私は小学生の頃、大阪のUSJ近くのホテルで恐らく心霊体験をしました。 それ以来、私は今でも霊の存在を信じているのですが私個人としては、どちらも科学で証明できると考えています。 よく霊や死後の世界は非科学的と世間でも科学の世界でも言われていますが、その多くはしっかりと調べもしないで根拠も無いものばかりです。 そもそも非科学という言葉が非科学的ではないのかと私は思ってしまいます。 死後の世界や転生に関しては近年、量子物理学の学者が科学的に存在する可能性を真剣に研究しています。 私は霊や死後の世界などが今まで立証できなかったのは科学が未熟だったからではないかと考えているのです。 ですので、将来、立証できる日が来るのではないかと私的には思います。 そこで質問です。 お坊さんは、霊や死後の世界をどの様な存在だとお考えなのでしょうか? また、もし、今後この分野に科学のメスが入る場合、お坊さんとしては、どの様に思われますか?
私は「とても真面目で冗談が通じない」とよく言われました。 私には、生まれて間もない弟がいました。 当時小学5年生だった私は、弟をあやしたり、おむつを替えたり、 時には夜泣きに気づいて親を起こしたりと、子供ながらではありますが一生懸命育児(?)に協力していました。 ところが、4ヶ月になった頃に、原因不明のまま亡くなりました。 とても悲かったのですが、それと同時に怒りが こみ上げてきてました。 「なぜ生まれて間もない弟が死ななければならなかったのか 神や仏がいるのならば、なぜ弟を選んだのか。 弟を殺したのは神や仏だ、私は絶対に信じない」 それから神や仏・宗教を一切信じなくなりました。 学生時代は性格が仇となって友だちもできず、 いじめの対象になることもありました。 社会人になる頃にはだいぶ和らいで、それなりにコミュニケーションを取れるようになりましたがうつ病を発症。心療内科に通いながらも 「この世界はとても生きにくい」 「死んだほうが楽になれる」 「生まれてきた意味が分からない」 と常に考えながら生きてきました。 しばらくしてから、某動画サイトで般若心経を 聞く機会がありました。 最初はネタ動画として見ていたのですが、 現代語訳がコメントされていました 「超すげぇ楽になれる方法を知りたいか?」 「生き方は何も変わらねぇ、ただ受け止め方が変わるのさ」 それらを何気なく見ていると、涙が止まらなくなりました。 物事が良くも悪くも転んだ時は、それが運命だと 半ば諦めながら生きてきました。 今まで思ってきた宗教観は間違いではないのか?今まで否定してきたけど、こんな私でも信じていいのか・・・? 神や仏を崇めるだけが宗教ではなく、もっと身近なところに「答え」みたいなものがあったのではないか?と考えるようになりました。 しかし、神や仏・宗教を信じないと思い二十数年経ちます。 今更考えを改めるのは、侮辱することになるのではないかと思い 申し訳ない気持ちで一杯でいます。 この世に神や仏がいるのかは分かりません。 しかし、般若心経を聞く(読む)と少しだけ見えるような 気がしました。 知恵も知識もない私ですが、少しだけ信じても 良いのでしょうか? わかりにくい長文になりましたが、 説教していただければ心がとても救われるような気がします。 何卒よろしくお願い致します。
こんにちは。 半年前から趣味として座禅を朝晩40分ずつやっています。 最近はお寺さんでも座禅をするのですが、悩みがありご相談させて頂きました。 1.座禅中に時間を気にしてしまう自分がいる事。 半跏趺坐で両足の痺れが出るのが開始後30-35分ほどなのですが、ここ最近は上手く座れてないのか、2個目の質問である足を組み直すのと並行して時間を気にする自分がいます。その時の感情面が、足が限界、まだもうちょっと大丈夫、あと何分やろ?できれば足を組み直さないで一炷終わらせたい、いつになったら慣れるんやろ。 2. 50分間の座禅中に足を組み直さないと両膝、左肩が痛くて仕方ないのですが、我慢してたら慣れるものなのか。共に座禅をしている方達は静かに座れているのに何故自分だけは我慢できないのかと自己嫌悪してしまいます。 3. 趣味として座禅を行っていた時は苦痛だとは思わなかったが、一つの修行だと考え座禅を行うようになってからは苦行、座禅が嫌いとまでは言わないが辛いと思ってしまうようになった。心の持ち様or考え方で変わるのだろうと思うが、何が正しいのか分からない雁字搦めの状態になっています。 座禅というものを真面目に捉えてちゃんとやらないとと思ってるから苦痛と思うのか、もっと気楽に座ればいいのか、考え方やコツなどありましたら教えて頂きたいです。 よろしくお願い致します。
40後半の知り合いの曹洞宗の坊さんが赤い袈裟着てました、お寺は室町時代からあるそうです。袈裟の色は坊さんの階級と聞きました、どの位でしょうか?
