hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「 お墓 」
検索結果: 1894件

父の突然死

先月の暮れに父が自宅で突然亡くなりました。 前日までスキーに行っていた父 よくスキーの次の日は仕事を休んでいました。 私はその日夜勤明けで朝家に帰って 家の鍵が開いているので誰か家にいるのかと思いました。 寝ようと思い自分の寝室へ行くと父の部屋に父が寝ていました。 そのとき私はお父さん寝てるんだと思いました。 私が起きたときも少し覗いてお父さんまだ寝てるとしか思いませんでした。 そのまま声もかけず何もせず友達と飲みに出かけました。 したら夜22時ころ母から連絡がきました 早く帰ってきてと。 私は一瞬でなんであのとき声をかけなかったんだろうと思いながら家に帰りました。 そこにはもう冷たくなっていた父の姿がありました。 私は自分のせいじゃないかなと思いました。だけど死亡推定時刻は私が朝帰ってくる前でした。 いつも通りの寝顔で寝姿でまさか死ぬなんて思っていなかったくらいの父の元気な姿を見ていたのでとてもびっくりしました。 とっても泣きました。 いつもある生活が、お父さんがいてこそのものだったこと たくさん気づいたことがありました。 また、これからお父さんにしてあげたかったこと、 お姉ちゃんのようにウェディングドレス姿を見せて、孫の顔を見せてあげたかった。 思えば思うほどいろんなことがあります。 生前父と仲が良かったのかと言われればそこまで仲良かったわけでもなく だから、余計に悔しさや哀しみがあります。 だんだんと日常に戻っていく中で 泣くタイミングというのもわかりません。 本当はものすごく泣きたくなるときもあります。 友達と会ったときにも本当はお父さんの話を聞いて欲しくて、泣きたくて でも我慢してしまいます。 今でも、 なんでお父さんだったんだろうと 思ってしまいました。 父は60歳でした。 早いと思いました。これから定年迎えて第二の人生を楽しもうとしてたところでなぜ。お父さんなの。と 文がまとまらないのですが、 身近な人の死を経験したのが初めだったので、少し話を聞いてもらいたい気持ちもあり投稿させてもらいました。

有り難し有り難し 172
回答数回答 2

長女が家を出るのは親不孝ですか?

私は現在、地元で働いています。両親ともに健在です。 幼い頃より、「長女のお前が婿をとって家を守るべき」、「長女が家をでるのは今後一切縁を切るということだ」と言われて育ってきました。 しかし、この窮屈な生活が嫌で、地元から離れたい一心で県外の大学へ進学しました。 家を離れてもなお続くメールや電話での両親の過干渉ぶりに「親の言いなりになりたくない」「好きで長女になったわけではない」と反発心ばかりが大きくなりました。 そこからわけあって地元で社会人をスタートさせることになってしまいましたが、やりたい仕事をあきらめきれず、現職のまま転職活動をはじめました。運よくいいお返事ももらえそうです。 しかし、いざ転職が現実的になってくると、「長女なのに」という言葉が胸に引っ掛かり、「私はただの親不孝なのではないか?」と感じるようになってきました。 私は実家の近くに職場があり、転勤もない安定した公務員です。親を見るには最高の環境なのに、長女のくせに「東京で暮らしたい」、「好きな仕事がしたい」という憧れだけの理由でそれを手放そうとしているのが、親不孝に思えて仕方ありません。 また、次女が大学卒業で地元に帰ってくることになり、転職・上京に賛成してくれているのですが、面倒等のすべてを押し付けて逃げているようで申し訳ないのです。 もちろん親の面倒や、金銭面での援助はするつもりですし、遠くに住んでいても、親孝行はできる!と思う時もありますが、年老いてゆく両親を想像すると、胸が苦しくなります。特に母親は体も弱く、精神的にも病んでしまいやすい部分があります。父親も頑固で俺様気質なので、母親がすごく苦労してきたのも見ていました。 ここまで育ててもらったくせに、親不孝。 自分だけ楽しく生きようとしてるのは親不孝。 長女のくせに、親不孝。 毎日、自己実現と親孝行との間で悩んでいます。 両親にはまだ転職は怖くて言い出せていません。 なぜ自分の人生なのに、こんなにびくびくしなきゃいけないんだろう、と思いつつ、この悩みは私が親離れできていないだけなのでは?親を理由に甘えているだけなのでは?とも思います。 私は、どうやって自分の人生を考えていけばよいのでしょうか。

