ひろゆき氏や堀江貴文氏のお金の考え方について。 今更ながら彼等の考えは間違ってはいないと個人的には思うが、お坊さんの立場では彼等のような人達をどう捉えているものなのでしょうか? 例えば、ごく一部引用すれば ホリエモンは有り金なんて全て使え。そもそもお金なんて要らない。なんでお金が欲しいんですか?という考え。FIREなんてボケ真っしぐら。非常に同意。 仏教ではお金はこの世でだけのただのツールに過ぎない。という点でも合致している? みんな大好きひろゆき氏はネットライブでみんなの質問に片っ端から論破し、たしかに間違った事は言っていないし同意。だが。。 お金が沸くシステムはとっくに確立され、日常生活は節約とほぼお金を使わない生活だそうです。素晴らしい。 両者ともお金に振り回されない考えは素晴らしいとは思います。自分には到底マネーできませんが。 現世は先の短いご老人方の既得権益(政治家含む)が間違ったルールを作って貧困者から血を吸う仕組みになってる為か、どうも若い世代にお金が行き渡ってないし、今後も同じ黒歴史を繰り返す事でしょう。
人間のクズが許せません。 僕の言う人間のクズとは、平気で人が嫌がることをする人や悪いことをしても罪悪感のない人のことです。 例えば、本人に聞こえるような声で人をバカにする人や、公共の場でのマナーを守らず周りに迷惑をかける人、人を陥れてお金を稼ぐ人(当たり屋や痴漢のでっち上げをする人等)等です。 こういった人達には倫理観や人としてのプライドのようなものがないため、自分達さえ良ければ何をしてもいいと思っています。 その結果周りが嫌な思いをしようがお構いなしです。 例え自分と関係のないことでも、こういった話を見かけたり聞いたりするだけで僕まで嫌な気持ちになります。 本当ならこういったクズは全員殺してやりたいくらいなのですが、それは現実的ではありません。 彼らの行為に対する怒りと、それをどうすることもできないもどかしさでモヤモヤします。 世の中からこのような行為をなくしたいです。 こういった人を撲滅させるにはどうしたらいいと思いますか? また、クズを許せない気持ちと上手く付き合うにはどうしたらいいでしょうか? 回答よろしくお願いします。
どうしても避けられない 仕事や地域での人との付き合いで 気にいらない人や 馬が合わないといいますか 考え方が違うの人と絡んでいかなければならない時など、どう付き合って行ったらよいのか悩んでます。 性格上、短気な方なのですぐ衝突してしまいます。 短気は損気ってのはわかりますが この性分はなかなか直りません。 波風立てずに上手く付き合うすでなどごさいますか? 修行されたお坊さん達は、どんな人でも受け入れられますか?
こんにちは。質問を読んでいただきありがとうございます。 怒ってはいけないという話は聞きます。バシッと言い返しても相手は嫌な思いをして良い関係にならないよとも自己啓発本で読んだことがあります。 ですが相手から理不尽な態度を取られた時怒らないと損では?と思ってしまいます。 仕事で上司から理不尽な理由で怒られた時、心の中では顔を真っ赤にして「いい加減にしろ!」と思いますが、グッと堪えています。ここで爆発してもさらに職場の空気が悪化するだけなのはわかってます。 でも、言い返さないと自分だけ理不尽に怒られ続けて言いたいことも言えず、上司は言いたいこと言ってスッキリしてあまりにも不公平ではないでしょうか。それに言い返さないと舐められてまた理不尽な叱責がエスカレートする気がします。 自分もバッチリ言い返してしまわないと思ってしまいます。 相手だけスッキリして職場の平穏を保つより、職場の空気は悪くなってもいいから、言い返して相手にも不快な思いをしてもらった方が良いのでは?とも考えてしまいます。言い返した方が舐められないんじゃないかとも思います。 でも怒るとやっぱり疲れるし心もなんだかモヤモヤする気がします。 どのようにして職場の上司に対する怒りを抑えたらいいでしょうか?
助けてください。 一年半前に、突然、夫が仕事中に事故で死んでしまいました。その時私は妊婦でした。 結婚一周年を間近に迎えていたのですが…一緒に迎えられず、幸せな結婚生活が一年もせずに壊されてしまった。即死だったので死に目にも会えなかった。 本当に愛していたし、愛されていました。真面目に思いやりを持って過ごしてきたのに、こんな事が起こるなんて…神様、仏様さえ呪いました。 夫が死んでから、毎日が灰色で地獄のような日々を過ごし、後追いしようとしたり…泣いてばかりの日々でした。 毎日、あの日仕事に行かせた事を後悔して、死ぬまで後悔するのだと思います。 そんな中、無事に出産し、子供を産んでからは涙も封印しました。子供は愛しいし、責任をもって幸せにするつもりです。 もう、自殺しようなんて思いません。夫の分まで愛情も注ぎます。 その気持ちに偽りはないのに、早く夫のもとに行きたいと思ってしまう気持ちもあるのです。それから、轢いた犯人や夫の会社も憎くてどうしようもなくて。苦しいです。 夫の魂はどこにいるのでしょうか、死んだら又会えるのでしょうか?
