過去にいじめられ、現在でも憎んでいる人たちがいます。もはや時効であり、逆恨みの域まで達していると思います。 いじめられたわけでも敵意すらなかったにしろ、それでも許せない人もいます。 そもそも因果応報とはどこからどこまでで成り立つのでしょうか?悪いことをすれば跳ね返ってくるんでしょうか? 実際に今でも何かされているわけではありません。それでも不愉快なのです。
私は今24歳の会社員ですが、昔から生きづらさと仏教への関心が あり、お坊さんになりたいと思い続けています。 経済的な面、在家という面で、簡単な事ではないという事はわかって いるつもりですが、どうしてもなりたいのです。在家でお坊さんになれるものなのかと、お坊さんになるという事についてどう思われるかご教示下さい。よろしくお願いします。
どうしても意味・ユーモア感覚が分からないので、ここでお坊さんに直接質問をさせて頂きます。 いま私は、とある掛け軸について研究をしています。ですが、私は仏教の世界を深く知るようになったのは、つい最近になってからであり、そのせいで仏教世界のユーモアが分かりません。 研究している掛け軸には、掛け軸の下の方に、『十六羅漢のうち十人が水が足首らへんまでしか来ていない海(若しくは川)の浅瀬を渡って、上の方を見上げている』描写があり、左上の方に、『龍頭観音と思われる龍が一匹と、龍の口らへんに、モワモワした煙と共に、お花のような(?)ものを手に持っている着物を着た女性が一人立っている』描写があります。更に、この空の方へ登っている龍には、十六羅漢のうち六人が乗っており、そのうちの一人が釣り糸みたいなもので蛸を海から釣っています。 十六羅漢が川ではなく、海を渡っているのは、蛸が海にしか生息していないからという理由で、海だと推測しました。 この絵には漢詩が付いているのですが、以下のようなものです: 是秋釈子袿第響 無転十六蛸入道 為老先生博祭無事居楽 遊印には→星洲晩漁 と書いてあるはずなのですが(あまりきちんと読めませんでした)、漢詩の意味は全て分かりませんが、ここには蛸入道としっかり書いてあります。 以上のことから、私は、蛸とお坊さんの頭を掛け合わせて、笑いを取るような絵だと見受けました。 が、私の感性では、釈迦の弟子たちで笑いを取るという感覚が全く分からないのですが、ひと昔の日本では(明治・大正あたり)、このようなことはよく起こり得たのでしょうか?またこのような、ブラックユーモア的な掛け軸は、よくあったのですか? ちなみに、私の推測はあっていますでしょうか?(蛸とお坊さんの頭を掛け合わせることで、笑いをとるという感覚) 若しくは、他に何か意味があるのでしょうか? 漢詩の意味も分かりませんが、このセンスが本当に意味が分からなくて、大変困っております。どなたか詳しく説明して頂けますと幸いです。 掛け軸の絵を写真で添付できないので、絵そのもののイメージがし辛いと思いますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ちなみに、この掛け軸は、近代に描かれました。
浄土真宗で追善供養をしないのは何故ですか? 「追善供養は自力だから」「亡くなった人はみんな極楽に往生して供養する必要がないから」などなど色んな意見があるみたいですが、どれが本当ですか?
3年ほど前から難病指定のある、SLEという病気になってしまいました。診断された時はお医者さんの前で泣いてしまう程悲しく、受け入れられなくて、しばらく泣き続けていたのを覚えています。ここ最近は月日も経ち、家族の助けもあり、少しずつ受け入れようと努力しています。しかしまだまだふと泣いてしまったりと受け入れられません。 なぜ私がなってしまったのか。なぜ病気のせいで趣味を我慢しなくてはいけないのか。なぜ…という気持ちが強いです。 どうしたら病気を受け入れ、前向きに生きていけるのでしょうか。
ご相談失礼します。 私は通信制高校に通おうと思っていて。親2人にもその話はしていて母親は受け入れてくれたのですが、父親は納得がいっていなかったようで仕事から帰ってくる度説教をされていました。これはもう今に始まった事ではなくて2年前くらいからこれまでずっとです。 正直言うと私の話も聞かずに一方的に命令口調で説教をしてくる父が昔から大嫌いでした。通信高校の話をした時も私の話はスルーされ命令口調ではなかったのですがここ行けばとかそんなのばかりでした。何年も聞いてきました、それを踏まえた上でここに行きたいと言っているのに全スルー。この説教をされてる時今まで沢山高校の事を考えたり先生に相談したり説明会に行ったりしたのですが、それが全て壊されていってる気がして本当にどうしようもなく悔しくて最悪な事に父の前で泣いてしまったんです。父は泣いた私を見て何を思ったのかベタベタ触ってきたんです。頬を捕まれ至近距離で無理やり視線を合わされたり頭を撫でられたり背中を痛いぐらいに叩かれたり3回くらい息がしずらいほど抱きしめられたり。言ったら悪いのですが本当に気持ち悪くて吐きそうでそれでも逃げられなくて、でも父は構わずこんなに可愛いんだからとかアンタなら大丈夫とか、どの口が言ってるんだと思いました。今まで私の何を見て来たの?何が大丈夫なの?