今日、ふっと思った事の答えを教えて欲しいです。 この世には色々な宗教、宗派がありますが、基本的には人々を幸せに導く為や心の拠り所として神や仏というものが存在しているんだ思います。 しかし、事件や事故に巻き込まれて突然命を奪われて亡くなる人もいたり、生まれつき障害や病気を抱え生涯苦労したり生まれてすぐ亡くなる子供がいたりします。 また、生まれ育った環境で心に傷を負ったまま生きていかなければならない人達もいます。 第三者は同情したり励ますだけで終わってしまいますが、当事者やその家族は「なぜ?」「どうして?」と言う疑問や悲しみだけしか残りません。 人は神や仏に助けを求めたり幸せになれる事を祈り信仰してるんだと思いますが、なぜこの様な差と言うか違いが生まれるのでしょう? 当事者や家族にしてみれば祈りや信仰は何の意味も無いし、悲しみを癒してくれるものでもないと思ってしまうのではないでしょうか? そう思うと神や仏とはいったい何の為に存在してるのでしょうか? 私の友人の奥様は5歳の子供を事故で亡くし、その後生まれた子供もわずか6ヶ月で病気で亡くしました。 奥様は廃人同然の様になり今も精神科で入院しており、友人も以前とは見る影もない程落ちぶれてしまいました。 きっと幸せな生活を夢見てたと思います。 ニュースで土砂崩れに巻き込まれて21歳の女性が行方不明になっているのを見て、その女性もこれからの人生に夢と希望を持ってたはずだろうなぁと思っていた時、神様って何なんだろうとふっと思ってしまいました。
ここで苦しみについての皆様のたくさんのお答えを拝読しました。 苦しみは妄想である、頭が作り出す幻であるというお答えに関して私はなるほどなと思いました。 だけど私にはこの苦しみが私が作り出した幻だとはどうしても信じられません。幻にしてはあまりにも強く、実体があり、私の力をはるかに超えていて抗いようがあません。 いくらお前は幻だと言っても、いつもそれは過去から私を追いかけてきて、私をあっさり捕まえてねじ伏せてしまうのです。なぜ私が作り出したはずの幻が、現実に生きる私よりも強い力で私を傷つけるのでしょうか。
人間とは偽善と悪の塊だとは思いませんか?
八正道の正見と正思について質問があります、正しく見るとことと正しく考える。 正しくってなんでしょうか? どうなったら正しいのでしょうか? どうやって正しくするのですか? 身近な例をあげて教えていただけませんか?
仏教の修行というのは色々あると思いますが、特に孤独に修行に励むタイプの人たちって心が壊れたりしないんですか?逆に心が壊れない程度の修行だったら生温いのかなと思ったりもしますが、自己の内面においてどういう所まで行けば変化が生じるのだと思いますか? 世の中にはギリギリの精神状況で死んでいく人たちがたくさんいますが、阿弥陀如来を目指すような仏教徒たちというのはそういう人々の苦しみを理解すべく自らも苦しみと孤独の中に身を置いて修行しているのだと思いました。そうでなければ真に人生一般の普遍的な、かつ苦楽の深みみたいなところに到達できないと思ったのですが。
真宗大谷派の門徒です。 仏教に興味があります 法蔵菩薩は、48の誓願をかがえて阿弥陀如来になったと言われてますが、最後に誰を救って如来になったのでしょうか? 人や菩薩は次々と生まれ、南無阿弥陀仏と唱えていくので、終わる事のない営みの中で、「これでよし如来になれた‼」と言うタイミングは何時、誰を救った時なんでしょうか? それと すでに阿弥陀如来に救われているとよく法話で説かれてますが、「救われている」自覚ないのは信心がないのではと思います。 救われていると言う感覚(自覚)はどのように感じるのでしょうか?
地獄とはいったいどんな事をされるところなのでしょうか? 八大地獄というのを聞き、この八大地獄とはどんなところなのか気になります 悪行はどんなちいさなことでも悪になって地獄なのでしょうか?
もちろん悪意あるいじめや悪行はいけません、 しかし善意での行動、もしくは悪意なくとった行動が、他人に対して 肉体的、精神的に苦痛を与えることになった場合も、 己の罪となるのでしょうか 皮肉になってしまいますが、お坊さんの言葉でさえも、聞く人によっては 毒にも薬にもなりますし、その教えによって自殺する人も 生きようと思う人もいるとおもいます 善の行為によって、他人を苦しめてしまうとき、仏教の考えでは どう対処するのが良いのでしょうか
何物にも成れませんでした。なんでこんな大人になっちゃったかな 社会不適合者です、眠れません。眠れないと延々と思考止まりません やりたいこと、全部私は実現できないものばかりで自信がないです もう28歳になります この年まで恋愛も勉強も何もしてません 生きてるのが恥ずかしいです 学生見ると羨ましくて死にたくなります しにたいです
お世話になってます。 心の苦しみへの対応の仕方についてお聞きしたく参りました。 軽く調べたところ、心の苦しみに対して2つ方法があるように感じました。 1つは心の苦しみは自らの心の癖が産み出しておるので、苦しみに対応しない、放っておき、日常生活に集中して、心の癖を変えて行く方法。 もう1つは苦しみに集中して感じきって浄化するという方法。 私の浅はかな知識と経験ではこのような書き方しかできませんが、この2つではかなり対応の仕方が違うように感じます。 今の私の実感としては、意識の深いところ、無意識レベルで苦しみの回路が出来上がっているように感じます。 どう思われますか?