都内で医師として働いています。 まず勤務時間が長いです。 朝7時までに出勤、休憩は昼食の時間が15分程度(休みなし食事なしの時もあります)、退勤は平均して21時くらいです。早いと19時半、遅いと日付過ぎに仕事が終わります。 月4回程度当直で夜中働いた後、翌日も通常勤務です。 家に帰っても、職場から電話が来ます。土日は8時に出勤して17時頃と、平日より早めには帰れますが、基本的に職場に行かなくていい日はありません。2-3ヶ月に1日、上司の配慮で丸一日休めています。 責任も大きいと感じます。 どんな仕事でも勿論責任は生じると思いますが、ミスすると命に関わることもあるので、心の負担は大きいです。 いつ緊急で職場に呼ばれるか分からないので、遠出もできません。 患者さんに感謝されることはあまりないです。感謝されるために働いているわけではないのですが。 痛い処置や苦しい処置などをする際、文句を言われたりすることもあります。こちらも申し訳ないと思いながら患者さんの状態を良くするためにやっているので、辛いです。 自分で選んだ職業で、給料もそれなりに頂いているので、不満はないです。厳しく怒られることは頻繁にありますが、上司は筋の通った人達で、理不尽なことはありません。 しかし最近、気持ちに余裕がなくなってきています。 死にたいとは思いませんが、こんな働き方していたら死ぬんじゃないか、と思ったりします。 私は女性ですが、生活が不規則だからか月経もなくなりました。最近は疲れて帰宅してお風呂に入るのも面倒です。 一方で、上司からは、私くらいの年代だった頃はもっと忙しく働いていたと言われます。 確かに、一人前になるにはもっと頑張らないといけないとは思います。 辞めたいという気持ちはなく、なんとか心を強く持って仕事を頑張ろうと考えています。 恐縮ですが励ましの言葉などいただけると頑張れそうです。 よろしくお願いします。
いつも読ませて頂いております。 いくつもいくつも聞きたいことがありますが、今度は自殺についてお訪ねします。 身近な人が、自殺しました。 あれから10年近く経ちますが、未だに時々思いだしては泣けてしまいます。 何故自殺したのか。 いくつか原因は思い当たることがあります。 あくまで想像になってしまいますが、体のこと、お金のことです。 何かしてあげられなかったのかなといまだに悔やまれます。 今更ですよね。 でも、ずっとずっと考えてしまいます。 自殺した人は、成仏できないと言いますよね。 この世で生きるというのは、修行だと。 それを自らの手で終わらせるというのは、仏教の考えでは罪になるのでしょうか。 また、自殺した人に対して私はどう考えていけば良いのでしょうか。 あの人が自殺したあの日あの時間から、時が止まっているように感じるときがあって、思い出したらその瞬間に引き戻されるような悲しみに襲われるときがあって、苦しいです。
回転寿司が大好きで毎週のように回転ずしを食べています。 左上のhasunohaのロゴがホッキ貝と緑の割れたスシ皿に見えてしまいます。 それは置いてといて、お寿司を食べているときに、こんなにお寿司が好きなのに何か月前から通っているのか忘れてしまいました。 その時の初めて食べたネタのおいしさや歯ごたえの感動も忘れてしまいました。 そして、苦しみの方はどうかと思い、(中途半端に過去の)5年6か月と3日前の苦しみを思い出そうとしましたが思い出せませんでした。 (中途半端に昔の)5年6か月と3日前に私は何かをしていて何かの感情があり何か悩みや苦しみ、もしくは楽しみがあった、でも思い出せないのです。 つまり記憶も感情も行動もまた移り行くものだから忘れてしまう。記憶や感情といえど常なるものは無し。 これも諸行無常で苦を滅する方法は、『無常に気付き、常に自分も無常であると忘れないようにする』ことであると、そこら辺は、↓にも最終的には同じ意味で書いた通りです。 https://hasunoha.jp/questions/19539 https://hasunoha.jp/questions/19556 https://hasunoha.jp/questions/19587 しかし、どんなに気を付けていても自分(や愛しいもの)も無常の中にいるという事を忘れてしまう事があり、またも過去と同じようなことで悩み苦しむ事がたまにあります。 このまま人生を歩んで行っても、全く苦が無い生活を行うことは難しいです。 こうなってくると、テーラワーダか禅宗に出家して苦を滅するための八正道を人生のすべてとして生きていくしかないような気がしてきました。 アジアの上座部仏教国だと、サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)なんて言われて出家できますが、ここは日本で日本での生活があります。それを捨ててまでの出家だと親が泣くかなと思うのですが、在家のまま苦を滅する方法はありますか? または苦を滅したいからという理由で出家された方いますか?
