イラストレーターをやっています。 SNSで自分の描いた絵に何万いいねもついた経験が何度かあります。フォロー数を少なく抑えながらフォロワーも一万人以上いて、他者から羨まれるような場所にいるのかもしれません。 しかし、満足できないんです。いくら「いいね」がついても気持ち良くなるのは一瞬だけ。あの人は自分よりもっと優れている。あの人は自分よりも上手いのに評価されていない、追い抜かれるのが怖い。ウケたのはこの一回だけだ、次は失敗する。抑えようと思っても負の感情が噴き出してくるのです。 元々、ここまでフォロワーを増やす過程でも苦しみの連続でした。現実は思い通りにならないということを何度も痛感しました。承認欲求と戦い続け、未だ制御しきれていません。考え方を転換して自分を騙そうとしても、でもそれって現実は変わってないよね?と囁き掛けられているようです。 フォロワーに嫌われているような気もします。そんなことはないということも頭ではわかっているんです。本気で嫌っているならフォローなんてしませんからね。しかしSkeb(有料でイラストのリクエストをするサービス)の宣伝をしても誰も依頼してくれなかったり、僕の普段のツイートには誰も反応してくれないのです。 心当たりはあります。僕は数年前まで、今よりもファンを思いやっていました。コメントには漏れなく返信し、ファンが望む絵を提供し、ファンが望む自分を演じていました。しかし、それが何の価値もなかったことに気づいたんです。 僕を置いてフォロワー数を爆増して行く相互フォローの絵描きたち。彼らも僕と同じようにファンを思いやる人でした。絵は拡散され、有料リクエストももらえている。じゃあ僕のファンは?何もしてくれません。お金も落としてくれず、ただ僕の絵を見るだけ。拡散してくれないこともあります。僕のファンなら僕を高みに連れて行く努力をすべきです。横暴なのはわかっていますが、それでも裏切られた気分でした。SNSで神絵師と持て囃される人々は一般人のコメントをガン無視するのが常です。僕もそのあり方が正しいと思いました(実際に自分もファンをないがしろにし始めてからフォロワーも倍増しました)。 しかし現実は、増えない絵の仕事と、もらえない有料リクエスト。いくら評価されても、この現実が変わらないような気がするんです。どう自分と向き合ったらいいでしょうか。
初めまして。 初回から非常に重苦しい質問をしてしまい、申し訳ございません。 私は、現在就職活動をしています。 その中でどのような職に就こうかと考えた際、これからやりたいことや、 生きる意味について考えてしまい、やりたい事も目的もないのに、 これからも生きるということに嫌気がさしてしまいました。 生きる上で苦しいことや、嫌なこともあるのは分かります。 それに耐えねばならないことも理解しています。しかし、 それに耐えてまで何故生きるのかということが、今は本気でわかりません。 大きな話では地震や災害、就職難、高齢化、経済危機など、 小さな話では人間関係や恋愛、就職、介護など、 不安なことやつらそうなことが多すぎて、将来生きてゆくことが不安です。 「生きる意味なんてない」あるいは、 「その内生きる意味がきっと見つかる」 と自分を励ましてきましたが、 そのごまかしにもそろそろ限界がきています。 生きていて良かったと思える為には、どうすれば良いのでしょうか。 途方もない質問でありますが、お答えを賜われれば幸いです。
こんにちわ。 以前個人的な質問をさせていただき、2度目の質問になります。 以前は大変貴重な回答を頂き非常に感謝しています。 さて、表題の質問になりますが、 小学生の頃「死」について考えたことがあり、その時は・・・ 死んだら考えることすらできなくなってしまう。 死んだらこうやって「死」について考えることもできない。 自分という存在はどこへ行くのか。 と、怖くなって夜寝られなくなってしまった思い出があります。 葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉の意味を調べたり、 100歳を越えてもなお現役の医師を続けていらっしゃる日野原重明さんのコラムなどを読んでから、私は「死」という概念は、 抗うものではなく受け入れるもの。 そしていずれ来る死をどのように受け入れるか。 が大事なのではと思うようになりました。 私は仏教には詳しくありませんが、仏教にも輪廻転生や極楽浄土など死後の魂の行方や考えがあると思います。 よろしければ、仏教的観点でも宗派的観点でもご回答くださる方の個人的な観点でもよいので、「死」についての考えをお聞かせ願えないでしょうか。 宜しくお願いいたします。
