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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 勉強 不安」
検索結果: 1662件

被災した義父母との同居解消は悪ですか?

昨年、主人の両親と同居を始めました。 義父母は震災で家を失くしてしまいました、 震災直前あたりに、私達夫婦は自分達の家を買おうと漠然と考えていたところに、震災がありました。震災3週間後に、彼らの自宅跡に立ったとき、それまでは「同居なんてありえない。」と言い放っていた私が、義理母に「家を建てる計画があるけれど、遠方でも構わないなら一緒に住む?」と言いました。 彼らの要望通りに、彼らの部屋を2部屋作り、他は共有しております。その部屋代は彼らが資金を出しています。 とてもいい人達なので、何ら疑いなく同居を開始したのですが、主人は両親が側にからか頼りなくなり、また、同居にあたり生活習慣が違う彼らとの間の細々としたストレスがたまり、ここ一年ずっと不満を抱えております。主人は仕事で週の半分は家を不在にすることから、時々、義父母と息子と食卓を囲むときに「私はなぜ、主人ではなくこの人達と食卓をともにしているのか…」と 疑問に感じるときがあります。共働きをしているので、息子の夕食の準備をしてくださったり感謝もしているゆえに、不満があってもなかなか 本人達に言えなく自分の中にどんどんストレスが溜まっていきます。主人に愚痴れば、彼はもちろん嫌な顔をします。仕事でストレス、自宅で同居のストレスで精神が休まることは、彼らが不在な時のみです。 これから10-20年もこの生活が続くと思うと、「私はずっと心休まらない人生を送らなくてはいけないんだろうか。」と思い辛くなり、主人には2度目の同居解消を打診しました。ところが、彼は若い時に迷惑をかけた恩返しがしたいようで聞く耳がなく、むしろ、被災者を一度呼び寄せておいて、同居が向かなかったからやっぱり別居で。と提案する私を人間として最低な人だといい、離婚まで切り出されました。私は親想いな主人も好きです。しかし、今の環境が私にはとても精神的につらく、 仕事が終わってから、息子に会いたいのに、家に帰りたくない自分がいる時もある程です。やはり同居を解消したい私は人間として 最低なのでしょうか。ただの我儘なのでしょうか。

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事故を起こしてしまった

こんばんは。夜分遅くに失礼します。 当方 21歳 大学生です。 言葉足らずで読みにくい文章になるかもしれませんが最後まで読んでいただき回答してくださるとありがたいです。 今日の午後、私は両親の車(新車)を運転しており、助手席に親が乗り近くの施設まで運転していました。 ですが、パーキングのチケットを受け取り右折しようとした時に曲がりきれず、近くの柵に接触してしまいました。 その後、施設の方に連絡し柵自体は擦り傷程度であり「ペンキで色を塗る程度で大丈夫」と言われました。また不幸中の幸いで人や他の車にはあたっておらず警察にも相談し物損事故として扱っていただいてます。 もちろん事故を起こしたのは私の責任で施設側にも申し訳ないのですが、何より父が大切にしていた新車の破損が激しく「私のせいで傷つけてしまった」とそちらの方が精神的に追い詰めてしまっています。 父は「対人じゃないだけよかった。怪我もないし大丈夫」と言ってくれたのですがやはり責任を感じます。 大学生なので車の修理費を負担することもできませんし、「大学生だからそんなことはしなくてもいい」と優しい対応をしてくれています。 そんな私は今後どのように考え生きていけばいいですか? 私はこの事故をきっかけに何か自分の嫌な部分などを変えていければと考えています。

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日本の宗教に対する意識と新興宗教について

日本には、なんとなく政治と宗教な話は、親しい間でも話しにくいような風潮があると思います。例えば私自身家族の中でも応援している政党が違ったりするとなんとなく気詰まりな感じがします。そういう宗教や政治の話がなかなか気軽にしにくい日本の風潮にお坊さんはどう思いますか? 話は違いますが、うちは曹洞宗ですが、遠くに住んでいる親戚の叔父が韓国の方が教祖のキリスト系の新興宗教を信仰しています。叔父さんはとても元気でタフで明るくて面白くて好きですが、宗教の話をしている時に進化論を否定していることに驚きました。たしかに進化論が正しいかは、私自身教科書でしか教えられておらず、自分で確かめたことはないので、確証や証拠で反駁することはできないのですが。 あと人間だけ霊界があるというその宗教の教えに対しては、全ての生き物が限られた生を命の限り全うするということは同じな世界で、人間にしか霊界が用意されていないという考えがしっくりきませんでした。当然信仰の自由があるので何を信じるかの選択の余地は一人一人あり、全く否定する気はありませんが。その対話をしている時の母がもううんざりといった言動でもう終わりにしてほしいというオーラが全身から漂っていて、とりあえず途中で私が引き下がりました。(こういうところでも宗教の違いを対話するのを嫌がる日本の風潮を感じました。) 比較的歴史の洗礼に耐えて伝統を長く受け継ぐ仏教の宗派のお坊さんは、新興宗教と呼ばれている宗教の特徴や教えについてどういうお考えをお持ちなのか、気になりまります。 お手すきの時にお返事頂けたら嬉しいです。