仏教について調べていると、葬式とその後の供養が最重要トピックの用に扱われているのが不思議です。 親や先祖の供養ってそこまで大事なのですか? 血縁ってそこまで重要なのかしら? 先祖供養は儒教ではないのかしら? いえ、私も木の股から生まれたわけではないので、縁なり因果なり何かしらあるのだろうとは理解はしていますが。 この世に産み落としてくれたことは有り難いのですが。 血のつながりばかり大事にしなくてもそこかしこに縁はあると思うのです。 個人的に家族の縁が薄いこともあり、 親や先祖のことはよく知らず供養もしていません。 私の死後供養してくれるものもおりません。 しかしそんな私が死んだ時も 仏さまなら何とかお慈悲をくださるのではなかろうか というのが信仰を持ちたいと思った動機なのです。 「私と仏さま」の話ならわかる気もするのですが「私と先祖と仏さま」の話がよくわかりません。 先祖供養が必須なら、親のない人間は仏さまに救っていただけないのでしょうか。 そもそも私の理解が間違ってるのかもしれませんが、 苦しみの多い輪廻の輪から解脱するため修行をしよう、また大乗仏教においてはいろいろな仏さまの力を借りたりおすがりして解脱にいたろう、 というように仏教的な死生観を解釈しています。 修行が足りず仏さまとの縁も結べなければ輪廻の次の段階に進むでしょうし、 宗派によっては生前から成仏しているわけですし 浄土系の宗派では阿弥陀さまのお慈悲によって極楽往生できるでしょうし…。 死後、死者の行く末に関して、生者はどれだけの干渉ができるのだろうか、というのが疑問です。 それは死者本人と仏さまの間の話ではないのかと思います。 そうすると供養とは何のためにするのでしょうか。 お教えをいただければ幸いです。
私は人は魂を磨くためにこの世に生まれ、生きているのだと思っています。 ただふと、 ・なぜ、なんのために魂を磨くのだろう と思ってしまい、 考えていると、魂を磨くために生きているということがいつの間にか出来上がった空論のようにも思え、 なんのために日々生きているのかわからなくなってきました。 考えるきっかけになった出来事があるため、あわせて書かせていただきます。 私には付き合って3ヶ月になる彼氏がいるのですが、 ここ2,3週間ほど話す度に口うるさく話し方(論理的でないなど)や性格の面など色々と注意され、 私のために言ってくれていることだからと思い、うるさいなどとは言わず直そうと心がけてきたのですが、 最近、会話していたらまた何か言われるのではと怖くなり、彼氏と話すことからも、注意されたことからもただただ逃げたく、向き合えずにいます。 なんのために、人は成長していかなくてはいけないのでしょう。 ご意見を伺いたいです。 よろしくお願いします。
私はまだ未熟ですが曹洞宗の僧籍をもっていて色々勉強しています。 そこでふとなぜ観音様や阿弥陀如来様や大黒天様など存在しない(存在してるか分からない)ものを祀ったり信仰しているのだろうと思いました。 お釈迦様は神仏に祈るより自己を見つめて悟る 自分は自分で助けるということを言っていると私は解釈しています。(間違っていたら訂正していただきたいです) 僕より人生経験が豊富であろうお坊様達に意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いします🙏