私の事知りもしないくせに大丈夫とか軽い言葉を使って私が今までどれだけ苦しい思いをしたか知らないくせに。 私はリアルで誰かに悩みを聞いてもらった事が今まで1度もありませんでした。ずっと一人で泣いて、その度に思ってました 誰かの胸の中で泣きたい、話を聞いてほしいと、ずっと思っていました 父に抱きしめられアンタなら大丈夫と言われた時なんでこういう時に限って抱きしめて来るのはこの人なんだろう。なんで大好きなお母さんじゃないんだろうと最悪な気分でした 父親だけならまだよかったんですが現実は甘くなく、フリースクールでも私だけ挨拶を無視されたり皆の輪から外れていたり私だけずっと1人。フリースクールなら私の居場所になってくれる思っていたのですが真逆でした。何も出来ない私が悪いんです。全部私が悪いんです。 もう何を信じればいいのかどこが私の居場所なのか分かりません。毎日こんなことを考えて私はいつ解放されるのでしょうか。全てが怖いです
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
私が、以前働いていたのはお寺でした。 本山でした。 私は、そちらで嫌な思いをし、退職しました。 その人はお坊さんでした。 私は、 今も病院に通っています。 謝るということも、してもらっていません。 このような質問、私ぐらいかな? 聞いて貰えるか分かりませんが、お坊さんとしてご回答下さい。 できる限りのことは、してるんですが答えが分かりません。
皆様初めまして、変な質問で申し訳ないですが… 皆様の最近遊ばれた中での一押しのゲームはなんですか? 別に他のサイトで解答を募ればいいじゃないか…と言う質問ではありますが… 私個人、ゲームが趣味でして「ゲーマーなお坊さんが居るのであれば、一体どんなゲームをしているのか?」と言う興味がありまして… こんな質問ではありますが、回答をお待ちしてます。
いつもお世話になっております。 問答では学ばせていただく事が多く、ありがたい毎日です。 私は「知足」と「本来無一物」という言葉が好きです。 生活において物質的にも精神的にも色んな問題を抱えている中、 この言葉に助けてもらいながら生かせてもらっています。 本当に少しずつなのですが、すぅーっと自然と身について、 ちょっとの事でもありがたいなと感じます。 仏教用語はhasunohaにて拝見する度に「うーん、なるほどありがたい~…」と感銘を受け、頷いていますが、恥ずかしい話…難しい文言も多く忘れてしまいます(哀) お坊さんが好きな(大切な)言葉を教えていただけると嬉しいです。 出来ましたらその言葉の意味・好きな理由等をお聞かせいただければ幸いです。 どうぞよろしくお願いいたします。
僕は「生きる意味」を自問自答し、それを見出せませんでした。僕は僕の意志に主体性が介在しないという結論に至り、もうすぐで寿命が尽きてしまいます。どうすればいいでしょうか。 「知」の欲求が、「生」の欲求を上回り、生活を営めないがために健康を害し、身体が悲鳴を上げている。 これを自覚してなお、僕は自らの意志に主体性を見出せず、仏様から授かった寿命が尽きてしまうことを悲しいと思うことしかできません。しかもこれに対して僕はどうすることもできません。 取り急ぎ回答をお願いしたいと存じます。
現在代々続く和洋菓子屋の5代目として家族などでお店を営んでいます。 毎日仕事をしていても月日ばかり過ぎるだけで成果がなかなかでません。また両親との考えや、やり方が合わずになかなか気持ちが前に向きません。 考え方の違いで揉めたりもします。 僕は40歳までに今のお店を大きくしたい気持ちがあります。 仕事で成果するためには商売において目先の内容をよくする事よりも、 人間本来の気持ちの方が大切なのでしょうか? 仕事に一番必要な事は何でしょうか? 成功するためには何が必要でしょうか? チャンスはどんな人に訪れてくるのでしょうか?
戒名・法名は、人が亡くなり仏になった事の名前だと良く聞くのですが、以前戒名等を調べた時に、生前に付けてもらっても良いと書かれていて、ミドルネームと一緒みたいなものだとも書かれていました。 何時から法名・戒名が、亡くなった時に付ける名前と言う認識に変わったのでしょうか? それと、今は戒名・法名も付けない人が多いと 最近TVで見ました。 主人も付けなく良いと言っていますが、どうなんだろう?と、考えています。 実父が亡くなった時に遺言で、葬式するな・お骨拾うな・法名付けるなと言われましたが、結局法名をつけました。 生まれた時に付けてもらった名前が有るから良いと言う考え方も確かに出来ますが、どちらが良いのか分からないので、アドバイスをもらえないでしょうか?
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。
私は就職活動を終えた大学院生なんですが 就職活動中、「社会人に必要なものはコニュニケーション能力。 だから、コニュニケーション能力を上げろ」と何度も言われたんですが、そもそも、日本語には存在しないコニュニケーション能力とやらを上げろというのは無理なことを言っているように感じてしまい。 コニュニケーション能力という言葉を聞くたびにいつも違和感を覚え、気分が悪くなってしまいます。 コニュニケーション能力って一体なんなんでしょうか?