今年の夏から街の耳鼻科クリニック勤務をしています。 給料は生活ギリギリですが、いろいろあって前職を辞めてから三年近く労働にブランクのある自分にとって、ほとんど生死に関わらない・休んでもなんとかなる・患者さんと深く関わらない・仕事ひとつひとつはそんなに難しくない、この職場は今の所しんどいところがほぼありません。 給与面から転職を考えることはありますが、しばらくは近所の耳鼻科でいつもごきげんなおばちゃん目指してやっていけたらいいなと思っています。 しかし、最近特定の場面を見るたびに、泣きそうになってしまうことが増えてきました。 待合室で、あるいは診察室内で。父親が子どもに優しくしている場面です。 ふと、自分の幼少期を思い出して、とてもとても悲しくなってしまいます。 うちの父は、決して愛情をかけてもらっていないとは言いませんが、どうしても夕飯時や出かけた車内で延々と怒られていた頃を思い出してしまいます。まあ、自分は子どもだったわけですし、至らない子どもだったから怒られていたんだろうなとは想像します。だけど祖母宅からの帰り道1時間近くずっと説教をされなければいけないほど悪いことをしていたのか?としこりも残っています。 大学まできっちり行かせてくれたし、習い事もさせてもらったし、食べ物にも不自由なく、養っていただきました。 大学生を出る頃からはほぼ連絡も取っておらず、家族とは疎遠になっています。私が距離を置いているのをわかってか、向こうから無理に連絡が来たりもしません。 それでいいと思っていました、が、今職場で仲の良い親子連れ、特に父親と子どもを見ると、ああ、自分もこんなふうに優しくされたかったなあ、とどうしてもどうしても悲しくなってしまうのです。 こんなことでいちいち職場で悲しくなっていたら、とても心がもちません。 それとも、気にしてしまう自分がおかしいのでしょうか。そんなことはないと思いたいですが、もう、わかりません。 いったい、どうしたらいいのでしょうか。ヒントをいただけましたら、とても有難いです。
前回、好きで離婚した元旦那さんのことで相談させて頂きました。その元旦那さんにいつか本当の愛とはどういうことなのかということを話し合えたらなと思っており、真の愛について深く考えていました。 愛は憎しみに変わるとはよく耳にしていましたが、本当の愛は憎しみにはならないと最近知りました。変わるとしたら無関心。憎しみは執着からくるもので愛ではない、本当に愛していたのなら憎しみにはならないと。愛していると思ってても自己愛に過ぎないこともたくさんあるなと感じています。 人を本当に愛するとはどういうことだと思いますか?
この世に我こそは『真理』と言う宗教があふれているのはどうしてですか? また、偽物と本物はどこを見れば区別つきますか? 人間に絶対的真理なんて見分けられるのですか?
