前の話と似たような内容なのですが、同じ職業(画家)の好きな人と疎遠になっています。 母親曰く「待て」と言われてます。 向こうの方が立場が上なので、まずは実力をつけろと言われてます。会うのはそれからでもいいだろうと。 私の中に、なんでこんなに頑張らないといけないんだ、という焦る気持ちと、 頑張って違った新しい自分という土俵でまたお会いできたらという気持ちがあります。 焦っている時、イライラして家族にも邪見にされるときがあります。 また逆におろおろしまってもっとゆっくり物事を進めなさいともいわれます。 親の言うことは正しいと思っているのにイラっとすることもあります。 でも待ちながらそれが正解だと感じることもあります。 画家の仲間が増えて、みんな同年代の人は凄く苦労されてその中でも夢に向かってひたむきに頑張っている。中には同業者に貶されている人もいる方もいますしバイトしながら、別の仕事をしながら頑張っている人も。 年上の人達は年上の人たちでライバルがいて、年下の人たちに追い上げられそうになる中、孤高に取り組んでいる方もみられます。 もっと年上の人は本当に素晴らしい絵を描くのに、それでも絵の事で悩んでいる人も見ました。 私も貶されたり叱咤されたこともありますが、励まされたり期待されたりしながらやってていて、しかも家族も一応応援はしてくれてるので救われてる方だなと思います。仲間の話をネットや現実で聴くのもためになっています。 そういう人たちを見てると、その人がきっかけで待っていた縁のパワーって侮れないなと感じました。 仕事を極めるというのは難しいですね。 もっとゆったりとした心で仕事や日常に向かい、精進したいと思ってますが、 中々できない自分に悩んでます。でももっと視野を広げて縁のパワーを広げたら、いつかまたその人に仕事を通じて出会えるんじゃないか、同業者として支えられるぐらいの力が持てるんじゃないかという不思議な気持ちがしています。 こういう待つ縁の話は、仏教のお話にもあったりしますか?
こんにちは。「葬式仏教」批判についての質問です。 時々ネット等で「お釈迦様は葬式をしたりお墓を作ることを否定した。だから日本の仏教は本来の仏教からかけ離れている。」といったコメントを見かけますが、お釈迦様は本当に葬式やお墓を作ることを否定したのでしょうか? この話の根拠とされる涅槃経(現代和訳)を読んだのですが、お釈迦様は自身の葬式について非常に細かく指示をだしており、さらに「遺骨は塔を作ってそこに収めよ」などお墓を連想させる記述もあり、少なくとも葬式やお墓を否定しているようには思えませんでした。 以前からこういった「日本仏教は本来の仏教じゃない!」といった批判に疑問を抱いていたので、この場をお借りして質問させて頂きました。 よろしくお願いいたします。
煩悩と欲求、自我についてお伺いいたします。 生理欲求や安全欲求については理解できるのですが、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求など、これらの欲求と欲望の区別がつきません。 例えば学びたい欲求、修行したい欲求も欲望(煩悩)と考えるべき対象となるものでしょうか。 欲求や欲望(煩悩)の判断についてご教授下さい。 また、座禅などを行うときに「自我をなくすように努めましょう」と伺うことがあります。 そもそも「座禅をしたい」自我がないと座禅ができないので、座禅はしてならないことになるのでしょうか。 欲求、欲望、煩悩、自我、この言葉の意味や判断、体現について、どう考えるべきでしょうか。 併せてご教授いただけますと幸甚です。 よろしくお願い申し上げます。
以前の2回の相談では大変お世話になりました。あれから絵については難しいことはせず、3分間スケッチを続け、仕事も復帰して数ヶ月になります。お答えくださった お坊様方、ありがとうございました。 さて今回は厄年について質問があります。 付き合っている彼が今年大厄を迎えるので心配になり、神社かお寺に厄祓いに行こうと提案したところ、生来面倒くさがりで宗教を信じない彼は、迷信のためにわざわざお詣りに行くのは嫌だと拒否され、その日はケンカになってしまいました。私が本気で心配したのには、母から大厄の歳には必ず悪いことが起きる、特に身内に不幸があるという言い伝えのようなものをずっと聞かされてきたからです。実際父も大厄には遠方に転勤になり、祖父が亡くなりましたし、私も大厄には最愛のペットを亡くし、その後の厄年には(歳がバレますね(笑) 体調を崩し休職しました。 