本当の意味で仏教に出会う人はとても少なく、出会わない方のほうが多いのはなぜですか? 又、仮に出会えたとしても 「魚の子は多けれども、魚となるは少し」という言葉のように、 本当に信心を持って仏教に触れ合うことができる方は極めて少ないのはなぜですか? 仏教が必要でない人たちばかりだということですか?
半年前に二十歳の娘が亡くなりました。 娘が元気で笑っていたときに時間を戻したい、生き返ってほしい、声が聞きたい、そんなことばかり思いながら毎日を過ごしています。 死んでしまったと言うことはわかっていますが、それを認めたくない気持ちがあります。 お腹が空いたらいけないと思い、毎日ご飯やお菓子・飲み物はあげています。 退屈しないようにと娘が好きだったゲームやぬいぐるみなどを、遺骨お位牌のまわりにおいています。(納骨はしていません) けれども、お線香をつけたりお教を唱えることにどうしても抵抗があります。 死んでしまったと現実を思いしらされるようで… そのような態度は娘を苦しめているでしょうか?
久しぶりに質問させて頂きます。 先日 長女が結婚式の日取りを決めたと報告が有りました。 我が家は神道ですが、折には日柄?大安とか仏滅を気にしております。 長女が決めて来た日は先勝ですが、日めくりに結婚など悪日と書いてありました。 気にしなければ良いのですが、やっぱり親として気になります。 そう言う日は避けた方が良いのでしょうか? 12月19日ですが、挙げたい式場が年内はその日しか空いてなかったそうです。 しかも時間は午後3時からです。 今さら日取りを変えなさいとも言いにくいですしどうしたら良いでしょうか? アドバイスを頂けたら有りがたいです。 よろしくお願いします。
父親が肺がんの末期ガンなんです 父親は今56歳で、母親は46歳、兄は24歳、私は17歳の高校3年生の息子です。 末期ガンですが今は通院で、寝たきりなどの状態ではありません。 ですが余命はそれほど長くはない言われたそうなのです。 今は処方された薬を飲んで肺がんなどの専門的治療法の病院にも通院し父親は頑張っています。 父親の末期ガンを知ってから母親も元気が無くなり自分も一緒にあの世にいきたいと言っています。 私は受験がありますが進路もどうすればいいのか分からなくなってしまいました。 自分も一緒にいけたらと思ってしまうことも多々あります。 父親や母親とどう接すればいいのかも分かりません。 どうすればいいのでしょうか?
初めて質問させて頂きます、よろしくお願いします。 平成24年、12月9日に三人兄弟の末の弟が自殺しました。 二十歳でした。 遺書から察するに、母親が居ない寂しさ(平成15年に癌で他界)と、精神病だったみたいです。 僕と末の弟は10歳離れていて、小さい頃はおむつを代えたり散歩に連れていったりして、兄弟なんだけど半分子供みたいな感覚でした。 事があった直後は色々忙しくて考える暇も無かったのですが、今は悲しみと悔しさ、色んな感情がわき出してきて、とても辛いです。 なぜ、止めることが出来なかったのか。 そんな事ばかり考えてしまいます。 せめてもの願いですが、もし死後の世界があって、僕が死んだら母と三男に再び再会することが出来るのか。 それだけが知りたいです。 そして、自ら命を絶った弟が、ちゃんと天国で母と会えて、向こうで幸せに暮らせているのか、苦しい思いをしていないか。 それだけが知りたいです。 僕は三男の死後、僕も死んだら天国で母と三男に会えるように出来るだけ徳を積もうと思って生きています。 どうが、回答頂けたら嬉しいです。
今日、公園で知り合いの家族と子供を遊ばせました。 私と旦那は傍観者で遊ぶのを見守っていました。 ママ友達と、その旦那さんは、遊具(すべり台)で一緒にヤッホー!と楽しく遊んでいたり、ヨーイどん!といって、一緒に走ったり、芝生の斜面を一緒にゴロゴロ転がってあげたり、子供と一緒に遊んであげていました。 私もすべり台は2回だけやってみましたが、普通にテンション高くではなく滑っただけ。それだけで、他は、ママ友達家族を見ていて、『すごいなぁー。こうやって遊んであげるのが理想だよなぁ…』と自分たちを情けなく、またダメな親だと思いました。 私も旦那も、恥ずかしがりなとこがあり、真面目な物静かなタイプ。 