を知って、転職したの ですがそこで、「人間てなんの為に生きてる」とつく づく感じたのですが一体何の為でしょうね。 後お聞きしたい事が1つあります。今、50歳になり ますがこの歳でお山に入るのは、遅すぎるでしょうか?。 僧侶が遅すぎるなら他の道はないでしょうか?。お寺に 住み込みで働くとかありませんでしょうか、またできたとして そこで人の為に働くことは可能でしょうか。 ご教授お願いします。ちなみに私は、独身です。
日本には多くの宗派がありますよね。いままで私はお坊さんに対して、「おしょうさん」と呼んでいたのですが、全宗派の全部のお坊さん・・には使えないことを最近になり知りました。 和尚-Wikipediaによりますと・・・ 1.和上(わじょう) 律宗・浄土真宗(儀式指導者に対してのみ) 2.和尚(わじょう) 法相宗・真言宗など 3.和尚(かしょう) 華厳宗・天台宗など 4.和尚(おしょう) 禅宗・浄土宗・天台宗など 5.和闍(わじゃ) さらにさらに、 6.上人 7.聖人 8.そのた 調べれば調べるほどゴチャゴチャしてきました。 みなさんの宗派では、上記1~8のどれをお使いになりますか?祖師にだけ、宗祖にだけ、始祖にだけ、ふつうの僧侶に対して・・などお教えねがえればと思います。
仏教について調べていると、葬式とその後の供養が最重要トピックの用に扱われているのが不思議です。 親や先祖の供養ってそこまで大事なのですか? 血縁ってそこまで重要なのかしら? 先祖供養は儒教ではないのかしら? いえ、私も木の股から生まれたわけではないので、縁なり因果なり何かしらあるのだろうとは理解はしていますが。 この世に産み落としてくれたことは有り難いのですが。 血のつながりばかり大事にしなくてもそこかしこに縁はあると思うのです。 個人的に家族の縁が薄いこともあり、 親や先祖のことはよく知らず供養もしていません。 私の死後供養してくれるものもおりません。 しかしそんな私が死んだ時も 仏さまなら何とかお慈悲をくださるのではなかろうか というのが信仰を持ちたいと思った動機なのです。 「私と仏さま」の話ならわかる気もするのですが「私と先祖と仏さま」の話がよくわかりません。 先祖供養が必須なら、親のない人間は仏さまに救っていただけないのでしょうか。 そもそも私の理解が間違ってるのかもしれませんが、 苦しみの多い輪廻の輪から解脱するため修行をしよう、また大乗仏教においてはいろいろな仏さまの力を借りたりおすがりして解脱にいたろう、 というように仏教的な死生観を解釈しています。 修行が足りず仏さまとの縁も結べなければ輪廻の次の段階に進むでしょうし、 宗派によっては生前から成仏しているわけですし 浄土系の宗派では阿弥陀さまのお慈悲によって極楽往生できるでしょうし…。 死後、死者の行く末に関して、生者はどれだけの干渉ができるのだろうか、というのが疑問です。 それは死者本人と仏さまの間の話ではないのかと思います。 そうすると供養とは何のためにするのでしょうか。 お教えをいただければ幸いです。
どんな宗教やアドバイスでも、相手がそれを理解し考える力を持っていること前提になっていますよね。 仏教も例外ではありません。 しかし世の中には先天的または後天的理由によりその力を持ち合わせていない人もいます。 理解し考える力を持っていない者がもし道を誤った場合、仏教はどの様にアプローチするのですか? そういった人たちに救いはあるのでしょうか?