お坊さんは何故、地域でキリスト教みたいに集いを開いてくれないんですか? 正直 自分さえ良ければいい人達のように思ってます。 昔は昔 今は今 軽薄な世の中で不器用でも真面目な人間は神聖な集いを必要とするものと勝手に考えてます。 というのは自分がそうだからです。 辛い時、よっぽどキリスト信者になろうかと思いました。 家族で一度、説法に呼ばれていったんですが、金の話以外されません。 面倒くさいから私達の事などどうでもいいのですか? 金にならない集いなんて要求する方が図々しいと思うのでしょうか。 失礼な内容ですがずっと聞いてみたくてたまらなくお尋ねしました。 返信お願い致します(>_<)ヽ
うつ病(持続性気分障害)の治療を10年近く受けていいる者です。 先だっては、お坊様方からのメッセージをいただきありがとうございました。世の中には良い人もいると分かり嬉しかったです。 前回の質問よりも「命」について突っ込んでお尋ねします。 生きているのが苦しくて苦しくて楽になりたいです。 死にたいと思うことがあります。 【 自分の命であっても、なぜ命を絶ってはいけないのでしょうか? 】 「生きたくても生きれない人がいる」「生まれてこれなかった命がある」「困る人がいる」「悲しむ人がいる」「ひとつしかないから」「死ぬのは怖いから」「ご先祖様からの預かりものだから」「命のリレーだから」「なかなか人間に生まれるチャンスはないから」などの答えに頭では理解出来ます。 しかし、死について考えているときは負のスパイラルの真っただ中にいるので、自殺のストッパーに全くならないのです。 本で読んだのですが、「お釈迦様も生老病死を苦しみとおっしゃった」そうですよね?つまり生きることも苦しみ。 だから修行して解脱し、二度とどこの世界にも生まれないようにするのですか? もしそうなら個人的にはしっくりきます。(でも結局は生きていてもつまらないですよね。) こんな質問をしていますが、本当は死にたくないという自分もいると思います。死にたがりの生きたがりなのでしょう。 お答えをいただけるとありがたいです。よろしくお願いいたします。
過去に同じような質問がありましたら申し訳ありません。 (その場合は、過去の質問タイトルを教えていただけるとありがたいです) 私(一般人)ですが、仏教が好きで、お経を唱える事に関心があります。 誰が(1)、何に(2) お経を唱える(あげる)のかによって、なぜ、どうなるのか知りたいです。 (1)お坊さん か 一般の人 かで次の2ア~カの対象にお経をあげて違いはありますか? (2)ア.お寺で貰ったお札、イ.家で特に祀っている仏画や仏像、ウ.仏壇の仏画や仏像、エ.仏壇の位牌、オ.お墓、カ.お寺の本堂の仏画や仏像 「日蓮宗の南無妙法蓮華経は、誰があげても同じだよ」と聞いたことがありますが、それならお坊さんの意味が無いような? そうかと思えば、真言宗のお寺で聞いたのは「お坊さんは仏様との橋渡しだよ」とも。では、一般の人が唱えても意味がないのでは? 「仏画や仏像にお唱えすると、誰がお唱えしても仏様は喜ぶので、それが功徳になる」とも、聞いたことがあります。 誰が 何に お経を唱えると、なぜ、どのような効果があり、どうなるのかを知りたいです。 出来れば、密教(真言宗か天台宗)の方のお話と、日蓮宗の方のお話が聞けると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
初めて悩みを書きます。 わたくしは、中学生の時から死恐怖症(タナトフォビア)に悩まされています。 簡単に説明しますと、自分の意志とは無関係に「自分が無になる」という恐怖が脳に入ってきます。医療用語で強迫性障害に分類されます。 一年くらいしっかり働けても、季節や体調の変化でタナトフォビアが重症化し、奇声をあげる、怖くて動機がする、それを落ち着かせるために自傷行為をして生きてる事を確かめる事が続き、それに合併して鬱になり、外に出る事も誰かと話すこともできない日々が続きます。 この繰り返しを何年もしてきたため、会社に就くこともできず、終いには今、無職です。 ただ、死が怖い=生きてればいつか死ぬという恐怖も同時に兼ね揃えています。 