彼が厄祓いを拒否していることを当の母にポロリと話したところ、母は今度は家によって慣習が違うかもと言い出しました。 遠縁のおばさんの一家では、厄年の歳には神社に寄進し、友人親類には贈り物をし、周りの人にはとにかく親切にする、つまり施しをして厄を祓う習慣があるそうです。 少し調べた限りでは厄年に対する考えや行いは地域によって様々あるようです。厄というものはどちらかというと神道の分野ですが、仏教では厄というものをどのように見做しているのでしょうか?そして私は厄年にどう恐れずに向き合っていけば良いのでしょうか?仏教からの見解をどうかお聞かせください。
今年本厄の大厄なのですが、年が明けてから実家(岩手県釜石市)の近くにある神社に行って、私と旦那さん、私の両親にお婆ちゃんの5人で厄払いをしてもらいに行きました。。 お祓いをしてもらった後、お清めのお酒と御守りを頂きました 私は今年本厄で、旦那さんは後厄なので御守りは二つ頂きました 御守りは小さな袋に入れ、毎日首にぶら下げていました 寝る時に「ありがとう」と言っていました それなのに…お風呂に入る時に御守りがない事に気付きました 会社のロッカーにわすれたと思い、次の日会社のロッカーも見てみましたがありませんでした… 今思えば、御守りを入れていた袋に、自分の連絡先を書いた紙も入れておけばよかったと後悔しております。。 こういう場合、こうしたほうがいいとかあったら教えて頂きたいです 宜しくお願いします
お世話になっております。毎回暖かいご回答を頂き、心から感謝しております。ありがとうございます。 私は日常生活の中で、「今ここに私が存在している」と実感すると、怖いと思うことが頻繁にあります。 どうして今、事実としてここに存在して、世界を五感で感じているのか?と思うと深みに嵌り、宇宙が何故存在するのかわからない事や死、消滅の恐怖と連動してより怖くなります。 今あるものは全ていつか無くなる。その時私はどうなるのでしょう。体も心もバラバラになって、生きていたことも忘れ、家族とも離れ離れになり、今後文字通り永遠に元(私)に戻る事なく、その後どうなるかもわからないなんて、これ以上に怖い事はありません。 それなら、今の私はなんなのでしょう。 私も宇宙も消えてしまうという強烈な事実を前に、恐怖に慄くことしかできません。 存在に関する根源的な疑問が、絶対に解決されない事が怖いです。結局、誰も本当のことは知らないまま、生まれたから生きて、死ななきゃいけないから死ぬ。絶対的な力に翻弄され、絶対に逃げられない。それが、凄く怖いです。 以前、縁起と空についてご教示頂き、大変勉強になりました。本当にありがとうございます。 頭では分かるのですが、どうしても「何故か今存在しそのうち消滅する恐怖」が理屈を上回ってしまいます。 私は、欲を言えば、このような恐怖や不安をなくす事が人生の目標です。勿論、それ以外のやりたい事をやりつつではありますが、死ぬまでに自分なりにこの疑問にケリをつけたいと考えています。 お坊さん方は、このような「生きてしまっている事実」「そのうち消滅する事実」にどんな心持ちで向き合い、どのように自分の気持ちと折り合いをつけているのでしょうか? 私は、具体的に何をすれば怖くなくなるのでしょうか。 また、もし解説として分かりやすい本などございましたら、教えて頂けると嬉しいです。 恐怖に襲われる毎日が、とても辛いです。 お時間ある時で大丈夫ですので、宜しければご回答頂けますと幸いです。よろしくお願い致します。
こんばんは。智慧を貸してください。 私は自分自身の目、鼻、口、耳、肌で感じるものが事実・真実 頭の中の考えごとや不安、過去や未来のことが妄想と認知しています。 しかし、ネットやテレビなどで観るニュースや事件等は、世の中の何処かで起きている事実… 頭の中でそのニュースに対して考え事をしてしまい、これは事実か妄想かと幾度も捉われてしまいます。 人から事実か妄想か自分で結論を出したことはあるのと聞かれた時、テレビ・ネットでニュースを見たということは事実で、それについて深く考えだすと妄想だと思うと考えを口にする事は出来ました。 その時は、自分はこう考えているのだなと理解して悩みが消えるのですが、少し経つと同じように事実か妄想かと悩んでいます。 長い間、同じ疑問や自分の中の問題にモヤモヤしてしまっています。 長くなってしまい、ごめんなさい。お力を貸してください!