有り難し有り難し 47
回答数回答 2

お布施をお渡しする気持ちがわきません

先日、祖母が亡くなりました。 葬儀会社は決まっていたので葬儀の予定は滞りなく決まったのですが、菩提寺にお渡しするお布施が高く、どうしたらいいのかと悩んでいます。 自宅は千葉、お寺は東京にあるので、電話でお話をしました。 失礼かと思いましたがどのくらいお布施をお渡ししたらよいか分からなかったのでお伺いしたところ135万円と言われました。 思っていた金額よりかなり上でした。 こちらに余裕がある生活をしていればご縁もあってのことですしそのままお願いするかもしれませんが、お恥ずかしい話そのような経済状況ではないもので、そのむね事情を伝えさせて頂き、一括でのお支払はできませんが何度かに分けてなどはできないものかとご相談もしたのですが、今まで分割で支払いをうけたこともないしこれが最低ラインです、と。 どうぞ135万円お包み頂いてお越し下さい、と言われました。 それくらいだすのが当然ですよと、言わんばかりの雰囲気でした。 高額なのとお寺の電話での話ぶりと、気持ちがつりあわなくて、こんなことを思う私が悪いのか、でもどうにも金額が高いのではないのかと、そんなことばかり考えてしまって元々の祖母をきちんと送りだしたい気持ちよりお金の事が頭をしめてしまっています。 ちなみにもし自宅の方で火葬まですませて、戒名だけとなったらいかがでしょうかと尋ねたら、それでも同じ金額です、とおっしゃっていました。 なんとかその金額を準備しても、葬儀代も納骨もまだいろいろあります。正直生活がままならなくなってしまいます。 お布施とはそんな気持ちで納めるものなのかと。 なにもお渡ししないまま戒名をつけて頂きたいなんてそんな事は思ってはいません。できるところまでは感謝の気持ちでお布施できればと考えています。 ですがご提示の金額は高すぎるのではないかと。 その金額は相談できないものなのでしょうか? 戒名だけつけて頂くのも同じ金額とは、そのようなものなのでしょうか? わざわざ東京から来て頂いかなくてよい分お布施の金額をおさえてお渡しすることは失礼でしょうか?それはこちらの勝手な言い分なのでしょうか? 長文、乱文で申し訳ありません。 ですが、どこで、どなたに相談したらよいものかもわからずネットで検索していたところこちらを見つけて、もうここしかないと… よろしくお願いします。