つまり、生きてることも怖いんです。 そして今、私は薬で症状を抑えています。 薬で抑えることが出来ると、死ぬことが、酷い時よりは怖くなくなります。 そこで、私は「今なら死ねる」と思ってしまうんです。 生きてる意味も分かりませんし、 死ぬ意味も分かりません、 この世は修行だとか、死んだあとは天国だとか、そんな人間が作り出したエゴや、綺麗事は私には意味がないんです。 「死んだら生まれる前に戻る」という考えがどうしても抜けません。 私は約一ヶ月後、死のうと考えてます でも本当は生きていたいんです 生きてる素晴らしさや奇跡は痛いほど知ってます。 心の矛盾に日々悩まされてます。 どうか助けてください。
悩みが多かった時、お釈迦さまは静かに座り自分の心の隅々まで不安を追い掛けて徹底的に潰していったと聞きました。 具体的には、どのようなことをしたのでしょうか。 同じようなことをしようとは思ってはいませんが、知識として気になったので、投稿しました。
無分別智をわかりやすく教えて頂けませんでしょうか? 特に蹴落とし社会における無分別智の実践をお坊様はどのようにお考えなのでしょうか? お忙しい中、恐れ入りますが、ご回答を宜しくお願い申し上げます。
浄土真宗で追善供養をしないのは何故ですか? 「追善供養は自力だから」「亡くなった人はみんな極楽に往生して供養する必要がないから」などなど色んな意見があるみたいですが、どれが本当ですか?
初めてメール書きます。 人間て何の目的があって生きるのでしょうか?。 私は、会社が経営がまずい事を知って、転職したの ですがそこで、「人間てなんの為に生きてる」とつく づく感じたのですが一体何の為でしょうね。 後お聞きしたい事が1つあります。今、50歳になり ますがこの歳でお山に入るのは、遅すぎるでしょうか?。 僧侶が遅すぎるなら他の道はないでしょうか?。お寺に 住み込みで働くとかありませんでしょうか、またできたとして そこで人の為に働くことは可能でしょうか。 ご教授お願いします。ちなみに私は、独身です。
どんな宗教やアドバイスでも、相手がそれを理解し考える力を持っていること前提になっていますよね。 仏教も例外ではありません。 しかし世の中には先天的または後天的理由によりその力を持ち合わせていない人もいます。 理解し考える力を持っていない者がもし道を誤った場合、仏教はどの様にアプローチするのですか? そういった人たちに救いはあるのでしょうか?
少し前までは天国や極楽浄土があるのが死後だと思ってましたが身内の死以降そう思えなくなりました。死ねば骨になり土に帰りそれでおわり。 天国や極楽浄土の世界はどの宗教にも共通してあり古代エジプトでは来世で甦るための肉体が必要だからミイラにし復活をするという概念がありました。でもそれはすべて現世の人が作ったもので実際みたわけではありません、臨死体験などの話もありますが夢なのか区別がつきづらく天国や極楽浄土が垣間見れていい死後世界だったという話はきいたことがありません。 霊柩車内部にも極楽浄土の絵が描かれ死者が三途の川を渡れるように六文銭をもたせたりする風習があります。ただそれもすべて現世の人が作ったもので実際そうかは誰もわかりません。 身内がなくなり何年もたち、やはり死んだらこの世から存在がきえ手元に骨が残され、墓という形あるものに集約され彼岸に墓参りするという残された現世の人のためで、墓も遺骨をいれる場所としか思えなくなりました。 位牌は魂いれをしますが私にはただの板にしか思えず遺骨だけか故人そのものでその先の死後世界は今まではあるように思えたけどそれは無いのだなとしか思えません。身内を亡くすと死がどういうものかよくわかります、人がいなくなるというのがどいうことかが。なので現世にいる時がすべてて誰もみたことない死後世界は存在するとはもう思えません。 広い世の中、少なからずにたような考えもった人はいるでしょうが誰にでもできる話じゃないので周りに同じ考えの人がいるかきける時があればきいてみたいです。