友達夫婦は、子供と遊ぶのにテンション高めにかかわってあげる元気なタイプです。 私は、自分も旦那も、もっとこの夫婦みたく全力で遊んであげたら理想だけど、声かけや手助けなり、危ないとこはちゃんと見ているだけしかできていませんでした。 一緒に童心にかえって遊ぶのは性格的に恥ずかしいしできませんでした。 旦那に、あとあと、『あの夫婦みたく一緒に全力で遊んであげたらよかった…私たちはダメな親だね』といったら、よそはよそ、うちはうちで比較する意味がないし無駄だと言われました。でも、子供へのかかわり合い方で子供が今後よく成長するかどうか影響ある気がしてこわくて…。 私は、私たち夫婦のダメな面しか見れずに辛いです。
この間から、お墓や納骨のことで何度も質問させていただいております。次々と申し訳ありません。 亡くなって7ヶ月、私と母の二人暮らしでした。四十九日を過ぎた頃、亡くなった母の遺品といっていいのかも分かりませんが、二人兄弟の兄に遺品分けをするといったところ、要らないと。姪たちは洋服等を持ち帰りました。特に高価な物や資産も無いためそのままにしていましたが、生前は誰かが訪問して家に上がることもなく、夜に突然病院に運び、私が付き添っていたので母の部屋も布団を畳んだだけで、何の整理もしていなかったのですが、母の他界後、何かと人の出入りが多くなり、(私が鬱になったことから、医師に早く片付けろと言われたこともあり)仏壇も母の部屋にあるため、ある程度大きな物は整理をし、業者に頼み処分しました。 長らく二人暮らしだったので、家中に細々した母の物があり、大切にしていたものを残し、少しづつ処分しているのですが、飲み薬や目薬等、病気であったため常に使っていた薬品があります。 あの世で苦痛があっては可愛そうと思い、納棺時に入れようとした時、葬儀業者さんが入れないようにと。亡くなってもう苦痛はないからと言われました。 今日ももう捨てようと思いましたが、どうしても捨てられず、またいつも保管していた所へ、いつでもつかえるようにと戻しました。 いつまでも置いていると、母はいつまでも苦痛から解き放たれないのでしょうか?亡くなると仏様となり、すべての苦痛から解かれるのですか?早く捨てないといつまでも苦しませることになりますか? 病院から葬儀社へ運び、顔に掛けた布をめくると、病院で鼻からチューブを抜いて時間が経っていなかったためか、血液が流れており、拭いてやったのですが、亡くなってもなお苦しむのかと思い、目薬を入れ、唇が荒れ、いつもリップクリームを塗っていたのでリップも塗ってあげました。 長文になってしまい申し訳ありません。
真言宗で唱えられる十三佛真言は、他宗派の信者が唱えても差支えないのでしょうか。 曹洞宗の経典を見たところ、真言宗の 発菩提心真言 おん ぼうじしったぼだはだやみ 三摩耶戒 おん さんまやさとばん 光明真言 おん あぼきゃべいろしゃのう まかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたや うん 上記3点の真言が~陀羅尼という別の呼称で掲載されておりました。 曹洞宗でも仏壇や墓石に向かって十三佛真言をお唱えてしても構わないのでしょうか。
以前、被災した義理の両親との同居を解消することに悩み相談させていただいた者せす。同居して2年が経過しようとしています。相談させていただいてからも、主人とは何度も離婚の話をしてきました。お互いこのストレスに疲れてしまっていたのです。そんな不仲の私達のことをみて、義理の両親がなぜか私達のことで結婚後過去最悪の喧嘩したそうです。 そして、この家からは出ていき、シングルマザーで2人の子供を育ててい る義理姉のことをサポートしにいくことときめたようです。 そこで、ご教示いただきたいことがあります。 彼らがこちらに来る時に、代々祀ってきた観音様を我が家敷地内に、被災地から持ってきました。観音様と呼んでおりますが、どうやら昔の誰かのお墓らしいのです。主人のひいおじいさまの夢に、出てきて「掘ってくれ」とお告げがあり、掘ったらでてきたそうです。それから、その観音様は震災でなくなってしまった自宅近くの山に祠を建て祀られており、代々引き継がれていたようです。 こちらに持ってくるという話の時、私は「海を眺める場所にあったものだし、観音様はあの場所が好きだろうから動かすべきではない。」