誤字等あれば、ご容赦ください。 今回は、先日感じたことについて、色々なお坊さんの意見を聞いてみたいと思い、投稿しました。 聞きにくい事ですが、勇気をもって質問させて頂きます。 お付き合い頂けるお坊さんがいてくれたら幸いです。 自分は先日、菩提寺に行った時に、住職の車が外車なのを知りました。 よく回答して頂いているお坊さんなどはご存知だと思いますが、その時精神的に沈んでて、「外車かよ…」と悪く思ってしまいました。 というのも車整備のバイトをしたこともあり、日本の車道にはやはり日本車があっていること知っていて、実用面よりブランドで選んだ、執着しまくりじゃんと思ってしまいました。 今振り返ると、大人気ないです(-_-;) ただし、お坊さん達は、お坊さん達が上等なものを持つという事に対して、どういう考えをお持ちなのかは、ふと気になることがあります。 「お坊さんだって好きなもの欲しい」「お金があるならいいだろう」というお坊さんもいると思いますし、自分もある程度はいいと思います。 ですが仮に、全うに稼いだお金が潤沢にある一僧侶や一寺院が、ロールス・ロイスやリムジンを持ったとしても、同じことが言えますか?と考えてしまいます。 例えば、超貧乏な檀家さんを前にして。 テレビに良く出演されているある方は、ある宗派の本山の金文字入ったキャデラックに、追い越される際、全身土埃浴びせられ、追いついた際「あなた達の開祖は貧乏な人々に寄り添い、信仰を集め広めていったのに、弟子であるあなた達はなんなんですか、そのヤクザみたいな金文字入った高級車は必要なんですか」と問い詰めたそうです。 清貧であるべき、節度があれば、自身の金なら無問題など、それぞれに仏教的回答があると思いますし、正解があるのかもわかりません。 多分お坊さんによっても考えが違うのではと思います。 ただ、だからこそ現在に生きるお坊さん一人一人の考えを聞いてみたいと思いました。 そもそも、あなた人を金だけで見ないようにでも結構です。 可能な範囲で結構ですので、回答頂けると嬉しいです。 よろしくお願いします。
小さい頃から、命が有限であることをネガティブにとらえ、生きることに執着してしまいます。 仏教の教えに従うことで、こうした心が安定するのを感じます。 しかし、一方で、「死を受け入れるしかないなんて虚しい」とも思ってしまいます。 心が安定する→虚しくなる→心が安定する→虚しくなる、この繰り返しです。 このまま死ぬまでこのループから抜け出せないのではないかと不安な気持ちでいっぱいです。 最終的に、死に対してどのように向き合えるようになれればゴールなのか教えていただきです。
NHKの風土記という番組で、徳島の阿波おどりが特集されていました。 大通りを踊り歩く他に、各町々でも小規模ですが踊りを披露して、いい光景だなと久しぶりにテレビ📺に見入っていました。 しかし、途中で警察がきて、騒音の苦情がきたので町中で踊るのをやめてほしいと、後味の悪い終わり方でした。 お寺でも除夜の鐘がうるさいと苦情がきた結果、鐘をつくのをやめたり昼間についたりするお寺もあるようです。 世のうつりかわりといえばそれまでですが、やっぱり楽しみにしている人もいるわけです。 しかし、苦情をいう人の気持ちもわかります。ゆっくり寝たい人もいるでしょうし、正月とはいえ朝から仕事の人もいるでしょう。 どちらも正しいし、どちらも間違っていません。 とはいえ、そうやって日本の風土、伝統がなくなっていくのは少し寂しい気もします。 お寺としては、伝統よりも人々の生活に沿うことが正しいのでしょうか? 世のならいで古来より続いてきた風習がたえることも、それもまた仏様の意思なのでしょうか。
自分の意見を言う場になると、涙が出てきます。 Q&Aサイトで、女性が同じ悩みを相談されているのを見かけます。泣くのは悪いことではない、感受性が豊かなのは良いことだ、とアドバイスを頂いたりしておられます。 しかし、40代の男です。社内で、顧客の前で、PTAの会議で、いちいち泣いていてはおかしいですし、みなさんに余計な気を遣わせてしまいます。 そういうわけで、対立するような意見を言わないようにしてきました。意見を述べないといけない場面になったら、極力感情を高ぶらさせないように話そうとしますが、それでも顔が熱くなって、目に涙が溜まってくるのを感じます。 そんな自分が、PTAで重い役に選ばれそうなのです。PTA活動自体が嫌なわけではないのですが、いろんな意見(苦情も)が出てくる、自分の意見を求められる、そんな場面で涙がでてきてしまったら・・・と考えるととても怖いです。 「自分はそんな性格でなないので・・・」と言ってみましたが、「まわりのみんなも協力するし、1人で抱え込む必要はない」と返され、その先の反論はできませんでした。 今はとにかくやってみよう、という気にはなっていますが、人と討論する場面がきたらどうしよう、という不安がかなりあります。 どうすればこの問題を解消することができるのでしょうか。 どうぞよろしくお願いいたします。
こんにちは。学生の者です。この間wikiで地獄について調べました。 行く原因に虫を殺す,嘘をつくなどがありそれらに当てはまってしまったので、地獄に行くのではないかと恐れています。 hasunohaで他の方の質問も聞き南無阿弥陀仏などを唱えたりしましたが、やはり不安です。 このままで大丈夫なのでしょうか?また、極楽浄土等に行く方法はあるのでしょうか?回答お待ちしております。