有り難し有り難し 143
回答数回答 6

父を思い遣ることができなくなりました。

以前夫のことで投稿させていただきました。今回は私の実父のことです。父は現在75歳で一人暮らしをしています。父は真面目に長年働いて元々優しくて礼儀に厳しい人でした。それが今から10年くらい前から様子が変わり、誰か知り合いの女性にお金を「貸す」という名目で渡し続けるようになりました。私と弟が気づいたときには貯金の残高もほとんどなくなっており、毎月の年金も支給されるとすぐに「頼まれた」といって貸しています。周りの者から見ると明らかに騙されてるのにも関わらず、「気の毒な人だから」「騙す人じゃない」「ちょっとずつでも返してくれてる」といって相手の人がどこの誰かも絶対に言おうとしません。貯金もなくなり年金もすぐに渡していては父自身の生活ができません。「今日食べるものもない」といって毎月のように私にお金を送ってほしいと言ってきていました。でも相手の人のことも言わないし、お金のことになると顔つきが変わり目の前にあれば私の財布も持っていこうとする父に腹が立ち、もう一切お金を援助することをやめました。 年金を全部持つと全額すぐに渡してしまうので、今は弟が管理していて少しずつ父へ送金していますが送金したらすぐに「また貸したから」と言って追加を依頼しています。弟は、父はその人にマインドコントロールされてるみたい、と言います。 子供のころの思い出など同時に思い返しますが、優しい父だったことを差し引いても今の父がイヤでたまりません。 親戚の叔父に弟のところに同居したら、と勧められたとき、「死んだほうがまし」と父は言いました。弟の嫁がその場にいなくて良かったと思い涙が出ました。 以前は母の法事もきちんとしていたのに、もうここ数年はお金がかかるから、と言って何もしなくなりました。先日も大変お世話になった親戚の人が亡くなったのに、一番に言ったことは「香典いるなぁ」でした。年金の管理を弟がしてることも、「取られた」と言います。 私も弟も父をもう信頼していませんし、戸籍上親だから、というだけで仕方なく関わっていますがこのような父にも親を思いやる気持ちを持たないといけないのでしょうか。

有り難し有り難し 56
回答数回答 7

釈尊の言行

 厚かましく、非宗教説を続けます。  釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。  先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。  仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。  これは中国の仏教を模倣したのでしょう。  釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。  次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。  元々葬儀には無関係だったようです。  確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。  釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか?  仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。  蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。  これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。  参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。  本堂は娑婆から切り離された死の世界です。  本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。  「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。  仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。    従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。  現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。  像は本堂を向くべきだと思います。  さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。

有り難し有り難し 59
回答数回答 4

無宗教の私と新興宗教信者の彼との結婚

こんにちは、お世話になります。 私からのアプローチで付き合う事になった仕事関係で知り合った6歳年下の彼と色々ありましたが結婚の話がやっとでるようになりました。 それはとても嬉しかったのですがここにきて彼が新興宗教を信仰していることを聞いてとてもとまどっています。 彼の母親の家系が信者で、彼の父親も結婚を機に入信したようです。 彼には弟がいますが、彼と共に物心つく頃にはもう入信していたようですが特に何も考えた事がないそうです。 活動内容は朝にお経を唱える・集会に参加してお経を唱え、教えを聴く・伊勢神宮に団体でお参りする等で他にも色々と細かい事はもっとあるかもしれません。 初めは勧誘しないと聞いていたのですが、今更結婚の条件に入信する事と言われ大きな不安ととまどいに毎日悩んでいます。 彼が信仰している事に関しては理解をして受け入れるつもりですが、それを私に強要されるとなると信仰の自由などもありますし疑問を感じます。 そもそも信じていない宗教に入信して信じられないながら活動に参加するのもどうかと思います。 でも彼の事は好きですし、知り合ってから5年程経ちますので出来れば一生一緒に居たいという気持ちも大きいです。 自分の家族にはまだ話せていません。 自分がどうしたいのか、どうすればいいのかも纏まりません。 結婚してうまく暮らしていく事はやはり難しいでしょうか? このような状況にある私に意見をいただけると嬉しいです。

有り難し有り難し 155
回答数回答 5

無為で日々同じ生活に耐えられない

生きにくさとは昨今よく言われる言葉ですが、今時分はその病にかかっているようです。 朝起きて、仕事に行って、帰宅して食事して、入浴して、眠る。 間にはインターネットがあり隙間はそれに費やされる。 実は私精神的な病をもう5年以上も患っておりまして、投薬はだいぶ減りましたがこの虚無感が急に襲ってきて規定量以上の薬を摂取してどうにか仮初めの安寧を得る生活を続けています。 父が亡くなってそれが加速したようにも感じています。 とにかく日々に感情が湧かない。 機械になったような無為な日々が時々心底恐ろしくなるのです。 暮らし方を変えようと地方の1次産業に従事を志しましたが、大きなハードルを越える力はスポイルされてしまっていてそれすらままなりません。 このままクラゲのような生活が続くのかと思うとますます精神にダメージが蓄積し虚脱状態が続いています。 大きなブレイクスルー(父の死さえも凌駕する)がないと打ち壊せない自分の殻なのでしょうか? それとも指で押しただけで壊れるシャボン玉のような簡単なことなのでしょうか? 今もこのことが頭を支配して仕事に対する情熱すら奪われつつあります。 ご助言頂けたら幸いです。