と言い、また、正直、新しい住宅地なので周りも若い家族が多いため気味悪がられたりされるのではないか、という気もして反対してました。 今、観音様は庭にあり、ホームセンターで購入した物置小屋を祠のようにして祀り、義理母が毎日お水をあげています。 これから家を出で岩手県に戻るとのことで、私は上で申し上げた理由2点から、あちらに戻して欲しいと思っています。 しかし、主人も含め、こちらに置いておきたい、といっていますが私は、義理の母ほど、その観音様に愛着が持てず管理ができる自信もありません。主人は週1くらいであればお水とご飯を供えそうですが、今までの仏壇へのお供え状況を見ていると私より頻度が少いので怪しいです。 こんな雑な夫婦のもとに観音様を置いておいて良いのでしょうか。 それで観音様は幸せでしょうか。 昔、観音様のお供え等をサボっていた時期に義理父が仕事で指を切断したそうで色々と怖いです。 今後どのようにしたら観音様は幸せですか? ご教示ください。
私は、霊感が強く、予知夢や今後起きるような 事を見ることができます。 私の地元、熊本で地震が起きると2年前から予知夢や 地震の映像として何度も見ました【霊視のような感じです】 家内に何度か言ってて、誰かに言った方がいいか?って言いましたが、言ったら変人扱いされるよ【家内と家内の親族は、私の霊感を信じてますが、私の両親は全く信じてません】 そして、熊本地震が起き、両親・兄弟・友人などはみんな無事でしたが、本震から1カ月は大変な生活をしてました。 私が、もし変人扱いされても良いから、地震あるから避難食を揃えてって言うべきだったと心底後悔してます。 家内や家内の両親に、相談しても言わないほうでよかったと思うよと言われましたが、これでよかったんでしょうか…
こんばんは、自分は相談したいと思っても相手にたいして、相談する事が相手に迷惑なのかもしれないと感じてしまい、悩み事があっても全てを飲み込んでしまいます。 相手に頼る事が罪悪感と感じてしまいます。この相談文を打つ時も、相談していいのかな?ダメなのかな?と何度も打ったり消したりして、やっと打てました。人に頼る事が悪い事じゃないと自分に言い聞かせるのですができません。どうすればいいでしょうか?
以前から何度も相談させていただきましたものです。 無事に離婚が成立しました。 向こうは親に挨拶に来ることもなく、ただただ私を捨てれて喜んでたのか、相手は公証役場で泣いてました。それがこれまで言ってきたことやって来たことを考えたら、何でお前が泣くねんと言う感じで、あまりにも腹が立ちました。本当に意味のわからない人間です。これまでの経緯から考えると、かわいそうな俺アピールでしかないとおもってしまいます。 かわいそうな自分だとか、よくやった俺とかってすぐに自分に浸る人なので本当に気分が悪かったです。それだけ余裕があって良いですねと思ってしまいました。 そして、良い父親面しようと色々またいってきたので、拒否する心がより一層強くなってしまって今に至ります。すみません。また愚痴ってしまいました。 以前より助言していただいたように、離婚した今となっては考えを改められるよう今年はまた我慢の一年でがんばらないといけないなと思う次第です。 昨年の一年で沢山相談して皆様方に支えていただきまして、多分理想?の離婚とは違いますが、なんとか乗り越えてこれました。皆さんのお言葉を何度も読み返して、この怒りに支配された心を少しずつほぐして子どもとの幸せを考えられるよう進んでいきたいと思います。本当にありがとうございました。
また、よろしくお願い致します。 私達夫婦は、後継者が、いない為、 寺院の境内にある「永代供養付樹木葬」の 見学を始めました。 候補が、二つに、しぼられて どちらも格式高い、お寺様で、二つとも気に入って 本当に、どちらにしようか真剣に考えております。 二つとも「永代供養墓普及会」の紹介なので、 形や値段は全て同じです。 ただ、一つは「浄土宗」の寺院、 もう一つは「真言宗」の寺院です。 樹木葬墓地は宗派は問わないのですが、 納骨する時は、その寺院の御坊様に拝んで頂くことになります。 私は、戒名は頂きたいので、やはり選んだ寺院の宗派の 戒名になると思います。 そこで、 「浄土宗」と「真言宗」の考え方が、 どのように異なるのか教えてください。 できれば、 「浄土宗」の御坊様と、「真言宗」の御坊様の 双方の立場から教えて頂けると有難いです。 よろしくお願い致します。