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仏教の「助け合い」

先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。

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死ぬと地獄行き

すいません。後から気づいたのですが2回同じ質問してしまってました。 こっちが本当です。 私の学校は仏教の学校です。 学校でのお坊さんの教えでは生きてるうちに良い行いをすれば極楽浄土へ行けるといったものでした。 私はそれを信じて今までちょっとした発言や行いで人を傷つけてしまったことを悔いてそのことを今一度悔いて謝ろうとも思っていましたし、少しでも人のためになるような良い行いをしていこうと心がけどのようにすれば良い人間になれるのだろうや一度罪を犯してしまうとその人は救われないのかなどいろいろ調べていると、たまたま見た記事に日本人はみな地獄行きというのがあり怖くなりついつい見てしまったのです。 するとそこには虫などを殺すと地獄行き、お酒を飲めばもっと怖い地獄行きなど他にも地獄レベルが書いてあるのがありました。 それはお坊さんが知ってることなどが書かれていたのです 私は、最近では虫を殺すのは悪いことだと思い今では蚊すら殺してなかったのですが今までは殺してしまったりしてました。 私達は、今までは罪を悔いて良い行いをしていれば人に好かれる人間にもなれるし極楽浄土へ行けると信じてきましたし地獄は殺人や人を傷つけても平然と後悔することなく生きている人間が反省するための場所と思っていました。 なのにそんな事実をつきつけられ私は、どうすればよいのでしょう。 1日1日を良いことをしても、どうあがいても逃れられない地獄へ行く恐怖をもちながら生きていかねばならないのでしょうか? 今まで学校で教わった教えはなんだったのでしょうか? すぐ泣いてしまう私なのにショックと信じられないという思いですぎて涙もでません

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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 743
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どうしてお坊さまになったのですか?

相談ではなく、単純な質問ですみません。 しかしとても気になります。 私は現在職を探して3ヶ月になろうとしている20代です。 履歴書や面接の準備のときに必ず用意するものの中で、「志望動機」というものがありますが、 私はこの「志望動機」が苦手で、つまずいて応募も躊躇してしまうこともあります。 その為、この3ヶ月は道行く働いてる人へ 「ねえ、あなたはどうしてその会社に入ったの。なんて理由で応募したの。」 心の中でめちゃめちゃ問いかける毎日です。 半分くらいは知識欲なのですが… そんな時、「お坊さん」という、あまり私の身近にはいない方々に質問相談ができるというこちらのサイトを見つけました。 しかも真摯に、丁寧に、おそらく正直に回答してくださっているご様子。 私、今、喜んで質問させていただきます。 「なぜ、『お坊さん』という道を選んだのですか?」 欲張りで申し訳ありませんが、もし差し支えなければ、 「お坊さんになる前はどんな事をしていましたか?」 という疑問にも答えていただけると嬉しいです。 まとまりのない文章で、他の誰かの為にもならなさそうな質問で大変申し訳ありませんが、どうかこの個人的な疑問にお答えください。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 229
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2024/10/24

死にたい

ご相談失礼します。 私は通信制高校に通おうと思っていて。親2人にもその話はしていて母親は受け入れてくれたのですが、父親は納得がいっていなかったようで仕事から帰ってくる度説教をされていました。これはもう今に始まった事ではなくて2年前くらいからこれまでずっとです。 正直言うと私の話も聞かずに一方的に命令口調で説教をしてくる父が昔から大嫌いでした。通信高校の話をした時も私の話はスルーされ命令口調ではなかったのですがここ行けばとかそんなのばかりでした。何年も聞いてきました、それを踏まえた上でここに行きたいと言っているのに全スルー。この説教をされてる時今まで沢山高校の事を考えたり先生に相談したり説明会に行ったりしたのですが、それが全て壊されていってる気がして本当にどうしようもなく悔しくて最悪な事に父の前で泣いてしまったんです。父は泣いた私を見て何を思ったのかベタベタ触ってきたんです。頬を捕まれ至近距離で無理やり視線を合わされたり頭を撫でられたり背中を痛いぐらいに叩かれたり3回くらい息がしずらいほど抱きしめられたり。言ったら悪いのですが本当に気持ち悪くて吐きそうでそれでも逃げられなくて、でも父は構わずこんなに可愛いんだからとかアンタなら大丈夫とか、どの口が言ってるんだと思いました。今まで私の何を見て来たの?何が大丈夫なの?私の事知りもしないくせに大丈夫とか軽い言葉を使って私が今までどれだけ苦しい思いをしたか知らないくせに。 私はリアルで誰かに悩みを聞いてもらった事が今まで1度もありませんでした。ずっと一人で泣いて、その度に思ってました 誰かの胸の中で泣きたい、話を聞いてほしいと、ずっと思っていました 父に抱きしめられアンタなら大丈夫と言われた時なんでこういう時に限って抱きしめて来るのはこの人なんだろう。なんで大好きなお母さんじゃないんだろうと最悪な気分でした 父親だけならまだよかったんですが現実は甘くなく、フリースクールでも私だけ挨拶を無視されたり皆の輪から外れていたり私だけずっと1人。フリースクールなら私の居場所になってくれる思っていたのですが真逆でした。何も出来ない私が悪いんです。全部私が悪いんです。 もう何を信じればいいのかどこが私の居場所なのか分かりません。毎日こんなことを考えて私はいつ解放されるのでしょうか。全てが怖いです

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死後の世界観

 初めまして。  私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。  私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。  ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。  仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。  私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。  先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。  もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。  人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。  こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。

有り難し有り難し 78
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