こんにちわ突然すみません。 私が相談したいことは人生についてです。幼少期には色々と満たされない人生を送ってきました。大人になり自分の人生はある程度の自由を得られて子供の頃に叶えたかったことできずに思い悩んでいたことも簡単にできるようになりました。 最初のうちは心の奥底から喜びを得られて人生が充実しているような満足感が得られれていました。楽しいと思える仕事や趣味があれば一生を生きていけるように考えていました。 けれども最近はそれらをやっても楽しいよりも虚しい感覚が徐々に増えていっているような気がします。 うまく言葉にできませんが本心から楽しんでいたものがただの暇つぶしになってるような感覚です。それらを解消するために新しいことに取り組んでみたりもしますがそれも結局はだんだんとつまらないものに変わっていきます。 欲求を叶えていっても次の欲求がと出てくるような感じです。 抽象的な相談になってしまい申し訳ありませんがどうすれば人は満足できるのでしょうか?軽いヒントのようなものでも構いませんが答えていただからと助かります。
もう生きることに疲れました。 31歳の誕生日を迎える前に死ぬことにします。 私は毎日明るく楽しく生きています。 職場でも頼りにされムードメーカーとなり、成果が認められ1月から希望していた営業に移籍することも決まりました。 ですが、全て本当はどうでもいんです。 幼い頃から機能不全家族で育ち、お前は家族じゃないから家から出ていけと言われ、日常的に殴られたりしていました。 親に愛されず自分は必要ない人間だと思っています。 そんな私ですが、友だちには恵まれ本当に私のことを愛してくれる人達ばかりです。 ですが、いつも満たされず孤独で虚しい思いを抱えて生きてきました。 自分を必要として欲しいという思いと容姿のおかげか恋人は途切れませんでしたが、結局最後はお前は必要じゃないと言われるのが怖くて自分から別れを告げています。 今年の5月から会社の課長から誘われ不倫を始めました。 すごく優しくて大事にしてくれ愛してくれ、この人は私のそばに居てくれると勘違いしてしまいました。 当たり前ですが奥さんの方が大事ですし、私が1番辛い時も彼は奥さんの方を取ります。 それは仕方ないけど、私が辛くて耐えきれなくなったので別れを告げました。 それから、私はやっぱり誰にも必要とされない人間なんだと確信しました。 馬鹿馬鹿しいと思われるでしょう。 だって、不倫なんてそんなもんだから。 自分でもわかっています。 けど、これはあくまできっかけでこれが自殺のトリガーになっただけです。 最近彼とまた会ってしまい、関係を持ってしまいました。 その時、ちゃんとせフレになろっかと言われました。 そう言われた瞬間、少しでも期待していた自分がほんとに愚かに感じました。 別れる時に彼にどれだけ想っているか、だからどれだけ辛いかを伝えたのに、そういうことを言われてしまうような価値のない人間なんだと確信しました。 友達や姉に死にたいと告げると、とても真剣に励ましてくれ、いつでも私の味方でわたしを助けられるなら、どんな事でもすると言ってくれました。 それを聞いて、私はこんなに愛されているんだと嬉しくなり、これで心残りなく幸せな気持ちで死ねると安心しました。 ここに投稿させて頂いたのは、こんな人間がいたのだと誰でもいいから知って欲しかったのかもしれません。 こんな拙い文書と醜い気持ちを読んでくださりありがとうございました。
こんにちは。 お釈迦様は阿弥陀様が先輩で、地球に生まれてきてくれて、私たちにこんな約束をしてくれた先輩がいるんだよと教えてくれたっぽいのですが、アミダ様は私達の約束(信じてくれたら必ず救う)を守る代わりに、何かほかの仏様から罰を受けたりはしてないんですか?私たちの代わりにリスクを負ってないんですか?大丈夫なんですか? また、お釈迦様は、本当は阿弥陀様なんていないけど、いるという嘘を自分1人が担って私たちのために背負って行かれたという訳では無いのですか?