有り難し有り難し 21
回答数回答 3

お坊さんも、悪いことをしたことはある?

お坊さんにも、悪いことをしたことがありますか? 間違ったことをしてしまったこともあるのでしょうか? 昔の罪や自分を許せないことはありますか? 過去の自分を許せない時、どのように立ち直れば良いのでしょうか。 私は悪いことをした自分が目標の仕事に就きたいなんて思っていいのか、と自分を責める気持ちがあります。 お坊さん方も、自分がお坊さんになることに対して躊躇した経験や、自分がこの仕事をしていいのか、と考えたことはありますか? お坊さんは善人というイメージが個人的に強い様に感じます。しかしハスノハの回答を見ていると、お坊さんでも過去に罪を犯してしまった方もいるようです。 私のなりたい職業よりも、お坊さんは善や心、道徳を大事にする部分が多いため、葛藤もあったのではないか、と疑問に思いました。 罪を犯した自分が夢を追いかけることに対してどうしても罪悪感が拭いきれないため、お話を聞かせていたたけたら有り難いです。 どのようにして罪や過去の自分、今の自分、そして仕事に向き合っていますか? 僧侶や仏教、宗教というものにあまり詳しくないため、検討違いな文章になっているかもしれません。 僧侶を職業だと認識して、仕事として書いておりますが、お坊さん方は「仕事ではない」と認識されているかもしれません。 知識不足でご不快な文章になっていましたら申し訳ないです。

有り難し有り難し 77
回答数回答 2

亡くなった次女はどうしてるのでしょうか

はじめまして。 今年女の子の双子を出産し、生後3ヶ月で1人を亡くしました。 妊娠中から様々なトラブルに見舞われ、緊急帝王切開で早く産まざるを得ませんでした。 かなりの早産だったため、2人とも1000g満たない小さな赤ちゃんでした。 出産直後は誕生してくれた喜びよりも、こんなに小さく産んでしまった自分を責め、この子達は無事に大きくなれるのだろうかという不安でいっぱいでした。 2人ともNICUでしばらくお世話になったのですが、長女はすくすくと大きくなり2ヶ月ほどで退院することができました。 次女はなかなか思うように大きくなれず、手術も何回も繰り返し、結局NICUを出ることなく亡くなってしまいました。 次女が亡くなった直後は、生きている長女のためにも頑張らなくちゃという気持ちで無理をしていたのかもしれません。 しかし、四十九日を過ぎたあたりから実感が湧き始め、慰めのつもりでかけられる言葉が胸を突き刺さるようになりました。 今では人に会うことが怖くなり、外に出ることもできなくなってしまいました。 元気に育ってくれている長女のためにも、一生懸命生き抜いた次女のためにも、私はしっかりとこの世を全うするつもりです。 しかし、毎日次女を思っては涙が止まらないんです。 何で他の赤ちゃんではなく次女だったのか。 私には2人を育てる器量がなかったのだろうか。 何でもっとお腹で大きく育ててあげれなかったのか。 一人で寂しくしていたらどうしよう。 いつも私たちと一緒にいてくれてるのだろうか。 また会えるのだろうか。 こんなことばかり考えてます。 次女を亡くした悲しみを乗り越えるつもりはありません。 乗り越えたいとも思いません。 ただ次女がどうしているか知りたいんです。 お願いします。

有り難し有り難し 82
回答数回答 3