八正道の正見と正思について質問があります、正しく見るとことと正しく考える。 正しくってなんでしょうか? どうなったら正しいのでしょうか? どうやって正しくするのですか? 身近な例をあげて教えていただけませんか?
仏教の修行というのは色々あると思いますが、特に孤独に修行に励むタイプの人たちって心が壊れたりしないんですか?逆に心が壊れない程度の修行だったら生温いのかなと思ったりもしますが、自己の内面においてどういう所まで行けば変化が生じるのだと思いますか? 世の中にはギリギリの精神状況で死んでいく人たちがたくさんいますが、阿弥陀如来を目指すような仏教徒たちというのはそういう人々の苦しみを理解すべく自らも苦しみと孤独の中に身を置いて修行しているのだと思いました。そうでなければ真に人生一般の普遍的な、かつ苦楽の深みみたいなところに到達できないと思ったのですが。
地獄とはいったいどんな事をされるところなのでしょうか? 八大地獄というのを聞き、この八大地獄とはどんなところなのか気になります 悪行はどんなちいさなことでも悪になって地獄なのでしょうか?
もちろん悪意あるいじめや悪行はいけません、 しかし善意での行動、もしくは悪意なくとった行動が、他人に対して 肉体的、精神的に苦痛を与えることになった場合も、 己の罪となるのでしょうか 皮肉になってしまいますが、お坊さんの言葉でさえも、聞く人によっては 毒にも薬にもなりますし、その教えによって自殺する人も 生きようと思う人もいるとおもいます 善の行為によって、他人を苦しめてしまうとき、仏教の考えでは どう対処するのが良いのでしょうか
何物にも成れませんでした。なんでこんな大人になっちゃったかな 社会不適合者です、眠れません。眠れないと延々と思考止まりません やりたいこと、全部私は実現できないものばかりで自信がないです もう28歳になります この年まで恋愛も勉強も何もしてません 生きてるのが恥ずかしいです 学生見ると羨ましくて死にたくなります しにたいです
お世話になってます。 心の苦しみへの対応の仕方についてお聞きしたく参りました。 軽く調べたところ、心の苦しみに対して2つ方法があるように感じました。 1つは心の苦しみは自らの心の癖が産み出しておるので、苦しみに対応しない、放っておき、日常生活に集中して、心の癖を変えて行く方法。 もう1つは苦しみに集中して感じきって浄化するという方法。 私の浅はかな知識と経験ではこのような書き方しかできませんが、この2つではかなり対応の仕方が違うように感じます。 今の私の実感としては、意識の深いところ、無意識レベルで苦しみの回路が出来上がっているように感じます。 どう思われますか?
私は世間的に認められた状態でなければ恥ずかしくて生きていたくありません。家族もまたそうです。 ただ、辛い事が、とても辛く感じ、誰もが出来る事を私にはできません。 死んだ方が楽に感じます。 母や兄にも迷惑をかけたくないし悲しませたくはないので、社会から消えて行方不明となり死のうかと思っています。そうすれば気にさせる事も無いかと思うので。 この暗澹たる気持ちから抜け出す事はできないのでしょうか。
怒鳴られたり、理不尽な怒りをぶつけられたときの対処法についてアドバイスをいただきたいです。 誠実なアドバイスは喜んで吸収するのですが、度々関係ない人格否定の言葉を投げられることがあります。 「お前は何をやってもダメだ!」 「親の育てが悪かったんだな」 「人間のクズ」…などなど。 私がミスしたのは私が悪いですが、何もそこまで…と思うぐらい、人格否定までしてくる人によく出会います。 ここまで怒鳴られて威嚇されると、私は怖くて意見が言えなくなります。ここで対抗したら後から怖い間に合うんじゃないか?とか1人怯えてしまいます。 共感してくれる友達や家族はいます。 ですけど、お互い傷を舐め合うような状態で前に進んでいないので、このままでは終わりがないなと思いこちらに相談いたしました。 この人たちはなぜわざわざ敵を増やすような発言をするのでしょうか? こういう人たちに対してはどういう対応を取れば良いんでしょうか? アドバイスお願いいたします。