イラストレーターをやっています。 SNSで自分の描いた絵に何万いいねもついた経験が何度かあります。フォロー数を少なく抑えながらフォロワーも一万人以上いて、他者から羨まれるような場所にいるのかもしれません。 しかし、満足できないんです。いくら「いいね」がついても気持ち良くなるのは一瞬だけ。あの人は自分よりもっと優れている。あの人は自分よりも上手いのに評価されていない、追い抜かれるのが怖い。ウケたのはこの一回だけだ、次は失敗する。抑えようと思っても負の感情が噴き出してくるのです。 元々、ここまでフォロワーを増やす過程でも苦しみの連続でした。現実は思い通りにならないということを何度も痛感しました。承認欲求と戦い続け、未だ制御しきれていません。考え方を転換して自分を騙そうとしても、でもそれって現実は変わってないよね?と囁き掛けられているようです。 フォロワーに嫌われているような気もします。そんなことはないということも頭ではわかっているんです。本気で嫌っているならフォローなんてしませんからね。しかしSkeb(有料でイラストのリクエストをするサービス)の宣伝をしても誰も依頼してくれなかったり、僕の普段のツイートには誰も反応してくれないのです。 心当たりはあります。僕は数年前まで、今よりもファンを思いやっていました。コメントには漏れなく返信し、ファンが望む絵を提供し、ファンが望む自分を演じていました。しかし、それが何の価値もなかったことに気づいたんです。 僕を置いてフォロワー数を爆増して行く相互フォローの絵描きたち。彼らも僕と同じようにファンを思いやる人でした。絵は拡散され、有料リクエストももらえている。じゃあ僕のファンは?何もしてくれません。お金も落としてくれず、ただ僕の絵を見るだけ。拡散してくれないこともあります。僕のファンなら僕を高みに連れて行く努力をすべきです。横暴なのはわかっていますが、それでも裏切られた気分でした。SNSで神絵師と持て囃される人々は一般人のコメントをガン無視するのが常です。僕もそのあり方が正しいと思いました(実際に自分もファンをないがしろにし始めてからフォロワーも倍増しました)。 しかし現実は、増えない絵の仕事と、もらえない有料リクエスト。いくら評価されても、この現実が変わらないような気がするんです。どう自分と向き合ったらいいでしょうか。
欲や期待を振り回された生活を続けることが嫌になりました。 いっそ捨ててしまって、何も欲しない、何にも期待しない人間になりたいです。 しかし、欲は勝手に湧いてきますし、期待も意図的にしないということもできません。 どうすれば、欲と期待を捨てた人間になれるでしょうか。
私が仏教に興味を持ったのは、ある落語家兼尼さんの著書で仏教と法華経の解説を読んだからです。 私はそれまで大乗非仏説を支持していたのですが、この方の著書を読んで考えが180度変わりました。 ところが、私は不思議とお題目を唱える気にはなりませんでした。天台宗で法華経が顕教だけではなく、密教の経典としても扱われていることを知り、すぐにご真言に興味を持ちました。 ある時、法華経に「一称南無仏 皆已成仏道」と書いてあるのを知り、私はこれをお念仏の教えと解釈し、今度はお念仏に興味を持ちました。 大無量寿経を読むと、お釈迦様が「私が死んでも阿弥陀如来に関する教えがなくなることはない」というようなことをおっしゃっていて、お釈迦様の最後の教えである法華経とも矛盾しておらず、何だか嬉しくなりました。 しかも私は統合失調症という精神病を、軽くですが患っておりまして、「厳しい修行やなんやかんやは無理やけど、阿弥陀さまを信じてお念仏を唱えるだけでいいなんて、なんと大きなお慈悲なんだろう!」ととても感激いたしました。 更に、法華経で「法華経の説く清浄な意根を持っていれば、他の宗教や信条を信じていてもお釈迦様の教えに通じている」と説かれていることから、大乗仏教の裾野の広さ、寛容さを実感し、「みんなで幸せになれる!」とまたまた嬉しくなりました。 長くなりましたが、これって「阿弥陀さまに仏縁をいただいた」と認識しても問題ないですかね? 法華経の解釈とかあくまで自分の解釈なので、勝手な思いあがりかと思い少し心配になりました。
