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問答一覧
検索結果: 2020件

母が亡くなって1年

未だに1人になると、母のことを思い出して涙がとまりません。 思い出すのも、後悔ばかりです。 物心ついた時から父親がおらず、女手一つで、私を含め3人育ててきた母です。 貧乏であまりいい思いをしてこなかったので、よく母に当たったりしていました。こんな家に生まれたくなかった、とか幸せだと思ったこと一度もない、とか。 反抗期とひねくれた性格もあって、本当に酷いことばかり言ってしまったこと後悔しています。 地元から離れていたので、母の死に目にはあえませんでした。 母の友達から、母がよく私のことを心配していたと聞き、愛されていたこと、それに応えられなかったことがすごく悲しいです。 社会人になって、親孝行しようと思っていた矢先のことでした。一度も親孝行できず、なにもしてあげられていません。 母はずっと働いてばかりの人生でした。 いつか楽にしてあげたいと思っていました。 抗がん剤治療を受けながら働いていた母でした。 母なら大丈夫だろう、いつか治る、死ぬわけないって、思ってました。 なんで母が死ななきゃいけないんでしょうか。 母の代わりに私がしにたかったです。 もう地元に帰る家もありません。居場所がありません。 わたしも母のところにいきたいです。 母に会いたいです。

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肉食妻帯並びに出家と在家の違い

日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?

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死ぬと地獄行き

すいません。後から気づいたのですが2回同じ質問してしまってました。 こっちが本当です。 私の学校は仏教の学校です。 学校でのお坊さんの教えでは生きてるうちに良い行いをすれば極楽浄土へ行けるといったものでした。 私はそれを信じて今までちょっとした発言や行いで人を傷つけてしまったことを悔いてそのことを今一度悔いて謝ろうとも思っていましたし、少しでも人のためになるような良い行いをしていこうと心がけどのようにすれば良い人間になれるのだろうや一度罪を犯してしまうとその人は救われないのかなどいろいろ調べていると、たまたま見た記事に日本人はみな地獄行きというのがあり怖くなりついつい見てしまったのです。 するとそこには虫などを殺すと地獄行き、お酒を飲めばもっと怖い地獄行きなど他にも地獄レベルが書いてあるのがありました。 それはお坊さんが知ってることなどが書かれていたのです 私は、最近では虫を殺すのは悪いことだと思い今では蚊すら殺してなかったのですが今までは殺してしまったりしてました。 私達は、今までは罪を悔いて良い行いをしていれば人に好かれる人間にもなれるし極楽浄土へ行けると信じてきましたし地獄は殺人や人を傷つけても平然と後悔することなく生きている人間が反省するための場所と思っていました。 なのにそんな事実をつきつけられ私は、どうすればよいのでしょう。 1日1日を良いことをしても、どうあがいても逃れられない地獄へ行く恐怖をもちながら生きていかねばならないのでしょうか? 今まで学校で教わった教えはなんだったのでしょうか? すぐ泣いてしまう私なのにショックと信じられないという思いですぎて涙もでません

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お位牌を手放す際の諸手続きに関して

<お位牌に関しての相談です> 両親のお位牌を本体とは別に作っていただき、現住所である海外の自宅に置いて手を合わせております。このことは、実家がお世話になっておりますお寺の御住職もご存知です。実家の宗派は真言宗です。 よかれと思ってやっていたことですが、最近日本に住んでいるきょうだい達が、私の身に何かあった際の、私の自宅にある両親のお位牌の扱い方に不安を覚えていると聞かされました。 ・私の主人は日本人ではなく日本語も話せないため、私の身に何かあっても、お仏壇(小型のものです)やお位牌に関して、日本にいる私の家族と話し合うことができない ・私のきょうだい達は、日本から両親のお位牌を受け取るためだけに、海外の私の自宅に来るようなことはしたくないとのことです。 ・予想される色々な状況を考えて、主人を含むこちら(海外)の義理の家族に後のことは頼めない。 結論としましては、大変残念ではありますが、私の存命中に両親のお位牌を手放して、きょうだい達の精神的負担をなくしたいと思います。 お世話になっている御住職に相談させていただくことも考えましたが、きょうだい達の耳に入ることを避けたいと思い、こちらでおしえていただければ有り難いです。 また、お位牌と共に日本から持ち込んでおります鈴、鈴棒などの仏具一式も手元にございますので、その扱いについてもおしえていただければ幸いです。なお、私自身は仏事等で年に一回は日本に行きます。  お位牌をそばに置いて手を合わせることばかりを考え、想定できたであろう問題について何も考えなかったのは迂闊であったと反省しております。

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依存しない強い心になりたい

夫とはいろいろあって愛情はまったくありません。家庭内別居状態です。 子供は成人し、子育ても終わり、空の巣症候群で空虚な毎日でした。 そんな時、会社の若い男性に優しくされ、好きになってしまいました。 歳も離れていて、恋愛感情で誘ってくれているのではないと頭ではわかってますが、食事や映画に誘われ、女性として扱われて、依存してしまったんだと思います。 彼にはもうすぐ結婚する彼女がいるのも分かっていますが、その話を聞くたびに嫉妬で苦しいのです。いい歳して情けなくなります。 忘れたいのですが、毎日会社で会うのでなかなか難しいです。 周りの人は、みんな恋人がいたり夫婦仲が良かったりで、自分だけが誰からも愛されていない気がして寂しくて虚しい毎日です。 ただただ、その彼と会社でしゃべったり、食事に行ったりだけが楽しみですが、私から誘うことはできないので、ひたすら誘ってくれるのを待って、また苦しくなります。いい歳をしたおばさんなのに彼の言動に一喜一憂してしまう自分が情けなくて嫌になります。 何にも依存しない強い心になりたいです。 以前、仏教では「依存すると苦しいですよ」という教えがあると聞いたことがあります。 では、依存しない心になるには、どのように暮らせばいいのでしょうか 一人でも強く何事にも動じることなく生きていきたいのです。 具体的な考え方を教えてください 漠然とした悩みですが、よろしくお願いいたします。

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子供をこの世にうむことの是非

はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。

有り難し有り難し 64
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