日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m
仏教が好きで学んでいるものです。 単純な疑問があるので教えて下さい。 仏教は出家をして修行し仏になる教えだと学んでいます。 一般生活をしている私には遠い存在です。 しかし、現代の僧侶は結婚してお酒も飲んで在家の生活をしていますよね? それでは全く修行ができないと思うのですが、何を根拠に結婚しているのでしょう? 何かのお経のご文を論拠にしているのでしょうか? もしくは既に仏道修行は諦めたということでしょうか? もし結婚をしていいのならば、何故一時的にだけ出家(修行)するのでしょうか? 各宗派の考え方を教えて下さい。
今日母方の祖母を亡くしました。臨終にも立ち合いました。病気でもう長くないとは言われており、遅かれ早かれこういう時が来るとは覚悟していましたが、やはりとてつもなく悲しいです。 小さいころから可愛がってもらい、いつもにこにこしていた優しいおばあちゃんでした。あのおばあちゃんにもう会えないかと思うと悲しくて仕方ありません。今も涙が止まりません。どうすればこの悲しみを克服できるでしょうか。女々しい男で申し訳ありません。ご回答お願い致します。
いつもこちらのサイトを拝見させて頂いております お坊様方の素晴らしい回答にいつも敬服の思いでございます 近頃座間市の猟奇殺人が世間を騒がせておりますね、被害者とそのご家族を思うと胸が締め付けられるようです そこでお坊様方に質問なのですが、このような理解しがたい陰惨な事件に私達はどんな心構えで向き合うべきなのでしょうか? 私は正直加害者に対し「こんなヤツ死刑にしてしまえ」と短絡的な思考になってしまいます これで解決しない事も重々承知なのですが...つい感情的になりがちで... 仏門に入られた皆様はこの事件をどう捉えられますか?
先日、知人と議論になりました。 私は、「好き・嫌い・やりたい・やりたくないとかは、関係なく、やるべきことをきっちりとやりたい」って感じなので、どちらかと言えば、「感情排除・感情不要」だと思っています。 知人は、「何ごとも気分良くやりたいから、感情は大切だし、排除できるはずが無い」と言います。 そんな話をした帰り道、「わぁ、この置物、良いね~」「あ、梅が咲いてる」と周囲のいろんなものに反応しているのは私の方でした。 その時に、知人から「そんなにワーキャー言うのが、感情じゃないの?」って言われました。 そこで、質問です。 私のイメージする「感情と感性の違い」は・・・・。 好き嫌いなどの感情で気分が上下していると、落ち込んでいる時は風景を楽しむ余裕も無いだろうし、ウキウキしすぎて周囲が見えないのでは無いのかと思います。 気分が上下するような感情を排除することで、いつでも、同じように冷静に周囲を見渡して、いろんなものを感じることが出来る「感性」があるのではないかと思っています。 感情の波に翻弄されて、大嵐の海のように上下に揺れ動いていては何も見えないように。 穏やかな湖の上であれば、空も鳥も風ものんびりと感じることが出来るように。 感情を排除することで、より豊かな感性を磨くことが出来る。 感情を重視すると、感情だけに囚われてしまい感性を磨く余裕が無くなる。 感情に囚われない方が、いろんなことを楽しめると思うのですが、知人は「感情が大事。嫌なことは言わないで、伝えないで、見せないで、アドバイスなんて余計なお世話」と拒絶されてしまいます・・・。 感情と感性。この違いは何なのでしょうか? 私の考え方は、どうなのでしょうか? よろしくお願いします。
(編集部より。投稿の一部を変更しています) 彼氏がある宗教に入っており、 御釈迦様の力は2000年程前からなくなった。だからお坊さんになんかしてもらっても成仏できない。大聖人様を信じる人しか成仏できないと言ってます。 また、戒名や登板は金儲けでなんの意味もないと言ってます。本当のところはどうなんでしょう?