この愚かな疑念を教義的に論破してくださると助かります 1親鸞聖人は「信巻」等において、菩提心について自力と他力を分判し、如来回向の信心は願作仏心(自利)、度衆生心(利他)の徳をもつ他力の大菩提心であるとあらわされた。 2菩薩の定義:仏の次の位のもの。みずから菩提(ぼだい)を求める一方、衆生(しゅじょう)を導き、仏道を成就させようとする行者(ぎょうじゃ)。菩提薩埵(ぼだいさった)。 信心があるものは自利も利他も菩提心もある よって菩薩である 菩薩であるならば、41願により諸根が具足するはずである よって諸根の具足していないものは極楽へ往生できない
しばらく前から、職場(接客)で求められる事が出来ずやめたいと思うようになりました。 出来ないと言うよりもやりたく無いと思っています。 やりたく無いものいうのは、接客業の要と言われいるお客様への心遣いです。 今まで、 ・お店の売り上げを上げるために勉強する ・自分が認められたいから勉強する (仕事を頑張る) というスタンスでやってきました。 仕事場で求められているのは ・本当に心からお客様に何かしたいと思う人 ・自分も常にポジティブでハッピー、そして健康である事を体現出来る人 です。 私はお金の為、出世の為、自分が幸せでいる為に働いている と思っていて、考えた時にお客様第一では無いとわかりました。 ただ、お客様が嫌と言うわけではなく、お客様が私の接客を受けて戻って来てくださって嬉しいと思うこともあります。 職場の人は、またお客様のお手伝いが出来る。サポートしてあげよう! と考えるようですが、 私自身は、戻って来てくれて私が嬉しい! このお客様とのお話楽しかった! ぐらいでしか無いです。 職場でも、それが自分本意ですとはっきり言われました。 やらなきゃいいじゃないと思うのですが、 結局、辞める理由がやりたく無いからというのは、自分が逃げてるのをそのままにしている事で、どこ行っても同じようになると思っているので、悔しいとも思ってます。 結局の所、私自身が何したいか、何したら良いかわからなくなっています。 気付けば、25年間誰かのアドバイスを受けてその通りに動いて生きている事が多く、また、こうなるといいなと思うとその通りになる事も多く、あ、ラッキー!恵まれてる♪と言う考えで生きていました。 自分の頭で考えて頑張るをしなかったなと思い、頭で考えますが、今度は自分の守りや環境のせいにしてる部分が出てきます。 なんてやつなんでしょうか。 自分でも呆れます。 友達や先輩に相談しようと思いましたが、こんな事相談しても解決するのは自分しかいないから相談しないと言う風に思いましたが、やっぱりそれでも聞いて欲しいと思ってこちらに書いてみることにしました。
いつも、心温まる回答をいただいて救われています。本当にありがとうございます。そんな中、また相談したいことがありご連絡しました。 先日、愛猫が急死しました。15歳で猫の中では平均寿命より長生きはしましたが急なことで未だに心にぽっかり穴が空いたようです。腎不全が見つかったのが昨年の12月、そこから腎臓に負担のかからない食事と水分補給を心がけ、ご飯もよく食べよく動き1ヶ月に1回の血液検査も悪化してる訳でもなく「まだまだ一緒にいれる」と思ってました。 それが突然7月末から食べなくなり、動きも鈍くなり食欲増進剤を打ってもらってもご飯を食べず、仕事中も心配で心配で四六時中その子のことを考えてました。 亡くなった日の朝も、急な嘔吐・お漏らしで動かなくなり「もうダメだ」と思いました。しかし、しばらくして水を飲み始め普段通りの様子に戻ったので少し安心し、念の為病院に連れていき点滴をしてもらいました。しかし、病院から帰りしばらくすると舌を出した状態で息が荒くなり脈が早くなり目が見開き、これはいよいよだと思いました。その状態になってから30分くらいで私に抱っこされながら息を引き取りました。 