こん〇〇わ! 日蓮さんの言葉で、真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊、という言葉がありますが、他の教えを批判するのはどうなのだろうかと思います。 日蓮さんは、虚空蔵求聞持法をして、法華一乗の教えにたどり着いたという話を聞いたことがあります… お世話になった比叡山は全て兼学できるお山であるのに否定をする、お釈迦さんに失礼ではないのでしょうか?、日蓮宗の法華懺法法要の奉送は大日経から来ているという話を聞きました。 律国賊、 戒律を守る人たちに対して国を壊すというのはどういうことでしょうか? はっきり言って理解不能です。 さらに龍神の娘が男に変かわって成仏したという法華経の下り。女性の私は現世での成仏は不可能ですか? 来世は男に生まれないといけないのでしょうか? 皆さまどう思われてるのでしょうか。
前にウィトゲンシュタインの形而上学の話をしたお坊様がいて その人が形而上学の世界を考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってるといってましたが そのウィトゲンシュタインの形而上学の話でさえ形而上学から来た考えじゃないですよね? だからその考えが必ずしも正しいとは思わないんですがもしもそれが正しいなら 悟りは考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってる・・・ それなら菩提樹で瞑想して悟りへ行けるのも間違ってるんじゃないですか お釈迦様が怪しくないですか? 自殺大国日本を救うような奇跡を見せたりすればなんとなく信じれるんですが 都合よく無記って言葉で片付けて良いなら どんなカルト宗教も成立しますよね わざわざアビダンマや大乗や密教やらが一貫性のない色んな経典使って 色んな山の麓からアプローチして悟り目指す必要もない 最終的には無記なんですもん わかんないですもん ウィトゲンシュタインの話しが正しいなら 形而上学の世界は考えるのも言葉にするのも探すのも色んな経典で計るのも悟りが存在することも間違ってませんか?そもそもそんなもの無いのでは・・・ 有るんだったら誰が作ったんですか?人間から神様になったお釈迦様ですか?それともこの世の最初から有った原因のわからない結果ですか?それとも過去仏ですか?やはり無記ですか・・・ 本当に悟りを開いてる人がいたら今のこの戦争や犯罪や自殺が蔓延する ナイトメアストリートダンジョンな世界を救ってると思うんですけどね
はじめまして 私は今妊娠中で8月末に出産予定です 出産するにあたって今子供の名前を考えているところなのですが いくつかの候補の使いたい漢字に絆という字があります ですが、絆という漢字の意味を調べてみると、今でこそ人のつながりを表し、良い意味のように思われますが、もともとの意味が動物を縛る紐や、束縛などあまりよくない意味でした よくない意味の漢字は名付けには向かないのか、現代では良く言われる言葉なので気にせず使うか悩んでいます
初めて質問をさせていただきます。 私は、ネット上の噂や予言などを簡単に信じてしまいます。また、人が「○○だから何か起こりそう」などのような簡単なものでも信じてしまいます。 つい先ほども、Twitterのトレンドにあった地震ものを信じ込んでしまい、恐怖感に襲われています。 私の頭の片隅には、予言なんて誰もできない、未来なんて誰もわからない、当たるわけないと思っているのですが、どうしても信じてしまいます。 このような予言や噂など、気にしないようにするにはどうしたら良いのでしょうか? 下手な文章ですみません。 初めてなのでカテゴリーなど、間違っていたらすみません。
いつも拝見し、様々な方のご質問やお坊さん方のご回答を読ませていただいては多くを学ばせていただいており、ありがとうございます。 初めて勇気を出して質問させていただきます。。。 少しずつ本を読んだり話を聞かせたいただいていますが、まだまだ初心者です。 本来ならばいずれかの宗派に特化して学ぶべきなのでしょうが、まだそこまで絞れておりません。 少し学んだレベルなのですが、自力の仏教も他力の仏教も頷かされることが多々あります。 どちらの仏教も並立するんやないかなと思うこともあるくらいなのですが、他方、それぞれで相反する考え方もあります。お経さんでも同じです。 元はお釈迦様から始まった同じ根っこなのに何故なんやろう…と不思議でした。 これは、対機説法、応病与薬が具現化した結果だと理解するべきものなのでしょうか? そうであるとするならば… 浄土真宗では、煩悩はなくならず、自力では決して救われず、悟ることはできないと聞かせていただいています。 他方、禅宗では、煩悩を減らして行き修行を重ね悟りに至ることを目指すものと認識しています。 ということは、人それぞれによって(対機)、自力で救われる人もいれば他力で救われる人もいる、 煩悩のままで救われる人もあれば、煩悩を減らして(なくして)救われる人もいるということでしょうか。 どの様な人に、どの様な説法=教えが適切なのでしょう⁇⁇ 屁理屈の様な、ド素人の、アホな質問で大変恐縮ですがご教示頂けますと有難いです。 もしかして過去にどなたかが似た様な質問をされて回答がある様でしたら申し訳ありません。 宜しくお願いいたします。