今高校生なのですが、天台宗のお坊さんになりたいです。 どのようにしてお坊さんになることができるのですか? 仏教系の大学に行くべきなのでしょうか?
初めまして。 父親が亡くなってから、3ヶ月経ちました。 仕事中に亡くなりました。原因は、会社側にあるとのことです。 家族みんな、突然の出来事すぎて、悲しいしさみしいけれど、まだ生きているようにも思います。 父親は"これから"がある年齢で亡くなりました。 孫がたくさんいます。私は、父親に孫との思い出を沢山作らせてあげたいと考えていました。 それなのに、失礼にはあたると思いますが、病死ではなく、仕事中のしかも原因は会社側にある死に方。 受け入れたくても、受け入れきれません。 相談したくて書き込んでいるのか、ただ聞いてほしくて書きこんでいるのかもよく分かりません。 気になることはあります。 ・こういう突然の死は、父親の運命?だったのか。 ・父は、あの世という世界へいけているのか。 この2点が気になります。 お坊さんの経験談?でもいいので答えていただきたいです。 あと、夢に父親が出てきます。亡くなったばかりの頃は、父親から大丈夫と聞かれました。 最近は、夢の中で私は生き返ったと思っているのですが、身内ではなく他人、医療系?の人に死んでるんだからかわいそうだよと言われました。 何か意味はあるのでしょうか。私が考えすぎなのでしょうか。 乱文になってしまいましたが、なにか一言でもいいので、いただけたらと思います。よろしくお願いいたします。
こんにちは。「葬式仏教」批判についての質問です。 時々ネット等で「お釈迦様は葬式をしたりお墓を作ることを否定した。だから日本の仏教は本来の仏教からかけ離れている。」といったコメントを見かけますが、お釈迦様は本当に葬式やお墓を作ることを否定したのでしょうか? この話の根拠とされる涅槃経(現代和訳)を読んだのですが、お釈迦様は自身の葬式について非常に細かく指示をだしており、さらに「遺骨は塔を作ってそこに収めよ」などお墓を連想させる記述もあり、少なくとも葬式やお墓を否定しているようには思えませんでした。 以前からこういった「日本仏教は本来の仏教じゃない!」といった批判に疑問を抱いていたので、この場をお借りして質問させて頂きました。 よろしくお願いいたします。
久しぶりの質問させて下さい。 2点質問があります。 1)倶会一処の話を聞いて、お釈迦様や親鸞聖人など、歴上の人物(仏)にあえますか? 生で、説法を聞いてみたい。でも梵語わからんなー。言葉通じるかな? 2)西方極楽浄土は、極めて楽しいところ(国)?それとも極めて楽ちんなところ(国)? 金銀ギラギラは落ち着かないな・・ なんて、小学生みたいな質問ですが、回答頂ければ幸いです。
縁起にも様々な種類が有りますが、釈迦や龍樹が説かれた縁起の違いとは何でしょうか? また、縁起=空=無自性は恒常不変である万物を想定しませんが、縁起の働きそのものは永遠ですか? それとも縁起自体もやがて死滅する物でしょうか? もし縁起が死滅するとして、その後に訪れるのは一体何だと思われますか?
はじめまして。よろしくお願いいたします。 私はこれまで、病気を抱えながら働いてきました。仏教の話に限らず、誰かと生きる意味などの話ができればと思います。 そのような集会はお寺などで行われていないでしょうか。 それから、お経をあげる意味とは何でしょうか。 今私が苦しんでいるのは、供養されていない霊の憑依があるからだという人もいます。 お経をあげることで、供養されるそうですが、私がお経をあげると、先祖が喜んでくれるのですか? 私は以前、お経をあげたり、瞑想したりしていましたが、本当に効果があるのかと思ってしまい(不遜な考えですが)、やめてしまいました。 しかし、このままだと、何かむなしい感じがしております。信じられるようになりたいです。そんな疑問から、このページを訪れました。 どうぞ、よろしくお願いいたします。