最近、悩んでいるせいか、まだ起きてもいない先のことで悪いことがおきるのではと考えることが多くなりました。 両親にそのことを話すと、「まだ起きていないじゃないか、起きてから考えればよい」と言われ、そのとうりだなと思うのですが、すぐに起きてもいないことで心配したり、悩んだりしています。 また性格的に切り替えができないのです、何かちょとしたことがあると引きずったり、また少しの嫌なことがあると過去に嫌な経験を思い出し気持ちが沈むことが多々あります。 悩んでいます。 皆様、お知恵を貸して下さい。
ご無沙汰しております。 悩みというほどではありませんが、モヤモヤするので質問させていただきます。 まず、前提として、人間として生きている間に、できるだけいいこと(徳を積む?)をしなければならないと思います。学問を積んで本質を追求し気づいたことを伝えたり、ボランティアをして何かの役に立ったりすることが大事だと考えました。引きこもったり、ニートになったりしていても、何も考えたり感じたりしていないわけではなく、どうにかしたいともがいているはずで、その課題を解決した自分なりの答えを他の人に伝えることが大事だと気づきました。 しかし、絶対に自ら命を絶ってはならないということもないのではないかとも思っています。 なぜ、人は自殺したり、餓死(自殺に近いもの)したりしてはいけないのでしょうか? これには、いろいろな状況があると思います。 (1)本当にお金がなく、食費や水道代が払えず、餓死する場合、公的な機関などから門前払いを受け、誰にも気づかれず、死んでいった場合。 亡くなった人の選択肢として、コンビニやスーパーの物を盗み、生きるという選択肢もあったはずです。(窃盗犯という前科はつきますが)。その人は法を犯さない範囲で、できる限りの手は尽くしたでしょうし、周りの人も役割は果たしたでしょう。そこから社会の人が学べば、いい方向へ変わっていくはずですが、批判するだけして代案を考えないのは無責任のような気がします。 「悲しい」と嘆くのではなく、修行の末に亡くなったと捉え、学びに変えていくことが大切ではと思います。 (2)認知症や脳疾患のため、おかしくなった時を恐れて自殺してしまう場合。 (3)治る見込みのない病気(末期ガン)で、一切の飲食を絶った場合。 (2)も(3)も、周りに迷惑をかけないという思いからです。 生きることができるなら、負のもの(借金やネガティブ感情)を残さず、いいものを残すよう努力することが大事だと思います。自分自身の遺体をどう処理してほしいか伝え、そのための費用まで用意できると、責任ある人生を全うできるかなと思います。 うまく表現できず、申し訳ありません。 どのように死ぬかと考え、残された人への影響を心理面や費用面など分析することは、どう生きるかに繋がることだと思います。 死後も、しばらくは他人に影響を与え続けるので、生き方は大事だと思います。
与えて頂いた命ですが、限界です。 この世間から離れ、仏門を目指す事は出来ますか。
長いです、申し訳ありません。 去年の10月まで母方の祖母、父方の祖父母が存命でした。親子犬2匹(10歳、5歳)飼っていました。 犬は5年前に保護犬を里親として引き取り、大事に育てて過ごしてきました。(親犬は当時から心臓が悪かった) 昨年の3月、4歳だった子の方の犬に悪性腫瘍が見つかり治療開始しました。治癒困難と言われていましたが半年かけて寛解しました。 同じ頃に父方の祖母の癌がみつかりこちらも手術しました。(がのちに再発) 昨年10月に祖父(97)が急死。 今年2月に長らく寝たきりだった母方の祖母(96)が無くなり、その10日ほど後に心臓病が悪化した親犬が亡くなりました。 5月に容態が急激に悪化した父方祖母が入院後1週間で亡くなりました。 1ヶ月後の6月に悪性腫瘍再発で治療中だった子の方の犬(5歳)が急死。前日まで元気に遊んでいたのでとても急に感じました。 半年の間に祖父母3人と犬2匹を失い、非常に落ち込みました。しかし祖父母は高齢であり、親犬も心臓が元々悪かったので悲しいながらも納得しています。 職業柄生死について考えることは多く、乱暴な言い方ですが死に抵抗はあまりありません。 死ぬことや病気にかかるという事は誰のせいでもなく、誰にもコントロールできることではなく、仕方のないことだと思っているのです。出来るだけのことはして、それ以上は人ではなす術もないと思っております。 しかし、若くして亡くなった犬の事を考えると未だに涙がとまりません。納得がいかないのです。なぜ普通若い犬がかからないような悪性の病気にかかってしまったのか。苦しまずに急に亡くなってよかったと思う反面、元気だったのに急に亡くなったことに心がついていかない。 でも本当はこうなることは病気が見つかった時からわかっていました。命が長くないこと。でももしかして治るかもしれないと、奇跡を信じて現実から目を背けてしまった。 日常生活はいつもと変わらず過ごしており、誰にもこの感情は話していません。 時間以外にこの悲しみを和らげるお言葉をいただければと思います。