人間は、生まれて死にます。それが子孫を残すことでずーっと何年も続いています。この先もいつまでかは分からないけど、続くんだろうなと思います。 でも人間って、何のためにそれを繰り返してるんですか?みんな当たり前のようにそうやって、生まれて生きて、子孫を残して死んで、をただ繰り返してるけど、これって何のためにやってるんですか? 私が知りたいのは、ひとりの人が何のために生きるかということではなくて、人類全体として、何のために、どこに向かうのかということです。 ずっとこのサイクルを繰り返して、いろんなものが発展して進化する、何か目的があるんですか?目的があるとしたら、何でしょうか。 無いとしたら、何のために存在するんですか。ゴールはなんですか?あるんですか? お坊さんの考えを教えてください。 生きることが嫌になったとかそういうのではなくて、単純に知りたいんです。あと、いま私は19歳なんですが、小学生の頃からずっと考えてます。人にこの話をすると、考えたこと無いし興味無い。言ってる意味がわからない、別に知りたいと思わない、とか言われます。なんで人はみんな、自分もこのサイクルに参加してるのに、このことを疑問に思わないんですか?不思議です。私がおかしいんですか…
日本には多くの宗派がありますよね。いままで私はお坊さんに対して、「おしょうさん」と呼んでいたのですが、全宗派の全部のお坊さん・・には使えないことを最近になり知りました。 和尚-Wikipediaによりますと・・・ 1.和上(わじょう) 律宗・浄土真宗(儀式指導者に対してのみ) 2.和尚(わじょう) 法相宗・真言宗など 3.和尚(かしょう) 華厳宗・天台宗など 4.和尚(おしょう) 禅宗・浄土宗・天台宗など 5.和闍(わじゃ) さらにさらに、 6.上人 7.聖人 8.そのた 調べれば調べるほどゴチャゴチャしてきました。 みなさんの宗派では、上記1~8のどれをお使いになりますか?祖師にだけ、宗祖にだけ、始祖にだけ、ふつうの僧侶に対して・・などお教えねがえればと思います。
回転寿司が大好きで毎週のように回転ずしを食べています。 左上のhasunohaのロゴがホッキ貝と緑の割れたスシ皿に見えてしまいます。 それは置いてといて、お寿司を食べているときに、こんなにお寿司が好きなのに何か月前から通っているのか忘れてしまいました。 その時の初めて食べたネタのおいしさや歯ごたえの感動も忘れてしまいました。 そして、苦しみの方はどうかと思い、(中途半端に過去の)5年6か月と3日前の苦しみを思い出そうとしましたが思い出せませんでした。 (中途半端に昔の)5年6か月と3日前に私は何かをしていて何かの感情があり何か悩みや苦しみ、もしくは楽しみがあった、でも思い出せないのです。 つまり記憶も感情も行動もまた移り行くものだから忘れてしまう。記憶や感情といえど常なるものは無し。 これも諸行無常で苦を滅する方法は、『無常に気付き、常に自分も無常であると忘れないようにする』ことであると、そこら辺は、↓にも最終的には同じ意味で書いた通りです。 https://hasunoha.jp/questions/19539 https://hasunoha.jp/questions/19556 https://hasunoha.jp/questions/19587 しかし、どんなに気を付けていても自分(や愛しいもの)も無常の中にいるという事を忘れてしまう事があり、またも過去と同じようなことで悩み苦しむ事がたまにあります。 このまま人生を歩んで行っても、全く苦が無い生活を行うことは難しいです。 こうなってくると、テーラワーダか禅宗に出家して苦を滅するための八正道を人生のすべてとして生きていくしかないような気がしてきました。 アジアの上座部仏教国だと、サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)なんて言われて出家できますが、ここは日本で日本での生活があります。それを捨ててまでの出家だと親が泣くかなと思うのですが、在家のまま苦を滅する方法はありますか? または苦を滅したいからという理由で出家された方いますか?