少し前までは天国や極楽浄土があるのが死後だと思ってましたが身内の死以降そう思えなくなりました。死ねば骨になり土に帰りそれでおわり。 天国や極楽浄土の世界はどの宗教にも共通してあり古代エジプトでは来世で甦るための肉体が必要だからミイラにし復活をするという概念がありました。でもそれはすべて現世の人が作ったもので実際みたわけではありません、臨死体験などの話もありますが夢なのか区別がつきづらく天国や極楽浄土が垣間見れていい死後世界だったという話はきいたことがありません。 霊柩車内部にも極楽浄土の絵が描かれ死者が三途の川を渡れるように六文銭をもたせたりする風習があります。ただそれもすべて現世の人が作ったもので実際そうかは誰もわかりません。 身内がなくなり何年もたち、やはり死んだらこの世から存在がきえ手元に骨が残され、墓という形あるものに集約され彼岸に墓参りするという残された現世の人のためで、墓も遺骨をいれる場所としか思えなくなりました。 位牌は魂いれをしますが私にはただの板にしか思えず遺骨だけか故人そのものでその先の死後世界は今まではあるように思えたけどそれは無いのだなとしか思えません。身内を亡くすと死がどういうものかよくわかります、人がいなくなるというのがどいうことかが。なので現世にいる時がすべてて誰もみたことない死後世界は存在するとはもう思えません。 広い世の中、少なからずにたような考えもった人はいるでしょうが誰にでもできる話じゃないので周りに同じ考えの人がいるかきける時があればきいてみたいです。
こんにちは。いいえ、こんばんは。 昨日、恋愛相談をさせていただいて、返信があり、感謝しております。 そこで、かっこいい男とはどういう男か? お坊さんたちは、どうお考えなのか? お伺いしたいです。 私の中で、30程、かっこいい男の鉄則があります。 私の考えるかっこいい男というのは、 ・己に徹し人のために生きる。自分を殺し、他人を生かす。縁の下で目立たない様、輝きを放つ人。 ・自分にもっと厳しく、人にもっと優しく出来る人。 ・当たり前のことを、馬鹿みたいにちゃんとできる人。 ・ブレない。己を貫ける人。 ・腹を痛めて生んでくれたお母さん、養ってくれたお父さんに「有難う」が言える人だと思います。 かっこいいとは、こういうことだ。 紅の豚ではありませんが、お坊さんたちの、「強い人、かっこいいと思える人」とは、どういう人間像かを、t抽象的ではありますが、ご教授ください。 お手数をおかけしますが、宜しくお願いします。
元来たところへ還りたいです。 20代後半くらいからふと あまり生きることには 執着がないと感じます。 ある意味もうある程度生きてきて 幸せも感じ人生に満足してしまったのかもしれません。 自分はなんのために生きているのか ただ生かされているだけだ思うのです。 諸行無常で現状がずっと続くわけではないと頭では分かっていますが生きることも考えることも悲しい辛いと感じることにも疲れ果ててしまいました。 感情を捨てられたら良いのですが 人間そんな簡単に感情を 捨てられるわけもなく どうして神様はこんなに感情を与えたのか 人生は修行だと思っていますが もう辞めたいのです。 死にたいとゆうより 生きることを止めたい。 ただ、ただ元来たところへ還りたい とゆう気持ちが強いです。 もし生かされるなら人間以外の物でありたい。 無機質な物でありたい。 自分には人間に生まれてくるのが早かったのではないかと思います。 自分には自分であることが 人間でいることが辛くしんどいです。 早く人間を辞めたい還りたいと思います。 痛いことが嫌だと思うだけで 死ぬことも恐ろしくないのです。 自分の中で死ぬことは解放だと思っています。 こういった思考からなのか 自分の価値も見出せません。 自分を幸せに出来ない人間が周りを幸せにできるわけがないと思います。 還りたいと思うことは おかしいのでしょうか? 人生とゆう修行から逃げることは いけないのことなのでしょうか? 修行に疲れ果ても 耐え忍ぶしかないのでしょうか? ただ流れに任せて生きていくことすら苦痛です。 支離滅裂な内容かも知れませんが お答え頂けると幸いです。
はじめまして 誰にも話せないのでこちらでお話しさせてください。 二年前に亡くなった犬の死を受け入れられません 本当は生きられた命を私が奪いました あのこの異変に気づけたはずなのに 仕事に行ってしまい一人寂しく逝かせてしまいました それから別れることが怖くて仕方ありません 別れのない場所へいきたいです 今のこもいつか私の前から消えてしまうと 考えただけでなんともいえない恐怖が襲ってきます もっと強くなりたいのにどうしたら依存せず強くなれますか
こちらで戒名を載せていいものか悩みましたが、どなたかアドバイス頂けますでしょうか。 先日、最愛の実母が亡くなりました。長い長い闘病生活、長くはない命と分かっていながらも素直になれず困らせたり、もっと何かをしてあげればよかった、の後悔ばかりの日々を送っています。 私達(姉がいます)に父親はいません。母の葬儀が人生初の葬儀(幼少期に祖母がなくなりましたが記憶に薄いです)となり、姉が喪主となり2人で右も左も分からないまま、ただ母の旅立ちをしっかりととの思いで通夜告別式を執り行いました。 準備段階での事です。母に戒名を頂くために、母の両親を連れ、ご先祖様のお墓のあるお寺の住職さんに戒名のお願いしました。しかし、住職さんはお年を召してるのか全くこちらの話を聞いて下さらず、ただただ同じ事を繰り返し言うのみ。遠方だったので、一度戒名をつけて頂きたいと電話で伝えた際に姉がうまく伝わっていないと思う、と言うので心配になりいざ出向いてみるとすでに戒名が決まっていました。電話で伝えたのは名前と歳のみです。 私達はお恥ずかしながらあまり知識がなくネットなどで調べるのが精一杯です。戒名とは、俗名から一字、人柄から一字、というのは間違った情報でしょうか? 母の戒名は、瑞雲蓮花妙○○大姉霊位、です。○○の部分には母の俗名がそのまま入っています。意味を伺っても、読み方しか教えてくれず、母の両親に訴えても、もう決まったみたいだから、と。 もちろん、頂いた戒名に不満があるわけではありません。ただ、人柄なくして戒名がつくのか、どういった意味合いなのかが知りたくて投稿させて頂きました。 よろしくお願いします。