今日、我が家の犬が旅立ちました。 ペットは今や【家族の一員】とまで言われています。 そんな大切な家族(所謂、動物=畜生)のお弔いについて、 家族内で意見が分かれてしまいました。 父は『家族であっても、そこは畜生だから、お弔いしなくても良い』 子供は『大切な犬だったけど、人ではないので収骨まではしたくない』 私は『お経をあげてもらって、少しでもあの世で楽になれば』 家族内でも様々なので、仏教でも様々な捉え方があるのではないかと疑問がわきました。 我が家は曹洞宗ですが、祖父母は「もんとさん」(すみません正式名称忘れました。)、本家には「馬頭観音」があったり、 前に飼っていた猫が死んだ時は日蓮さんにお経をあげてもらった記憶があったりと、今まで様々な仏教に触れる機会がありました。 それぞれの宗派の中で【動物】や【畜生】に対してはどのような定義・教え・考え方なのでしょうか。 是非、ご教示いただけますでしょうか。 お忙しいとは思いますが、宜しくお願いいたします。
私は大学院生です。5月ごろ糸が切れたみたいに何も手につかなくなり、そこから1ヶ月は動けずにただ死にたいなぁ、と思いながら過ごしました。薬を処方されましたが気持ちは塞ぎ込んだままでした。両親や先生がとても良い人達なので、勧めてくれるままに休学することにしました。 気分がいい時に本を読みはじめました。その中に一般向けの仏教の本がありました。興味深いものでした。 心の働きと体によって引き起こされる感情の働きは別のものであると考えると心が整理できました。 自分と世界の境界はなく、全てが平坦に繋がっていることを感じます。すべて同じ温度です。 私の世界は私だけのものであり、どうあっても私たちは孤独なのだと思いました。 五感で感じるものは自分の脳が処理したものであり、世界が「本当」である確証はない。 本当のことは「そう考えている自分」を観察している私の視点だけです。 ずっと死にたかったのに、死ぬことにも生きることにも意味はないことが今ではよく分かります。 両親に顔色がよくなったと言われました。今はまだ動けませんが、元気になっていくのだと思います。 ただ、価値観の変化に戸惑いも感じています。 三浦春馬くんが自殺したニュースを見た時、以前なら「どうして」「悲しい」と思ったはずです。ですが私は「彼は決めて、実行したんだな」とだけ思いました。自分の変化に驚きました。世間が彼のニュースに過敏になる気持ちがもはや全く分からないのです。 それからテレビは見なくなりました。SNSもすべて辞めました。 最近、人間が本物だと思えないのです。 他人を見て、心が冷え切ることがあります。彼らの話す言葉や動作は愛せても、彼らという個体に価値を見出せないのです。 神も仏もないのと同様に、この人を大切にする理由もなければ傷つけない理由も無いのだ、 社会のルールは人間が作った洗脳であり、本来そこには何も無いのだという考えが離れません。 本にあったので試しに一万円札を破いてみました。簡単に破けました。私を縛るルールがとても陳腐に思えます。 本当に人間は、私を含めて大切で本物でしょうか? 暴力的な感情ではありません。心はずっと静かです。このまま誰かを傷つける人間になるのでしょうか。すでに私の考えはそれを否定できません。 私はどこで間違った考えをしているのでしょうか。未だ鬱であるだけなのでしょうか。