浄土三部経が偽経や非仏説と言われている事についてどう向き合えばいいでしょうか。 自分はこれで阿弥陀様の信心を失ってしまいました。 事実としてお釈迦様が直接説いたわけではないことは、「歴史的」には分かっているそうですし、それでもお釈迦様以外の仏様が説いたので仏説と言われていたりと、結局どれが真実なのか分からなくなってきました。 浄土宗や浄土真宗のお坊様はこの事についてどう思っているのですか? そしてどうやって信じているのでしょうか。 自分はこの事で信心をもらえそうにないです。 回答お願いいたします。 この前までは単純に阿弥陀様を信じられていませんでしたが今度は大乗非仏説で信じられなくなっしまいました。
私の地元に全国的に有名なお寺があるのですが、そこのお坊さんが超高級車であるフェラーリやマクラーレンを長年所有していると知りました。最近は中古価格が1億円を超えることもあるマクラーレンを所有しているそうです。親に聞いて見たところ、昔から地元では有名だったそうです。 私の中でお坊さんと言えば質素な生活をするのが当たり前?だと思っていたので大変驚きました。超高級車を乗り回すなんて煩悩の塊ではないかと思うのですが、お坊さんが超高級車を所有することは仏教の教えやお坊さん達にとって問題のない事なのでしょうか?
初めて悩みを書きます。 わたくしは、中学生の時から死恐怖症(タナトフォビア)に悩まされています。 簡単に説明しますと、自分の意志とは無関係に「自分が無になる」という恐怖が脳に入ってきます。医療用語で強迫性障害に分類されます。 一年くらいしっかり働けても、季節や体調の変化でタナトフォビアが重症化し、奇声をあげる、怖くて動機がする、それを落ち着かせるために自傷行為をして生きてる事を確かめる事が続き、それに合併して鬱になり、外に出る事も誰かと話すこともできない日々が続きます。 この繰り返しを何年もしてきたため、会社に就くこともできず、終いには今、無職です。 ただ、死が怖い=生きてればいつか死ぬという恐怖も同時に兼ね揃えています。 つまり、生きてることも怖いんです。 そして今、私は薬で症状を抑えています。 薬で抑えることが出来ると、死ぬことが、酷い時よりは怖くなくなります。 そこで、私は「今なら死ねる」と思ってしまうんです。 生きてる意味も分かりませんし、 死ぬ意味も分かりません、 この世は修行だとか、死んだあとは天国だとか、そんな人間が作り出したエゴや、綺麗事は私には意味がないんです。 「死んだら生まれる前に戻る」という考えがどうしても抜けません。 私は約一ヶ月後、死のうと考えてます でも本当は生きていたいんです 生きてる素晴らしさや奇跡は痛いほど知ってます。 心の矛盾に日々悩まされてます。 どうか助けてください。
17年連れ添った猫を失い、次の猫も家に来て二ヶ月目に交通事故で失いました。その子はまだ1歳にもなっていませんでした。 なぜあの子達は死ななければならなかったのでしょうか。 なぜ私は失い続けるのでしょうか。 悲しみ以外、涙以外、私は全てを少しずつ失い続けます。 仏様、私はあまりにも愚かです。私には真理を悟ることができません。何もみることができません。 私は死者の出なかった家のカラシの種が欲しい。 あの子が死なずにすむなら、何度でも車の前に飛び出したい。 仏様、私は救済に値しません。もう疲れてしまいました。ただただ疲れてしまいました。