3年位前に、お坊様がTVで『とらわれない心が大事』と話されてるのを観てから、ずっと気になっていることがあります。 『とらわれない心』というのは、自分の欲や我を手放して、人と争わずおだやかに生きること、ではないかと私なりに受け止めました。 でもそれで、『私はこうしたい、こうなりたい』という目標があって、人と意見がちがったら、『私はこうしたい』と言うのは『とらわれている』のでしょうか? 意見がちがうときは自分か相手が譲るか、全く別の案を見つけるかだと思うのですが、いつも自分が譲るスタンスなら私はその人のいいなりになってしまいそうです。 自分の欲というのは望みであり、自分のあかしでもあると思います。 その欲=望みがなるべく汚いものではなく、きれいなものであるように願っていますが、他人から見たら『我』でしかないのでしょうか? とらわれない=思い通りになるようコントロールしない、ということだとしたら、将来に期待はしないでただのぬけがらになってしまわないか疑問です。 私も未熟ながら、人にやさしくありたいと願っています。相手にとって安らげる存在になりたいです。自分と相手をともに大切にして、なおかつ『とらわれない』境地って私にはまだわかりません。 どうか、私に道を説いてくださいますよう、お願い申し上げます。
私の地元に全国的に有名なお寺があるのですが、そこのお坊さんが超高級車であるフェラーリやマクラーレンを長年所有していると知りました。最近は中古価格が1億円を超えることもあるマクラーレンを所有しているそうです。親に聞いて見たところ、昔から地元では有名だったそうです。 私の中でお坊さんと言えば質素な生活をするのが当たり前?だと思っていたので大変驚きました。超高級車を乗り回すなんて煩悩の塊ではないかと思うのですが、お坊さんが超高級車を所有することは仏教の教えやお坊さん達にとって問題のない事なのでしょうか?
私の質問はお坊さんアンチのように思われるかもしれませんが、これからもお坊さんにはお世話になっていきたいと思っておりますので、不安を解消したく質問をさせていただきます お坊さんはお施主様の法事で何を思って、お経を読んでいるのですか? ただお経を読んで、法話をする作業になっているだけのような気がしてしまっています。 さらには「供養します」「供養してください」供養供養言いますけど、結局の所「供養」ってなんなのですか? 宗派問いません、この質問を見て逃げるような和尚様の言葉はいりません なんなら丁寧なお言葉で書かなくても大丈夫です!! お坊さんであっても一人の人間です、私も過度な期待はしておりません、実際に思っているお言葉をください!! ハスノハにいる和尚様方を信じております 誠に我儘で勝手ですがよろしくお願いいたします。
どうしても意味・ユーモア感覚が分からないので、ここでお坊さんに直接質問をさせて頂きます。 いま私は、とある掛け軸について研究をしています。ですが、私は仏教の世界を深く知るようになったのは、つい最近になってからであり、そのせいで仏教世界のユーモアが分かりません。 研究している掛け軸には、掛け軸の下の方に、『十六羅漢のうち十人が水が足首らへんまでしか来ていない海(若しくは川)の浅瀬を渡って、上の方を見上げている』描写があり、左上の方に、『龍頭観音と思われる龍が一匹と、龍の口らへんに、モワモワした煙と共に、お花のような(?)ものを手に持っている着物を着た女性が一人立っている』描写があります。更に、この空の方へ登っている龍には、十六羅漢のうち六人が乗っており、そのうちの一人が釣り糸みたいなもので蛸を海から釣っています。 十六羅漢が川ではなく、海を渡っているのは、蛸が海にしか生息していないからという理由で、海だと推測しました。 この絵には漢詩が付いているのですが、以下のようなものです: 是秋釈子袿第響 無転十六蛸入道 為老先生博祭無事居楽 遊印には→星洲晩漁 と書いてあるはずなのですが(あまりきちんと読めませんでした)、漢詩の意味は全て分かりませんが、ここには蛸入道としっかり書いてあります。 以上のことから、私は、蛸とお坊さんの頭を掛け合わせて、笑いを取るような絵だと見受けました。 が、私の感性では、釈迦の弟子たちで笑いを取るという感覚が全く分からないのですが、ひと昔の日本では(明治・大正あたり)、このようなことはよく起こり得たのでしょうか?またこのような、ブラックユーモア的な掛け軸は、よくあったのですか? ちなみに、私の推測はあっていますでしょうか?(蛸とお坊さんの頭を掛け合わせることで、笑いをとるという感覚) 若しくは、他に何か意味があるのでしょうか? 漢詩の意味も分かりませんが、このセンスが本当に意味が分からなくて、大変困っております。どなたか詳しく説明して頂けますと幸いです。 掛け軸の絵を写真で添付できないので、絵そのもののイメージがし辛いと思いますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ちなみに、この掛け軸は、近代に描かれました。
而今とは今を生きることだと認識しています。 しかし、どんな人でも何かを思い出したり、予定を立てたりすると思います。 そして、記憶や予定は、過去や未来そのものだと思います。 刹那に生きることと上記のことが矛盾しているように感じます。 この矛盾はどう解いたら良いのでしょうか? よろしくお願いいたします。