今回もお坊さんの意見を聴きたく、再度質問させて頂きます。 悪人だった人が更生したり、他人に優しさを見せたとしても、元々普通に生きていた人や優しい人がいるから、更生や他人に優しくする事自体が普通であり、褒められることではないという意見がSNSやインターネットでよく見られます。 ただ、私はこの意見に少し疑問があります。 確かに、元々優しい人がいるのは事実であり、その人は褒められ、賞賛されるべきであると思いますが、それが悪人であったとしても同様であると自分は思うのです。そもそも、その人が悪人になってしまったのは相応の理由があるかもしれませんし、周囲の環境が悪く、他人のことを考える暇がなかった可能性があると思います。また、これは自分の考えになりますが、周囲に優しさを見せる事によって、褒められる、賞賛される事実を見せて、他人に優しくする事へのメリットを見せた方が、その人にとっても、周囲の人にとってもそちらの方が平和であると思っています(見返りが返ってくる前提の優しさはどうかと自分でも思ってしまいますが) ただ、自分と同じような意見が少なく、これは自分が間違ってしまっている可能性があると考え、また再度、お坊さんの意見を聴きたいと考えました。 お坊さんは悪人の優しさについて、どのように考えますか?ぜひお聞かせ願いたいです。よろしくお願いします。
私は中2の頃からインターネットで素人が書いた小説を読むのが好きです。 3日前、「人生でこんなに面白いストーリーは読んだことないわ、作者天才かよ!!」て思うくらい面白い小説を見つけて最終話まで夢中になって読みました。他のと比べて、大河ドラマかよ!ってくらい長編だったので、物凄く感情移入しましたし、好きなキャラクターもいました。たまにストレス展開もありましたが、10話に2回は「まじ作者天才かよ!」って悶えてました。(あ、言い忘れてましたが恋愛です) その3日間は凄く幸せでした。冬休みだったので一日中ずっとスマホと向き合っていました笑。 ついに、最終話でした。お風呂に入る前に全話読みたかったのでだいぶ夜遅くになってしまいました。主人公の運命はどうなるんだろう……という八方ふさがりでした。作者はどんでん返しが凄い上手くて、伏線も巧妙だったので、きっと主人公は救われるに違いないと信じていました。そして主人公はいつも主人公のことを土壇場助けてくれるキャラクターに助けられるんです。(嫌な奴ですが、主人公の為に動くいい奴で、つい最近はじめて感情を露わにしてそれはもう悶えに悶えました。ちなみに推しキャラでs(以下略)) でも主人公はその救いの手を払って、推しキャラを眠らせてしまい……。 主人公はもともと生まれながらにして生贄になる運命だったんですよね。そのまま主人公は大切な人たちを守るために生贄になるんです。せめてそこに推しキャラがいたらまだ良かったんですけど眠らせたまま主人公は生贄になっちゃったんです。 え?どんでん返しないの?うそでしょ? まさかのバットエンドに頭が真っ白になり、昨日の夜は頭痛ど不安が止まりませんでした。 主人公を愛している人は沢山いましたし、主人公が生贄になったあと、周りの人たちがどうなってしまうのかが不安でした。でもエピローグも後日談もないんです。最後に更新されたのは確か4年前でした。 こうやって書いている今は平気なんですけど、テレビから流れる言葉や目に入る文字で小説の内容をいちいち思い起こしてしまったり、午前中はずっと泣いてて本当に疲れました。 自分でも馬鹿だなと思うんですけど、胃痛と頭痛がするし、食欲が全然ないです。親にも「架空の話なんだから」と相手にしてもらえません。 どうやったらこの心の痛みを直すことはできるでしょうか……。
仏道的な歩み方をしていれば、苦しくなくなりますか?
久しぶりの質問させて下さい。 2点質問があります。 1)倶会一処の話を聞いて、お釈迦様や親鸞聖人など、歴上の人物(仏)にあえますか? 生で、説法を聞いてみたい。でも梵語わからんなー。言葉通じるかな? 2)西方極楽浄土は、極めて楽しいところ(国)?それとも極めて楽ちんなところ(国)? 金銀ギラギラは落ち着かないな・・ なんて、小学生みたいな質問ですが、回答頂ければ幸いです。
縁起にも様々な種類が有りますが、釈迦や龍樹が説かれた縁起の違いとは何でしょうか? また、縁起=空=無自性は恒常不変である万物を想定しませんが、縁起の働きそのものは永遠ですか? それとも縁起自体もやがて死滅する物でしょうか? もし縁起が死滅するとして、その後に訪れるのは一体何だと思われますか?