こんにちは。いいえ、こんばんは。 昨日、恋愛相談をさせていただいて、返信があり、感謝しております。 そこで、かっこいい男とはどういう男か? お坊さんたちは、どうお考えなのか? お伺いしたいです。 私の中で、30程、かっこいい男の鉄則があります。 私の考えるかっこいい男というのは、 ・己に徹し人のために生きる。自分を殺し、他人を生かす。縁の下で目立たない様、輝きを放つ人。 ・自分にもっと厳しく、人にもっと優しく出来る人。 ・当たり前のことを、馬鹿みたいにちゃんとできる人。 ・ブレない。己を貫ける人。 ・腹を痛めて生んでくれたお母さん、養ってくれたお父さんに「有難う」が言える人だと思います。 かっこいいとは、こういうことだ。 紅の豚ではありませんが、お坊さんたちの、「強い人、かっこいいと思える人」とは、どういう人間像かを、t抽象的ではありますが、ご教授ください。 お手数をおかけしますが、宜しくお願いします。
元来たところへ還りたいです。 20代後半くらいからふと あまり生きることには 執着がないと感じます。 ある意味もうある程度生きてきて 幸せも感じ人生に満足してしまったのかもしれません。 自分はなんのために生きているのか ただ生かされているだけだ思うのです。 諸行無常で現状がずっと続くわけではないと頭では分かっていますが生きることも考えることも悲しい辛いと感じることにも疲れ果ててしまいました。 感情を捨てられたら良いのですが 人間そんな簡単に感情を 捨てられるわけもなく どうして神様はこんなに感情を与えたのか 人生は修行だと思っていますが もう辞めたいのです。 死にたいとゆうより 生きることを止めたい。 ただ、ただ元来たところへ還りたい とゆう気持ちが強いです。 もし生かされるなら人間以外の物でありたい。 無機質な物でありたい。 自分には人間に生まれてくるのが早かったのではないかと思います。 自分には自分であることが 人間でいることが辛くしんどいです。 早く人間を辞めたい還りたいと思います。 痛いことが嫌だと思うだけで 死ぬことも恐ろしくないのです。 自分の中で死ぬことは解放だと思っています。 こういった思考からなのか 自分の価値も見出せません。 自分を幸せに出来ない人間が周りを幸せにできるわけがないと思います。 還りたいと思うことは おかしいのでしょうか? 人生とゆう修行から逃げることは いけないのことなのでしょうか? 修行に疲れ果ても 耐え忍ぶしかないのでしょうか? ただ流れに任せて生きていくことすら苦痛です。 支離滅裂な内容かも知れませんが お答え頂けると幸いです。
こちらで戒名を載せていいものか悩みましたが、どなたかアドバイス頂けますでしょうか。 先日、最愛の実母が亡くなりました。長い長い闘病生活、長くはない命と分かっていながらも素直になれず困らせたり、もっと何かをしてあげればよかった、の後悔ばかりの日々を送っています。 私達(姉がいます)に父親はいません。母の葬儀が人生初の葬儀(幼少期に祖母がなくなりましたが記憶に薄いです)となり、姉が喪主となり2人で右も左も分からないまま、ただ母の旅立ちをしっかりととの思いで通夜告別式を執り行いました。 準備段階での事です。母に戒名を頂くために、母の両親を連れ、ご先祖様のお墓のあるお寺の住職さんに戒名のお願いしました。しかし、住職さんはお年を召してるのか全くこちらの話を聞いて下さらず、ただただ同じ事を繰り返し言うのみ。遠方だったので、一度戒名をつけて頂きたいと電話で伝えた際に姉がうまく伝わっていないと思う、と言うので心配になりいざ出向いてみるとすでに戒名が決まっていました。電話で伝えたのは名前と歳のみです。 私達はお恥ずかしながらあまり知識がなくネットなどで調べるのが精一杯です。戒名とは、俗名から一字、人柄から一字、というのは間違った情報でしょうか? 母の戒名は、瑞雲蓮花妙○○大姉霊位、です。○○の部分には母の俗名がそのまま入っています。意味を伺っても、読み方しか教えてくれず、母の両親に訴えても、もう決まったみたいだから、と。 もちろん、頂いた戒名に不満があるわけではありません。ただ、人柄なくして戒名がつくのか、どういった意味合いなのかが知りたくて投稿させて頂きました。 よろしくお願いします。