私は、自分のエゴで病院に連れていき、美味しくもないご飯を食べさせしたくもない点滴をさせていたのではないかと、どうせならもっと美味しいものを食べさせてあげたかった、痛い思いもせず自由にさせてあげた方が良かったのかと今になりモヤモヤとしています。あの子の為に果たしてなっていたのか、言葉も分からないからもっともっと注意深くしてあげれなかったのか… 未だに涙を流さない日はないですし、家に残っている抜け毛を見つけては保存しています。家にいてもどこか寂しく虚無感が絶えません。遺骨も土に還すことが出来ず、私の部屋にあります。 このやるせなさや空虚感は時間が解決してくれるものなのでしょうか。それとも、私自身が自発的に気持ちを整理する必要があるのでしょうか。正直、自分から楽しいことしてみようとか美味しいもの食べようとか考えてもどうしても頭から離れず塞ぎ込んでしまいます。 これから、私はあの子の死とどう向き合えばいいのでしょうか。長々となり大変申し訳ありません。お時間ある時にお目通し頂ければと思います。ここまで読んでくださりありがとうございました。
心がどうしても苦しいので、ここで吐かせてください。 今年の1月10日に、最愛の母が亡くなりました。 脳内出血でした。 ふたりの私の娘を連れて実家に1月6から8日の2日間お泊りし、8日の朝、近くまで見送ってくれている途中の道で転んだのです。 その日は朝から雨が降っていて、1歳の子どもを抱っこして荷物を沢山持っていたため、5歳になったばかりの長女を母に任せて、前を歩いていました。 転んだことにも気付かず、母から転んだと聞き「でも頭はぶつかってない」と言うので少し安心して、「子どもを任せてごめんね」と言い、普段通りニコニコしながら「またね〜」と別れたのが最後になりました。 その1時間後に救急車で運ばれ、脳内にはかなりの出血があったそうです。 そこから2日間、まるで私達が何となく覚悟が出来る時間を与えてくれたかのように、母と特に仲良かった人達、私の子ども2人と面会した後、息を引き取りました。 本当に愛に溢れた母で、転んだときも 「孫は大丈夫よ!転んでないからね!」と、自分のことより孫のことを心配してくれました。 家に帰ってからも 「血も出てないし、転んで孫もビックリしたでしょ?大丈夫よと伝えてね!」と連絡もくれて。 あのとき私が娘の手をひいていたら、母は転ばなかったのに。 あのとき、母に見送りはしなくていい!と伝えていれば、転ばなかったのに。 そもそも、お泊まりしなければこんな事にはならなかったのに。 あのとき!あのとき!!と、後悔の念が消えません。 1月4日に 母は69歳 初孫の私の娘は5歳のお誕生日を迎えたばかりでした。 小さい子どもが2人いるので、塞ぎ込んで悲しむわけにもいかず、頼りにしたい主人は私の悲しみを全く理解してくれず、辛いと伝えても「部屋の掃除が足りない」など寄り添ってもくれません。 母が私にたくさんの、それはそれは沢山の愛情を与えてくれたように、私もこれから、ふたりの娘には愛情を与えて育てるつもりです。でも、今はとにかく辛くて。 母の死期を早めてしまったのは、私のせいなんだと自分を責めてばかり。 母が私を責めてないことも、責めている私の事を心配しているだろう事も分かっていても、それでも辛いんです。 時が過ぎるのを待つしか無いのでしょうか? 母を亡くして悲しい気持ちと それを理解してくれない主人への怒り?の様な感情です
密教をご存知のお坊様に、質問をさせてください。 3つ質問があります。 「越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)」が非常に気になっております。 密教には、在家の人間がやってはいけないことがあると聞きました。 在家の人間が、阿闍梨の許可なく、勝手に真言を唱えたり、伝授なしに梵字を書いたり手印を結んだりするのはいけないと聞きました。 これを破ると越三摩耶戒罪、越法罪という宗教上の罪になる。 何の功徳も、ご利益もなく、徒労に終わる。 「大叫喚地獄に落ちる」とか「無間地獄に堕ちて出ることができなくなる」という恐ろしげな記述もありました。 1つ目の質問です。 何人かの先輩の信徒(在家)から色々と聞いて、自分なりに考えをまとめました。 ・真言なら唱えても良いし、功徳もご利益もある。 ・手印を結んだり、梵字を書くのはやめたほうが良い。 ・阿字観はお坊さんの指導のもとやること。