こんにちは! 悩みでも何でもなくどうでもいい質問ですが、どうぞよろしくお願いします。 妄想ですが、お釈迦様が説法をしていた時にそこにいた誰かがすかしっ屁をし、あまりにも臭かったとします。そのときお釈迦様は、その臭いを観察するだけで無反応だと思いますか? また答えてくださったお坊さんは、どんな反応をなさいますか? 僕は家族がクッサイ屁をすると、キレそうになりながら違う部屋に行きます。なるべく怒りを生み出さないように心掛けていますが、まだまだですね...。
彼とは婚活サイトで知り合ったのですが、婚姻歴は『ある』との表記のみでした。 私もバツイチなのでお互いに離婚歴があることで深い話もでき、人柄も穏やかで話も合うことから将来的にも一緒にいられるかなと思い、お子さんが2人いる事や今後のことも含めて(前妻の元にいます)告白されてから1ヶ月ほど熟考してからおつき合いをスタートさせました。 順調に交際が進み1ヶ月が過ぎ、将来の事も話すようになり、彼のことが更に好きになってきた矢先に、実はバツ1ではなくバツ2だと告白されました。 私の前の結婚では相手への信頼が崩れ(相手のモラハラが原因です)夫婦間の信頼がとても大事だと実感しました。自分、相手、家族など、これからのことも考えて抜いて決心したのに、なんでつきあう前にそんな大事なことを言ってくれなかったのだろう、と少し不信感を抱いてしまいました。 彼は前々回の結婚は若い時で期間も短く子供もおらず、前回の結婚は子供がいることで進行形で前妻と関わることも多い為、私に詳しく説明しないといけないと思い、前々回のことを話す事を忘れてしまっただけで、隠していた訳ではない。 つきあいが始まった数週間後に言っていなかった事に気がついて、話そうとしたがなかなか言い出せなかった。とのこと… 私も過去は変えられないことは承知してますし、もし初めからわかっていればそれも含めて考え、おつき合いを始めていたかもしれません。 しかし、故意ではないにしろ後から事実を告げられ少なからずショックを受け、少し冷静になって考えさせて欲しい、と申し出ました。 すると彼は何を考えるの?バツ1も2も自分は自分で何も変わらない、築いてきた信頼がそんなに簡単に失われるの?と言いました。 彼の2回の離婚の理由は聞き、相手方に原因があるように感じましたが、彼からしか聞いていないので実際はわかりません。 私の家族にも離婚した時にたくさん心配をかけているので、彼がバツ2という事でまた心配をかけるのではないかと不安になります。 きっと彼の人柄を知ればわかってもらえるとは思いますが、世の中は始めに聞いた情報だけで判断されることも実際には多いと思うのです。 そこを私が彼を守れるのか… 彼の言うことを全て信じて良いのか… 不信感を払拭できるのか… 彼との関係も大事に育てたいからこそ悩んでいます。 アドバイスが頂けると大変嬉しいです。
お世話になります。 月命日はなんのためにあるのでしょう? 命日は命日。一年にその日だけのはず。 故人を忘れないため? 大切な人を、忘れるわけがありません。 忘れるくらいのおつきあいなら、 それも必要ない気もします。 毎月、住職さんが来てくださるので 夫も私も、住職さんによいお話を 聞かせて頂いて、癒される日に なっています。 彼方の娘にとって、月命日は どういう日になるのですか?
常日頃死ぬことばかり考えてしまいます。 苦しんでいる要因は確かにありますが、それが解決しても私には自殺することが1番楽しいことであり、幸せになれる方法だと思っています。 しかし自殺することは多くの人に迷惑をかける行為でもあります。 どうか今の私に生きる意味・目的、もしくは気軽に生き続けることができるような助言を頂きたいです。
お忙しい中、私達の悩みに真剣に答えてくださり、ありがとうございます。 今回は私の仲良しの友達の事でききたいことがあります。 友達のお父さんが去年亡くなって、葬儀の際、里のお寺は離れてるため近くのお寺の和尚様で宗派は違うけれど、お経をあげてくださる方に頼んだそうです。 今年の初盆は、和尚様を呼ぶこともなく お経もあげなかった。そうです。 友達は 気にしてましたが、お母さんが全くの無信心だそうです。 亡くなった方にお経をあげる事はどのような意味があるのでしょうか? また、全くの無信心でも何の障りもなく、幸せに暮らし、とても前向きなお母さんです。 私の育てられた環境からだと、仏様を大事にしないと何か悪い事がある!みたいな感じなので… 僧侶の方の考えを伺いたく質問させて頂きました。
承認欲が自分にもあると理解できれば、楽になるし、誰かに認められたところで、一体なになる?と冷静に考えられるようになる、本当にそれが一体なんだというのでしょう?と、ある本に書いてあるのです。 質問です。 例えば職場の人など、立場がいずらくなるとこまる人たちに、認められない=嫌われた場合、今の私には大変つらいことなのですが、承認欲を本当に理解すれば、そのようなときも楽でどうでもよくなるのですか? 嫌われても、毎日平気で過ごせるようになるのですか? 今は理解できて少し楽になってるようで、まだまだ理解できていないということでしょうか?