私は世間的に認められた状態でなければ恥ずかしくて生きていたくありません。家族もまたそうです。 ただ、辛い事が、とても辛く感じ、誰もが出来る事を私にはできません。 死んだ方が楽に感じます。 母や兄にも迷惑をかけたくないし悲しませたくはないので、社会から消えて行方不明となり死のうかと思っています。そうすれば気にさせる事も無いかと思うので。 この暗澹たる気持ちから抜け出す事はできないのでしょうか。
怒鳴られたり、理不尽な怒りをぶつけられたときの対処法についてアドバイスをいただきたいです。 誠実なアドバイスは喜んで吸収するのですが、度々関係ない人格否定の言葉を投げられることがあります。 「お前は何をやってもダメだ!」 「親の育てが悪かったんだな」 「人間のクズ」…などなど。 私がミスしたのは私が悪いですが、何もそこまで…と思うぐらい、人格否定までしてくる人によく出会います。 ここまで怒鳴られて威嚇されると、私は怖くて意見が言えなくなります。ここで対抗したら後から怖い間に合うんじゃないか?とか1人怯えてしまいます。 共感してくれる友達や家族はいます。 ですけど、お互い傷を舐め合うような状態で前に進んでいないので、このままでは終わりがないなと思いこちらに相談いたしました。 この人たちはなぜわざわざ敵を増やすような発言をするのでしょうか? こういう人たちに対してはどういう対応を取れば良いんでしょうか? アドバイスお願いいたします。
日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m
仏教が好きで学んでいるものです。 単純な疑問があるので教えて下さい。 仏教は出家をして修行し仏になる教えだと学んでいます。 一般生活をしている私には遠い存在です。 しかし、現代の僧侶は結婚してお酒も飲んで在家の生活をしていますよね? それでは全く修行ができないと思うのですが、何を根拠に結婚しているのでしょう? 何かのお経のご文を論拠にしているのでしょうか? もしくは既に仏道修行は諦めたということでしょうか? もし結婚をしていいのならば、何故一時的にだけ出家(修行)するのでしょうか? 各宗派の考え方を教えて下さい。
仏教と言ってもいろんな宗派があるようですが、それぞれどう違うのですか?難しいことはわからないので、一言で特徴を教えてください。 例えば浄土真宗だと「他力本願」ですか?
生まれる前に決められた”生きる時間”があるとして、その途中で生きるのを自らやめてしまった人はどうなると思いますか。 病死や老死などの、人生を真っ当に生きた人と、自ら命を絶ってしまった人では魂の行先は違うと思ってます。 自殺したら楽になるとよく言ってる人を見ますが、本当に楽になれると思いますか…?。 私達は私達の世界しかしらないだけで、その後の世界のことを知りません。 ”その後”に何かがあるのかもわかりません。 だからこそ”楽になる”と、なにもわからないのに言います。 自殺をしたら、どのくらい苦しいことが待ち受けていると思いますか…?。
以前にも毎日のお勤めという事でお世話になりました。その節はありがとうございました。 あれから、毎日の生活ペースは父が亡くなる前に戻りつつあります。母の悲しみの表し方も私の受容範囲です。 でも・・・何故か私の心が 日を追うごとに不安定になるのです。 母の前や、妹、私の子どもには決して涙も感情も見せないようにしています。 でも・・・1人の時や、例えば仕事中に父の亡くなる前の日付の書類を見るだけで、涙が溢れてきます。 父とは複雑な関係だったので、余計にあれこれ考えてしまいます。 もっと話がしたかった・・・・・とか、私に言いたいことはない?とか 今どこにいるの? あちらの世界って本当にあるの?とか 誰にも言えないんです。私が頑張らなきゃいけないとついつい思ってしまうから。 泣き言・・・・・言えないんです。 私はどう気持ちを整えていけばいいでしょうか?
仏教以外の様々な思想が存在するこの世界で、お坊さん方々は何故、仏教を選んだのですか?「実家がたまたまお寺だったから」とか、「娑婆を捨てるつもりで仏門へ」などのきっかけがあったと推測しますが、今現在もお坊さんであり続け、仏教を信じ続ける理由って何でしょう(「坊さん=ただの職業」論の僧侶は除きます)。 例えば、哲学の普遍的テーマは「幸せとは何か」ですが、継がなければならない寺などない自由の身であれば、これが人生のテーマだという人は仏教じゃなくて哲学でもいいですよね。でも、仏教一本に決めちゃう人もいる。すると、個人としては哲学を学ぶことは出来るけれど、僧侶という立場上、仏教の教えに反することは表立って言えなくなったり、思考を限定されたりすることもあると思うのですが・・・実際はどうなんでしょう。
幸せとはなんでしょうか? 食べる物もなく、生活もギリギリになると幸せとは何かを考えてしまいます たとえ愛する人が側にいたとして、その人を幸せにすることができるのでしょうか? お金があり、仕事もあり、家族がある人でも死を選ぶ人もいます このまま同じ生活がいつまで続くのかと考えると恐怖しか感じません 幸せとは、人生においての希望とはなんでしょうか? 信頼、愛、信仰心があったとしてお金が無いと生活はできません 逆にお金があっても人との繋がりが無い人も多くいます。
今日は初めまして。 私は三十代の男ですが、三年前から病院からうつ病と診断されて通院していますがいっこうに治る気配がありません。 仕事は会社員ですが上司とも馬が合わず日々、ストレスが溜まるばかりです。うつ病になってからは希望が持てず夜も眠れない状態が続き、薬を飲んでいますが頭がぼーっとするようでかえってうつ病が悪化しているのではないかと思っています。 何卒よろしくお願い致します