独学は駄目。 ・本格的な祈祷の真似事をやるのは絶対に駄目。 ・「地獄に堕ちる」は、師僧の指導に従わない・修行のルールを守らない修行僧を戒める方便。でも原則として守らなければならない。 これでよろしいのでしょうか? 2つ目の質問なのですが。 私は信仰を持つ前から、仏教に強い興味がありました。 多くの本を集めて読んでいたのですが、愚かな素人の悲しさ、当時は越三摩耶戒罪のことは知らず、手印や梵字の書き方の本、さらに儀軌や口訣書を含めた専門書もかなりの数、蔵書として所有しております。 また密教美術にも惹かれ、曼荼羅の色紙も購入してしまいました。 しかし阿闍梨の許可なく、曼荼羅を建立したり、儀軌や口訣書などの専門書を読むのも越三摩耶罪に当たると聞きました。 ・小さな仏壇の上に、両界曼荼羅の色紙を額に入れて飾っているのですが、これを気にするのはやはり神経質すぎるでしょうか? ・密教の専門書を読むことを気にするのも、神経質すぎるでしょうか? 3つ目の最後の質問なのですが、先輩の信徒(在家)から、 ・「そもそも貴方は結縁灌頂を受けておらず、正式に三摩耶戒を授かっていないので、越三摩耶罪は成立しない。だから気にする必要はない。しかし灌頂を受けると越三摩耶罪が成立してしまうので、注意しなさい」と聞きました。 この解釈は正しいのでしょうか? 長文かつ生意気な質問で、申し訳ありませんが、ご意見を伺えましたら幸いです。
今日、休みで色々考えていました。 最近、すごく窮屈さを感じていました。 自分が決めた自分の行動の指針や自己イメージ、自己評価、そんなものに自分をはめ込みすぎているのではないかと思いました。 私はこうゆう人、または、私なんだからこうあるべき、とかそうゆうことです。 自意識過剰という言葉がありますが、私はそうなんではないかと思ったんです。 ただ、これがなくて、なんにも考えずに生きたらだらしない生き方になりそつで嫌です…
以前旦那さんが亡くなってすぐに質問させていただきました。 あれから3ヵ月半経ちました。 たった3ヵ月半ですが、私はもう何十年生きたくらい、生きるのに疲れました。 旦那さんとお別れした当初は、これからは色んな人に助けてもらえると思っていました。 けれども今、誰にも自分の気持ちを話さず、1分1秒ごとにくる苦しみを1人で耐えている地獄のような毎日です。 歯を食いしばりすぎて、そろそろ顎が割れそうです。 両親には毎日夫婦のやり取りを見せられています。 ご飯の味が濃いか薄いか、私の息子が今日こんなことをした等、毎日小さなことをなんでもお互いに報告する姿を見せられています。 もう彼らにとっては日常で、芸能人の訃報がテレビで出れば、へー!死んじゃったんだ!と言われます。 お父さんとお母さんでベビーカー押してる人がいたよ!と言われます。 義理の家族には、百箇日の法要を勝手に私の誕生日に開催されました。 その時に、あなたの誕生日だから、よかったら来ない?家族のみでやろうと思ってるの!と言われました。 彼の家族は私と息子なはずなのにおまけです。 私の誕生日に彼は喪服を着て祈ってほしいと思っているようです。 また納得できないから、彼の健康診断の結果を見せてほしいと言われました。 妻の私の至らなさをあーだこーだ言われそうです。 それらを聞いても、私の両親は義理の家族に何も言いません。 むしろ返事をしない私が失礼をしたと、謝っています。 友達も最初は連絡してくるくせに、今はほとんど連絡してきません。 私に死なないでほしいと言います。 でも何も助けられなくてごめんと言われます。 彼を失っただけでも辛く悲しいのに、世界はさらに私を傷つけてきます。 味方は旦那さんだけだったと、つくづく思い知らされます。 もう生きるのが辛い。 息子を養護施設に置いてくる勇気さえあれば、すぐに死ねます。 息子の前では必死に笑っていますが、毎日何度も何度も死にたいと口にしてしまいそうです。 自殺する方の気持ちがよくわかります。 生きるのが辛いんです。 死んで、周りの人たちにどれだけ苦しいか思い知らせてやりたいんです。 この世界に味方はいない、誰も助けてくれない。 なぜ、私は生きなければならないのでしょうか。 彼を救えなかったのは私です。 謝っても許されない、その罰を受けるので、誰か私を殺してください。