3年位前に、お坊様がTVで『とらわれない心が大事』と話されてるのを観てから、ずっと気になっていることがあります。 『とらわれない心』というのは、自分の欲や我を手放して、人と争わずおだやかに生きること、ではないかと私なりに受け止めました。 でもそれで、『私はこうしたい、こうなりたい』という目標があって、人と意見がちがったら、『私はこうしたい』と言うのは『とらわれている』のでしょうか? 意見がちがうときは自分か相手が譲るか、全く別の案を見つけるかだと思うのですが、いつも自分が譲るスタンスなら私はその人のいいなりになってしまいそうです。 自分の欲というのは望みであり、自分のあかしでもあると思います。 その欲=望みがなるべく汚いものではなく、きれいなものであるように願っていますが、他人から見たら『我』でしかないのでしょうか? とらわれない=思い通りになるようコントロールしない、ということだとしたら、将来に期待はしないでただのぬけがらになってしまわないか疑問です。 私も未熟ながら、人にやさしくありたいと願っています。相手にとって安らげる存在になりたいです。自分と相手をともに大切にして、なおかつ『とらわれない』境地って私にはまだわかりません。 どうか、私に道を説いてくださいますよう、お願い申し上げます。
私の地元に全国的に有名なお寺があるのですが、そこのお坊さんが超高級車であるフェラーリやマクラーレンを長年所有していると知りました。最近は中古価格が1億円を超えることもあるマクラーレンを所有しているそうです。親に聞いて見たところ、昔から地元では有名だったそうです。 私の中でお坊さんと言えば質素な生活をするのが当たり前?だと思っていたので大変驚きました。超高級車を乗り回すなんて煩悩の塊ではないかと思うのですが、お坊さんが超高級車を所有することは仏教の教えやお坊さん達にとって問題のない事なのでしょうか?
私の質問はお坊さんアンチのように思われるかもしれませんが、これからもお坊さんにはお世話になっていきたいと思っておりますので、不安を解消したく質問をさせていただきます お坊さんはお施主様の法事で何を思って、お経を読んでいるのですか? ただお経を読んで、法話をする作業になっているだけのような気がしてしまっています。 さらには「供養します」「供養してください」供養供養言いますけど、結局の所「供養」ってなんなのですか? 宗派問いません、この質問を見て逃げるような和尚様の言葉はいりません なんなら丁寧なお言葉で書かなくても大丈夫です!! お坊さんであっても一人の人間です、私も過度な期待はしておりません、実際に思っているお言葉をください!! ハスノハにいる和尚様方を信じております 誠に我儘で勝手ですがよろしくお願いいたします。
どうしても意味・ユーモア感覚が分からないので、ここでお坊さんに直接質問をさせて頂きます。 いま私は、とある掛け軸について研究をしています。ですが、私は仏教の世界を深く知るようになったのは、つい最近になってからであり、そのせいで仏教世界のユーモアが分かりません。 研究している掛け軸には、掛け軸の下の方に、『十六羅漢のうち十人が水が足首らへんまでしか来ていない海(若しくは川)の浅瀬を渡って、上の方を見上げている』描写があり、左上の方に、『龍頭観音と思われる龍が一匹と、龍の口らへんに、モワモワした煙と共に、お花のような(?)ものを手に持っている着物を着た女性が一人立っている』描写があります。更に、この空の方へ登っている龍には、十六羅漢のうち六人が乗っており、そのうちの一人が釣り糸みたいなもので蛸を海から釣っています。 十六羅漢が川ではなく、海を渡っているのは、蛸が海にしか生息していないからという理由で、海だと推測しました。 この絵には漢詩が付いているのですが、以下のようなものです: 是秋釈子袿第響 無転十六蛸入道 為老先生博祭無事居楽 遊印には→星洲晩漁 と書いてあるはずなのですが(あまりきちんと読めませんでした)、漢詩の意味は全て分かりませんが、ここには蛸入道としっかり書いてあります。 以上のことから、私は、蛸とお坊さんの頭を掛け合わせて、笑いを取るような絵だと見受けました。 が、私の感性では、釈迦の弟子たちで笑いを取るという感覚が全く分からないのですが、ひと昔の日本では(明治・大正あたり)、このようなことはよく起こり得たのでしょうか?またこのような、ブラックユーモア的な掛け軸は、よくあったのですか? ちなみに、私の推測はあっていますでしょうか?(蛸とお坊さんの頭を掛け合わせることで、笑いをとるという感覚) 若しくは、他に何か意味があるのでしょうか? 漢詩の意味も分かりませんが、このセンスが本当に意味が分からなくて、大変困っております。どなたか詳しく説明して頂けますと幸いです。 掛け軸の絵を写真で添付できないので、絵そのもののイメージがし辛いと思いますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ちなみに、この掛け軸は、近代に描かれました。